-33 ぼくの知らないヒト。

 背後に“ゴゴゴゴゴ……”と怒りのオーラを醸し出しているようにしか見えない彼の鬼の形相は余りにも恐ろしくって、ついぼくの口からはまた「ひっ…」と小さな悲鳴が零れてしまう。

 しかし隣にいるナイトくんはと言えば、何やら頼まれ事をしていたことをぼくとの会話に夢中になってしまっていて、それでうっかり忘れていたのだろう。

 彼のその声を聞くや否やハッとして「しまった」と言った顔を浮かべては、大慌てで扉の方へとすっ飛ぶように駆け出していった。


「……ったく、少し目を離そうものなら直ぐ余計な事をしようとする。」


 自身の隣を通りすがって扉に向かっていくナイトくんの背中を忌々しげに見送りながら、扉を離れていく彼がそんな一人言を溢す。

 彼が身体中に木屑や埃を所々に纏っているのは、木材を粉砕させた時に被ってしまったのかもしれない。

 それを掌でポンポンと叩き落としながら、ぶつくさとナイトくんへの不満、悪口を延々と飽きもせずに呟いているのが、否応なしにぼくの耳に入ってきていた。


「(……そんなに嫌なら、一緒にいなきゃ良いのに。)」


 それを聞いて何だかもやもやとした気持ちが胸の内に籠り、ぼくは思わず眉間に皺寄せてそんなことを思う。


「(気に食わないことがあると直ぐ怒るし、直ぐ殴るし……ホント、横暴なヒトだなぁ。いつもいつも怒鳴られて、叩かれたりしてるナイトくんが可哀想だ。それなのに、ナイトくんはどうしてこんなヒトと一緒にいたがるんだろう……?)」


 その時、ぼくの脳裏に浮かんだのは常日頃よりあのヒトから殴り蹴りと暴行を受ける友人の姿だった。




 やれ「指示した以外のことをした」だの、やれ「言い付けを守らなかった」だのと、例えそれが些細なことだとしても何かと理由を付けて暴力を奮い、言葉が続く限り罵倒した。

 まだ知り合って間もないと言うのに、そんな光景をもう何度見てきたことか。

 これまで目にしてきた数々の暴言や暴力とて、そのどれもがタダで済むようなものでもなければ、見ているだけで痛々しくかんじるものばかり。


 幸いにも、ぼくはその被害を受けたことはない。

 危うい状況となってしまっても寸でのところであのヒトの気が変わったり、時にはナイトくんが庇ってくれたりすることもあって事なきを得たりと、その都度に運良く免れてきたのだ。

