-32 赤ずきん、オオカミさんにはご用心。

「ナイトくん!」


 ぼくは咄嗟に彼の元へと駆け寄った。

 倒れそうになる身体に肩を掴んで受け止めて「ナイトくん、しっかり!」と声をかける。

 幸い、意識が遠退きかけていた彼は直ぐに目を覚まし、ぼくを見上げるとまた笑みを浮かべた。

 弧を描くその唇はもうすっかり青く染まっていた。


「ごめんね、アーサー………ちょっとだけ、ちょっとだけで良いから……ぎゅーって、して欲しい、かも………。」


 そしたら元気出るから………と控えめに笑って言う彼。

 しかし、ぼくはそれに応じなかった。


「こんな時に何言ってるの! それくらい、後で幾らでもしてあげるから……先ずは何処かで休まないと……!」

「ううん、それだけで良い………それだけで良いの。お願い、だから……。」


 ナイトくんを休めるところへ連れていこうにも、ぼくには彼を持ち上げられるだけの力はない。

 ならばあの人を呼びに行くべきかと思い至り、立ち上がろうとするぼくだったが、そこへナイトくんが腕を掴んで止める。

 それからは「お願い」「それだけで良いから」と同じことを繰り返し一点張り。

 助けを呼びに行こうとするぼくをどうにか引き留めようとするのだった。


 本当に、意味が解らない。

 どうしたってこんな状況でハグなんかを求めるのか、ぼくには到底理解出来ない。

 だって彼は顔面蒼白で今にもまた倒れそうなのだ。

 そんなことをしてる場合ではないって言うのに……!


「だからそんなことっ………~~~っああもう! 解ったよ、やれば良いんでしょ! やれば!」


 結局、彼の要望を強くは振り切れず、最早自棄っぱちになりながらぼくはナイトくんの身体を抱き締めた。


 ……全く、こんなことをして何になるんだ。

 今にも死にそうな顔をして、やることがただ甘えたいだけ?

 そんなの、何の役にも立たないと言うのに……ああもう、儘ならないことばかり起きて、何だか苛々としてしまう。

 そうしてぼくは思うところは確かにあるけれども、求められるままに彼の首へと回した腕に少しずつ力を込めていった。


 するとどうだろう。

 血の気が引いて顔は真っ青、身体も酷く冷たくなっていた筈だと言うのに、ぼくの腕の中のナイトくんの身体が徐々に徐々にと温もりを帯び始めたのだ。

 最初は気のせいかと思っていたぼく。

 しかし抱き締めた際に彼の首筋に触れていたぼくの頬には、明らかにそこから血脈を感じさせる体温が伝わってくるようになって、驚いたぼくは思わず身体を離して彼を見た。


「まだだめー、もうちょっと欲しい。」


 今度はぼくの背中にナイトくんの腕が伸びてきて、強く引き戻されてしまう。

 その力が何とも強いこと、強いこと……。

 ぼくは抵抗出来ないくらいキツめな抱擁を受ける羽目となり、思わず口から「ぐえっ」と変な声が出た。


 これは、一体……どういう状況だってばよ……!?


 頭の中が疑問符で埋め尽くされる。

 訳もわからず、身動きも取れず、硬直せざるを得ないぼくにナイトくんがぐりぐりと自身の頭を擦り付けて甘えたり、頬擦りしたり。

 かと思えば今度はぼくの頭をくしゃくしゃになるまで撫で繰り回したりと、まるでぬいぐるみか何かを愛でるかの如きそれにぼくはただただ困惑するばかりで……………えっあれっ? 今、もしかして、頬にキスされた……!?


