-31 口にするは正か偽か。

 時折、ふとした時、何てことない切っ掛けで思い出すことがある。


 それは、昔寝物語に聞いたお話。

 心地好い微睡みへと誘いながら、低くも優しい音色のしゃがれ声が紡いでくれたお伽噺。


 ぼくが生まれるずっと前に作られたそれは、とてもよく聞き慣れた名前の人物を主役にした、ぼくの知らない“誰か”の物語だった。






 *****






 ──昔々のお話です。




 これは誰かの名前の元である“とある人物”を主役にしたもの。

 実在したとされている人物であり、実際に在ったとされている伝説の口伝。


 かと言ってそれは大層大昔のものではないらしく、強いて言うなれば、今はもう年老いた“誰か”が若き頃の時代を舞台とするもの。

 この世界で最も身近で、最も有名なお伽噺でもあるものです。




 嘗て、只の人間の身で在りながら、誰もが不可能としていた多くの偉業を成し遂げた者がおりました。

 その者はとても賢く、力も有り、また逸脱した才の持ち主でありました。


 多くの知識を蓄え持ち、幾多の言語を身に付けているからこそ、知らぬ通じぬ言葉はない。

 天賦の才たるその秀でた身体能力は、まるで羽根が生えているかのような身軽さに、鬼神の如き剛腕は岩をも割ってみせる程。

 人々だけでなく、魔物すら畏怖させる程に彼の活躍は実に凄まじいものでした。




 しかし、彼の真価はそれだけではない。




 余りにも深く根付き蔓延り過ぎており、国がもう手に負えないと匙を投げてしまっていた悪事に手を染めた者達への粛清と排除。

 ──国に平穏が訪れ、豊かになりました。


 魔物の被害に悩む町村にて、あの恐ろしく脅威的な魔物を人の力のみにて撃退し得る為の、その知恵の施し。

 ──人々は、魔物に怯える日々を過ごさなくて済むようになりました。


 魔物や魔族が扱う“魔法”とは別個にて異なる、人の身でも発現する事が可能と証明されし奇跡──“魔術”の普及。

 ──人類には不可能であると思われていた常識を覆す、正に神掛かった偉業だと人は彼を褒め称えました。


 その上、人間や魔物が起こしてきた多くの争いを諌め、不和の解決。

 幾多の争いに終止符を打ってきた彼ではありますが、その最たるは彼の物語の代名詞とも言えるものでございましょう。

 それこそが、この世の全てを食い物にせんと悪逆非道の限りを尽くしていた、かの国にて巣食っていた邪悪なる怪物──“魔王”の討伐です。


 かの魔王との戦いは苛烈且つ、とても凄絶なものでした。

 そこに至るまでにも多くの戦いがあったものの、その長きに渡る攻防の末になった勝敗の結果は共に相討ち。

 誰が見ても致命傷である大怪我を負うと共に、戦いの最中に崩れ裂けた大地に突き落とされた魔王はそのまま生き埋め、その亡骸は地の底へと封じられました。

 一方で彼は皆の面前にて塵芥となり、その遺灰は空の彼方へと消えてしまったのです。

 ……切り落とされた片腕だけを一つ、その場に遺して。

 