 しかし、だからと言って安心出来る訳でもない。

 いつかその矛先が自分に向けられるのでは、今は運良くかわせていても、いつかはきっと……そう思ってしまうと、彼の前に立つだけで身体が竦み上がってしまう。

 彼のあの恐ろしい真っ黒な瞳から冷たい視線を向けられるだけでも、ぼくはそれが怖くて仕方がなくって、どうしたって声が出てこなくなってしまうのだった。




 しかし、それでもいつも酷い仕打ちを受けている友人の姿に、何も思わない筈がない。

 幾らあのヒトのことがどんなに怖くとも、ぼくは友人に対するその仕打ちを我関せずと見て見ぬフリをする訳にはいかないのだ。


「(………よし、今日こそは……!)」


 握り拳にぐっと力を込める。

 棒になりそうな足に渇を入れるが如く、一歩前進、前を見据えて。

 その視線の先の“あのヒト”へ、ぼくは思い切って勇気を出して声を掛けた。


「──あ、あのっ……!!」


 意を決して吐き出した言葉。

 少々力が入り過ぎていたみたいで、裏返ってすっとんきょうな声となっていた。

 ぼくは思わず恥ずかしさに口を閉ざし、相手に聞かれていないことを願って何もなかったフリをしようとした。


 けれども、どうやらそれも叶わないらしい。

 そのヒトはゆっくりと振り返ってその真っ黒な瞳をこちらへと向ける。

 そしてカクンと頭を傾けると、あの目付きの悪い真っ黒な目が静かにぼくを睨み付けた。


「………何?」


 感情の籠ってない声が返ってくる。

 ぼくの口からはつい「何でもないです!」と逃げ出したい気持ちが一杯な言葉が口から飛び出てしまいそうになった。

 しかしそれでは折角振り絞ったなけなしの勇気が無駄となってしまう。

 ぼくは逃げ出したい気持ちを何とかぐっと堪え、弱音本音をごくりと飲み込んだ。

 そして恐る恐るに口を開くと、ぼくは彼にこう言った。


「え、えと……その………な、ナイト、くん、の……こと………い、いじ、苛めな、いで………。」


 やっとの思いで吐き出したぼくの声。

 それは恐々としていて情けなく震えていた。

 しかもその声はとてもとても小さなもので、尚且つ口にした言葉もつっかえつっかえで途切れてばかり。

 緊張で強張った身体は、額も背中もそれから掌の中も次第に汗でびっしょりとなり、言葉を吐けば吐く程に惨めさが増していく。

 喉も段々とからからに渇いていき、苦しくなっていくぼくの目に思わず涙が滲んでくる。


 ……全く、たかが一言口にするだけだと言うのに、どうしてぼくはそれすらも上手く出来ないのだろう。

 お前は友人の為にですら、何もしてやれない甲斐性なしか──そう自分を卑下して叱咤。


 ぶきっちょで小心者なぼくは昔から何をするにも上手くいかなくて、出来ないことは他人よりずっと多い。

 代わりに特別秀でたものが一つでもあれば多少は良かったかもしれないけれど、それすらもないぼくはやっぱり役立たずでしかない。

 せめて何か、こんなぼくにでも出来ることがあったら良いのに……。


 そんな出来ないことが多いぼくにとって、最もと言って良いくらいに苦手としているのが、他人と“話す”ことだった。


「………えと、ええっと………、」

「………………。」


 どもって一向に話が進まないぼく、それをじっと見詰める彼。

 あれはきっと「用があるなら早く話せ」と思っているに違いない。

 彼を怒らせてしまう前に、早く要件を話さなくては……。


 そう思って気を急かせば急かす程、頭の中が真っ白になって言葉が思い付かなくなる。

 すると段々目が回ってきて、歪んで見えてくる視界はまるで世界がうねっているかのようだ。

 思わず吐き気を催して「うぷっ……」と呻いたぼくは咄嗟に口元を手で押さえると、背を丸めてしゃがみこんでしまうのだった。


 本当に、情けない。

 どうしてぼくはいつもこうなんだろう。


 昔からぼくはそうだった。

 いつからか、ぼくはそうなっていた。

 原因はわからない、理由もわからない。

 気付いた頃にはもう、こんなことになっていたのだから。


 しゃがんで俯くぼくの目から、ポタリと一つ雫が落ちる。

 ぱた、ぱた、と微かな地べたを叩く音がして、そこに小さな水溜まりが一つ二つと出来ていく。


「(さっきは上手く話せてたんだ。ナイトくんとなら自然と出来ていたんだ。ならぼくにだって皆と同じように、普通に話せる筈なんだ。なのに、どうして……こんな時に限って……。)」


