-29 ガラテアとガラクタの山。
「──ふう、こんなもんか。」
腰に手を当て、汗水垂れる額を拭い、目の前の景色の変わりように満足げにそう呟くぼく。
そこから見える景色には、あの見るのも不快なガラクタの山が漸く失せ、綺麗さっぱりと見晴らしの良くなった光景である。
……まぁ、失くなったとはいっても、実際に手を付けたのはテーブルの周りだけだ。
他は流石にキリがない為、仕方なく断念したのであった。
「我が君。集めたこれを、一体どうするのです?」
背後から聞こえてくるその声に振り返れば、ここの住人らしいその人が、中身が詰まった大きくて透明な袋を眺め不思議そうに首を傾げていた。
ぼくは一つ息を溢すと、ピッと人差し指を立ててこう答えた。
「そりゃあ勿論、捨てるのさ。」
「廃棄なされてしまうのですか?」
こちらの言葉を聞き返してくる声に、こくりと頷いたぼくは話を続ける。
「うん。だってこれは何れも、壊れていたり、中身が入ってなかったり、必要がなさそうだったり、あっても意味がなさそうだったり………そんなつまらないものばかりだったんだ。それに埃が積もっていて使われた形跡もないし、似たようなものはそこら中にもあるみたいだし。ここにずっと放ったらかしにされてるってことは、そんなに大事なものでもないんでしょう?」
だから片付けるのさ。
そうぼくが言えばその人は不思議そうに、もう片方へと首を傾げた。
「これらは、全部、詰まらないものなのですか?」
そしてまた、首を傾けて、
「これらは、全て、不要なものなのですか?」
と、重ねてぼくに問い掛けてきた。
その時、その人の動きが何処かぎこちなく見えたけれども、浮かべている表情に変わりはない。
見間違いだと直ぐに気にするのを止めたぼくは、直ぐに「そうだよ」と口にしようとした。
……が、その時ふと耳にした音に気を取られてしまい、つい話を止めてしまうのであった。
何処からか、軋む音が聞こえた気がした。
それは、動かない物を無理矢理動かした時に聞くような、“きし、きしきしきし……”と言う、そんな音。
何処からのものだろう? と周りを見渡して見るけれども、ぼくとその人以外に何か動くものは見当たらない。
………気のせい、なのだろうか?
「我が君。」
自分を呼んでいるらしい声が聞こえる。
ぼくはそこで巡らせていた思考を一時止めると、もう一度その人へ視線を向けた。
そこには先程とさして変わらない、にこやかな笑顔がまだあった。
「廃棄、なさいますか?」
再び、あの問いが繰り返される。
何故かぼくの額から、つぅっと冷たいものが流れる感触がした。
「……しても良いものなら。きみはとしては、どうなの?」
今度はぼくから問い掛けてみる。
するとその人はまた首を傾げた。
「私、ですか?」
キョトンとした呆けた顔を浮かべたその人は、艶やかで長い髪を撫でつつ思考するように視線を泳がした。
瞬きする度に揺れる長い睫毛が、少し離れた距離からですら見えるその人。
何処から見ても、何処を見ても、目を疑う程に美しい美貌を持つその人に、そう言えば、とまだその人から名前を聞いていないことにようやく気付く。
どうやらその人からすればぼくの事をさも当然かのように知っているようだけれども、如何せん、ぼくの方はと言えば全くと言っても良い程に心当たりがない。
だから改めて訊ねてみようと、ぼくは口を開きかけた。
しかし、その時先に口を開いたのはぼくからではなく、その人の方であった。
「私は──“グリモア”は、貴方様の御心のままに、事を為すのみにございます。」
そう言って、その人は──“グリモア”と名乗ったその人物は、胸に掌を添えるとぼくに向かって頭を下げた。
