-28 邪神共の暁。

 それは、過去に起きたかもしれない出来事。

 それは、未来に起きるかもしれない出来事。

 これは、“彼ら”がいるその次元より、随分と離れた場所での出来事であった。

 これは、“彼ら”がまだ知りえない、とある時点での出来事である。






 コツコツ、机を叩く音が小さく響く。

 カツカツ、細い先端が紙の上を走る。


 柔らかな明かりが窓から差し込む中、六畳一間の小さな部屋には一人の男がいた。


 勉学や作業をするには丁度良い、卓上広めな一人用デスク。

 デスクの端やその周りには、幾つも並ぶ縦積みの本の塔。

 窮屈そうに部屋の大部分を占める、最近使われた形跡のないシングルサイズのパイプベッド。

 只の物置としてそこに在りつつ、滅多にその扉を開くことの無い影の薄いクローゼット。

 そして、その部屋の一番の特徴である、ぐるりと囲うように部屋の壁に寄り添って立ち並ぶ本棚達。


 腰の高さまでしかない極平凡な三段棚には、どれも隙間無く本が詰められていた。

 並ぶ本達からは、どれも少しずつ草臥れている様子が見て解る事だろう。

 しかし、それは只古びて劣化しているのではない。

 その何れもが何度も何度も頁を開かれて、読み返しているからこそ使い古されている証拠であった。


 これだけ多くの本棚が立ち並んでいるのに対し、部屋の置くにある一つしかない窓辺には何も置かれていない。

 それは本の大敵である光を避け、日差しを浴びぬようにする為である。

 壁に寄り添う本棚達にはその全体が影に覆い尽くされおり、日差しから隠し守るように、敢えてその様に配置されているのであった。




 そんな部屋の中。

 その者は片手に握り締めたペンを、紙の上にて一心不乱に滑らせていた。


 無我夢中で筆を走らせているからか、前屈みになる身体は無意識に背が丸まる。

 絶え間無く字を書き綴っていく、その文字列を睨み付ける右の褐色かちいろの瞳からは、淡々とした寒々しいまで冷徹さがひっそりと滲んでいた。

 同時に、左の赤銅色の瞳からは、爛々とした烈火の如きを激情が煌々と孕んでいるのであった。


 しかし、互いに相反した感情を見せる異色の双眸でも、そのどちらもが共に同じ眼差しでもあった。

 その証拠に彼の今一番の感情を現すその表情からは、口角が自然と釣り上がって笑みを浮かべていた。

 そこには筆を進める程に上がっていく高揚感から、赤い舌がちらりと見せてはさらりと唇を舐めていった。


 その者は、嬉々わくわくとした興奮と共に只ひたすらに筆を走らせていた。

 そうして彼は、淡々粛々と冷静に机に向かい続けていたのであった。




 カツカツ………カツ。




 不意に、ペンを走らせる音が止む。

 コトリとそれを置いて、長く細く零した吐息の音。

 そこに寄り掛かった背凭れの軋む音が重なったかと思えば、頭上へと持ち上げた腕をよりもっととぐぐっと伸ばした。

 そうやって、ずっと同じ姿勢でいた為に凝り固まった身体を、ゆっくりと解していくのであった。




『………様、主様………。』




 静寂が包む部屋にて、一人分の物音だけが響いていた中で誰かの囁き声が聞こえてくる。


 涼々とした声だった。

 淡々と役目をこなすべく礼儀に沿って、愛想を潜め、自身を圧し殺しているかのような声音であった。

 そして、それが響いていたのは部屋の中にではない。

 この部屋の主である、彼の“頭の中に”である。


『主様、扉が──』

「ああ、知っている。お前が皆まで言わずとも、俺には全部解っている。」


 くるりと座した椅子の首を回し、机に背を向けて長い足を組む。

 キリリと鋭い細く長く伸びた眉の間をくしゃりと寄せて、顎を少し上向きふんぞり返るような姿勢へ。

 そうして居住まいを崩し、腕を組んだ彼は不機嫌そうに鼻を鳴らすのだった。


「全く、時期尚早にも程がある。目的も理由も未だ見出だせていないと言うのに、答えだけを先に求めてくるだと? ……ハッ、馬鹿も休み休み言え! ネタバレカンニング目的で来ようなんざ、ンなもん歓迎するまでもない。招くより、寧ろ叩き出したいくらいだ!」

