-27 反転する世界。①

 *****






「──ねぇ、さっきから何しているの?」


 ふと、背後から声を掛けられて、手元に落としていた視線を上げる。


 真っ白なシーツ、真っ白なカーテン。

 壁も、天井も、声の主である人物が身に付けている衣服すらも。

 四方八方と何もかもが真っ白な空間にて、決まった速度で鳴り続く電子音が響く機械を傍らにベッドに横たわる一人の少年と、それはいた。


「ねぇ、僕の声、聞こえてる?」


 くぐもった、掠れた声が小さく響く。

 ……と言うよりも、透明な口当てを身に付けたその少年は、響く程に大きくない声を何とか張り上げ、そして身体を起こさないままに視線だけを此方に向けていた。


 その眼差しは酷く不安そうなものだ。

 何度話し掛けても一向に反応を返さない此方の様子に、自身の声が届いていないのでは、と懸念しているようだった。


 その寂しげな様は何とも健気で、可愛らしくて、愛おしくて、目一杯愛でたくて、堪らなくなってしまうもので……。

 短な眉を寄せては八の字に傾けて、今にも泣いてしまいそうな不安顔で、此方をじっと見詰める姿に、それはつい“もっと眺めていたい”と思ってしまうのだった。


 しかし、だからと言って可愛いもの見たさを理由にそのままでいさせてしまうのは、やはり申し訳が立たないと言うもの。

 それは詫びの気持ちも込めて、不安そうに自身を見上げる寝た切りの少年の頬を撫でると、こくりと頷き口元に笑みを浮かべた。


『勿論、聴こえているよ。おれは耳が頗る良いのが自慢なんだ。キミが何れ程小さな声で囁こうとも、一言足りとも聞き逃しやしないさ。』


 形の良い薄い唇を動かして言葉を紡ぐ。

 しかし、そこからは鼓膜を震わす音が鳴る事はない。

 それは所謂“音の無い声”──念話テレパシーによって、少年の脳裏に優しく響かせて囁いていたからである。


『うーん……日記みたいなモノかな? ちょいとばかし、入り用でね。』


 序でに訊ねられた事をそう口にすれば、少年はその返答である内容よりも漸く反応が返ってきた事の方に安心したらしく、透明な口当てを吐息で白く曇らせた。

 力が入らない腕を何とか持ち上げて、頬を撫でる掌へと近付ける。

 ゆっくり、ゆっくりと、今にもシーツの上に落ちそうな震える腕をそれでもどうにか自らの顔へと寄せ、そして添えられた掌に重ねるのだった。


 頬に触れた手が重なる。

 それは掌と掌とが上下に積まれるのではなく、文字通り、同じ位置に。

 少年の手は頬に触れていたそれの手をすり抜けて、自らの頬に触れていたのだった。


 途端、一度は安堵に頬を緩めていた筈の少年の表情が強張る。

 見るからに動揺し、困惑と戸惑いに思わずと言った調子で少年は「どうして」と視線を此方に向け、じわりと目尻に涙を滲ませていく。


 その一挙一動を見て、それは──おれはつい苦笑を溢してしまった。


「え、ぁ、なん……で…?」

『ああ、ごめんよ。驚かせちゃったね。……今はまだ、難しいみたい。』


 今にも泣いてしまいそうな少年を宥めて、おれはチラリと白いカーテンが揺れる窓辺へと視線を向ける。

 晴れやかな青空から煌々と、照る日射しがそこから差し込んでいた。

 ベッドの脇に置かれた液晶の時計には、もうすぐ昼時を指す時間が示されている。




 せめて、日が落ちる頃ならば──。




 こんなにも近くにいるのにとても遠く感じてしまう、そんな心地からおれは一つ息を溢し、もう一度少年の額を撫でる。

 そして膝の上にて頁を広げていた分厚い本を閉じると、そこに視線を落としながら口を開いた。