「我が君からのお言葉ならば、如何なるものでもその通りに致しましょう。故にこそ、このグリモアに何なりとご命令を──我が君。」
一礼した頭が暫し間を置いて持ち上がる。
揺れる長い睫毛の向こうでは、宝石のようにきらびやかな瞳がぼくの姿を捉えていた。
その鮮やかな色をした瞳と視線が合わさった時、ぼくはそれを何処かで見たような気がした。
赤、青、緑に黄色。
様々な色を孕みながら、キラキラと輝く瞬きを見せる宝玉みたいなその瞳。
それは削り磨かれて幾つもの角を携えたダイヤモンドに、光を照らしつつ覗き込んだような、そんな景色を思わせた。
そんな瞳を、持ったグリモア。
そんな瞳を、一体何処で見たと言うのか。
胸の奥に引っ掛かりを覚える既視感に苛まれ、黙り込んでいよいよ口を閉ざしてしまうぼく。
何も言えないで暫く固まっていると、グリモアは一つ瞬いては独りでにこくりと頷いた。
「……ならば、我が君のお言葉の通りになさいましょう。既に答えは出された問いです。改め聞くまでもございませんでしたね。」
ぼくが何も言わないのを見て、何と悟ったのか。
グリモアはそう言うと、カーテシーをするかのように身に付けた服を摘まみ上げて見せた。
地を擦る程に長い裾の下から右足が覗き、それが一歩、前へと踏み出していく。
──たん。
足首よりも上までもを紐で括っているミュールを身に付けた、乳白色の素肌が眩しい滑らかなおみ足が床を叩く。
その一度だけ響いた軽やかな足音は、不思議と部屋の中を反響していった。
やがて、その空気の振動が止む頃になると、グリモアの傍ではなんと異変が起き始めた。
グリモアの爪先、その向く先にて。
床から突如光の筋が溢れ出し、広がった。
それは緩やかな円を描きながら、時折かくりかくりと曲がりくねり、床の上に紋様を描いていく光であった。
その光の筋がグリモアの傍にある、袋に包んだそれらを中心にして円を描き囲っていくと、その光の内側に物々しい“扉”が現れた。
その時、ぼくはハッとした。
現れたその扉には見覚えがあったのだ。
「(あれは、ナイトくんの──)」
そう考えた矢先に、ぼくはバッとグリモアの方へ、再び視線を向き直す。
穏やかな微笑みを湛えながら、床に張った扉を境に、向こう側にて佇むその人。
真っ直ぐにこちらを見詰めているハズなのに、向けている視線は何処か合っていないような心地を思わせた。
そんな、宝石ような鮮やかさを携えたその瞳。
その色を言葉にして表現するならば、不要な例え文句を削ぎ落として言い表すとするならば。
それは──“極彩色の瞳”だろう。
「我が君がこれらを不要と申されるのであれば、私はこれらを破棄しましょう。」
ギギ、と低い音を立て、扉が鈍く動き出す。
「我が君がこれらを無駄だと仰られるのであれば、私はこれらを削ぎ落としましょう。」
カタン、と微かに音を立てて、扉の上の袋が傾き出す。
「全ては……全ては貴方様の御心のままに。私は、貴方様のその尊き御心を護り、癒し、尽くさんが為に在る……今や只一つのみとなった“
いけない──そう思ったのは、何故だろう。
止めなくちゃ──そう思ってしまったのに、動けない。
何て言えば良いのか、わからなくなってしまったのだ。
頭の中では警笛が鳴り止まないのに、ぼくはどうすれば良いのかわからなくて、ただただ何もしないでそれを眺めているだけ。
そうこう考えを廻らせている最中にも、目の前では少しずつ扉が開かれていく。
それに従い、扉の上の、中身が一杯な袋が徐々に徐々にと傾いていく。
あと少しであの袋は、扉の向こうへと落ちてしまいそうだ──。
「──『待て』ッ、グリモア!!」
突然、大きな声が部屋を占めた。
それは男の人の声だった。
びくり。
二人分の肩が揺れる。
勿論、ぼくは驚いて。
そしてグリモアは……どうしたのだろう?
