-30 解釈の齟齬と乖離。
真夏の暑い日、家の庭の一角にて。
それ自身の身体よりずっと大きな、虫の死骸を運ぶ蟻を見た。
日に照らされてじりじりと焼かれる地の上、えっちらおっちらと大荷物を運ぶ様はとても大変そうだった。
いつかどこかで、蟻には“働き蟻”と言う、一生の殆どを労働で過ごす者がいると聞いた。
彼らがきっとそうなのであろう、と何となくに思っていた。
そうして眺めている内に、段々と彼らが憐れに思えてきた。
こんな暑い日にまで、小さな身体で重たいものを持たされるなんて。
可哀想に。
きっと相当大変に違いない。
そうして、そんな可哀想な蟻達の為に、その重たい荷物を取り上げ捨ててあげた。
これでもう大丈夫。
重たい荷物が失くなれば、きっと彼らも休めるだろう。
燦々と照る日差しに、からりと渇いて熱っぽい地べた。
そこには一つ、ぽっかり空いた穴があった。
小さな小さな穴からは絶えず何匹もの蟻達が出入りして、その様子は見るからに忙しそうなことこの上ない。
こんなに暑い日にまで、小さな身体で働かされるなんて。
可哀想に。
きっと喉も渇いているに違いない。
そうして、そんな可哀想な蟻達の為に、井戸から汲んだ水をコップ一杯、ちゃあんと穴に収まるよう、そっと少しずつ注いであげた。
これでもう大丈夫。
喉も潤せるし、土も濡れて涼しかろう。
今日はとても良いことをした。
蟻達も今頃きっと喜んでいるだろう。
重たい荷物を持つこともないし、暑くても水は沢山お家にあるから喉が渇くこともない。
あれからあの穴から出てこなくなったのも、きっとお家で休んでいるからだ。
暑い日は家で休むのが一番だから、そうなったっておかしくない。
ああ、なんて、ぼくは“イイコ”なんだろう!
………その穴からはもう二度と、蟻が姿を見せることはなくなった。
*****
「……して、もう一人、お連れ様がいらっしゃるかと思うのですが………その御方は今、どちらに?」
恭しく頭を下げていたその人物がこちらを向くと、キョロキョロと辺りを見渡しつつそう言った。
もう一人? と一瞬何のことかわからず、首を傾げてしまうぼく。
しかし直ぐに誰のことかが思い至り、脳裏に彼らを思い浮かべてぽんと手を叩く。
“あのヒト”とナイトくんの事だ。
「え、えっと……。」
「おかしいですね……彼一人ではなくお連れがいらっしゃるなら、ご一緒されるかと思っていましたのに。他に誰かが扉を潜った形跡もないですし、まだいらしていないと言うことは何か不備でもあったのでしょうか……でなければ、あの御方が我が君をひとりで此処まで寄越すなんてことにはなる筈が……。」
ぼくは問われたことに答えようと、物を言おうとして口をもごつかせる。
一体何から話せば良いものか、と考えを巡らせていた所だったのだけれども、ぼくから視線を外したその人はそのままそっぽを向いてしまったのだった。
腕を組み、指の背を唇に当て、視線をあらぬ方を向けてはくるりと一周。
口からはぶつぶつ、独り言を溢して。
挨拶も程々に、唐突にそんな質問をしてくるもんだから、ぼくはてっきり返答を求められているものかと思っていた。
しかし、どうもそんなことはないらしい。
思考を巡らすことに夢中になって、途端にぼくには見向きもしなくなったその人は一人で、あーでもない、こーでもないと自問自答を繰り返す。
それから間も無くして、「……あ!」と声を発してはパッと頭を上げる。
かと思えば、くるりと踵を返してしまって、そのまますたすたと部屋の奥へ消えていった。
結局一人残されてしまったぼくは、その後ろを眺めてポカンと呆けて立ち尽くす。
「な…何だったんだ、今のは……?」
そこでつい口を衝くのは、戸惑いの籠ったその一言。
それもそのハズ。
何せ、目が覚めて早々飛びっきりの美人に出迎えられたと思ったら、何処に辿り着いたのかもわからぬままに、いきなり歓迎。
その上“我が君”なんて仰々しい呼び名で呼ばれ、尚且つ、次に言われた言葉が“おかえりなさい”?
どうも自分のことを知っているらしい口振りだったけれども、訳のわからないことを散々口にしたのち、一人戸惑うことばかりで困っているこちらは欠片も気にもせず、早々に立ち去っていってしまったことには流石のぼくも困惑が禁じ得ない。
質問してきた割にこちらの返答を聞く前にすたすたと何処かへ去っていっていくその後ろ姿には、幾らぼくが声を掛けようと思ったところでそんな暇すら与えられなかったくらい。
それはもう、あっという間だった訳で……。
結局自分はここに取り残されたまま、放ったらかしにされてしまっているワケだ。
全く……意味がわからない。
一体何なんだ、この状況は?