『少し、出掛けてくるよ。暫く留守にすることになるけれど、おれがいない間もちゃんとイイコに出来るかい?』


 膝の上の本の表紙を撫でながら、ベッドの脇にて腰掛けていたおれは少年にそう言って問い掛ける。

 少年は素直にこくりと頷いた。


「うん……大丈夫。」

『約束は?』

「守るよ。」

『よしよし、それならおれがいなくても大丈夫だね。』

「………う、ん……。」


 問答の最中、歯切れが悪くなる少年の声。

 伏せる瞼に影が射し、透明な口当ての向こうできゅっと唇を噛み堪える様子が伺えた。


 涙こそ無いものの、その姿から感じ取れるのは“寂しい”と思う感情だ。

 おれはそんな少年の落ち込んだ様子に、思わず“きゅ~んっ!”と胸の内を熱くするような高鳴りを感じてしまい、胸元をぐっと握り締める。


 ぐぐっと顔をしかめ、天を仰ぐ。

 どうしてだろうか、光もないのに頗る前が眩しい。

 おれは何とか堪えようと噛み締めていたのだけれども……暫く我慢し、我慢、我慢………でもやっぱりこんなの我慢し切れない。


 我慢、出来る筈がないのだ。




『こっ………このっい奴ぅ~~っ!!』




 おれは思わずと言った調子で声を響かせ、横になっている少年の頭を抱き締めた。


『なぁに、なぁに? おれがいなくなるとそんなに不安? 寂しい? 寂しいの? 寂しくなっちゃう? だとしたらスッゴく嬉しいんだけど!』


 少年の額に頬擦りしながら、捲し立てるようにおれは言う。

 すると、突然飛び掛かるような形で抱き締めたものだから、少年は驚いてびくりと身体を揺らした。

 そして頬を寄せて愛でるおれを間近で見るや否や、頬や額、耳までもを真っ赤に染めて、途端にアワアワと狼狽えだすのだった。


 しかし、それもまた直ぐにぴたりと落ち着く。

 おれの身体が自身に触れているようで、実は全く触れられていない事……即ち、触れられないおれは只抱き締めているフリ・・をしているだけなのだと、少年は気が付いたようだ。


 それから気まずそうに口をもごつかせた少年は、重たくて億劫なだけの身体を捩り、おれを上目遣いに見上げ、恥ずかしそうにでもこくりと頷いた。


『かーっいじらしい! 健気! 愛らしさ百点満点! おれのツボどすとらいく・・・・・! ああもう、そんな顔見せられたら放っておけなくなっちゃうに決まってるじゃ~んっ!』


 おれは自らの膝を平手打つ。

 ペシーンッと小気味の良い音が辺りに響き、そしていつも袖の中に隠している手を出してさむずあっぷ・・・・・・をした。


『大変素直でじっつによろしい! そーゆー子、おれはとても好ましく思うよ。それこそ、その要望に応えたくなっちゃうくらいにね!』

「じゃあ、まだここに……?」

『残念だけど、今回だけはちょぴーっと難しいお願いかなー。まぁでも、ちょいとだけ用事を済ます程度のお出掛けさ。長く留守にするつもりはないからね。』

「そっか……。」


 おれが口にした事に少年がすかさず問い掛けてくる。

 しかし……悲しいかな、此方が出せるのは少年にとって期待外れな回答のみ。

 それを答えれば一度は目に光を宿した少年が、途端にしょもんと落ち込んでいく。

 まるで悲しい心境を表すに耳をへちょりと伏せてしまった、小動物みたいな姿だ。


『愛いぃぃ……! ホントに、なんて愛らしいんだキミはぁっ……!』


 おれは口元を袖で覆い隠し、小さく呻きながら少年の愛らしさにまた身悶えし、そして感嘆の息を吐く。


『はぁ~あ……全く、可愛げのある子と言うのは、いつだって愛で甲斐があるもんさねぇ。そのまま擦れる事無く、真っ直ぐに、捻くれないまま、すくすくと育って欲しいくらいだよ!』