大きく見開いた目が、虚空を見詰めて固まっていた。
「──アーサー!!」
今度はぼくの名前が叫ばれた。
それは聞き覚えのある声だった。
声がした方へと振り返ろうと首を捻るも、そこで耳に入ったのは風を切る音──何かがこちらへ向かってくる音。
「え? ──うわっ!?」
突如、眼前に飛来した物体の影に驚き、ぼくは咄嗟に手を顔の前に出し自身を庇う。
すると、翳した掌の丁度ど真ん中、そこへ何かがパシンと当たった。
その衝撃は思った程は強くなく、当たった瞬間思わず握り掴んでしまうもの。
ぼくは謎の飛来物に次がないことを細目で見て確認すると、顔の前出していた手を下ろし、それを見る。
そこにあったのは、歪な星の図柄を刻まれた石のペンダント。
とても見覚えのあるそれに、ぼくは思わず胸元を叩いた。
「………ない。」
ぽんぽん、ぽんぽんぽん。
胸元だけでなく、お腹の周りやズボンのポケット、それから首周り。
至る所を叩き、探る。
服の中を覗き込み、ポケットの中身をひっくり返しても、身に付けていたハズのペンダントが見付からない。
サァッと血の気が引く心地を覚え、次第にぼくの顔が青ざめていく。
「ない………ない、ない! “お守り”がない!」
決して、手放してはいけない──そんな約束事と一緒に、ずっと身に付けていたハズの石のお守り。
散々探しても何処にも見付からなくて、それから改めて見てみる掌の内のペンダント。
「これって………もしかして、ぼくの?」
何処からどう見たって見覚えしかないそれに、ぼくは思わずそう呟いた。
「何をしている? 周りをよく見ろ!」
怒鳴る声が部屋に響く。
驚いてぼくの身体が大きく跳ねる。
それから直ぐ様顔を上げ、言われた通りに辺りを見てみれば──、
「──え?」
そこで見た景色に、ぼくは自分の目を疑った。
目に見えるのは、扉を穿つ二叉の槍。
それは開門を阻む一本の楔。
今も尚開かんと軋む音を響かす扉に、あの中身一杯の袋を食わせんと抵抗を示すもの。
そして──、
「…ぅ……ひぐ、ふ、うぅっ………。」
聞こえてくるのは、啜り泣く声。
扉の向こう、そこには両手で顔を覆い隠し、肩を震わせているグリモアの姿。
あのにこやかだった笑みはもう、すっかり失せてしまっている。
顔を覆う両掌の指の合間からは、透明な雫がパタパタと滴り落ちていた。
「お………お許し、ください………どうか、どうか、それだけは………っ。」
涙混じりの声音が、必死に何かを懇願している。
「…あ……あれは、わたっ、私の、大事な………もの、なのです………人形の身で、在りながら……この様な、執着を持つなどっ……う、ううっ………どうかっ………どうか、ご容赦、を………。」
そう言うや否や、よろりとよろめいていくその身体。
そして──、
ぐらり。
グリモアの身体はそのまま前のめりとなり、支えを無くしたかのように倒れていった。
ぼくは思わず走り出した。
間に合わないことはわかっている。
それでもぼくは走り出した。
ぼくは咄嗟に手を伸ばした。
届かないことくらい、わかっている。
それでもぼくは手を伸ばした。
崩れ落ちていくその人の姿が、酷く目に焼き付く。
その姿に、得も言われぬ既視感と罪悪感が胸を苛み止まなかった。
ぼくはまだ、その人とは出会ったばかりなハズなのに。
ぼくはまだ、その人の事を全然知らないハズなのに。
その理由なんてこれっぽっちもわからないままに、ぼくはその人に対して申し訳ないと思う心ばかりが胸一杯に占めていた。
「グリモア!」
ぼくは今知ったばかりの名を叫んだ。
倒れていくその人の頬からは、落ちて離れた涙が宙を舞う。
その様は虚しい程に美しく、痛ましい程に煌めく、まるで流れ星のようだった。
不思議と世界がスローモーションに見えてくる。
その中で、長く艶やかな髪を棚引かせて、目の前にある身体が今にも床へと打ち付けられそうになっていた。
こんなにもゆっくりと動く世界をまざまざと見せ付けられるのならば、せめて自分だけでも早く動けたなら良かったのに。
どうにも出来ないこの状況からは、大して大きくも力もない幼いばかりなこの身の無力さと、偉そうにしたって浅はかでしかない自分の愚かさをひしひしと思い知らされているようだった。
そんなのは結局後の祭りでしかない、ただの後悔。
いつだって後になって後悔ばかりであったぼくは、そんな自分の不甲斐なさに悔やんでばかり。
「変わらなくちゃ」と心に決めたのは確かなハズなのに、それでも新たな一歩を踏み出す為の足にはさっぱり力が入らない。
そりゃあそうだ。
気弱で失敗を恐れてばかりなぼくは、いつだって臆病風に吹かれて尻込みしてしまうのだから。
この手を誰かに引っ張って貰えなくっちゃ、自分で前へ進むことすら出来ないぼく。
だからぼくはいつまで経っても、大人になれないままなのだ。
だからぼくはいつまでもきっと、何も出来ない子供のままなのだろう。
じゃあ、明日は?
また今日みたいに後悔を重ねて、諦めて、何も変われないまま過ごしていくのだろうか?