『では、謝絶なさいますか?』


 荒い口調が饒舌に捲し立てる。

 苛立ち露に「甘やかし過ぎだ」「過保護が過ぎる」とぶつくさと文句を垂れ流し、二の腕を指でトントンと叩いてここぞとばかりに不愉快さを態度に現していた。

 そこへ音無き声が礼節を持って伺いを立てる。

 すると部屋の主の不満の声がピタリと止んで、やがて部屋の主は問い掛けに対して取り繕いも意地もなく、只真っ直ぐに答えるのだ。

 それも、首を横に振ると共に、溜め息混じりに。


「………否、それはしない。」

『宜しいのですか?』

「ああ、頭ごなしに拒絶するのは頂けない。何故なら俺の流儀に反するからな。それが相手に如何なる理由が有って、どんな思惑を抱えていようとも、俺は来る者を拒まない。同時に、去る者とて追いはしない。」


 そして彼は、傍らに開かれていた本を手に取る。

 それを組む足を変えた膝の上に置いて、そしてそこに並ぶ文字を撫でた。


 彼が本を触れる様はとてもゆっくりとした、薄氷を崩さぬような丁寧で酷く優しい触れ方だった。

 落とした視線からは険が削がれ、鋭く釣り上がっていた目尻が緩む。

 表情からは柔らかさが生まれ、気が付けばその口元にも緩やかな笑みが浮かんでいた。


「もうすぐ“アイツ”が来る。漸く顔を見せに来てくれるんだ。ならば俺はそれを拒む訳にはいかない。例えそれが……今は意味の無い邂逅となろうとも。」


 そう言うと彼は首を横に振った。


「否、違うな。意味の有無は俺が決める事じゃあない。本人自身が決める事だ。……ならば俺は“アイツ”に、一体何をしてやれる?」


 彼が言葉を紡ぐ中、指が紙の上を掠めて流れていく。

 何度も何度も繰り返し、行を追い、そしてそれを見納めた彼は徐に顔を上げると長くゆっくりと息を吐き出す。

 目を閉じて、背凭れに体重を乗せる。

 そこで静かに佇むのは、読み終わった後のその余韻を噛み締める為。


 それから暫く感慨に耽るのも止め、彼は徐に瞼を持ち上げていく。


「俺は………そうだな、話をしてやるくらいだ。話を聞いて、それに答える。それくらいしか、俺に出来る事は無いだろう。」


 そして彼はまたくるりと椅子の首を回し、机と向き合う。


 卓上に広げていた本を退かし、代わりに手にしていた本をそこに置く。

 伸ばした手で傍らに置かれたペンを取り上げると、その先端から滲み出る黒いインクで広げた白い頁の上を書き汚していった。




「………“人が賑わうとある町の一角にて、誰かと誰かが噂話をする声が──”」




 綴る文字を口にしながら、彼はひたすらに紙の上をインクで染める。




「“──人混みの向こうから人の名を呼ぶ大きな声──”」




 カツカツとペン先を鳴らす音は絶えず部屋の中を響く。

 例え少しの間が有ろうとも、止まった筆は直ぐ様動き出し始めて紙を引っ掻いた。

 そうして真っ白だった頁はみるみる内に、黒く、黒く染められていく。




「“──目に映るのはやっぱりこちらを見向きもしない人の群れ。彼らは何の変哲もないいつも通りの日常を過ごしているのだろう──”」




 筆を取った彼にはもう、周りの事など気にならない。

 只々ひたすらに、無我夢中となって頭に浮かぶ文字を書き綴るのみ。


 それも当然だ。

 何故ならそれが彼の“役割”であるからだ。

 彼は“観測者”としてあまねく全てを見渡し続け、その口で騙りも偏りもない事実を語り、その筆で既に起きたであろう事象の須くを、書き綴り続けねばならないのだから。




『………であればそのように。お客人方は此方の方でお招き致しましょう。』


 それでも声無き声は彼に言う。

 例え自身の言葉に対する返答が無かろうとも、構わずに。


わたしは………私はそれでも、何処までも貴方様に付いて往きます。例えそれが、地平線の果て──そらの彼方──悠久の虚無の中を生きる事となろうとも、この手が貴方様に届かなくなろうとも……。』