 そう言って『そんな将来のキミを、おれは楽しみで仕方無いよ』とポンポンと少年の頭を軽く叩く……フリをするおれ

 すると少年が可笑しそうにくすりと小さく笑った。


「ふふ……なんだか、親みたいなこと、言うね……? それも、何だか、そんな人に心当たりが、あるみたいに。」


 表情の薄い顔に小さな笑みを浮かべて、少年が下げがちである短な眉の下にある、眠たそうに見えがちな垂れ目を此方に向けた。

 それを聞いておれは肩を竦めると、一つ息を溢した。

 少年のその言葉はおれにとって、紛う事無く図星なのであった。


『………まぁね、ちょっとした昔馴染みさ。』


 そしておれは、色褪せつつある記憶を脳裏に浮かべ、思い起こした。

 眼差しが向くのは目の前ではなく、遠い過去。

 瞼を下ろせばそこに嘗ての景色がこの目に見えてきそうな錯覚を覚えながら、おれは少年に語り始めるのだった。


『そいつは人一倍素直じゃない奴でね。ケチで、狡くて、頑固者で、ものスッゴ~く嫌味ったらしい捻くれ者なんだ。オマケに超が付く程大嘘つきでもある! ……お陰様で、そいつとは顔を合わせる度に喧嘩ばかりでねぇ……。』

「ああ……あなたって、嘘がとっても、きらい、だものね。」


 それを聞いて少年が納得したようにそう呟いて「なるほど、相性が悪そうだ」と苦笑する。

 おれは声を上げて『そう、そうなの!』と大きく頷いた。


『素直じゃない。可愛げがない。口を開けば嘘ばっかし………ホントに、どうしようもない奴さ! ホンットーに、仕方のない奴なんだよ。全く、素直で良い子なキミとは大違いだね!』