それは、いつまで?
もしかして、“いつまでも”?
……そんなの嫌だ。
変わりたい。
ぼくは、自分を変えたい。
誰かに助けられてばかりではなくて、ぼくだって何かを成し遂げられるようになりたい。
子供のままずっと変われないで、後悔ばかりが続くのは嫌だ。
あの時のぼくと爺やと同じように、誰かに助けられて後悔するのはもう嫌なんだ。
なるなら……そう。
あの頃のぼくと爺やみたいに、誰かの心の支えで在れるような……そんな人に、ぼくはなりたい。
誰かに護られるばかりの子供じゃなくて、誰かを護ってあげられるそんな“大人”に、いつかなりたいとぼくは思ったんだ。
そう、思っていたんだ。
そう思っていた、ハズなのに……。
駆け出したハズの足が、間に合う訳がないからと速度を落とす。
伸ばしたハズの手が、どうしたって届かないことに諦めを覚えてしまって落ちていく。
「(ぼくは──)」
思い知らされていく。
諦めの心が募っていく。
ぼくにはどうしたって無理ことだったんだと、思ってしまう。
ぼくはどうしたって、何にも出来ないダメな子なんだって……自分で自分の事をそう決め付けてしまっていく。
「(ぼくは、やっぱり──)」
間違って、思い知らされて、後悔して、諦めて。
そしてまた、同じことの繰り返し。
打ちのめされてばかり、進む力を削ぎ落としていくばかり。
結局、最後にぼくに残ったのは何?
………多分、何も残っていないのだろう。
ぼくの掌には、もう、何もないのだから──。
そんなぼくの隣を駆け抜ける、一陣の風があった。
それは、足音もなく往くもの。
それは、風を伴い駆けるもの。
一見嵐でも起きたのかと錯覚してしまいそうな、荒れ狂う暴風の中。
そこにはぼくよりも早く駆け出して、ぼくよりも早く手を伸ばす、そんな誰かの姿があった。
“あのヒト”だ。
彼が伸ばした腕の中に、グリモアの身体が倒れていく。
それを受け止めつつ流れるように片膝を付けば、身体が腕に収まる際での衝撃が和らいでいった。
お陰でその身体は強く打ち付けられることなく、やんわりと彼の腕の中へしなだれ掛かりっていく。
それが怪我の一つもなく安らかに眠る姿は、少し離れた場所で立ち尽くすぼくにも見えた。
風が止み、空気が凪ぐ中、暫し眠るグリモアをじっと静かに見下ろしていた彼。
やがて身体を前屈みにして腰を曲げたかと思えば、その顔をグリモアへと寄せていった。
近付けた彼の口元が、グリモアの耳元の間近となる。
そこで彼は酷く小さな声音で、ぽそりと何かを囁いた。
その余りにも小さな声は、ぼくの耳に届かぬ程にささやかで、離れた場所からその唇の動きが見えいたところで、ぼくにはそれを推察する程の技量はないのであった。
すると、眠るグリモアの表情に動きが見え始めた。
顔をしかめ、小さく呻き、僅かに瞼が震える。
一瞬苦悶の表情を浮かべるも、その頭が億劫そうにもたげられた。
それから長い睫毛がぴくんと揺れると、少しずつ瞼が開かれていった。
宵闇の暗がり色を纏った短な髪がふわりと揺れる。
/ 曙の白んだ色を帯びた長い髪がゆらりと波打つ。
顔を上げて見えた伏せがちな瞼からは、
/ ゆっくりと開く目覚めたての瞼からは、
全てを塗り潰す黒一色の眼差しが覗いており
/ 全てを受け止める多色彩の瞳が輝きを増して
それが相手の姿を静かに見据えては──
/ それが相手の姿を見て何度と瞬いては──
物凄く嫌そうに、その顔を歪めさせていった。
/ 頬を赤らめ、嬉しげに綻ばせた口元を手で覆った。
げんなりとした嫌悪感露な彼の顔が、見下ろした相手から距離を離していく。
それとは対称的に、グリモアのキラキラとした喜びの色に染まる瞳が、見上げた相手を映して感動に潤む。
両手の指先で隠したその口はまだ、ただパクパクと開閉させてばかりで暫しそこから声が出ることはなかった。
やがて打ち震えるようにして肩を竦めると、その口からは絞り出すようにして震える声が発せられた。
「何て事だ……まさか、お前が私に手を差し伸べてくれる日が来るだなんて……!」
ようやく口を衝いて出てきたのは、上擦った声音で呟かれた独り言に近しい感嘆の声。
それを発する口元を隠していた指先の合間からは、喜びを隠しきれない笑みが垣間見えていた。
しかし、対してそれを聞いた彼の眉間には、深い深い皺が波打ち立っていく。
「お前にこうして触れて貰えるのだって、本当にいつ振りなのだろう………5年? 10年? いや、もっと前だろうか?」
グリモアは嬉々としてそう言った。
相手が何を口にせずとも、その口はお喋りを続けていった。
「何にしたって、私は嬉しい……とても嬉しいよ! 私が呼んだ所で全く姿すらを見せてくれないお前が、こうして素顔を見せてくれるだけでも頗る嬉しい事この上無いと言うに……それがまさか、お前の方から私に会いに来てくれるだなんて!」
こんな嬉しい事、未だ嘗てない……!