 ひぐ、と喉から引き釣った音が零れる。

 込み上がってくるものに目が熱くなって、詰まった鼻をズズッと鳴らす。

 ポロポロと落ちてくる涙に、両手を使って拭いながらぼくは必死に「泣くなぼく。涙よ、早く止まってくれ」と胸の内で念じる。

 それでも涙は一向に止んでくれない。

 涙はぼくをより一層惨めに思わせてポタポタ、パタパタと、小雨が土砂降りになっていくように激しさを増していくのだった。


「(どうして……どうしてこうなっちゃったんだろう? こんなことなら、あの時家を飛び出さなきゃ良かった……。)」


 そうしてさめざめと泣くぼくが思い浮かべたのは、とある森の奥の湖畔に佇む屋敷。

 自身が生まれ育った、何よりも慣れ親しんだ場所だった。




 そこには、三人の住人がひっそりと暮らしていた。


 齢12にして、親を生まれた頃に失っていたぼく。

 気難しくも、老いて寝たきりとなって小さな灯りを一つ灯しただけの暗い部屋の中にて静かに過ごす祖父。

 そして主人とその孫のぼくを甲斐甲斐しく世話する、片腕のない老人の召使が一人。

 そんな三人が、彼らだけで暮らすには少々広すぎる屋敷にて平穏で細々とした暮らしを日々過ごしていた。


 人が多く暮らす町から離れた森の奥、そこで老人二人に囲まれて暮らすぼくは、年頃故に同年代の友達と言うものに憧れを持ち、時折屋敷を抜け出して町へと繰り出すこともあった。

 けれども慣れない相手とのコミュニケーションが上手く取れない自分に構ってくれるような奇特な者はおらず、自分とて自ら踏み出すことも出来ないまま失敗ばかりで一人ぼっち。

 それには確かに夜枕を濡らすことも少なからずあったのだけれども、だからと言ってぼくは“寂しい”と思うことはなかった。


 二人の親代わりである、祖父と召使の存在がぼくの中でとてもとても強かったからだ。

 生まれて早々に亡くした親よりも、ずっと長く共に過ごした彼ら二人から我が子同前に可愛がられ、そしてぼくも惜しみ無い愛情を注いでくれた彼らを親同前として心から慕って返していた。


 ただそれだけだ。

 それだけでも、ぼくは十分に満ち足りていた。

 憧れとした友人がいなくとも、顔を見ることも叶わなかった両親を失っていたとしても、ぼくにはその暮らしが世界中何処の誰よりも幸福なものであると信じて疑わなかったのだから。

 しかし、それがある日突然、呆気ないくらい簡単に崩れ去ってしまった。


 魔物だ。

 それまで影すら一度たりとも見たことがなかった森の中に、突如人を襲う魔物が現れて、ぼくらが暮らす屋敷を襲ったのだ。


 幸い、と言って良いのか。

 動けぬ身であった祖父は、その数日前に老衰で亡くなっていたからその被害を受けることはなかったのだが………。

 それでもぼくは、その時に誰よりも大好きで血の繋がりがなくとも家族のように思っていた召使──ぼくが“爺や”と呼び、懐いていた人を失ってしまったのだった。


 それも、よりにもよって………ぼくの目の前で。




「(……爺や……。)」


 胸の内、最愛の親のように想っていた召使の老人を思い出す。

 それだけで胸がきゅっと締め付けられ、寂しさが込み上がってまた目が潤む。


「(爺や……寂しいよ、爺や………ぼく、もうあの家に帰りたいよ。爺やのいるあの家に………。)」


 ぐすっ、ぐすん。

 めそめそと泣きながら鼻を啜って、心細くてしょうがないぼくはそんなことを思う。


 しかし、本当は頭の中で解っていた。

 今更そこに帰ったところで、もう自分が望む家はないのだと。

 だって爺やは死んでしまったのだ。

 この目で見てしまったのだ。

 魔物に襲われるぼくを、命からがらに身を呈して庇った彼を。

 そして身体を貫く致命的な一撃を受け、力なくしな垂れ掛かる血濡れの彼を──。




 不意に、俯いた滲む視界の中で革のブーツの爪先が見えた。

 “彼”だ。

 それに気付いたと共に、ぼくは驚きと困惑に想い出に浸る思考がピタリと止まった

 足音なんて何も聞こえてこなかったのに、いつの間に近付かれていたのだろう?