 腕を組み、ぷりぷりと憤慨しつつ言うおれに、少年が面白可笑しそうにくすくすと笑う。


 少年がそれはそれはとても楽しそうに笑っているものだから、思い出し怒りをしていたおれは何だか毒気抜かれたみたく、何だか気分が落ち着いてきてしまった。

 軈て、最早怒る気分は失せてなくなったおれは口元にふっと笑みを浮かべると、すっかり落ち込んだ様子の無くなった少年の頭をもう一度撫でるフリをして、言った。


『……そういう奴なんだ。そういう、どうしようもない奴なんだよ。だからこそ、おれは………。』

「……“放っておけない”?」


 止まりかける言葉、続きを話そうとも閉じてしまいそうになる口。

 横たわる少年を見下ろしながら目を細めて、目の前ではない遠くを目に映していたおれに、少年がポツリと続く筈だった言葉を代弁してくれた。

 項垂れていた頭が小さく上下する。


『………そう。そうなんだ。放っておけないんだよ、おれは。どうしてもダメなんだ。止められないんだ。だから……。』


 ──ごめんね。

 そう言いかけるおれの頬に、触れられない掌が通り抜けた。


 ゆらり。

 重たげに、振り子のように揺れる少年の腕。

 自身の体重すら支える力もなく弱々しいばかりに見えるそれは、少し力を込めて捻ろうものならば容易くポッキリと折れてしまいそうな程に、酷く、痛ましく衰弱したものだ。


 きっとその腕はおれがしたように、触れるフリをしたかっただけなのだろう。

 それすらも儘ならないらしい少年は、腕を動かすだけでも苦しそうに顔を歪めていた。


 軈て自分には出来ないのだと悟った少年は、込めていた力を抜く息を吐き出してシーツの上へと腕をパタンと落とす。

 額には幾つもの脂汗を滲ませて、随分と伸びきってしまって目元を覆い隠してしまっている前髪が濡れて張り付いていた。

 その様はどう見たって、その少年にとって腕を少し動かす事だけですらも大変な重労働なのだと、察するには余りに容易い様子であった。


 それを拭おうと手を伸ばしかけるも、今はまだ触れられない事を思い出すおれ

 やり場のない手を、すごすごと膝の上に下ろした。


「だい、じょーぶ、だよ。」


 少年の口が、被せた透明な口当てを白く曇らせる。


「いって、あげて。」


 少年が呟いた言葉に、おれは物を言い掛けて……そして閉じた。

 そんなおれには構わず、少年はまた同じ言葉を繰り返した。


「ぼく、は、だいじょーぶ。」


 そう言って、にこりと笑む少年。


 おれは言い掛けた言葉をぐっと飲み込み、微笑んで頷き返した。


『………じゃあ、行ってくるね。』

「うん。」

『良い子にしているんだよ?』

「うん。」

『……約束、だからね。』

「うん、わかった。」


 約束するよ。

 そう言った少年がもう一度と腕を振り上げ、弱々しく小指を立てて此方に見せる。


 おれはそれを見て、一瞬目を大きく丸くした。

 少年が小指を立てて自分を見上げるその様に、どうしようもなく“既視感”を覚えたのだ。


 驚いたように小指をじっと見詰め、軈てくしゃりと笑うおれ

 そしてそれに応えるべく、袖から出した手の小指を立てると少年の小指と重ね合わせる。


『必ず戻ってくるんだから、それまでには歩けるようになっててよね。いつまでも寝たきりじゃあ詰まらないでしょ?』

「ん………どりょく、する。」

りはびり・・・・……って言うんだっけ? それもちゃんとするんだよ。』

「うん、がんばる。」

『………怪我、しないようにね。』

「うん、わかってる。」


 此方が掛ける言葉に少年が一つ一つ丁寧に返事をしては、こくりこくりと頷いていく。

 その健気な様に、思わず頬が緩み掛けてしまうおれだけども、今はそう言う場合じゃないからと雑念を振り払うべく、かぶりを振る。

 それから改めて少年へと笑みを向けると、最後にこれだけは、ともう一度口を開いた。


『……一個だけ、お願いして良い?』

「うん。」

『“いってらっしゃい”って、言って。そしたらおれはまた、キミの元にちゃんと帰ってくるから。』


 横たわる少年の顔を真っ直ぐに見詰め、おれは言う。

 その様に、少年はきょとんと見詰めていた。

 きっと今の少年の中では、真剣な顔で言うおれのお願い事に“え、その程度のこと?”と疑問符を浮かべている事だろう。


 そう、その程度の事をお願いしているんだ。

 その程度の事でも、おれ達にはとても大事な事でもあるんだ。


 軈て、理由を聞き返す事もなく、少年は素直に頷いてみせた。




「うん、いってらっしゃい──“神様”。」




 無垢な微笑みと共に、少年は言った。

 そこでおれは思わず噴き出してしまって破顔した。


『ふはっ、何でそこでそう呼んじゃうかなぁ!』

「んん……? なんか、まちがえた……?」

『間違いとかってそう言う話じゃなくて………ふ、ふふふふ! ああもう、折角のむーど・・・が台無しだ。これじゃあ格好も付かないよ……!』


 きょとんと呆ける少年を前に、おれ一柱ひとりだけがくつくつと肩を揺らして笑い続ける。

 散々笑って、腹を抱えて……ああもう、今にも脇腹が痛くなってしまいそうだ! ……なんて、馬鹿みたいな事を考えながら。


 それから暫く、ようやっとの事で一息吐く。

 そして目尻に浮かんだほんの少しの涙を袖で拭い取り、囁くように少年に言い聞かせる。


『キミにはキミだけの、キミがくれたおれの“名前”が有るでしょう?』

「ぼくだけの………神様のなまえ? ………あ。」

『そう、それ。結構気に入ってるんだ、あの名前。だからさ、そっちでもう一回……ね?』


 おれの言う事に漸く思い至ったらしい少年がぽっかりと口を開けて無意識に声を溢す。

 そこへおれが袖に隠した両の手を合わせてこてんと首を傾け、おねだりのポーズをしつつ少年へと仕切り直しを頼み込む。


 途端、少年の顔がぽわんと赤く染まる。

 えっと、その、と歯切れの悪い声を溢し始めて、目に見えてたじろぎ出すと困ったように、戸惑うように右往左往と視線が泳ぎ出す。

 暫くぱくぱくと声もなく口を開閉させ続けて、軈て俯いたままこくりと小さく頷いた。

 それから少年は「あなたが……そういうのなら……。」と、いつにも増して小さな声で呟くのだった。


「えと………ええと………い、いって、らっしゃい………“金花キンカ”ちゃん………。」


 か細い声が、少年だけの特別なおれの名前を響かせる。


 少年の初々しい姿に、恥じらいを見せる姿に、それから最近名付けられたばかりの新しい自分の名前に。

 満足感たっぷりに笑みを浮かべて、おれはそれを噛み締めるようにうんうんと頷いた。


 そしてその少年の言葉に応えようと口を開き掛けた所で、すすす……と布団の中へと少年が顔を埋めて隠れていくのが視界に映る。

 思わず言い掛けた言葉を見失ってしまい、呆けるおれ

 その前で、布団の中に潜り込んだ少年が先程口にした言葉に付け足すように「……様」と呟いたのが耳に入ってくるのだった。


 そんな少年の姿もまたいじらしく、実に愛でたい……!