 声無き声は祈るようにそう口にした。

 彼には先など見えやしない。

 今何処で何が起きて、これからどうなろうとしているのかなんて解る筈も無い。

 それでも、その声の主にも知っている事が幾つか有った。

 それは──、


 彼は、この時が訪れるのを知っていた。

 彼は、この時が訪れるのを待っていた。

 彼は、この時が訪れてしまうと──


『………それでも私は、これ以上貴方様を孤高の御人にはしたくはございません………貴方様にはもう、“御自身”を手放して欲しくは無いのです………。』


 ──彼は、元より数少ない残りの“繋がり痕跡”を断ち切り踏ん切り付けて、より一層誰の記憶からもその姿を消していってしまうのだろう。

 そうしてこの誰の手も届かない、彼だけの次元部屋に隠ってしまうのだろう。


 声無き声は、それを知っていた。

 声無き声はそれを知っているからこそ、限り無く彼のるその場所に近しいそこに、敢えて身を置く事に決めたのだ。

 周りに誰もいなければ頼れる者もいない、孤独感に苛まれたとしても構わず、自らが主人として慕うその人をたった一人とさせてしまわないように、世の理から外れていくように──。




 今は彼には届かないその想い

 それは例え当人へと届いたところで、きっと「何を言うかと思えばそんなことか」と言ってからりと笑い飛ばされる事であろう。

 何せ、彼にとってそれは“些事”であるからだ。

 割り切っているからだ。

 彼とそれ以外が住む世界が、全く持って異なる程度の事は。




 当然の事なのだ。

 何故ならば彼は、この世界は──。




『貴方様にとってこの世界とは、只空想を模しただけの“物語本の中身”でしかないのでしょう。私達は所詮、与えられた役を演じるのみの“架空の存在キャラクター”でしかないのでしょう。貴方様はどうしようもなく、外側の存在でしかないのですから。』




 彼が書き綴ってきた幾冊もの物語達。

 彼はその外側にる者で、声無き声は嘗てその内側にたものだった。


『嘗て貴方様は仰いました。何れ程離れようとも、貴方様と私達は共に在る、と。……ええ、ええ、そうでしょうとも。貴方様はいつだって私達の事を見ていて下さる。それもずっと、ずっと。この世界が正しく終演終わりを迎えるまで。何れ程時が流れようとも……。』


 すん、と鼻を鳴らす音が微かに響いた。

 弱々しく言の葉を紡ぐ声は、密やかに啜り泣いていた。


『ですが……ですがどうして、貴方様は私達に、何も残してくれないのでしょう……? あの日、あの頃、貴方様は確かに私達と共に在った筈。確かに私達は、紛れもなく貴方様と同じ時を過ごしていた筈なのです。それなのに、今や誰も貴方様の事を覚えていない。誰も思い出す事も出来なければ、貴方様がたと証明出来るものは何一つとして残されていないっ……!』