 ぼくがそんな疑問を頭に浮かべていると、今度はぼくの頭上にぬぅっと影が差した。


「(殴られる──!)」


 それが彼の手だと気付いた瞬間、咄嗟にそう考えたぼくは思わずぎゅっと目を瞑った。

 身体を縮込ませ、身体に力を入れる。

 そうしてもうすぐ訪れるであろう痛みに身構えた。

 しかし──。


「………ぅわっ!?」


 ガシッと捕まれ思いっ切りに引っ張られたのは、背中へと落ちていた外套のフード。

 自棄っぽく少し荒い手付きで被されたそれにまたも驚き、そして混乱しながらも思わずといった調子でぼくは押さえられたフードの鍔の下からちらと相手を見上げてみる。


 そこには思った通りに彼がいた。

 眉間に皺寄せ、こちらを睨むように見下ろしていた。


 イチイチ泣いてばかりいるぼくを、さぞ鬱陶しく思っているのだろう。

 そう思ってぼくは早く泣き止まなくては、と焦るのだが………そうと考えるには何だか些か様子が可笑しいように思えた。

 何と言うか………その彼の表情は、何処か居心地悪そうに見えた気がしたのだ。

 苦虫を噛み潰したかのように、気まずそうに口をつぐんでしかめている彼のその表情は、そんな風に歪んでいたものだから。


「………。」

「え、えと……。」

「………………。」

「……あの……?」

「………………………。」


 沈黙。

 ただひたすらに、沈黙。


 彼は何も言わないまま、じっとぼくを見下ろしているばかりで何も反応を返してくれなかった。

 引っ張り押さえられたフードを掴む手はそのままだ。

 被された時に比べてその力は和らいでいたのだけれども、それでも何故だか離してくれそうな気配はない。

 声をかけても無言を貫き通す彼に、ぼくは段々気まずくなってくる。

 ぼくには彼が何をしようとしているのか、何を考えているのか全く解らない。


 加えて、あの黒い目に睨まれている、ただそれだけも恐ろしくて堪らないぼくには生きた心地がしなかった。

 ぼくは「これから一体どうなってしまうんだろう」「何か彼の気に食わないことでもしたのだろうか」なんて悶々としながら、一人不安を募らせていた。




 実のところ、ぼくは彼のことを全くと言って良いくらいに何も知らなかった。

 ナイトくんと同じくしてまだ出会ってからそう経っていないし、何なら名前すら教えて貰ったこともないくらいだ。

 先程の、人が良さそうでナヨナヨとしたフリをしている時には兄として“ナイト”と呼んでくれたら良い、とは言われている。

 けれども、あの口ぶりからしてそれもどうやら彼の本来の名ではないようで、寧ろ全くの別人の名前を借りている──或いは、もしかすると彼はその人物のフリ・・・・・・・をしているのかもしれないとすら思えた。