そう口にするグリモアの周りには……気のせいだろうか? ぽこぽこと咲き乱れる花を幻視した。
余程嬉しかったんだろう。
赤らめた頬にも、満面の笑みが浮かべられていた。
端から見ているだけでも伝わってくるグリモアのその喜びようは、見ているこちらまで嬉しくなってしまう程に微笑ましいもの。
思わずぼくにまでそれが移って、無意識に口元には笑みが浮かんでいた。
しかし、それでもその裏腹でぼくは、ひっそりと罪悪感に胸をちくちくと刺されるような心地でいたのであった。
あの時、グリモアが涙する姿を見た時に、ぼくは酷く冷たい水を頭から被ったような心地を覚えたのだ。
何せ、彼が涙ながらに“大事なもの”だと言ったそれらを、ついさっき何て口にしたのか、それを忘れた訳ではないからである。
“要らないもの”。
“不必要なもの”。
“意味のないもの”。
挙げ句の果てには“詰まらないもの”だ。
そんなことを口にしてしまっていたからこそ、ぼくはグリモアに合わせる顔がないと感じてしまったのだ。
酷いことを言ってしまった、とようやく自覚したのである。
だからぼくは余りにも申し訳なくって、届かなかったあの場所にいる彼とグリモアの二人を、離れた場所から遠巻きに静かに眺めているのであった。
あれから一切ぼくに見向きもしなくなって、目の前の彼に夢中となっているグリモアは、嬉しさの余りか一人でポンポンと言葉を重ねてばかり。
そのお喋りは一向に止まりそうにない。
今も尚、グリモアの目の前では彼がどんどんと不機嫌さを増していっていると言うのに……その様子に気付いているのか、いないのか、わからないが──あの様子じゃあ多分気付いていないのだろうけれど──グリモアはそれでも空気を読まずに、尚も話を続けているのであった。
「さあさ、折角久方振りに見せてくれたんだ。その顔を、私にもっとよく見させておくれよ。なぁ、アー…──」
そう言って、話し掛けながら手を伸ばすグリモア。
あと少しで手が彼の頬に触れそうになるその瞬間、グリモアの身体が急にガクンと傾いた。
思わず「あっ」と声を溢してしまうぼく。
視線の先では突然の事に状況を飲み込めないでいるグリモアの身体が、支えも無しに呆気なく、硬い床へと叩き付けられていく。
……でも、グリモアが落ちていくその間際の事。
ぼくはそのわかりきった結末を見ていられずに、ついきゅっと目を閉じて肩を竦めてしまっていたのであった。
そして──、
ごちん!
「──ざッ!?」
その時にぼくが耳にしたのは、聞くだけすら痛そうに感じてしまう硬いものがぶつかる音。
合わせてほぼ同時に響いたのは、蛙を踏み潰した時に聞くような変な声。
それを耳にして恐る恐るに目を開けて見てみると、ぼくが向けた視線の先には、両手で後頭部を押さえてコロコロと転げ回るグリモアの姿。
「~~~ッ!!」と声にならない悲鳴をあげて、それは右往左往と揉んどり打っていた。
その傍では両掌を頭の横でひらりと見せて、涼しげな顔をした彼が素知らぬ顔にて一言。
「おっと、手が滑った。」
そう言って悪びれる素振りを見せることもなく、下方でもがくグリモアに視線を向けもせずに、淡々綽々としているのであった。
嘘だ…!