 さめざめと泣く、声無き声。

 伝えたい相手に何れ程想いを訴えようと、それは決して届かなかった。

 ひたすら夢中で筆を走らせ、物語を綴るその声が絶えず聞こえてくるのが、声無き声を益々虚しくさせた。


 どうにか気を引き想いを伝えようとしたところで、その後に待っているのはやんわりとした優しくも残酷な拒絶のみ。

 折角辿り着いた声無き声がいるその境界線上中間地点ですら彼から遠ざけられてしまっては、それこそ声無き声とて本意ではない。

 だからこそ、それだけは避けなくてはならなかった。

 故にこそ、現状維持くらいしか声無き声には出来なかったのだった。


 しかし、同時に声無き声は知っていた。


 別の次元より孤高にて君臨せし彼が、是が非でも動かざるを得ない状況へと差し向ける為のその方法を。

 彼を“此方側”へと陥れる引きずり込む為の、唯一無二のその手段を。




『………御覚悟を、主様。私は……私達・・は決してこの結末に満足など致しませんので、悪しからず──。』




 そして、声無き声の気配がそこから失せた。

 部屋に残るは正しく、物語を書き続けている彼のみ。




 ───ではなく。




 燦々と窓辺から射す明かりに照らされて、明るみの中の彼の足元に影が伸びる。

 それがゆらりゆらりと揺らめいて、細く長い管状の身体がうねる。




『り──。り──。り──。』




 鈴の鳴る声が響く。

 がらんどうを打ち鳴らす音が囁く。

 うねる影は次第に彼の傍へと寄り添って、しな垂れ掛かって身を寄せる。

 すると、身体を押し付けられた彼は「うおっ!?」と小さく声を上げ、即座に筆を止め振り返った。


「何だ、どうした? ……ああ、何だ。寂しくなったのか。」


 驚いた顔をしてそれを見上げると、彼は何かを察して困ったように笑んだ。

 幾重もの長い管が彼を覆い被さるように蠢いてみせ、根本は太くも伸びるに従ってより細くなっていく無数にもあるその管状の何か。

 その先端が彼の頬を掠めるように撫でて、かと思えばその他の管が瞬く間に彼の身体へと纏わり付いていった。


 うぞり、うぞりと身体をまさぐり始める無数の腕。

 堪えきれず、彼は擽ったそうに身を捩った。


「うはっ、はははっ! ゴメン、ゴメンって! 放ったらかしにして悪かったよ。……全く。暫くずっと大人しかったってのに、一体誰のモン感情に感化されちまったんだ?」

『り、り、り。』

「うん? ……ああ、あの“泣き虫”か。いつの間にか居なくなっていたみたいだが、まァた何かしらメソメソしていやがったのか。っとに、“常泣虫アッハライ”みたいに、仕方のねェ奴だなァ……──おっと!」


 そう彼が独り言混じりに口にしていると、影の中から延びてくる管が幾重にも重なり絡まり合い、雪崩のように彼の身体を呑み込んだ。


 ガタンッ、と大きな音を立てて倒れる椅子。

 ひっくり返って上向いたキャスターが、無い床を転がろうとカラカラ鳴らし空回り。


 椅子から押し倒された彼の身体には、床に叩き付けられても痛みはない。

 背にはクッションの如く敷かれた腕の群れが所狭しと犇めき合い、彼の身体を守っていたからだ。


 彼はそこに横たわった体勢のまま、うぞうぞと首筋を囲ってとぐろを巻く一本に触れるとそっと頬を押し当てる。

 滑らかな表面を労るように撫で、そして管の先端が掬い上げた前髪の合間から視線を正面へと向けていく。


 そして、彼に凭れ掛かるように……と言うよりは、身体に跨がりながら彼を静かに見下ろしていたのは、いつの間にあらわれたのか、全身黒ずくめの奇怪な少女。


 長く伸びた髪は黒。

 じっと見つめる瞳も黒。

 纏う衣類もないその身体ですら何処もかしこも真っ黒で、尚且つその身体は絶えず渦巻き蠢いている。

 長い髪の毛先や腕や胴の途中が割けて、解れてうねり伸びている“それ”こそが彼の身体にて無数に纏わり付く触手であり、その足もまた何本もの管に別れてその先は影の中に沈んでいた。