何だか前途多難な気配をひしひしと感じつつ、ぼくは溜め息を溢してへたり込んだ身体のまま天井を仰ぐ。
……何だかスゴく疲れた気がする。
とても長い距離を歩いてきたかのような、どっと身体にのし掛かる疲労感に、腰掛けた床に掌をつく。
そしてそこに凭れ掛かって足を伸ばしていけば、見上げた先には真っ暗闇。
天井があるハズのそこには、何だかまだずっと先がありそうな暗がりがこちらを見下ろしていた。
「そう言えば、ここは一体何処なんだろう……?」
ぼくは見上げた頭をぐるりと回し、辺りを見渡す。
改めて観察してみたそこは、廊下らしき細い空間だった。
そこには先程の人物が歩いていった先に向かって人一人が通れる程度の通路を残し、壁に床にと至る所にあらゆる物が無動作に置かれていた。
右も左もひたすら物が山のように積み上げられており、陳列するその何れもがぼくには目にしたことがない物ばかり。
勿論、その中には似たような物を知っている物もある。
そして、奇怪な形で何に使うものかすらとんと検討も付かない物もあった。
それどころか、鳥の羽根やら石ころやら、果てには何かの植物すらも、くすんで曇った瓶や埃の積もった箱に収められているのが見受けられた。
その上、廊下沿いに置かれた物置状態なテーブルらしき長い台からは、何かの器が割れてしまっているのか、発光する黄緑色の液体がひたひたと雫を落とし、床を濡らしてもいる。
そもそも、何処も賢も手入れがされていないようなのだ。
言うなれば、要らないものを掻き集めて積もらせた“ガラクタの山”を彷彿させる、そんな状態。
………その、目にするだけでも思わずぼくの頬がひくついてしまうそれらは、実はもう少し違ったものを思い浮かべてしまっていた。
けれども、それを口にするのは流石に失礼だろう。
そう考えてきゅっと口を閉ざしたぼくは、喉元までせり上がっていた言葉をひっそり胸の奥へと飲み込むのであった。
「我が君ー!」
そうこうしつつ、辺りの様子を眺めて過ごしていると、通路の奥からパタパタと先程の人物が駆けてきた。
駆けてきた、とは言っても、その身に着けた衣装やらとても長い髪に足を引っ掛からないようにと、覚束ない足取りでゆっくりと駆け足する程度のもの。
時折つんのめる姿がちらほらと垣間見えたりする中、やっとのことでぼくの所までやってきたようだ。
その人はとても嬉しそうな、にこやかな笑みを浮かべていた。
どうしてだか、頬や頭に先程にはなかった煤汚れや埃が付いていたけれども、それを気にする素振りもなくにっこにっことスゴくご機嫌そうだ。
「我が君、お茶の席をご用意致しました。長旅でお疲れなのでしょう? どうぞ、こちらへお越しくださいな。」
そう言うとその人は通路の奥を掌で差す。
色々と聞きたいこと、言いたいことは沢山あったけれども、他に行き場のないぼくは取り敢えず「どうぞ」と促されるがままに仕方なく足を進めていくのだった。
通路はとても細い道だった。
幸い身体を横にしてまで通る必要はなかったのだけれども、左右に詰まれた物の威圧感で、ただ通るだけですら肩身が狭く感じてしまう。
せめて少しでもそこに積もらされた物を整理したならば、もう少し広くなりそうなものだけれども……。
複雑な思いを胸に秘めて、目を逸らしたくなるそれらを視界の端に捉えつつ、そのまま進む。
やがて通路をずっと歩いていったその先にて、ようやくぼくの目に開けた空間が見えてくる。
「………うわ。」
そこを見て真っ先に口を衝いたのは、言葉にも満たないそんな声だった。
それも当然だろう。
何せ、その開けた空間と言うのは、勿論今までと同じく壁際が物で溢れている。
けれどもその最たるは、空間のド真ん中に置かれている存在主張の激しい大きなテーブルの周りが、恐ろしく大変なことになっていたからであったのだ。
それはおよそ食卓や執務、勉学に使うものとはまた違う、ゴツくて、分厚くて、頑丈そうな、多少の衝撃を与えても簡単には壊れないだろうと感じられる………言うなれば“作業台”と称するべき箱形の台。
その上には全く似合わず、釣り合いも取れていない、小さなティーカップとポットがちょこんと置かれていた。
なので、隣でニコニコと笑みを浮かべるその人が言っていた“お茶の席”が彼処だと直ぐ様わかってしまう光景ではあったのだけど………あったんだけども………。
……如何せん、その周りが何よりも大変頂けなかったのである。
テーブルの下とも麓とも言えるその周り。
そこにあるは積もりに積もったゴm……物の山。
「(き、汚い……!!)」