 彼との同じ名前である筈のナイトくんまで、先程の姿の時には彼の事を“ナイト兄さん”と呼び慕っていたくらいだ。

 その“ナイト兄ちゃん”と言う名の本来の人物は、きっと彼らの共通の知り合いなのだろう………なんて、一人だけ何も聞かされていないぼくはひっそりと思っていた。




 ………まぁ、つまりだ。

 家族でも身内でもなければ録に知りもしない仲である、生まれも素性も不明瞭な彼ら二人とぼくは行動を共にしているのだ。

 勿論、それは誘拐でも拉致でも何でもなく、自らの意思で決めたこと。

 そしてそれは、説明するにも長くなってしまいそうな“訳があって”でのことでもあった。




「………おいで。」


 漸く口を開いた彼が背後をちらと見てそう呟くと、ぼくへと手を差し出す。

 戸惑いながらもその手を取ったぼくは、言われるがままに彼に連れられて足を進めていく。

 そして自身の足が進み行く先にあるのは、あの封じられていた筈の扉とその前に立つナイトくんの後ろ姿。

 あの扉へと両掌を向ける彼はブツブツと意味不明なことを、淡々と、延々と絶えず呟いていたのだった。




「──第8の───分析analyze───解除clear──検索search───目標捕捉lock───第9の──」




 その呟きが聞こえたところで、ぼくには何のことだかさっぱり解らないものだった。

 思うに、どうやら“何か”を探しているようではあるのだけれども……。




「──検索search───目標捕捉lock───第10の“gate”───」




 10の“門”──それをナイトくんが口にした瞬間、ぼくは目を見張った。

 彼の周りにて、突如異変が起きたのだ。


 第一に、辺りに散らばっていた木屑がふわりと浮いた。

 それは何てことのない、風が吹いて拐われただけの現象だ。

 しかしそれだけに留まらなかったのが問題だった。

 ぼくがその景色に違和感を持つ前から、ぼくがそれに気付いた後にすら、風は徐々に徐々にと強さを増していったのだ。


 やがて風は白い筋を宙に描くようになっていった。

 びゅうびゅうと笛のような甲高い音を吹き鳴らし、ナイトくんを囲っていく。

 彼の衣服の裾を巻き上げながら、よりもっとと勢いを増し、果てには地上から逆巻く風の渦を作り始めた。


 そしてぼくは、そこでにわかに信じがたい光景を目にすることとなったのだ。




「──捕まえた!」




 中心地にて、彼が叫ぶ。

 間髪入れずに天に差し向けた掌、空を掴んで拳を握る。

 その手の内からは眩い光が溢れて、燦々と周囲を照らし出し──いや、違う。

 それは周囲からあらゆる光源を吸い込んでいるようだった。

 彼の手の内、その一点に収束──凝縮していくように。

 




「“あまねく次元に通ずる大いなる門よ”

 “有にして無を具現とする、世のことわりにまつろわぬ門よ”

 “我が声、我が願いを聞き届けよ”──」




 何処からともなく吹く風が、竜巻を起こして吹き荒ぶ。

 夜の帳が降ろすが如く、辺りは次第に暗さを増していく。

 それなのに、あの掌の中からは太陽の如き灼熱の光が、目を焼かんばかりに煌々と照り出していた。


 それは余りにも自然的なものではなく、あからさまに超常的な何か。

 人が手にするには些か身に余る、神の御業と呼ばれるもの。

 或いは悪魔の所業ともされる、奇跡と数奇を兼ね備えた人知及ばぬ現象。




「“我等が往くは最果ての虚空”

 “我等が臨むは理への乖離”

 “彼方と此方の狭間へと我等を導く為に”──」




 輝く、瞬く、彼の掌が。

 見える、顕現あらわる、超常を体現しうる結晶が。


 ゆっくりと花開くように広げられた掌の上。

 それは肌をピリピリと焼かんばかりのプレッシャーを放つ、未だ形なし得ぬ光球だった。




「“故に、我は手にするだろう”

 “神の門を開かんその一対たる断片を”