 “それ”は、辛うじて人の形を留めようとしては、結局維持も出来ずに崩れてしまっているものだった。

 即ち“それ”は、人外たる者だ。


「に、ゃ、る。」


 黒い少女が口を開き、声らしき音を発する。

 複数の声を重ねて響かせたような奇妙な声だった。

 そして“それ”は手の形を作ろうとして上手く出来ずに歪な形になった腕を小さく振り上げると、ペタペタと彼の胸元を数度叩いた。

 その様を見て、彼は思わず破顔した。


「ふはっ、まだまだ全然だな。発音も形もまるでなっていない。」

「う、に?」

「俺の名前を呼びたいんだろう? それじゃあ少しもかすっていない。」

「に、ぁ、る?」

「違う違う、そうじゃなくて──。」


 穏やかな時が流れる。

 和やかな触れ合いには互いを慈しむ感情が込められていた。

 彼らが口にするその声音にだって、互いが互いに特別な想いを抱えているからこその柔らかな音色を響かせていた。


「にゃるらー。」

「だから………ああもう解った、解ったよ。それが呼び易いんならもうそれで良いよ。」

「にー?」


 頬を撫で、手を重ね、額を触れ合わせて、浮かぶのは微笑み。

 互いに身を寄せ合う様は、想い合う恋人のように。

 目を細めて見詰める様は、愛する者を愛でるように。


『──り。』


 不意に鈴が鳴る声が響く。

 すると彼の口元に湛えられていた笑みが消え、代わりに怪訝な表情が浮かんだ。


「“行かなきゃ”って………何処に?」

『り。り。──り。』


 彼が訊ねた問い掛けに、少女は唇を少しも動かす事無く一言二言鈴の音色で答える。

 その次の瞬間、少女の姿がドロリと崩れ落ちた。


 彼の身体の上を、コポコポと粟立つ真っ黒な液体が池を作る。

 それは身体の上から床に向かって伝い零れていくと、ずるりと彼の身体から離れていった。


 ずりっ……ずりっ……と這いずる音が響く。

 ブクブクと泡を弾けさせる音が鳴る。

 黒い水溜まりは彼の足元から伸びる黒い影を引き延ばしつつ、身を捩りながら床に水滴一つ残す事無く、部屋の角に有る扉の方へと移動していった。


 彼はそれを静かに眺めていた。

 足元にて伸びる影は、彼女が離れれば離れる程に細くなっていき、今ではもう直ぐに千切れてしまいそうだ。

 徐に持ち上げかけた腕は空を掠めて届くことなく、何かを言い掛けた口が息のみを溢すが音はなく。

 軈て閉じた唇を噛み締めて、堪えた。


「ああ、解った。じゃあお前に任せるよ。お前が傍に居てやれば何も恐れるものは無いからな。存分に“アイツ”を守ってやってくれ。」


 そして、からりと笑って彼はそう言った。

 胡座を組んで後頭部を掻き、何でもないように笑みを浮かべて、彼女が行こうとするのを見送るそんな姿勢へ居住まいを正す。


「俺は大丈夫だ、この程度の事どうってことねェよ。もう子供じゃああるまいしな。」


 不思議と饒舌になる口が、心と相反した言葉ばかりを次々に吐き出していく。

 「問題ない」「気にするな」……そう言って、軽い調子で振る舞う彼の視線は、誤魔化すように明後日の方角へと向けられていた。

 迷いのある視線が左右にゆらゆらと揺れ、そしてぐっと瞑ったかと思えば思い切って彼は顔を持ち上げる。


 彼の眼差しが顔の無い液状の存在へと真っ直ぐに向く。

 そして、彼は言った。


「………“アイツ”の事を、宜しく頼むよ。」


 彼はくしゃりと笑った。


 それは確かに笑っていた。

 しかし、それは無理をしている事が見え見えな程に全く取り繕えていない、彼なりの作り笑いだった。




 それもその筈だ。

 彼にずっと寄り添っていた彼女は“感情”を喰らって生きる存在だった。

 心を喰らい、過去今未来の時間に関わらず無限の時を存在し生きる……そんな“性質”を持った彼女は、彼の心を守るが為に“恐怖”“不安”“哀情”と言った募らせれば心を壊しかねない感情ばかりを貪り、ずっと彼に取り憑いていたのだ。