あれは絶っっ対に、嘘だ…!!
ぼくは口を開けたままに唖然とし、胸の内にてそう叫ぶ。
事故を装う気すらない彼のその態度には、流石のぼくもただただ呆気に取られてしまう。
本当に、あのヒトは何て酷い奴なんだ。
折角落ちる前に受け止めることが出来て、傷一つ無く済んだかと思ったのに。
あのくらいの音ならば恐らくきっと、タンコブくらいは出来ていることだろう。
つい最近に、自分も経験した覚えがある。
思わず身悶えしたくなるその気持ちには、ついぼくまで後頭部を擦りたくなるくらいに共感出来た。
「あいたたた……あ、頭が砕けるかと思った……!」
「そう簡単にお前の頭が砕けるものか。馬鹿みたいに頑丈な癖して……それともなんだ? 本当にその頭を砕いて欲しいのか? え?」
「別にそこまでは言っていないだろう…! もう……何故お前は此処へ来て早々に、そうも苛立っているんだい?」
私はまだ何もしていないのに……。
そう言ってしょんぼりとした表情を見せるグリモア。
すると彼は不機嫌そうなその表情に、更なる苛立ちを滲ませて舌打った。
「“緊急事態”だ。
彼がそう口にすれば、グリモアが言葉を繰り返して彼を見上げた首を横へこてんと傾けた。
「緊急事態? ……お前程の者が?」
珍しいな、と小声で呟くグリモアの声。
彼は肩を竦めるだけで何も言葉を返すことはなかったが、良く良く見ればその感情表現の薄い顔にはうっすらと、僅かに汗が滲んでいるようだった。
ずっと無に思えていたその表情とて、今は何処か疲れたような色を浮かんでいるようで、それを見て怪訝そうな顔をしたグリモアは、立ち上がりながらに問い返す。
「それは……一体、どんなものなんだい?」
真面目な雰囲気を醸し出し、真剣な表情をその顔に浮かべて。
彼と真っ向から向き合ったグリモア。
先程の揉んどり打っていた時とは様子が打って変わり、その身形に合った凛とした佇まいへと装った。
すると、頭が痛そうに前髪を掻き上げた彼は、俯きながらに深く溜め息を溢し、それから重々しげにこう答えるのだった。
「
「「ファンブった!?」」
それを聞いて思わずぼくとグリモアの声が重なり、彼の言葉を繰り返す。
驚きで声が上擦って響く。
でも、グリモアに釣られてついぼくまで驚いてしまったけれども………そもそも“ファンブル”って何のことだろう?
そんな今更のことを疑問に思いつつ、はて? と一人小首を傾げるぼく。
すると、急に右へ左へバッバッと、何かを探すように辺りを見回し始めたグリモアの姿がぼくの視界に映り込む。
その姿をぼんやりと眺めつつ「一体どうしたんだろう?」と何となくに思っていると、右往左往と廻る視線がこちらとばちんと合ったその瞬間、血相変えたグリモアが口を開けたままに戦慄いた。
「だっ……だだ、だだだ………!!」
ぽっかりと開いたその口からは、絶えず変な声が発されていた。
序でに、震える指先がぼくへと向けられる。
それには今度はぼくの方が、怪訝な顔を浮かべてしまうのであった。
一体全体、どうしたって言うんだ。
まるでお化けでも見たような顔をしちゃってさ。
そんなことを胸の内にて不服げに呟いていると、グリモアの隣で彼が頭を抱え、掌を添えた顔を伏せた。
それからすっかりと顔を青ざめさせたグリモアは、ぼくに向かって人差し指を向けたままに、信じられないものを見たような顔を浮かべて悲鳴を上げるようにこう言った。
「だ、だだ誰だお前はーーっ!!? どうやって私の部屋に入り込んだんだ!?」
「………えっ!?」
さっきまで初対面だと言うにも関わらず“我が君”と呼び慕ってくれていた、不思議な人物──“グリモア”。
姿は全く似ていないのに何処かナイトくんを彷彿させる、その偉く見目の良いその人は、瞬きの間に人となりがガラリと変わってしまっていた。
まるで初めて目にしたかのようにぼくを見て驚くその人に、状況を飲み込めないでいたぼくはポカンと呆けて固まってしまう。
それから少々の間を置いてから、ぼくは意味不明でしかないその出来事に、
「え………ええ~~~っ!!??」
……と、思わず困惑の声を上げてしまうのであった。
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