 ………と、そう言った気持ちは勿論あったのだけれども、今はそんな場合じゃない! と我に返ったおれは、袖に隠した両の手をパタパタと振り回した。


『ちょっとちょっと、何で隠れちゃうのさー! 折角キミの可愛らしい所が見れるってのにーっ……って、そうじゃなくて。此処からが肝心なんだから、ちゃんとおれのこと見ててよ! しかも、何? “様”って。それって何だか余所余所しいったらありゃしないじゃん! もっと親しみを込めておれの名前を呼んでよー!』

「う、うぅ……そんなこと、いわれても………。」


 触れられないからとやるせない腕を無意味に振りながらそう訴えるおれに、少年が困ったように真っ赤に染まった顔をちらりと布団から覗かせる。


「だって………だってあなたは神様なんだもの。なら、不敬なことはダメでしょう……?」

『だいじょーぶ! おれが許してるんだからいーの!』

「でも………。」

『“だって”も“でも”も、ダメーッ!』


 やんや、やんや。

 手足を振り回してじたばたと駄々を捏ね、少年の余所余所しい物言いに不服を訴えるおれ

 少年は益々困ったように縮込まっていく。


「だ………ダメ、かなぁ………?」

『ダメ! ヤダ! 距離を感じる!』

「どうしても……?」

『どーしても! ヤなもんは嫌ーっ!』

「………本当に………?」

『ホントのホント! これだけはぜぇーったい、譲れ、な──』


 言葉が途切れる。

 視線が目の前のものに釘付けとなる。


 今まで不服を訴える事に夢中となり、少年に向けていなかった視線が吸い寄せられて見た先。

 そこには、うるうると目を潤ませた小動物が助けを求めるように、今にも泣いてしまいそうな顔で此方を見詰めていた。


 おれはポカンと口を大きく開けて、呆然。

 よろりと身体をよろけさせ、それから額に手の甲を袖越しに押し当てて天を仰ぐ。

 それからすうっ息を吸い込み、そして吐き出す。


『………………愛い!! 許す!!』


 その時、気付けばおれの口はそう叫んでいた。


 少年の泣きそうだった顔がみるみる内に明るくなっていく。

 今度は恥じらいではなく、嬉しさに頬をほんのりと朱に染めて、元より表情の薄い顔にはにかんだ笑みを浮かべ、おれを見上げる。


 ああ、今のおれにそんな顔を向けないでくれ。

 こんなの、抱き締めたくて仕方無くなってしまうじゃあないか……!


 無論、今の自分は少年に触れられない身である。

 詰まるところ、お預け状態のおれは目映い少年の純粋な笑顔にくらりと眩暈を起こす以外、他になす術はないのであった。

 ……無念!


『ああもう、解った解った! それで良いよ、全く……今回だけの、特別なんだからね!』

「うん、わかった。ありがとう、金花様──」

『“ちゃん”!! ノー! “様”だけ、ノー!!』

「ええ……? じゃあ、金花ちゃん様………って、なんだかおかしくない? これ。いいの?」

『良い! おれが良いって言ってるんだから良いのーっ! もう文句は受け付けないんだから!』

「わ、わかったよ……。」




 そうして、必死の懇願の甲斐あり、何とか希望に沿った──それって本当に沿えているのか? って言う突っ込みはナシで!──呼称の定着にこじつけたおれ


 それから………それから。


 恥じらったまま中々布団の下から顔を出してくれない少年と一悶着有ったり、暖簾に腕押しの如く不毛且つ穏やかな言い争いが有ったり──少年が愛らしいのが悪いんだ。こんなにも可愛くて可愛くて可愛らしいのに「そんなことない」なんて口答えするものだからつい方便に熱が入ってしまっただけで【以下、管理者権限により問答無用にて省略とす。】……ちょっと! 勝手におれの話消さないでよっバカ!!──………そんなこんながありつつも、漸く暫しの別れを惜しむ場面へとこじつくのだった。