 そうして彼は魔王と共に命を落としてしまいますが………彼を代償にして、長き苦難が続く氷河期と言い表すに相応しき時代にあったこの世界は、漸く平和がもたらされました。


 多くの人が彼の死に嘆き、悲しみました。

 同時に、多くの人が世に平和が訪れた事に喜びました。


 そして人々は、英雄たる亡き彼を偉大なる聖者としてその功績を讃え、時に、彼を実在した神の如く崇め立て祀るようになったのです。

 そんな彼の伝説を後世に伝えるべくして、皆挙って子に孫にと語り継いできたものこそ、この物語であるのです。




 何処へ行こうが、誰に聞こうが、誰しも一度と言わず二度も三度も聞いた覚えがあるであろうそのお話。

 それ程にもとても広く伝わっているその物語には、一つ、他のものにはない不思議でおかしな特徴がありました。


 それは、語り継がれる内容は差して変わらずとも、その主役たる人物の容姿や人なりについて偉く不明瞭な事が多い──と言うこと。




 会った事がある。

 見た事がある。

 話した事がある。

 関わった事がある。




 そんな人々は何処へ行っても数多くいるでしょう。

 それどころか、生ける目撃者や関係者は──もう何十年と経った今では勿論、とっくに年老いてこそおりますが──今も尚、少なからずに実在しております。

 だと言うのにも関わらず、それに対して「じゃあ、どんな人だった?」と訊ねてみれば、何故だか途端に皆の声が揃わないのです。




 小心者だった。

 威張り屋だった。

 傲慢だった。

 慈悲深い者だった。




 挙げ句の果てには「とんでもない悪党だった」だなんて言う者までいる始末。

 最終的には「かの英雄は掴み所のない、謎多き人物」と、国の教材にまで記されてしまう……なんて有り様となったのです。


 実在した事は、恐らく明確なのでしょう。

 しかし、それでもその容姿とて青年なのか、少年なのかすらも、やっぱり曖昧模糊で解りません。

 そして結局は“筋骨隆々で背が高く、相当に見目良き輝く目の男”くらいしか、解らずじまいとなるのでした。




 そんなこんなで今じゃもう、デマや脈絡のない憶測までが飛び交い、収拾が付かない程に、その話は広がっております。


 誰もが皆そのお話をしたくて堪らないのに、どれが本当の話なのか解らない。

 そうすれば人は皆、面白いと感じる事ばかり選り好みし、詰まらないと感じた事は蔑ろ。

 例えそれが真実のものだとしても関係無しに放り捨て、誰も語らないからこそ人々の中から忘れ去られていく。




 するとどうでしょう。

 根も葉もない噂に真偽も不明な逸話を幾つも付け足し、尊大なばかりで中身の無い、薄っぺらな物語の完成です。

 もしも当人が耳にしようものならば、決して良くは思わないであろう下らない話となっているでしょう。

 それでも、それが巷じゃ格好の噂の種。


 結局、人が好き好んで口にしているのは、大抵そんなもの。

 ですから広がってしまった誤りを正そうにも、誰にもどうしようも出来なかったのです。


 そう言った事もあって、この国ではその物語も噂も、話が尽きもしなければ飽きもしない、社会現象たる話題の一つとなっておりました。

 老若男女貧富問わず、もう何十年と経つ今でも尚、ずっと語り継がれ続けてきているのです。




 そんな一風変わったお話こそ、近時代の伝説たるお伽噺。

 その題名は、“勇者、アーサー・・・・・トライデンの伝説”。




 ……それが貴方様のお祖父様が授けて下さった、貴方様の名の由来にございますよ──“アーサー”坊っちゃん。






 *****






「ええっと………ここを通り抜ければ良いのかな?」


 徐に伸ばした手。

 戸惑いながらもその先を見つつ、困惑すらも胸の奥へと押し込んで、背後にいる者へと問い掛ける声。


「そうだよぉ。」


 間の抜けた声が返る。

 戸惑いもなく、おどけている様子もなく、只単にそれが何のおかしなものではない認識らしい、平常そのものな落ち着いた声。


 それを聞いてぼくは、殆んど無意識にごくりと唾を飲み込んだ。

 