「ちょっ、ちょちょちょちょっと待って!? な、ナイトくん? 一体何を──!?」

「だいじょーぶ、だいじょーぶ。安心してー、何も悪いようにはしないからー。」


 動揺しきって慌てふためくぼくの言葉に、間の抜けた声が返ってくる。

 その声音はもう明らかに普段通りの彼の調子に戻っているようだ。

 それには思わず安堵しかけたぼくだったが、それにしてはどうも雲行きが怪しい………気がする。


 そんなことを考えていると、彼がぼくの方へと凭れかかって、それを支えきれなかったぼくの身体が呆気なく後ろへと倒れ込んでいった。


「いてっ!」


 ごちん! と小気味の良い音を立てて、ぼくの後頭部が地べたにぶつかる。

 その余りの痛さに、思わず「ふおおぉ…っ!」と変な声を出しながら悶絶してしまうぼく。

 けれども、とある事情にてぼくはその痛む頭を自らの手で擦ることは出来なかった。


 ぼくの両腕はいつの間にかナイトくんの手に掴まれていた。

 そして地べたにしっかりと貼り付けられている。

 仰向けに地べたに寝そべるぼくの上には、四つん這いになり覆い被さるナイトくんの姿がある訳で………。


 ………何だろう、この体制。

 良くわからないけど、何だか………“危ない”気が………。


「あ、あのぅ………ナイト、さん?」


 恐る恐るに彼へ声をかける。

 逆光で影に前髪にと隠れてしまっている彼の表情は真っ黒にしか見えず、かろうじて解る口元以外に判別が付かない。

 ただならぬ空気が互いの間に流れていることから、その状況がこれからどんなことに繋がるのかを知らないぼくに何とも言えない危機感を感じさせた。


 しかし、名前を呼んでもナイトくんは微動だにしない。

 反応がなくて「え? もしかして寝てる?」と思い掛けたその矢先、彼の口元が“にぃ…っ”と釣り上がった。


 思わずぼくの身体がびくりと震える。

 何だろう……今、ものすごい寒気が……。


「………アーサー………。」

「は、はひっ……!」


 不意に間近で名前を呼ばれ、吃驚したぼくはつい裏返った声で返事をする。


「アーサー…。」


 ぼくの返事に構わず、ナイトくんがもう一度ぼくの名を呼ぶ。

 ………いや、もう一度とは言わず、何回もだ。


「アーサー………アーサー………アーサーっ………!」

「な、何なんだよぅ、もおぉっ……!」


 何だか怖くなってきたぼくは最早涙目になりながらそう言った。

 しかし、それでも彼は一向にぼくと対話をしてくれる気配はない。

 何度も何度もぼくの名前を呼び続け、ぼくの手を拘束し掴む手にじわじわと力を込めて………。


「い、痛いっ……!」


 ギリギリと握り締められる手首に痛みが走る。

 痛いよ、離して、と訴えたい気持ちはあったのだが、様子のおかしいナイトくんを無闇矢鱈に刺激してしまう方がよっぽど今は恐ろしい。

 それでぼくは痛みにじんわりと目に涙を浮かばせ、ナイトくんを見上げていると、ずっとぼくの名前を呼んでばかりだったナイトくんの声がピタリと止んだ。

 そして今度は深く長い溜め息を吐き出したのだった。


「はあぁ、あ、あ………っ。」


 その長い吐息は何だか妙に……艶っぽいって言うのだろうか?

 そんな、熱を帯びているように思えた。

 それが何なのか、意味を知らないぼくは動きを封じられたままどうすることも出来ないで、ただ涙に潤んだ目を彼に向けていることくらいしか出来ない。


 すると、徐にナイトくんが顔を上げた。

 ゆっくり、ゆっくりと、ぼくの腹部から胸元、それから首筋を通って最後には互いの目を合わせるように。

 それは何だか目だけで身体中を舐め回されているかのような、思わず身体中鳥肌が立ってしまいそうなねっとりとした視線だ。

 ぼくは反射的に身体をふるりと震わせた。


 そして、そこでぼくはようやく彼の顔を拝むことが出来たのだ。

 彼は、彼の頬は風邪っぽく赤みを帯びていた。

 ぼくを映すその瞳には少しだけ水気を帯びて潤んでおり、さっきまで青くなっていた唇も、今じゃすっかりと血の気が通っているようだ。

 だけど、何故だかそれは小刻みに震えてもいるようだった。


「アー、サー。」


 一際小さく震えた声が、吐息混じりにぼくの名前をもう一度呼ぶ。


「触って、良い?」


 何処を?

 思わず胸の内で突っ込んでしまうぼく。

 それを口に出すまでの勇気は、残念ながらぼくには無い。


 そのまま硬直、どう答えたら良いのかわからず黙っていると、ナイトくんの目がスゥッと細められた。

 そしてゆっくり目を閉じていく彼が、そのままこちらへと倒れてきて………ん? いや、これは………迫って、きて………。


 ──えっ!?!?




「──おい、誰の許可を得て“それ”に触っている?」




 じわじわと近付いてくるナイトくんの顔面、横から伸びてきた手ががしりと鷲掴む。

 あのヒトだ。

 その声に直ぐ様正体に気付いたぼくは、すがるような思いで涙に潤んだ眼差しをそのヒトへと向けた。


 不意に現れた第三者からのその横槍は、何だか良くわからないけれどもかなり危機的状況であることを何となくに察していたぼくには非常に救いの手に思えてならなかった。

 だから身動きも取れず逃げ場を失っているぼくは、そのヒトへ「助けて!」と言いたかったのだけれども………。


「………ひっ!?」


 彼を見た時、ぼくは恐怖の余りに震え上がった。


 そこにあったのは鬼の形相だった。

 黒髪がぶわりと逆立って揺らめき、長い前髪に隠れてその隙間から見える瞼を伏せがちで常に睨んでいるかのようだった目がこれ以上なくカッと見開いていて、それがナイトくんへと刺すような視線を向けている。


 表情だけならば“無”や“静”と言い表すのが相応しいまでのものだと言うのに、そんな彼から醸し出される空気は最早一気触発、爆発寸前に思えてならない。

 少しでも選択肢を間違えれば今にも殺し掛かりそうな……そんな凄まじい怒りを感じ取ってしまった。

 そしてその視線だけで人を殺しかねない凄んだ眼差しは、真っ直ぐに引き釣った笑みを浮かべるナイトくんへと向けられていた。


 ナイトくんの顔面が持ち上げられいき、ぼくの拘束を外した彼の手が自身の横にて掌を広げて降伏を表した。


「一体、どういう、つもりだ? ええ?」

「え、えへへ………回復したから、折角だしこの機会にちょびっとだけ味見も、と思いまして………えへへへ……。」

「ほぉう……? 味見ねぇ……そうか、そうか…………。」


 味見って何!?

 思わず自分の身体を抱き身震いするぼく。

 何が何だかわからないけど……もしかしてぼく、食べられ・・・・そうだった……!?


 一体何をするつもりだったのか、味見とは何なのか、とても知りたいし問い質したい気持ちは物凄くある。

 しかし今は怒り心頭らしきあのヒトの、嫌にゆったりとした地の底から響かせるような口調がぼくの恐怖心を煽ってきて、正直それどころじゃない。

 見ればナイトくんの額にまで冷や汗らしき雫が浮かび、手で覆い被せるように掴まれた顔からミシミシッ…と軋む音が聞こえてきたような気がした。

 ………なんか、凄く痛そうな音がしているけど、大丈夫なんだろうか?