「いってらっしゃい、金花ちゃん様。」




 控えめに笑む顔をおれに見せて、まだ少し頬を朱に染めた少年がおれに言う。

 満足のいくその少年の言葉とその姿に、大きく頷いたおれもまた、少年に応えるべく口を開いた。




『うん、いってくるね──麻兎アサトくん。』




 よく知った誰かの名と、とても良く似た響きの名を口にして。




 その瞬間、身体が軽くなったような感覚を覚えた。

 枷を掛けていたような不自由さが途切れ、繋がっていたものからの解放感に身体が軽くなる。

 相手と自身を結ぶ線をプツリと切ってみせるかのような、そんなイメージが脳裏に浮かんで、おれはこう思うのだ。


 これで、やっと動ける。


 離れるに離れがたくさせる気掛かりが漸く晴れて、胸がすくような心地に浸る。

 それと同時に、酷く嫌に背筋に冷たいものを感じさせてくるのは、耐え難い程に途方もない喪失感だ。


 今まで確かだった繋がりを敢えて断ち切り、後ろ髪を引かれる想いを抱きながら別れを惜しむ。

 もう何度目となるのだろう、これを経験するのは。

 慣れようと思えども、平然とするにはやはり苦しさを禁じ得ないそれに物思いに耽りつつ、笑みを湛えるおれはそんなことを胸に秘めつつそう思う。


 そしておれは踵を返す。

 少年、麻兎くんに見送られながらその場を立ち去るべく、手にしていた本を光の粒に変じて失せさせる。

 そのまま部屋の出入り口たる扉に向かおうとして──ぴたり、おれは足を止めた。


『………そうだ。折角なんだし、此処を発つ前に麻兎くんに取って置きの“おまじない”を掛けてあげよう。』


 ………そんな事を、呟いたのだった。


「おまじない?」

『うん。おれの得意なことの一つなのさ。……どう? して欲しいと思わない?』


 此方の言葉をおうむ返しする麻兎くんに、くるりと振り返ったおれがそう得意気に言う。

 麻兎くんはきょとんとしつつも……流石、素直で良い子である。

 こくりと首を縦に振って「うん、して欲しい」と躊躇無く答えた。


 それは決して欲深さからのものではなく、純粋に他者を疑う心を持たないが故の無垢な素直さからのもの。

 それがおれに愛おしさを感じさせると共に、何処か危ういと思わせてくる、そんな一抹の不安が脳裏を掠めてしまう。


『よしよし。それじゃあ、それだけ終わらせちゃってさっさと出発しちゃおう。用事は早々に済ませてしまうのが吉だからね。』


 おれはそう言って、離れ掛けた麻兎くんの傍へと再び身体を寄せた。

 びくり、と小さく震え、緊張からか身体を強張らせた麻兎くんが口をきゅっとすぼめて頬の朱色をより色濃くさせる。

 人の二倍、三倍と良い耳が、こうも離れているのに麻兎くんの速さを増していく心の臓の脈動をしっかりと拾って聞かせていた。

 只顔を近付けただけだと言うに、酷く平常心を乱してしまう麻兎くんの初な反応に、思わず悪戯心が湧いてきそうであるおれだけども……今回だけはそれをぐっと抑え、堪える。


『じゃあ………目を閉じて?』


 おれが優しく囁く。

 麻兎くんがくっと瞼に力を込めて、肩に力んだ様子を見せながら身を竦ませる。

 そこへ彼の顔へと自らを寄せて、そして無防備な彼におれはゆっくりと──口付けた。


 ………勿論、額に。




『………おやすみなさい、良い夢を。』




 そのまま触れられないのを良い事に、彼の柔髪の波に頬を埋めて、より一層優しく囁き掛ける。

 込める想いは、奇特で奇怪な星の下にて生きる少年の“平穏無事”だ。


 自分が離れていても少年の身に良からぬ不幸が振りかからぬように。

 そんな想いを込めて、何処の誰かへと釘を刺すかのように、おれは切に切に、そう願ってしまうのだ。


 そうして、身体を強張らせて身動き一つ取らず、頑なに目を閉じていた少年へと背を向けると、おれは早々にその場を後にするのだった。





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