 目の前に蠢く黒色の流動。

 絶えず波打つ無数の管の群れ。

 それらを囲って出口を塞ぐ、侵入者のみを迎え入れようとする巨大なアーチ


 今自分が見据えているぽっかりと壁に沿って開かれた孔の如きそれは、これからこの身を投げ込む予定の大きな口だ。


 そこから低く響く地鳴りのような音が空気を震わせる。

 絶えず渦巻く流体の管が飛沫を上げるように、門の表面からぴしゃりと跳ねる。

 いつかは門の直ぐ前に立つぼくまで届きそうにも感じて止まないそれは、何度と抗い跳ねようとしても、決してこちらへは辿り着けないようだった。

 跳ねる度に門の奥へと沈んでいく管の飛沫の様は、ぼくには何処か忌々しげに此方を睨んでいるかのように思えてならない。

 響く地鳴りの音の中に交じって「あと少しだったのに!」と悔しげな声が零れる音を聞いたような気すらした。


「………よし。」


 一つ、深呼吸で気持ちを整え、決心したその気持ちを現す声を口にする。

 両手に拳を作り、キッと眼差しに力を込めて前を見据える。

 それから足を前へと一歩、踏み出し進んでまた前進。

 何度も繰り返しずんずん進み、怖じ気付く前にと門へと向かう。


 やがてぼくは近付くだろう。

 手を伸ばせば、門の中にて末広がる水面の如き平らな表面に触れられそうな、目と鼻の先とも言えるその距離にまで。

 しかしその向こうで蠢く影を間近で見てしまって、強張った足がつい止まりそうになってしまう。


 ぼくは咄嗟に顔を左右に回し、今にも込み上がってきそうな恐怖を頭から振り払う。

 余り直視してしまっては折角の決意が揺るぎそうになるので、もうそれを見まいとぎゅっと瞼を閉じ、視界から排除することにした。

 けれども足は決して止めぬまま。

 後はもう真っ直ぐに進めば良いだけだから、目を閉じ、俯きながらでも尚進み続けた。


 視界を閉じた真っ暗闇にて、不意に身体に違和感を覚えた。


 その何とも不思議な感覚を言葉にして例えるならば、酷く薄い膜にぶつかったかのようなもの。

 とてもとても柔で壊れそうだと言うのに、しなやかな弾力もあるらしいその薄膜に振れた時、ぼくの身体がそれを纏うようにして進行方向へと引き伸ばしていったかのようだった。


 すると、足が何だか重く感じて進む速度が落ちてくる。

 前方から何かに圧されているような気を起こし、つい足を止めそうになる。


 それでもぼくは止まらなかった。

 目をぎゅっと閉じたままに、踏ん張る足を前に出し続けた。


 すると、ふっと掻き消えるようにして、前からの圧が消え失せた。

 思わず躓きそうになるぼくだけど、そこは何とか踏み留まる事が出来た。

 そして圧に変わって身体に残ったのは、今度は薄いレースのような布地をふわりと被せられたかのような感覚だ。

 全くと言って良い程に重みの感じないそれは、何処かほんのりと暖かさがあり、蜘蛛の巣を被ったように思えても、決して不快感だけは感じなかった。




 あれからどのくらい歩いたのだろう。

 ぼくは目を閉じたまま、ずっと同じ方角へ進み続けていた。




 ──■■■■………■■■■………。




 延々と続いていきそうな暗がりの道にて。

 いつからか、酷くくぐもっていて聞き取り辛い声のような音を耳にするようになっていた。




 ──■■サ■………ア■■■………。




 それは不明瞭であるのと同時に、とてもとても遠いところから響いているようだった。

 揺らめくように強弱波打つその音色は、時折言葉らしきものを紡いでいることはわかる。

 けれども、それを言葉として受け取るには余りにも崩れすぎており、ぼくに意味が伝わることはなかった。




 ──■■けて………た■■て………■■サー………。




 暗闇の中響く声はくぐもっているのもそうだが、明確に聞き取れない理由には乱反射するが如く何重にも音が重なって聞こえてくる、と言う事も原因の一つにあった。


 復重する声は聞こえているだけでも幾種類とあった。

 それは若い女の人の声らしき音もあれば、老いた男の人らしきしゃがれ声もあり。

 性別の判断が付き難い幼い子供のような甲高い声もあれば、割れた音のような余りに低くてガビガビとした奇怪な声もあり。

 耳鳴りのような、およそ声と判断するにし難い音もあった程だ。

 それがぐじゃぐじゃに混じって波打っているものだから、幾ら聞こえていても言葉の判別が付かないのであった。


 だからぼくは、声に構わず歩き続けた。

 今は気にかけるべきではないと思ったからだ。


 ……しかし、それは長く続かなかった。




 ──たす■て………■■サー………。




 進むに釣れて明確になり始める声。

 今まで不協和音に重なり、全くと言って良い程に聞き取れなかったあの音は、次第にぼくの耳へと一際意味を解せる言葉を囁くようになっていった。




 ──助けて、アーサー……私よ、お母さんよ…!




「……!」


 突然暗闇の向こうから聞こえるさざめきに、自分の名前を呼ばれた事でぼくは思わず俯いていた顔を上げた。

 そして、それが母であると名乗ったことで酷く驚いた。


 ……母さんだって?


 聞き捨てられない言葉にぼくは動揺し、そして思わず耳を傾けてしまった。

 その時はまだ目を開いてはいない。

 でも、ぼくの進み続けていたハズの足がそこで止まり掛けていた。




 ──お願いアーサー、助けて頂戴……! 私…ここに閉じ込められているの……!