 そんなことを思っていると、ニコニコと笑って誤魔化そうとしていたナイトくんが途端表情を崩し「あ゛ーーっ!!」と悲鳴を上げた。


「痛い痛い痛ーーいーーっ!! うわーーん! ごめんなさーーいーーー!!」


 ……思った通り、全然大丈夫ではなさそうだ。

 むしろ余程の激痛が走っているらしく、顔面を鷲掴まれたナイトくんが手足をばたつかせて泣き喚く。


「良い加減、僕が離れる度に手を出そうとするのを止めろッこの見境無しがッ………!!」

「わかった! わかったからぁ! ちゃんと言うこと聞くからっ許してぇええっひいゃぁああぁあっ!!」


 ナイトくんが許しを乞い、あのヒトが折檻する。

 そうして彼ら二人はやいのやいの騒ぎに騒ぎ、ようやっと解放されたぼくはと言うと、その巻き添えを喰らわぬよう、そっとその場を離れていった。




 何とか、あの意味不明な状況から脱することが出来たようだ。

 ぼくは思わず安堵の息を吐く。

 ホッと胸を撫で下ろして、それからひりつく手首を擦り視線を落とす。


「………うわ、痣が出来てる。」


 見れば、ピリピリとした熱を孕む痛みを起こす手首にはくっきりと、手形の青黒い模様が出来ていた。

 思えば確かに、ナイトくんに掴まれている時とて結構痛くって「これ、折れてしまうのでは?」と感じることもあったような。

 だって、抑え込む手を振り払って逃げ出そうとしたところで、その力強さからこれっぽっちもびくともしなかったくらいだ。

 ナイトくんって案外力が強かったんだなぁ、なんて呑気に考えながら、ぼくはその痣を擦って痛みを誤魔化した。


「(そういえば………ナイトくんとあのヒトってどういう関係なんだろう?)」


 ふと、騒ぐ彼らを眺めてそんなことを思う。


 ぼくと同じ年代らしきナイトくん。

 ぼくから見れば大人でも、町で見かける大人達と比べれば特に若々しく、子供として見るには些か大きな彼。


「(うーん………思うに17とか、それくらいなのかな?)」


 ふむ、と親指の腹で顎を撫でて首を傾げる。

 随分と慣れた様子からして、きっと長い付き合いだとは思うのだけれども……友人と言うには些か疑わしいような……。

 ………もしかして親子だとか?


「(……と考えるには年が余り離れていなさそうだし、流石にそれはないか。)」


 有り得ない考えを振り払い、一息吐く。

 はてさて、親子でなくて友人と言った関係でないとするならば、後は………。


「(………兄弟?)」

「違う。」


 突然、背後からの声。

 ぼくの身体がびくぅっと跳ね飛んだ。


「うわあっ!? いっいいいつから、そこにっ……!?」

「今。」


 驚いて振り返れば、そこにいたのはあのヒトだ。

 すんとした無表情で目付きの悪い黒い目にぼくを映して、静かにこちらを見下ろしていた。

 


「……あ、な、ナイトくんは………?」


 そう言えば、彼が身体を少し横にずらしてその後ろ、少し離れた先にて頭を抱えてもんどり打っているあの子の姿が見えてくる。

 物凄く、痛そうに悶えていた……。


「(ご、ご愁傷様デス……。)」

「手。」

「えっ?」

「手。」

「あ、は、はい。」


 ナイトくんの悲惨な姿に遠い目を浮かべていたぼくに、そんなことはどうでも良いとばかりに彼が短的に要件を言う。

 え? 何、手? と一瞬何のことかと思ったけれども、直ぐにぼくは「手を差し出せ」と言っているのだと気付く。

 それでぼくは理由は解らずとも、求められた通りに両手を差し出した。

 すると彼は差し出したぼくの掌の下に右手を添えて、もう片方である左手で何やら小さくてコロコロとした何かをそっと置いたのだった。


「これは……硝子玉?」

「違う、飴。」

「飴?」


 言われて、改めて見てみる。

 掌の上にあるのは何やら包み紙でくるまれたもの。

 広げてみると、中から出てきたのは透き通った琥珀色の小さな欠片だ。

 それを見たぼくは思わず目を大きく見開いた。


「黄金糖だ!」


 つい嬉々とした声がぼくの口から零れる。

 それはぼくにとってとても見慣れたもの……と言うより、好物だったからだ。 

 摘まみあげたそれを光に当てて瞳をキラキラと輝かせながら眺めていたら、向かいの彼がコクリと頷いた。


「食べて。」

「良いの?」

「ん。」


 食べて良し。

 そう言われてパアッとぼくの顔が明るむ。

 そして摘まんでいたそれを躊躇無くぱくっと口に放り込んだ。


 ころりと舌の上を転がせば、濃厚な甘みがじわりと広がる。

 軽く歯を立てて噛めばカロンと小気味の良い音が響き渡る。

 口一杯に蜂蜜のようにまったりとした味が舌の上を踊り、思わずぼくの頬が緩んでいく。


「おいひい………爺やと一緒に食べたのと同じ味だ。」


 久し振りの甘露に舌鼓を打ち、ふにゃりと笑みを浮かべた頬を両手で包む。

 美味しいものを食せる嬉しさが胸一杯に広がる中、細めたその目にはうっすらと涙が。


 かつての暮らしを彷彿させるこの黄金糖。

 これを良く好み食していたのは自分ではなく、他でもない、大好きな召使の爺やだった。


 勉強を頑張った時や、片腕しかない爺やのお手伝いをした時はご褒美に。

 落ち込んだ時や、悲しいことがあった時は励ましに。

 叱られて不貞腐れた時、喧嘩をした時には仲直りの為に……。

 事ある毎に理由を付けて、二人で一緒に食べていたのだから。




『ねぇ、爺や。どうして爺やは、この飴をぼくにくれるの?』

『それは、坊っちゃんに元気を出して欲しいからですよ。』

『じゃあ、爺や。どうして爺やがくれるものは、おやつ時でもないのにいつも甘いものなの?』

『それは、甘味と言うのは時に活力となり、沈んだ気持ちを持ち直してくれるからです。甘いものを食べると、元気が湧いてくるでしょう?』

『……そうだね。確かに、爺やの言う通りだ。』

『ええ、そうでしょうとも。私めがそうなのです。貴方様もきっとそうだと思っていましたから。』

『なら、爺や。』

『はい、何で御座いましょう?』

『爺やはどうして■■■■■■■■■■■?』




 ……そんなぼくの問い掛けに、爺やの褪せた赤色──薄紅色の瞳が見開かれたのを覚えている。

 揺れる視線、困ったように薄く笑み、それから「ええと」「そのぅ…」と歯切れの悪い言葉を溢し、段々頭を項垂れさせていく爺やの姿。


 あの時、ぼくは一体何を訪ねたんだっけ?