 “黄金輝く──祖の鍵を”!」




 ──キィィィィン………。




 最後の一節らしき彼の言葉が止んだ途端、辺りに響くは金物弾くかのような耳鳴りの音。

 その音が甲高く吹き鳴らされ、光球がより目を開けているのも困難な程に周囲を真っ白に染め上げていく。

 無闇矢鱈にそれを見続けようものならば、きっとその目は物見えぬガラクタと成り果てることだろう。

 そう感じてしまう程に眩い光に、耐えられる筈のないぼくは思わず腕で目元を覆い隠して顔を伏せた。


 長く、細く、続く耳鳴り。

 瞼を固く閉じていても、僅かな隙間から入り込んでくる光がぼくの視界をじんわりと焼く。

 いつまでも続きそうに思えたそれは存外長引くことはなく、直に止んでようやくぼくの耳に静けさが戻ってくる。


 音と同時に光までもが落ち着いたのか、やっとの思いで顔を上げたぼくがゆっくりと目を開く。

 すると瞼を持ち上げ掛けたその目の奥の方で、つんと凍みるような微弱な痛みが走った。

 僅かに開いた先に見えるのはぼやけた視界。

 違和感を感じると共に、瞼を開けているのが少しばかり困難に感じられた。

 どうやらぼくの目はさっきの光に当てられてしまったらしい。

 ぼくは眉間を揉みつつ、眩んだ目を閉じたまま数度瞬いて暫しの間回復を待つことにした。


 幸い、ぼくの目は直ぐに元通りになってくれた。

 段々と不明瞭だった視界が鮮明なものへ、瞬く度に痛みも少しずつ治まっていく。

 やがてすっかり良く見えるようになって、仕上げに手の甲で目を擦ってから再び前を向く。


 そこでぼくの目に映ったのは、言葉にするも難しい世にも奇妙な光景だった。


「これは………一体………?」


 ぼくは辺りを見回し、徐に持ち上げた掌を自身の前へと広げる。

 そこにあったもの、宙を漂っていたのは何の変哲もないただの木屑だ。

 きっと先程の突風で地べたに転がっていたのが舞い上がってしまったのだろう。

 しかしそれは宙を漂っているとはいっても、ただ風に吹かれて浮いているものではなかったのだ。


「………止まってる。」


 それは宙に浮いたまま、ピタリと動かなくなっていたのだ。

 しかもそれはその木屑だけではない。

 見渡す限り全てのものが一切の動きを止め、停止していたのだった。

 ………極一部の例外を除いて。


 不意に手を引っ張られ、かくんとぼくの身体がそちらへと傾く。


「離れないで。」


 短的に、簡単に要件だけを口にして、傍にいた彼が繋ぐ手を引き寄せて自身の脇腹にてぼくの身体を受け止める。

 ぼくに注意を促してのことだったようなのだが、如何せんぼくにとってはそれはいきなりのことだったので、つい驚いてしまって受け身を取るのも忘れていた。

 目をぱちくりとさせるぼくが彼を見上げる。

 彼もまたぼくをじっと見下ろしており、その何を考えているのか解らない無表情と暫し睨めっこ。

 やがてハッと我に返ったぼくは、仰け反りながら身体を離した。


「ご、ご、ごめんなさい! またぶつかっちゃって──わぷっ!」


 慌てて、咄嗟にぶつかってしまったことに謝るぼく。

 けれどもその言葉は最後まで続かなかった。

 再び身体を引っ張られてしまい、今度は顔面から彼の胸元に突っ込む羽目となったのだ。


「危ない。」

「ふぁ、ふぁい……。」


 今度はがっちり身体を捕まれてしまって離れられない。

 くぐもった声で返事をし、恐る恐るに見上げてみると、彼が眉間に皺を寄せてぼくを見下ろしている。

 その時のぼくは彼の言葉の真意が解らず、訳も解らず混乱していたのだけれども……。


 実はぼくの背後には鋭利な棘を剥き出しにした木材の欠片が直ぐ傍にあったのだ。

 彼はそれを詳しくぼくへと伝えることはなかった。

 けれども、混乱し頭に疑問符ばかり浮かべて固まるぼくに、背後を指差してくれたことで、そこでようやくぼくにもその理由を知ることが……と言うより、察することが出来た。


 何も知らないまま、あのまま仰け反って後退ろうものならば、あの切っ先はきっと今頃ぼくの首を穿っていたことだろう。

 そんなもしもの未来に思い至り、想像したぼくはサッと血の気が引いていく心地に顔を青ざめさせていく。

 兎にも角にも、ぼくは大怪我寸前だったのだ。

 それにすっかりびびってしまったぼくは、想像した通りの最悪の事態とならないよう、やっぱり彼から言われた通り離れないようにしなくては……と、そう心に固く誓うのだった。


 ぼくの手を掴んだ彼の腕にひしっとしがみ付き、必死の思いで身を寄せる。

 痛いのは嫌いだ。

 避けられるものならば出来る限り避けていたい。

 そうしてぼくは、視線を向けられるだけですら恐ろしいと感じていた彼の腕に、今までになくぴっとりとくっついたのだった。

 ……その時、別段体重を乗せた訳でもないのに、何故だか彼の身体が少しだけ身動いだような気がした。


 どうしたのだろう?