ぼくは絶句した。
見るからに、机の上に積んだものをそのまま下に流し落としたかのようなその痕跡に、ぼくは開いた口が塞がらなくなる。
幾ら机の上だけが綺麗にされようとも、視界の端に映るその割れた瓶やら何かの屑などの、得体の知れないものが無秩序に置かれたままのそれらが鎮座する様には、流石に忌避感を禁じ得ない。
思わずぼくはバッと隣を見る。
「まさかあそこで、なんて言わないよな?」「冗談だよね?」と、殆どすがるような思いで隣の人物に視線を向けるのだが……。
にこにこ、にこにこ。
その人は何を考えているのかわからない──むしろ何も考えていなさそうにも思えてくる──屈託のない笑顔を浮かべているだけ。
そこでぼくと視線がぱちりと合えば、「こほん」と一つ咳払い。
佇まいを正し、仕切り直しては、胸が張られて背筋が伸びる。
何処か誇らしそうにも見える佇まいとなったその人は、悠々とした足取りで長い髪を引き摺りながら、テーブルの元へと向かっていった。
それから部屋の奥にある山の中から、椅子を一つ引っ張り出してはそれを机へと寄せるのだった。
その時に椅子の上に積まれていた物が雪崩を起こし、ドサドサと大きな音を立てていく。
部屋に白い煙が巻き上がって、埃っぽい空気が鼻腔を擽り思わずくしゃみ。
ふえっくしょい! と思わず声を上げ、腕で鼻を擦り顔をしかめる。
流石に文句の一つでも言いたくなってしまうこの状況。
それを引き起こした犯人と言えば、どうやら特に何も気にしていないらしい。
………と言うより、むしろ上機嫌なくらいである程だ。
鼻歌交じりなその人は、引っ張り出した煤被りな椅子の上をたくしあげた自身の衣服で拭い払う。
それからくるりとぼくの方を向いたかと思えば、掌を見せて促すようにそこを差した。
「こちらへどうぞ!」
どうぞ! じゃないぃぃ……!!
ぼくは込み上げそうになるツッコミを唇を噛み締めて飲み込んだ。
それでも思わず「ふぐぅっ……」と変な声が溢れてしまうが、そこは何とか堪え凌ぐ。
言いたいことは山程ある……が、どうもその人には悪気がある訳ではないらしい。
だってあんなにも純粋で、まるで「良く出来ました」と誉めて貰えるのを待っているかのような……そんな眼差しを、その人は真っ直ぐこちらへと向けているのだから。
期待に満ちた目で、ぼくがそこに座るのを今か今かと待っているその人を見て、その好意を頭ごなしに拒絶するだなんてことは………多少の抵抗感は確かにあれども、どうしてもぼくには出来ない。
ただ、それでもだ。
その人が次に口にした言葉を耳にしてしまったら、もう、流石のぼくもいよいよ我慢の限界を迎えてしまうのであった。
「ええっと、これは何が入ったティーポットだっただろうか……? お茶なんてもう何年と久しく飲んでいないし、あの頃これに何を入れて置いていたのかなんてさっぱり………うん、まあ、カップに淹れれば何れも一緒か。」
「ちょっと待って。それ、いつから入ったままのやつだって?」
「はい? ええと………暫く此処に誰かが来る何て事はなかったですし、もうかれこれ何十年程か。大体そのくらいは前ですね。」
「かれこれ………何十年……………??」
「ええ。当時、お客人に頂いたこの中に淹れたものを飲んでみて、大変美味で感動してしまったので……ですから、折角なのでこうして取っておいたのです。」
「そっかー……美味しかったから、取っておいちゃったのかー………。」
「ええ、そうなのです。だって一度きりしか味わえないのは寂しいですし、余ったからと捨ててしまうのも勿体ないでしょう? ですから、こうして今も此処にあるのですが………折角いらした、久し振りのお客様です。ちゃんとおもてなししなくては。それに、とても美味であるこのお茶を、我が君にも是非飲んで頂きたいと思いまして。」
「そう……それを………ぼくが…………。」
「はい。……あ、今淹れますね。もうすっかり冷めてしまってはいますが、味に問題はない筈です。」
「………すーっ………はーっ………………うん。よし。わかった。じゃあ、その前にやるべきことがあるから、先にそれを済ませよっか。」
「はあ……? やるべきこと、とは………?」
「それはね………ここを、全て、片付ける──今すぐに!!」
「えっ? ええっ?? で、ですが、掃除はもう終わっ──」
「やり直し!!」
「えっ……ええ~~っ!?」
………やはり、前途は多難である。
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