 ………わからない、思い出せない。

 頭の中の記憶の本棚が、崩れて落ちて目茶苦茶になっている。

 だから、何処に何があるのか解らない。

 思い出そうにも………引っ張り出せない。


 ………それでもただ一つ。

 たった一つだけ、ぼくが覚えていることがあった。

 それは、あの時のぼくは──。




『………ああ、駄目ですね。甘いものを食べると口が緩んでしまう。これだけは言わずにいようと思っていましたのに。』




 そう言って、恥ずかしそうに苦笑する爺やはぼくの頭を撫でてくれた。

 何てことの無い質問。

 何てことの無い理由。

 ただ何と無くに知りたかっただけのぼくの言葉言の刃は、爺やがひっそりと隠していた腹の内本音をいとも簡単に暴いてみせたのだ。




 ……懐かしい記憶、懐かしい想い出だ。

 さして何年も経っている訳でもないのに、こうも懐かしく感じてしまうのはどうしてだろう?


 その理由は、今こうして再び食す機会を得るまで、この想い出のキャンディの味を忘れかけていたからだ。

 なのに、こうしてまた食べることが出来るなんて、この味を思い出すことが出来るなんて………。

 そう思うとぼくは何とも感慨深く、そして涙腺を熱くしてしまうのだった。


「黄金糖、爺やが好きだったんだ……これを食べる時、いつも二人で隠れて食べてたの。どうして今まで忘れちゃってたんだろう……。」


 コロコロと口の中で飴を転がして、しんみりとした気持ちを胸にぼくは言う。

 口内の小さな甘い欠片は舐めている内により段々と小さくなっていく。

 やがて溶けて何も無くなってしまったそこには甘い甘い味だけが舌の上に残り、記憶だけが脳裏に残る。

 名残惜しさにその余韻すらもじっくりと堪能し、いつしか口の中残っていた味すらも無くなってから、そこでようやくぼくはゆっくりと瞼を持ち上げた。

 目尻に浮かんでいた少々の涙を拭い取り、重々しくじめっとした感情ばかりが湧き起こっていたのが無くなり胸がすく。

 何だか気持ちが軽くなったことでぼくは顔を上げると、その清々しさからかぼくの表情には自然と笑みが浮かんでいた。


「ありがとう、とても美味しかった。何だか良い夢でも見たような気分になる素敵な味だったよ。一体これを何処で手に入れ、て…………あれっ?」


 ふと、気付けば目の前にいた筈の彼の姿が忽然と消えていた。

 あれ? 一体何処に? と周りを見渡してみれば、彼はいつの間にやらナイトくんの傍にいた。

 い、いつの間にあっちへ……?


「いつまで遊んでいるんだ。さっさと仕事をこなせ。」


 痛みに悶絶し寝転がっていたナイトくんを、彼が蹴飛ばして起床を促す。

 コロンと転がって仰向けにされたナイトくんが小さく呻く。

 そんな光景に、ぼくの折角の清々しい気分はぶち壊れ。


 甘味を餌に絆され掛けていたぼくは、一瞬“良い人”と思い掛けていた彼への好感度を一気に元の下限値へと引き戻したのだった。


 ………え? そもそも甘いもので簡単に釣られるなって?

 甘くて魅力的なエサと言うのは、誰しも弱いのは当然のこと。

 それもお菓子が好きな“お年頃お子様”ならば……尚更だ。

 


 もぞもぞ身体を捩り、億劫そうながらも起き上がった彼が「仕方ないなぁ」と呟いて再び右手を天へと翳す。


 すると辺りを明確にさせていた光がナイトくんの頭上からゆっくりと降下してくるのが見えてきた。

 ナイトくんに近付く程見える視界が徐々に狭まっていき、当然離れたぼくの周りも真っ暗となり掛けていく。

 ぼくは背後から暗がりが迫って来るのを見て、慌てて彼らの傍へと駆け寄っていった。


 その最中にも、ナイトくんの掌の上にあの光輝く球が収まっていく。

 先程までは目が眩む程眩しかったそれは、蝋燭の灯火程度にまで落ち着いた。

 今では直接見たところで何ともないくらいともなっていた。

 依然、それはただの光る玉にしか見えないけれども………そう言えばさっき、“鍵”がどうとかって言ってたっけ?


 ぼくは「これが“鍵”……?」と光球を眺めて一人訝しげな顔を浮かべた。

 すると掌を胸の前へと下ろしていき、合わせた両掌を椀の形にしてその光球を眺めていたナイトくんが首を傾げたのだ。

 「あれー?」「おかしいなぁ」と困惑の声を溢し始めたナイトくんに、黒目の彼が訊ねた。


「どうした?」

「うーん………どうもねー、“鍵”がオレのこと誰かわかってないみたい?」


 聞けば、その“鍵”と言うのは決まった持ち主以外には姿を現すことがなく、利用出来ないものなのだとか。

 ナイトくんはその持ち主である筈なのに“鍵”にはそれが解らず、そこに出現こそしていても実体が現れてくれない……とのこと。


 ……実体? 出現? 現れない??