 ぼくは彼を見上げる。

 そこには目を少し大きく開いた彼の姿があった。

 ぱちぱちと真っ黒な目を瞬かせて、驚いたようにぼくを見下ろしていた。

 抱き締めた腕やその様子から、何となく身体を強張らせているように感じる気が……。


「………?」


 ぼくは彼を見上げたまま、こてんと小さく首を傾げた。

 だって彼は「離れるな」とぼくに言ったのだ。

 だったら離れてしまわないよう、こうしてくっつくべきかと思った訳である。

 しかし彼のこの反応はと言うと、ぼくが見た限りでは何だか微妙なものに思えてならない。

 一体どうしたと言うのだろう?

 もしかして彼の言う「離れるな」とは、こういう意味ではなかったと言うことなのだろうか?


 そんなことを頭の中で考えていると、彼の閉じた唇を横に伸ばしていた口が徐に小さく開いた。


「……そんなこと、ない。」


 自身の腕に巻き付いたぼくの腕に、空いていた右手をそっと近付けた。

 もしや、ひっぺがそうとしているのだろうか?

 そう思ってぼくは先んじて腕から離れるべく、回した腕から力を抜いた。

 しかしその腕を離そうとしたその矢先に、触れた彼の掌が離れようとした手を掴むと引き剥がす──のではなく、自身の腕へと引き戻した。


 そして頭上からもう一度、若さが際立つテノールの声をぎこちない言葉で響かせた。


「これで、問題ない。」


 そう言ってふいっと視線を移した彼は、すんとした顔で前を見据えた。

 それから、ぼくを腕を振り払おうとすることもなく、ゆっくりと足を進み始めた。

 当然、彼の腕にしがみついていたぼくの身体も、彼が向かう方へと引っ張られていくのだった。


 今までならば行き先すらも教えられず、遠慮なしな彼に半ば強引気味に引き摺られていたぼく。

 大抵そういった時には足を動かすのに精一杯で、何度と転びそうになりつつもひたすら彼の背中を追い掛けるばかりだった。


 しかし、その時だけは何故だか今までと違っていた。

 彼の歩みはいつもより遅く、身体が引っ張られると言ってもつんのめるようなことはない。

 絶えずぼくの歩幅に彼の歩みが合わせられ、身体を寄り掛からせた先、ぼくの隣には彼がいる。

 それは何と言うか、その………とても歩きやすかったのだ。


「(………あれ? 何か、この感覚……何処かで覚えが………。)」


 ぼくはふと、記憶の奥底で引っ掛かりを感じるような、既視感のようなものを覚えた。

 その記憶は遠い昔のものではなく、ましてや色褪せたものでもない。

 極最近までそれが当たり前にあって、平穏な生活のほんの一部分に過ぎなかったものだった。

 ずっとずっとこれからも続くと思っていた、幸福でしかなかった記憶のたった一欠片。






『──坊っちゃん。』




 記憶の中で優しく響く、あの耳に心地好いしゃがれた声。




『坊っちゃん、背筋が曲がっておられます。貴方様は我が主、貴方の御祖父様が遺されたたった一人の御令孫……貴い血筋を継承する御身。この先何があろうとも、決して振り返っては成りません。前を向き続けなければ成りません。』




 落ち込んで項垂れているぼくに、泣いてばかりで不甲斐ない自分を責めるぼくに、そっと背中に添えられたあの皺だらけの手の温もり。


 ……ああ、“あの人”はいつだって、ぼくが不安な時には必ず傍にいてくれた。

 ぼくの心が折れそうな時、必ずこの背中を支え、守ってくれていたのはいつだって“あの人”だった。




『大丈夫です、何も貴方様が憂いを御感じになる事は御座いません。この“爺や”めが御傍に在る限り、貴方様に降り掛かる害は悉く防いでみせましょう。……ですから、貴方様は貴方様らしく、前を向いて堂々と御振る舞い下さいませ。』