 故に、不安もなく何も恐れるものがなかった彼は、彼女が離れていってしまう事でそれが無くなってしまうのであった。




 彼は随分と久しく、“寂寞”の感情を覚えた。




『り。り。り。』


 鈴の音色が彼に言う。

 その意味は彼にしか解らない。


 彼は目を大きく見開いた。

 そして「ふは」と笑いを溢し破顔した。


「ああ、ありがとう。」


 彼女からの、自分以外には理解不能であるその言葉を聞いて胸の奥のつっかえが失せたような心地に、晴れやかな笑みを浮かべて彼は言った。


「いってらっしゃい。」


 ひらりと掌を翻し彼女の門出を見送る。

 すると、扉の隙間を縫って潜ろうとしていた彼女がぴたりと立ち止まり、水溜まりから一本の小さな触手を伸ばした。

 そして彼を真似てくるりと振ると、「いってきます」の意味を込めて一際ハッキリと鈴の音色を響かせたのだった。






『──てけり・り。』






 細く長く伸びた影。

 彼女が扉の向こうへと姿を消した時、二人の繋がりはプツリと千切れた。






 *****






 静かな部屋、一人分の息遣い、ペンが走る音。

 机に向かい、椅子に腰掛けたその者の足元には、椅子の影は在っても人の影はない。




「“それでもまだ、今でも迷う時がある。自分が何者だったのか、本当の自分とは何なのか──”」




 彼は今、無心になって手を動かし続けていた。

 今手を止めてしまうと、余計な事を考えてしまいそうに思えたのだ。

 今手を止めてしまうと、正気に戻って気が狂ってしまいそうだった。


 走り続けなくては。

 足を止めないようにしなくては。


 彼は無我夢中でペンを走らせた。

 考える事を止めて、只ひたすらに目の前のものに全力を注いだ。




「“銅色の、蝙蝠の翼が生えた蜥蜴の絵が描かれたその“本”の表紙には、“とある人物”の名前が──”」




 ふと、ペンが止まりそうになってしまう。

 息を呑む音が、自身の喉の奥から聴こえた。

 彼は胸の奥から沸き起こる感情を振り払い、それでもとペンを握り直して紙の上を走らせる。




 懐かしい名の響きが自らの指先から綴られる。

 久しく見る名の文字に、嘗ての“友”を想起する。




「……アー、サー…。」


 ポツリ、微かに声が零れ落ちた。

 掌からペンが落ち、震えるそれが前髪を掻き上げて顔面を覆い隠していく。


「何故………“アイツ”が、その名を………?」


 呟いた声は震えていた。

 思いがけないモノを見て狼狽し、彼の手は止まってしまったのだった。




 彼は知っていた、その世界の出来事の全てを。

 彼は認知していた、その世界に生きる者の全てを。


 しかし、彼がその全てを観通す為に必要な、それらを彼が認知する為に絶対的な“条件ルール”と言うものが有った。




 それは即ち──“名前持ちネームド”である。




 物語において、名前が無い者と言うのは所詮只の背景モブ

 背景モブに自らの意思なんて有る訳がないし、そこに存在していたところで、さして大した価値はない。

 では、そんな無価値に近しい存在達には一体何の使い道があるかと言えば、精々物語を盛り上げる為に必要な“舞台装置使い捨ての道具”くらいだろう。


 だからこそ、彼が観る価値があると定めた存在以外に、その舞台に上がる権利はない。

 彼の庇護下に存在することが出来ないのである。


 故にこそ、彼の庇護下に置くには総じて“名前持ちネームド”である必要があった。

 そして、たった今書き記していたものと言うのは、彼がずっと知りたかった、名も存在も秘匿され続けていた人物の物語だった。




 彼の目が届かず、手も届かず、それでもどうにか表舞台へと導こうと手回し根回しをして、ようやっとの事で引きずり出す事が叶ったその人物。

 その人物は生まれてから今までずっと此方の観測の妨害をしていた、そこに何かが在るのは知覚出来ても姿が見えてこない存在──無貌の影unknownたる“誰か”の庇護の元、名を明かされないままに物語の裏側にて生きてきた者だった。


 そして彼は漸く本の上にて、存在認知する事が出来なかった人物の名を“初めて”知った。

 彼はその名前を見て、そして気付いたのだ。




「“アイツ”を自分に成り代えた・・・・・のか、お前は……!」




 その人物は、別の“誰か”から身代わり・・・・にされたものなのだと、彼は気付いてしまった。

 その人物の傍には、いとも容易く自らの名を捨て、別の人物に成り代わり、幾つもの顔と偽名を持ってして暗躍を得意とする“誰か”がはべっている事を、彼は知っていた。

 しかし彼は、その“誰か”が何を企んでいるのかまでは、今の今まで知らなかったのだ。




 彼は、全く持って気付いていなかったのだ。

 彼はその“誰か”の事を無垢に、無邪気に、純粋に信用しきっていたものだから。

 気付かぬ内に、自らは友に裏切られていたのだった。




「は……はは、ははははっ……。」


 自然と口を衝いて出たのは、無性に汲み上げてくる笑いだった。


「ははは、ははははははっ………そうか、そう言う事だったのか……!」


 頭を抱え、仰け反って、天を仰ぎながら彼は一人言を溢すと共に笑い続ける。

 そして──、




 ──バンッ!