 意味不明な単語ばなりが並ぶ説明に、ぼくは付いていけずポカンと呆ける。

 しかし、脳裏に疑問符ばかり浮かべるぼくの隣で、黒目の彼が疲れたように息を吐いて肩を竦めた。


「………やっぱりか。そこまで“大元オリジナル”から掛け離れているんだ。“別者べつもの”と判断されるのも無理もない。」


 大元……別者………??

 ぼく一人だけが理解の出来ない会話が目の前の二人の間で続く。

 彼らは一体、何の話をしているのだろう?


「“鍵”を顕現させるまでは出来ているんだ。一時的にでもソレにお前を主人だと覚えさせる方法くらいある筈……どうせお前の事だ、その程度の知識くらいなら当然持ち合わせているんだろう?」

「んー? ………あー、そうだね。そのくらいなら、まぁ。」

「……兎に角、今は開ける事だけ優先しろ。お前を大元と一致させるのは後回しだ。」

「はぁい、りょーかーい。んじゃ早速、パパッと終わらしちゃおー。」


 彼からの指示にナイトくんが元気良く手を挙げる。

 何が何やら解らないが、どうやら話が解る二人の間だけで決着が付いたらしい。


 依然何も説明がないままで終始訳が解らず大人しくする他ないぼくをそのままに、掌の椀の上に光球を浮かせたナイトくんが目を閉じた。


 二人が会話を終えると途端に耳に響くような静寂が辺りを占める。

 風の音も、町から聞こえてくる筈の雑踏も、鳥や虫の生き物の声すらも何もない静けさの中、唯一聞こえてくるのは三人分の息遣い。

 余りにも静か過ぎて最早心音すらも届きそうに感じる程の静寂の中、ゆっくりと口を開いたナイトくんが再び呪文のような言葉を紡ぎ始めるのだった。




「“光り輝く黄金こがね色の鍵よ”

 “虹の麓へと導きし燦然たる羅針よ”

 “汝の主たる祖に連ならん我が声、我が命に応え”

 “その真なる姿を現し給へたまえ──”」




 するとナイトくんのその言葉に反応してか、あの光球の様子が変わり始めた。


 輪郭のない明々とした光から綿毛のような粒が一つ零れた。

 それは緩やかな速度で、そして一つと言わず二つ、三つ……と数を増やしながら光球を離れて傍を漂い始めたのだ。

 零れ落ちたそれもまた、小さくもやっぱり光る球のようだ。

 元の光球と比べほんのささやかな淡い光を放つそれが幾つも辺りで浮かび上がり、それが何通りもの色を放ちそこらを巡って……。

 それはそれは、何とも幻想的な景色を作り出していったのだ。


 ふわり、ふわり。

 ぽたり、ぽたり。

 滲むように離れていく仄かな光がほんのりとぼくらを照らす。

 何て綺麗な光なんだろう。

 口は開きっぱで目を丸くして、光の粒達を眺めるぼくの瞳が感動に輝く。


 それからも単純な丸い形をなしていた光球は、尚もどんどんと自らを分離させ続ける。

 やがて歪さを兼ね備えた渦巻く、蔦状の形へ変貌していった。

 幾つかの蔦が絡み合うようにうねり、捻り、そしてやがて花が咲く様にふわりと先端から開花したのだ。

 まるで閉じていたものが開かれるように、隠っていたものが現れるかのように、それはナイトくんの言葉を待っているかのように掌の上で咲き誇っていた。


「“汝の新たなる主の名を此処に刻もう”

 “我こそは第一にして第二の【金の鍵】の所有者たる者”

 “名を──【グリム】”」


 ナイトくんがそれを静かに見下ろす。

 そして仕上げとばかりに息を吸い込み、真っ直ぐにそれを見遣って口を開いた。




「“グリムテール・ナイトメィア・ウェイトリー”」




 光が呼応する。

 螺旋がうねる。

 複雑さを増した光の蔦がよりもっとと絡み合っていき、形容しがたい形から明確な意味を持った姿へと変わっていく。




 そしてぼくらの前に姿を現したのは、蔦を絡み合わせて出来た“鍵”だった。

 光り輝く身体は黄金、滑らかに絡み合う様は草木の如く瑞々しい。

 それは鉱物のような光沢を見せていたものだから、恐らく植物を模した細工なのだろうとぼくは思った。

 しかし、次の瞬間には無機物に思えたものから何処か脈動のようなものを感じた気がした。

 ………これはもしかして、生きているのだろうか?

 そう思った瞬間、やはりこれは複雑な造形で形創られた工芸物なのだと思うのだった。


 そんな、不思議な雰囲気を纏った“鍵”だった。

 そんな、不可解に形を持たせた“何か”だった。

 ……と言うよりも、彼らが何度もそれを“鍵”と言うものだから、自然とぼくまでもがそれを“鍵”だと思ってしまっていたのだった。




「ああ、久しぶりのオレの鍵だ!」


 絡み合った蔦で出来た金色の鍵を掴み取ったナイトくんがそう叫んだ。


「こうして見るのは何十年ぶりなんだろう……! ………うん……うん、そうそうこの感じ、ああ~手に馴染むぅ~っ! やっぱ、オレと言ったらこれがないとしっくり来ないよねぇ!」


 その愛おしそうに頬擦っている姿から、それは余程大事なもののようで、手にしたナイトくんはとても嬉しそうだった。

 宝物を愛でるように頬擦ったり口付けたり、そんなナイトくんの無邪気な様は見ていてとても微笑ましいものなのだが………うーん、どうにも何だかあの光景には既視感があるような………?