 すっかり年老いて色が抜け落ちた白糸の髪、それを三ツ編みに束ねて肩に垂らし微笑む彼。

 年の割にスッと背筋が伸びた細身の身体、その右側には口を縛ってぶら下がっている、中身が無くて風に揺れるだけでただの飾りとなっていた長袖。


 彼は、彼がまだ若かった頃に起きた戦争で、その身体の一部を失っていた。

 爪の先から肩までの、右腕の一切が彼にはなかった。




『我が主亡き今、私めの命は最早貴方様だけのもの。いつ如何なる時にも貴方様の御傍にて盾と成り、剣と成り、この命尽きるその時まで誠心誠意御仕え致します。』




 そう言って、両親だけでなく最後の肉親、祖父までをも失くし天涯孤独となったぼくにずっと寄り添い続けてくれた彼。

 とても……とても主人に忠実で、誠実な召使であった。

 彼はその言葉通り、本当にぼくの盾となってこの世を去ってしまったのだから。






「………爺や……?」


 ぽつり。

 無意識にぼくの口からそんな言葉が零れる。

 見上げた彼のその横顔に、あの大好きな年老いた召し使いの姿を重ねた。 

 しかしどんなに長く眺めていようが、そこにいるのは大好きなその人ではない。

 その事が段々とぼくの心を深く暗い水の底に沈めていくかのように、まるで下り坂を転がっていくかのように気持ちを落ち込ませていった。


 すると真っ黒なあの目がぼくの方へと向いた。

 それから暫しあの目付きの悪い目でじっと見詰め、それが次第に大きく見開かれていく。

 かと思えば、ぼくが掴んでいた腕をバッと取り上げるように振り上げて、突然彼は飛び退いたのだ。


「……っ…!?」


 突然身体を引き剥がされて、訳も解らずキョトンと呆けるぼく。

 対して、ぎょっとしたかのように引き釣った顔に幾つも脂汗を浮かばせてたじろぐ彼。


「え? あ、あの、さっき離れたら、ダメって──」

「もういい、要らない。」


 戸惑いながらも彼の傍へ寄ろうと一歩踏み出したぼくだったが、そこへ食い入るように彼が「必要ない」とばかり答えては後退り、よりもっとと離れていく。

 ………あれ? なんか避けられてる?

 しかも何で急に?

 突然の彼の態度が豹変したことに、ぼくの頭に浮かぶ疑問は尽きない。


 「どうして」「何で」とぼくが一歩近付けば、きゅっと口を閉ざした彼が二歩も三歩も遠ざかっていくこの状況。

 最早ぼくにはどうしたら良いのかわからない。

 結局何も答えてくれずに随分と遠くに離れてしまった彼を尻目に、途方に暮れたぼくは何だか釈然としないまま、仕方がないと溜め息を吐いて改めて前へと向き直すことにした。

 すると、そこはもうナイトくんがいる場所が目と鼻の先とも言える場所なのだと、ぼくはようやく気付く。

 周りに浮かぶ障害物とてもう何も無くなっていた。


「(うーん……もしかしてさっきのは、危なくないからもう付き添いが必要ないってことだったのかな?)」


 ぼくは頭を横に傾けながらそんなことを考えてみる。

 すると扉を前にずっと佇んでいたナイトくんがくるりと振り返った。

 目が合ったので彼の名を呼ぼうとしたぼくだったが、彼のその顔を見て今度はぼくがぎょっとした。


 ナイトくんの色白だった肌がほんのりと青ざめて、汗だくとなった顔は酷く憔悴し切ったものとなっていたのだ。

 ぼくと視線を交わした彼がぎこちなく笑みを浮かべた。


「………あは、ちょっと……つかれ、ちゃった………。」


 そう言った彼はぐらりと身体を揺らすと、力なく膝から崩れ落ちていった。





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