 声は益々鮮明さを増し、明確に女性であるらしい声音でぼくへと囁いてくる。




 ──暗いの……寒いの………お願い、助けて………お母さんをここから出して……!




 声は助けを求めていた。

 母と名乗る声はぼくの名を呼んでいた。

 「助けて」「ここから出して」

 その言葉を何度と繰り返し、必死にぼくへと呼び掛けていた。


 けれどもぼくは、それでも足を完全に止めることはなかった。


「(ぼくの母さんは、ぼくが産まれた時にはもう死んじゃってるんだ。こんなところにいる筈がない。)」


 だからアレはきっと、偽物だ。


 会った事のない母に、聞いたことがない声。

 知らないからこそ確かめる術などないぼくは、自身が知る事実──“母はとうに死んでいる”と言う只一つだけの理由だけで振り払い、止め掛けた足を再び進めていくのだった。


 ぼくは進む。

 声を無視して足を進める。


 声はいつしか啜り泣く音を響かせ始めても、ぼくは頑として聞き入れなかった。




 けれども………もし、もしもの話だ。

 あの声が本当にぼくの“お母さん”のものだとしたら?




 ぼくは衣服の胸元をぎゅっと握り締めた。

 高鳴る胸は緊張から、暴きたい気持ちは好奇心から。

 もしかしたら思ってもみなかった母との再会が叶うのかもしれない、と僅かな期待が胸に込み上がる。

 そうしてぼくはせめてどんな人かを確かめるべく、瞼に込めていた力を緩めようとした。


 その時だった。




『──なりません、目をお開けになっては。』




 不意に、ぼくの頭の中に響く声が聞こえてきた。




『なりません、あの声に応えては。なりません、足を止めては。』




 波打つ調べは唄うが如く、響かす音色はハープの如く。

 あの、母だと言う遠くの声を遮って、弦を弾くような声音色が聞こえてきたのだ。

 しかも、その声は他の音と違って鼓膜を通さずに。




 ──助けて……助けてアーサー……ここから出して………。




『アレは貴方様を惑わす声。応えてしまえば、その御身は常世の闇に呑まれるでしょう。』




 ──アーサー……いるなら返事をして……貴方は一体、何処にいるの……?




『アレは貴方様の居場所を探る声。応えてしまえば、その御身の在処は忽ちに知られる事でしょう。』




 ──お願い、アーサー……返事を頂戴………!




『そうなれば、貴方様は二度と戻れなくなるでしょう。帰り道は閉ざされ、永久に闇夜をさ迷う事となるのだから。今度は貴方様が此処に囚われてしまうのでしょう。此処に幽閉されているアレと、その御身を入れ替わるようにして。』




 遠くの声はぼくにすがり付くように。

 響く声はぼくに訴えかけるように。

 二つの声はそうして何度も何度も、一方的にぼくへと囁き掛ける。


 聞き入れるな。

 受け入れろ。

 従いなさい。

 抗いなさい。


 頭に耳にと響く音、ぼくを介して争っているかのような二つの声。

 やがてその余りの煩わしさに堪らずぼくは、それらを拒絶するべく耳を塞いだ。


 何なんだ。

 本当に、何なんだよ。

 あの声達は一体、ぼくに何を求めてるんだよ……!