「………って言うか、何十年ぶりって?」

「んー?」

「ずっとぼくと同じくらいだと思っていたんだけど、違うの?」


 ぼくは思わず聞き返した。

 彼のあの言い方ではまるで既にもう何十年と生きているかのようだったのだ。

 それを聞き流すに聞き流せなかったぼくは、そのどうしても拭い取れないあの言葉からの違和感に、殆ど衝動的にナイトくんへとその心意を問い質してみるのだった。


 突然ぼくが声を上げたことでナイトくんは驚き、キョトンと呆けていた。

 形の良いぱっちりとした目をぱちくりとさせて、その透き通るような色の瞳にぼくの姿を映す。

 しかし少し間を置いてナイトくんの目がすぅっと細められた。

 かと思えば形の良い唇を歪めて弧を描き、にぃっこりとした笑みをぼくへと向けたのだった。


「………いくつだと思う?」


 こてん、と首が傾けられる。

 その妖しい笑みを浮かべる彼からは、いつもの無邪気なナイトくんと同一人物だとは思えないような奇妙な雰囲気を醸し出していた。

 ぼくは思わず言葉を失い、ごくりと息を呑み込む。

 何か答えるべきかと悩むぼくだが、その眼差しからは何だか考えていることを見透かされているかのようなものを感じてしまうのだ。


 脳裏に幾つもの選択肢が浮かぶ。

 在り来たりな数字の羅列、極普通でしかない回答。

 たったそれだけを答えるだけで済む話だ。

 だと言うのに、今それを聞いてしまったらぼくのナイトくんを見る目が変わってしまいそうな気がして………何だか気が引けた。


「………やっぱ良い。聞かなかったことにして。」

「そーお? キミがそう言うなら~そうしよっかぁ。」


 視線を外してそっぽを向くぼくに、ナイトくんが気の抜けるような声音でそう言った。


「それじゃーぁ、折角鍵も戻ってきたコトだし………行こっか!」


 パッと明るい笑みを浮かべたナイトくんがそう言って、たたたーっと軽やかな足取りで扉へと向かっていく。

 ぼくと黒目の彼もそれに付いていき、扉を前にしたナイトくんの後ろに立つ。

 そこで鍵をその扉へと差し向けたナイトくんが鍵穴の中へと挿入しようとした時、ぼくはあることに気付いてしまったのだ。


「ねぇ、ナイトくん。」

「んー? なぁに、アーサー?」

「それ、鍵と鍵穴の形が違うよ。それじゃあ噛み合わなくて開けられないよ。」


 ナイトくんが鍵を差し込もうとしているそこは、平べったくて先端が角張った波状の形をした鍵を使って開けるもののようで、細く縦長の穴だった。

 しかしナイトくんが手にした金色の鍵は、所謂クラシック調の丸い筒状からその先端に出っ張りを作った、至ってシンプルな形をしている。

 穴と鍵、それらは並べて見ずとも解る程に大きさも形も丸っきり違っていたのだ。

 試すまでもなく、食い違うことは明らかだった。


 それはきっとナイトくんにも解っている筈だと思うのに、構わず決行しようとする様子を不思議に思いつつ、ぼくは親切心から彼にそれを伝えたのだった。

 なのに、ナイトくんはからりと笑って首を横に振ったのだ。


「まぁ見てなって。」


 そう言ったナイトくんは真っ直ぐに穴の中へと鍵を差し込んだ。




 ぼくは鍵が鍵穴の端にぶつかる“かつん”と言った固い音が響くだろうと思っていた。


 ──音は鳴らなかった。


 ぼくは鍵は鍵穴に侵入することなく、扉が開かれることはないだろうと思っていた。


 ──鍵の先端が穴の中へと姿を隠した。


 ぼくは今日の出来事が全て本当は夢の中の出来事であって、この信じがたい光景に今もぼくは夢を見ているのでは? と目を疑った。


 ──頬をつねると確かな痛みがそこにあった。




 その鍵穴はナイトくんの鍵を易々と受け入れた。

 それは“突き抜けた”と言うよりも“沈み込んだ”とでも表現すべきなのだろうか。

 鍵を差し込んだその鍵穴からは、光の水面が絶えず波打ち、その波紋の円がゆっくりと扉を囲い込んでいく。

 やがて何重にも揺らぎ現れたその波紋達は消え失せるのではなく、その場に留まったかとも思えば大きな円と小さな円の間に同じく輝く光の点が幾つも滲み、また浮かび上がってきたのだ。