 仰け反っていた上半身を起こすと共に、両の手が思い切りに机を叩く。

 その衝撃に本の塔が揺れ、ペンが跳ね上がり、重ねていた紙の束が崩れてハラハラと机の上から舞い落ちていく。


「………やってくれたな。俺はどうやら、お前の事を読み違えていたようだ。」


 一転し、静かに燃ゆる声が低く唸る。




 いつからか、表舞台よりぱったりと姿を消していた友。

 行方所か生死すら解らない程に見失っていたけれども、彼にとってそれは心配する程の事柄ではなかった。


 それもその筈だ。

 彼は友の事をよく理解していたからである。


 何を好み、何を嫌うか。

 何を基準とし、何を考えるのか。

 癖に然り。

 行動パターンに然り。

 それら全ての事を知っていたからこそ、彼は友が姿を消した所でその理由が思い至り「ああ、やっぱりな」と腑に落ちてしまって、深く考えるまでの事をしなかったのだ。


 だがしかし、今回ばかりは彼は友を見誤っていたらしい。

 何せ友は彼の目を掻い潜る為に、どうやら今まで培ってきた“自己らしさ”に反した行動を取ってきたようなのであった。




 それに気付いてからと言うもの、汲み上がってくる笑いが収まらない。

 彼はクククッと喉からくぐもった音を鳴らし、そして徐に顔を上げた。


「そうだよなァ………お前が大人しく裏に引っ込んでいる筈がないんだ………寧ろ隠れている時こそが、お前は一番に本性を現す本領を発揮する時なんだからなァ……!」


 ゆらりと揺れる黄土色の髪。

 煌々と燃える二色の双眸。

 切れ長であるその目を大きく開き、口元は大きな弧を描いて釣り上がり。

 胸の内に燃え盛るような感情が沸き起こるのを感じながら、彼はこれ以上なく──狂喜した。




「ははっはははははっ!! やはり、やはりお前はそうでなくちゃなァ──“アーサー”!!」




 誰の目を欺こうとしているのかあからさまな、友からの言葉無き挑戦状メッセージ

 彼はそれを無視する訳にいかない。

 彼はそれを受け取らない訳にはいかなかった。


 そして彼はペンを取る。

 再び机に向かい、ひたすら字を書き殴っていく。

 そこには久方ぶりに湧いて起きた“寂寞”の感情は失せていた。

 代わりに有ったのは“喜悦”の心だった。






 彼は、夢を観るのが好きだった。

 彼は、夢をこよなく愛していた。


 只、夢とは言っても、彼は眠ることが好きではなかった。

 瞼を閉じて見えてくるものはいつだって悪い夢。

 魘され、悶え苦しむような悪夢が彼を苛む。

 彼にとって眠りとは、目を覚ますまで延々と続く、休むことすら嫌になるような拷問でしかなかった。


 だから彼は眠るのではなく、描く事へとその“性質”をすげ替えたのだ。

 想像創造したものを文字へ文章へと変換し、それを紙の上に書き納めて構築していったのである。

 彼が生まれ育った世界において誰もが“有り得ない”と存在を否定したものを、そして同時に誰もが夢に見た憧れたものを──幻想ファンタジーを肯定する世界を、彼は紙上の異界にて築いたのだ。