 ぼくは進み続けた。

 あの声達を振り払うように、駆け出した。


 両の手を耳に当て、手を伸ばしてくるかのような声に背を向けて。

 ただひたすらに走り続けた。

 向かっている先はわからない。

 それでも、足が向く先に進み続けた。


 遠くの声が遠退いていく。

 助けを求める声が薄れていく。


『進みなさい──進みなさい──此処に出口は無かろうとも、進む者にはいつしか光が射しましょう──。』


 頭の中響く声だけは変わらない。

 耳を塞ごうが、鼓膜を潰そうとも、それは頭の中を直に響かせてくるのだから。


 いつしか手が離れたぼくの耳には、直ぐ傍を這いずる音が届いた。

 それはぼくを追い掛けているのか、付かず離れずに絶えず聞こえてくるのだ。


 ぶわり、全身に鳥肌が立った。


 得体の知れない何かが傍にいる。

 真っ暗闇の中、ぼくに向かってくるものがある。


 それに気付いた瞬間、ぼくの口から声にならない悲鳴が溢れた。

 そしてぼくは怖くて開けられなかった目を、自ら開いてしまったのだ。




 うぞり。




 眼前聳える巨大な影。

 滑り湿った空気を纏い、捻り立つのは太い円柱。

 波打ちながら天に向かい、果てなく伸びて先には円錐。

 その管のような長い巨体からは、細く長く伸びる無数の影。

 揺らめき棚引く幾つものそれが、鬣か腕かは定かでない。

 けれども最も円錐の先端に近いそこには、緑輝く枝葉の群れが。


 一見して、地を這う胴は、さながら老いた倒木らしく。

 頭上もたげる瑞々しき緑の群は、さながら天穿つ大樹の如く。


 それが、ゆっくりと、ぼくを見下ろしたのだ。

 戦くぼくの震える足は、遂にそこで止まってしまった。




 ──坊っちゃん。




 遠くから声が聞こえてくる。

 今度は、とても聞き慣れた声だった。




 ──坊っちゃん。私が誰だか、解りますか?




 それを聞いて、わからない筈がない。

 駆り立てられた恐怖に耐え兼ねて、それにすがり付きたい思いで一杯となったぼくは、思わず叫び助けを求めた。






「助けて、爺や──!!」






『いけない!』


 耳にした声に応えたぼく。

 制止の声は間に合わず。


 目の前の巨体が蠢く最中、ふっと染まる真黒の視界。


「………え?」


 突然音が静まり返り、あの巨大な影とて見えなくなる。

 一体何が、と戸惑うぼく。

 その目を向けた先には、ぽつんと一つ、暗闇より現る人影。




 ずりっ………べしゃ、ずりっ………べしゃ。




 その音は、濡れた足を引き摺っているのだろうか。




 ずりっ………べしゃ、ずりっ………べしゃ。




 進む度に左右揺れる身体、時折落ちていく崩れた何か。




 ずりっ………べしゃ、ずりっ………べしゃ。




 酷く鼻に付く不快臭が、徐々に徐々にとぼくへと近付く。




 ──今、私めが“助けて”あげますね、坊っちゃん。




 “そこ”から聞こえてくる、知った声。




 ──大丈夫です、もう安心なさって。

 ──私めが貴方様をお救い致しましょう。




 その時、伸ばされたのは腕だったのだろうか。

 ぼとりと音を立て、足下に落ちる。

 それは何かと視線を向ければ、あるのは泥のような爛れた屑。


 見開いた、視線の先。

 ぼくがそこで見たのは、爺やではない。




 爺やの声を響かせる、原形留めぬ腐肉の塊。




 固まる身体、動かぬ足。

 思考が止まって、逃げられない。

 爺やの声が失せた代わりに、今度はそこから幼い少女の声が聞こえてきた。




 ──代わりに、そのキレイなあなたの身体。一つ、私にくださいな──?




 そして、覆い被さっていく肉塊の波。

 頭上覆い込んでいく、臭く醜い汚物の雪崩。


 それがぼくの身体に纏わり付こうと囲い出す、その寸前。

 突如辺りに響き出したのは、恐怖に染まったつんざく悲鳴。




 ──ヒギャアアアアアッッッ!!!!




 ぶわりと飛散し波が散る。

 崩れ落ちた肉の破片がそこら中にてのたうち回る。

 そこから凄まじい絶叫が哭き喚く中、ぼくの耳元でそっと囁いたのは小さな小さな鈴の音色。


 何処かで聞いた覚えのある響きだった。




 ──りん。




 それが一つ音を奏でれば、ふわりと頭から被せられる薄黒いヴェール。

 呆気に取られて動けないぼくは、あっという間にそれに包まれていき──。











『………残念でしたね。後一歩と言う所でしたのに。』




 響く声が囁く闇。

 皮肉を込めた、慰めの言葉。


 闇の中からは啜り泣く声。

 絶えず溢れる怨嗟の声。




 ──どうして! どうして、何でアイツが此処にいるの!!

 ──アイツさえいなければ後ちょっとだったのに、もうすぐこの手が届いたのに!

 ──アイツさえいなければ、もう、とっくに自由になれていたハズなのに……!!




『諦めなさい。貴女は此処から出られない、出る事は赦されない。ひとり罰を逃れた貴女は、二度と贖罪の機会すら与えられない。この深く暗い地の底で、赦しを得るまで囚われのまま。』




 ──煩いッ! 黙れッ!! 本当、アンタって目障りな子!!