 それらはゆっくりと同じ方向へと回り始めた。


 うねうね、ぐねぐねとまるで迷子のように右往左往。

 同じ向きに進んでいくと、それらは複雑な紋様を描き円の中を飾り立てていった。

 やがてぼくは、それが何かの“文字”を書き綴っているのだと気が付く。

 ただその“文字”は余りにも複雑怪奇な形をしていて、ぼくに解読は出来ない。

 そして、その最中にも円の中心には幾つもの三角が重ねられた星の模様が浮かび上がり、その光る図形の絵により複雑さを増していっていったのだった。


 いつしか、先程までそこにあった筈の長方形の扉は姿を消していた。

 代わりにあるのは、寸分違わず滑らかな円をかたちどった見上げる程に大きな扉が一つ。


 ナイトくんはその鍵穴に差し込んでいた金の鍵を、躊躇なくぐるんと捻る。

 同時に“ガチャン”と重々しい金物の音が辺りに響き渡っていった。

 すると、金物と金物が擦れて響くような“ギギ……ギギギ……”と言った音が扉から鳴り、真ん中が割けてゆっくりと開かれた。




 その奥から姿を現したのは………混沌としたうねりが渦巻く、黒く輝く禍々しい何か。

 液状と固形の中間とも言えそうな、固さと柔らかさを兼ね備えた流動する物体。

 それが何度も水面を波打たせ、ぐねり、絶えず粘った水音を響かせていた。


 何だこれは。


 理解の及ばぬ物体を前に、ぼくは困惑と混乱に思考が停止する。


 何なんだ、これは。


 得体の知れない存在を前に、脳が理解を拒否して動けない。

 なのに、無意識下でそれが何なのか解明しようとしてしまって、視線だけがそこから外せない。


 ゼリーのような、液体のようなそれは、絶えず発光し輝いているように思えた。

 その輝きは実に不可解なもので、黒色と言う辺りを明るくさせるには不向きな色を光として、明らかに生じさせていたのだ。

 それは眩しさを感じることはなく、視界を阻むこともなく。

 ただ明白さのみを生んで、照らしたものを須く白日の下に晒す。

 黒い光は否応なしに、周囲一帯見えるもの全てを見る者に許容させていたのだった。


 そして漆黒のようにも見えるそれは、一目見れば誰もがただの黒一色と判断しそう捉えてしまうだろう。

 しかし、それでも良く良く見てみれば、どうやらそれは奥を見渡すことが出来る程にとても澄んだ色をしていることに、やがて気付かされる。


 何故、それは良く良く見なければ解らなかったのか。

 理由は単純だ。

 黒一色に塗りたくられたその表面では、ひっきりなしに水面が蠢いており、うねり、捩り、波打っていた。

 その時に垣間見える光の反射によって中身が隠されてしまい、よぉく目を凝らしながら注意して見ないと、わかり辛い程にとても見にくいものとなっていたのだ。


 さながら、かき混ぜられているような渦を巻く水面は、今にもこちらへと流れ出してしまいそうだ。

 けれどもそれは扉を境にこちら側へと流れてくることはないらしい。

 時折、びちゃり、と気色の悪い音を響かせて、横向きに跳ね上がってくることがある程度で、それが此方へと雪崩れ込んで来ることはなかった。


 ……ただ、その水面から延びたそれは単なる水滴が跳ねて生じた水柱と思うには、何処か長い管のように見えた気がした。

 真っ直ぐ跳ねて延びたそれが引き戻されていく姿が、どうにもこちらに目掛けて手を伸ばしているかのように、ぼくには感じてしまったのだ。


 それにしたって余りにも非現実的過ぎる光景に、ぼくは“ただの気のせい”だとその思考を振り払う。

 しかし脳裏にこびりついて離れないあの水柱が伸びてくる様は、どうしたって自然に生じたものとは思い難い。

 考えれば考える程に、そこに何かの意思のようなもの垣間見たような気がしてしまうのだった。


 ずるっ………びちゃ、ずるっ………びちゃ。


 何かが這い摺る音が鼓膜を揺さぶる。

 粘着質なその音は、耳にするだけでも身体中の肌を粟立てて不快感を生む。


 自身の持ち得る知識の中、あらゆるものに該当させることの出来ないその何か。

 それを食い入るように見上げていたぼくの頭の中では、頻りに本能が理解してはいけない考えてはいけないと警告していた。

 なのに止めどない探求心は絶えずぼくの思考を巡らせて、それが何なのかと言う問いに答えを見出だそうと、その場に足止めてしまう。




 そして、やがてぼくは気付くのだ。

 目の前にしたそれは、この世界のものではないのだと。


 ぼくは気付いてしまうのだ。

 あの扉を境に見えているそれは、この世界ではない別の場所にあるのだと。

 ぼくが見ていたそれもまた、向こう側からずっとぼくを見据えていたのだと。




 扉は今正に開けられた。

 気付かぬ内に、自分はそこに招かれていたのだ。

 進まなくてはいけない道の先に、それはあった。

 ぼくはその扉を前に、ただ茫然と立ち尽くしてしまった。


 そんなぼくに、くるりと踊るように振り返ったナイトくんが言う。


「さぁ行こう、アーサー! この先にはキミの望むモノが待っている!」


 あの扉を背にした彼は両腕を大きく広げ、何て事もないように無邪気に笑っていた。


「ぼくの……望むモノ?」

「そうさ! キミはその為にココまで来たんだろう? だって、キミの望み願いは──」




 ──“失ったものを取り戻す”こと。




 ナイトくんのその言葉に、ぼくはハッとする。


 そうだ、ぼくはその為にここまで来た。

 ぼくには追い求めるものがあったからこそ、残りの持ち得るものを全てなげうって、あの時のぼくはあのヒトの手を取ったのだ。






 *****









『──いつか、この時が来ることを待ち望んでいた“自分”がいた。』




 真っ赤な視界、濡れた世界。

 幾つもの水溜まりが地べたを塗りたくり、鏡貼って映るその上でぼくはそのヒトと出逢った。




『──いつか、この時が来なければ良いのにと拒む“自分”がいた。』




 頬を塗らすのは涙か雨か、それとも別の何かか。

 変わり果てた自分の世界に、ぼくは茫然自失としてへたり込んでいた。

 前を映しているようで何も見ていない、脱け殻のような虚ろな瞳にぼくはそのヒトを知覚した。




『けど、もう、塞は投げられた……投げられてしまったんだ。ならばもう“いつも通り”の時間は二度と戻ってくる事はないだろう。………君は誤ってはいけない選択肢をたがえてしまったのだから。』




 そのヒトは酷く濡れていた。

 頭の天辺から足の爪先まで、傷は一つもなく。

 古びて欠けた剣を片手に、喜怒哀楽を揺るがすことなく淡々と。

 目が痛くなるくらいの真っ赤な鮮血を浴びて、彼は静かにぼくの前で佇んでいた。




『………選べ、自らの意思で。此処で一人虚無の時を過ごすか、此処を立ち去るか。この先は君が出す答えで全てが決まる。後戻りは許されない。』




 剣を一振り、着いた血を払い落とす。

 そしてその切っ先を互いの間、縦に立て掛けて地に突き刺し、重ねた両掌を柄頭に置いた。

 長い前髪に隠された真っ黒な瞳は、真っ直ぐにぼくへと向いていた。




『此処で立ち止まる事を選ぶのならば、慈悲として今此処で僕がその引導を渡そう。……何、今更足を止めてしまうのとさして変わらない。痛みも苦しみもなく、言葉通り直ぐ楽にしてあげよう。』