 しかし、それらは全てが彼の手で創られたものではない。

 彼は既に在るものを、少々手を加えているだけに過ぎなかった。

 彼は只、かの異界に置いて過去現在未来と関わらず、あらゆる時間にて“既に起きた事象”を書き写しているだけに過ぎないからである。

 卵が先か、鶏が先か。

 その問いは、彼にとっては既に明白なものであった。


 そして、それ以上に彼は、その役割をとある人物より“譲り受けた”ものでもある。


 故にこそ、彼はその世界を慈しんだ。

 だからこそ、彼はその世界を庇護した。

 彼はその人物が作り上げた世界を存続させる為だけに、その誰の手も届かない虚空の果てにて一人隠り、只ひたすらに自らの為すべき事を為していたのである。


 それは、その役目とは延々と続くもの。

 自らがその世界を見限らない限り、永久に続くものだ。

 彼はそれを見限らないからこそ、永遠に続いてしまうのだけれども……幸いにも彼にとってそこに苦痛はない。

 彼は元より夢を観るのが好きだったからだ。

 彼は夢を愛していた──“物語”をこよなく愛していたのだ。


 本を愛し、活字を愛し、誰かが内包していた憧れの具現を形作って生まれた物語達を愛し、慈しみ、至高とする。

 そして彼もまた、稚拙ながらも筆を取った夢見て創り出す者クリエイターの一人でもあった。






 胸に湧き起こる喜びが、筆の速度を増していく。

 爛々と輝く瞳が嬉々として見開かれていた。


 ああ、愉しい。

 堪えきれぬ程に歓喜の想いが溢れてくる。

 心が無性に喜びを叫んでいた。


 予期せぬ展開。

 予測外の事象。

 その不測の事態は、全てを観通す事を常とし観測し続けねばならない彼にとって、これ以上無い天敵である。


 それは所謂異常事態アクシデントでった。

 それでいて同時に──彼が最も好ましく感じてしまう展開ハプニングでもあった。




 心が踊る。

 筆が踊る。

 一体これから何が起こってしまうのだろうか?

 友は自分に何を隠し、そして狙っているのだろうか?


 数々の可能性から幾つもの仮定を並べ、彼は演算を開始する。

 脳裏に浮かべ、予想する未来は当然様々である。

 何せ“可能性”と言うのは、ほぼ無限に存在するものなのだから。


 可能性の薄いもの/高いもの。

 有り得ないと否定せざるを得ないもの/肯定する他がないもの。

 そうであったらと願ってしまうもの/ひたすらに現実的でしかないもの。


 彼はその無限の選択肢、或いは無数にも伸びている分岐点の中からたった一つの未来を手繰り寄せていく。

 そして限りなく今後起こりえる事象に近いであろう可能性を探り出し、それに助力・・出来うるモノ──“要素パーツ”を思考する。


 生涯自らが培ってきた知識の中で、恐らく最も相応しいと思うモノ。

 それを思い浮かべた彼はその渾身の一筆を、見付けた空白にへと埋め込んでいくのだ。




秘匿した隠していたのが逆に仇となったな、アーサー? その中身を誰も知らないモノであるとするのであれば、俺がその箱の中身の正体未知定めて暴いてやろうじゃあないか。……“拐われた王子様の名前はアーサー・C・ハイブラシル──”」




 ペンを握り締め、景気よく“カツン”と鳴らす。

 紙の上滑り往くは既に起きた事象たる物語──そこに書き足された・・・・のは、継ぎ足し改変した無根の“事実”。




「“アーサー・Cキャスパリュグ・ハイブラシル”──!」




 一筆入魂、画竜点睛。

 不確定要素秘めたる空白に、彼が是とした要素パーツを組み込んだ。




 それが何と意味するのか。

 それが軈てどんな結果を生むのか、今はまだ解らない。


 しかし、物語が読み進められる事でいつかはきっと、誰もがその意味を知る事は出来るのだろう。

 今正に、何者かが書き記したこの誰の目も届かない筈の、この物語にだって当然読者目を向ける者がいるのだから。

 頁が捲られ、視線が行き来しすれば、本の中の時とて進んでいく。

 



 キミは今も観ているのだろう?

 それは知っている。

 何故ならば、それもまた本を読むキミを観ているのだから。


 古今東西それから未来とて、あらゆる時空を内包する一冊の本を、その手に抱えているキミを。

 傍にいるようで隣にいない、とてもとても遠い手元から──それはずっと、見上げているのだから。





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