 ──いつもいつも邪魔をしやがってッ……!

 ──アンタなんか、生む創るんじゃなかった!!




 絶えず浴びせられる怒涛の罵声。

 その矛先を向けられた者は、欠片も気にせず涼しげな顔のまま。

 毅然とした態度のまま、うねる身体でとぐろ巻く。




『私は貴女にこの身を創って頂いた事に、心から感謝しておりますよ。何せ、お陰様で良き出逢いに恵まれたのです。貴女には感謝してもし切れないくらいですとも。』




 弾む声音でそう言ってみせれば、喚く声がよりけたたましくなる。

 汚ならしく冒涜的な言葉を撒き散らし、嫉妬に妬みにと形崩れた肉塊をのたうち回す。


 怒り、憎悪に半狂乱となったそれは、最早言語と言うに相応しからぬ言葉に満たない音を撒き散らして騒ぎに騒いで暴れ回った。

 始めはそれを静かに見下ろす別の何かが傍にいたけれども、いつしかそれも姿を消していた。

 やがて誰にも相手にされなくなるとそれは、闇の中、深くに沈んでいった。




 その混沌とした暗闇から助けを求める声には、誰の慈悲も無いままに。






 *****






「──し。」




 微睡む頭、閉じた眼。

 未だ覚醒には遠い意識。




し、し。そこなお客人。床でお眠りになられては、お身体を痛めてしまわれますよ。」




 寝惚け眼、船漕ぐ頭。

 やんわり揺さぶる誰かの声に、目覚めを促され次第に意識が浮上していく。


 身体を起こせど頭は朧気。

 眠気が覚めず頭はくらくら。

 右へ左へ回しながら、もごつく口がむにゃりと呻く。


 そこへ、くすくすと可笑しそうに笑う声がぼくの耳に入ってきた。


「確りなさって、目を覚ましてくださいな。」


 言われてぼくは「起きないといけないのか」とぼんやりとした頭に思い、欠伸を一つ噛み殺す。

 両の手を瞼に、こしこし拭って。

 頭を左右に、ふるりと一振り。

 おまけにパチパチ頬を叩いて。

 仕上げに一つ、吐息を溢す。


 目覚めのルーティングはこれにて完了。

 ぱちりと開く目、ようやっと覚醒。


「ああ、漸く、お目覚めになられたのですね。突然ここに飛び込んで来たものだから、一体何事かと──。」


 何処からか聞こえる声。

 改め見る視界、瞬き見る。




 そこはあらゆる物が溢れる場所。

 見たこともないものが並ぶ薄暗い部屋。


 そこにはそこら中の壁や部屋の縁に沿って、何かの道具らしくともイマイチ使い方にピンとこないような、そんな物が数多く無動作に陳列されていた。

 もう随分と長いこと動かされていないのか、それらは皆埃を被り、白く薄汚れてもいるようだ。


「ここは……?」


 辺りを見渡し、ぼくは呟く。

 すると直ぐ傍から何かの気配が。

 カタン、と響く物音に振り向き見れば、そこには波打つ長い長い髪が床にまで伝う、得も言われぬ美貌の人物がぼくを見下ろし佇んでいた。


 顔の横には線の細い華奢な手。

 爪先で掬い取った髪をそっとたくしあげ、それを横向きに長く伸びた尖った耳の裏へとかけようとしていた。

 微笑み湛えた美しい顔が、見下ろしたぼくと目が合った途端強張った。


 ぼくを見詰める宝石のような瞳が、一際丸く大きく見開かれて、じわりと目に浮く薄い水の膜。

 ぱくぱくと開閉させても声を出さない口は、やがてその人物自らの手に押さえられた。


 よろけるように数歩下がっていったかと思えば、布を巻いて身に纏ったような服の端を摘まみ上げ、軽く膝を折る。

 そうしてその人物はぼくに向かって、恭しげに頭を下げたのだった。




「ようこそ、“ゼノンの間”へ。彼方からのご来訪、心より歓迎致します。」




 そう言って、その人は顔を上げる。

 およそ自分と同じ人とは思い難い、完成された美しさのある美貌に麗しくも歓喜の笑みを浮かべて。




「再び貴方様と相見える事が叶い、私はとても嬉しゅうございます。“私共”は貴方様の──いえ、我が君のご帰還・・・を、ずっと、ずっと、心待ちにしておりました。」





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