 そう言いながら粛々と佇む不動の彼。

 その彼の手にある血濡れの剣が鈍い光を反射する。

 剣身を鏡のようにして見えてくるのは、泣き腫らした顔に全身の至る所に血を浴びた、憐れなぼくの姿だった。


 変わり果ててしまったぼくの姿は、身に付けた服や栗色の髪はすっかりと草臥れている。

 最早、どう見たってみすぼらしいとしか言えない有り様だ。




『先を行く事を選ぶのならば、僕がその指針となり道を作ろう。君に立ちはだかる害意は悉く葬り、守ってみせよう。どんな悪意が君に降り掛かろうとも、この僕が傷一つ負わさせない。』




 彼のその言葉を受けて、ぼくは目尻に熱いものが汲み上がるのを感じた。




 立ち止まるなら死を。

 進むなら故郷を捨てろ。


 彼はぼくに、そんな二つの選択肢を与えたのだった。




 ぼくは変化を拒み続けてきた。

 “いつも通り”の生活を望み、平穏を求めた。


 変わらない毎日は心を安らいでくれる。

 先の見える暮らしは、ぼくに不安を覚えさせることはなかった。


 朝起きて、夜に眠る。

 傍にいて安心出来る人と同じ時を過ごし、ありきたりな今日が訪れることに苦を感じることはない。

 来る明日を憂うことなんて、一度たりともなかったのだ。

 たまには夜更かしなんかしてみたり、暗闇の中夜空を見上げて星を眺める……そんな一時にだって、ぼくには何も恐れるものはなかった。

 

 そんな満ち足りた生活だった。

 そんなぼくの平穏な世界だった。

 それがもう続かなくなる日が来るなんて、そんなの考えたこともなかった。


 全て、全て、この掌から零れ落ちて、残ったのは一体なんだろう?

 ………何も、ない。

 ぼくには何も残されていなかった。




 散々泣き尽くしてもう枯れ果てたと思っていた涙が滲み出てくる。

 渇いた視界を潤んでいく。

 ひぐ、と喉が震えて鳴いて、すがり所のない手が自らの服を握り締めた。




『………けて…。』




 か細い声が呟く。




『……たす、けて…。』




 枯れた声が助けを乞う。




『ひとりは、いやだ………ひとりぼっちはもう、やだよう……っ!』




 ポロポロ、目から大粒の涙が溢れ出す。

 ボロボロ、胸の奥押し留めていたものが決壊し崩れていく。




『……ならばこの手を取れ。足を止めるな。前だけを見ろ。そこには苦も哀も変わらず先にも無くなる事はないが………それでも、向かう先にはそれしかないとは限らないのだから。』




 そこに意味を見出だせ。

 自らの手で答えを得てみせろ。

 彼はぼくにそう言った。


 あの頃のぼくにはその意味が解らず、そして今のぼくにもまだその答えを得ていない。

 彼がどうしてぼくに手を差しのべたのかだって、彼と上手く話すことの出来ないぼくにはその心意を知らずにいる。

 けれども進んでいくその先に、ぼくが本当に求めているものがあるのなら。

 全てを無くし失って、それでも諦められずにいたものがそこにあるとするのならば……!




『行く……行くよ、何処にでも! だからっ………だから置いていかないで、ぼくを独りにしないでっ……!!』

『…承知した。』




 ぼくはすがった。

 形振り構わず助けを求めた。

 目の前にいるそれが何者かなんて考える余裕もないままに、ただただ一人になることばかりを恐れてその手にすがり付いた。

 重ね合わせた互いの手は、血に泥にと汚れて濡れて少し冷たい。


 彼に腕を引かれて立ち上がるぼく。

 そしてぼくの前に膝を付いて、恭しく頭を垂れた彼が顔を伏せる。

 その姿はまるで王様を前にした騎士のようだった。

 ぼくの目の前で跪いた彼は、やがて静かに言葉を紡ぎ始めた。




『……嘗ての“約束”を此処で果たそう。これより先、僕は僕の手を取った君の為だけに、持てる力の全てを振るおう。如何なる困難が待ち構えようとも、主に忠実なる番犬として何よりも君に尽くし、守護しよう。』




 淡々としたテノールがささやかに、それでいてはっきりと耳に響いてくる。

 持ち上げた頭、こちらへ視線を向けた黒の瞳が、涙に濡れた目を瞬かせるぼくの姿をくっきりと映し現していた。






『果たすべき誓いもない今の僕には、最早しがらみはないにも等しい。故に、躊躇う理由だってある筈がない。………ならば、今手を取った引き抜かれたこの瞬間から、僕は紛れもなく君だけの──貴方の為だけに在る“剣”だ。』






 そうしてぼくは何も知らないままに、そのヒトと“契約”をした。


 それがどんな意味を持つのか、わからない。

 どうして彼がそれを求めたのかも、ぼくにはわからない。


 けれども、一つだけ確かな事がある。




 ぼくはその時から、彼から離れられなくなっていた。

 手離せなくなっていたのだ。

 それがどうしてなのか、自分でもわからない。


 でも、多分だけど、それに理由があるとするのならば、それはきっとぼくが彼の手を取ったから。




 不動なる意思の元に立つ彼の──『剣の“主”となってしまったせい』だからなのだろう。





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