-35 目に映るは夢か現か。

 夢を見た。

 夢の中で、静かに眠る“きみ”の姿を見た。




 何度声を掛けても、目を覚まさない。

 身体を揺すろうとしても、触れられない。

 名前を呼んで起こそうと思っても……ぼくは“きみ”の名前を知らなかった。


 ………いや、あれは知らなかったのではなく忘れてしまった・・・・・・・のではないのだろうか。


 思い出そうと顔を覗き込んで見てみる。

 けれども、ぼくの目に映るその姿にはどうしてだか顔のところだけが真っ黒に塗り潰されており、良く見えない。


 ぼくは“きみ”の姿をちゃんと見ることが出来なかった。




「──ねぇ、どうして“きみ”は眠っているの?」




 返答はない。




「どうして“きみ”は姿を見せてくれないの?」




 反応はない。




「どうして、“きみ”は………。」




 何もない。

 言葉も、意識も、存在すらも。

 “きみ”のものは全くとして、ここにはない。




「………どう、して………。」




 何もなかった。

 何も残らなかった。

 この掌には確かに“きみ”との何かがあった筈。

 それなのに、そこはいつの間にか空っぽになっていた。


 ぼくは、何もかもを失なってしまっていた。


 “きみ”が確かにここにいたこと。

 “きみ”と確かに話をしたこと。

 “きみ”と確かに、関わり繋がりを持てたことを。


 ぼくはいつからか“きみ”のことを、何も思い出せなくなっていた。




「どうして………何でなんだよぉ………っ!」




 ポロポロ、ぱたぱた。

 涙が込み上がって視界が滲む。


 胸の内に広がるのは止めどない喪失感、そして深く深く心を抉る悲しみ。

 何度問い掛けようとも答えは返ってこないのに、それでもぼくの口からは嗚咽と一緒に、どうしようもない疑問ばかりが吐き零れる。




「“きみ”は誰? “きみ”はぼくの何? どうして、ぼくは………“きみ”のことを、思い出せないの……っ?」




 大事な何かを忘れてしまった、それだけが喪失感としてぼくの心に残っていた。

 ぽっかり空いた心の空洞は失った部分を取り戻したいのか、ぼくの胸をきゅうっと締め付けるばかり。


 “きみ”を思い出したくて堪らないんだ。

 なのに……どうしてだろう?

 ぼくは“きみ”を思い出してしまうのが怖くて仕方がなかった。


「苦しい、苦しいよ。どうしてこんなにも胸が痛いの? こんなにも近くにいる筈なのに、触れられないのは何故? “きみ”はここにいる筈なのに、“きみ”は一体何処に行ってしまったの……?」


 解らない、何度問い掛けても。

 解らない、返ってくる声はないのだから。




 どうして、どうして、どうして──。




 ………この手はまだ、答えきみに届かない。

 






 *****






 てくてく、てくてく。

 トコトコ、トコトコ。


 手を繋いで町中を歩き続けて暫く。

 ぼく達は人が賑わう混雑した大通りから漸く抜け出した。

 まぁ、抜けたとは言うものの、実際には大通りの端にある小さな抜け道、それも路地裏に入り込んだだけ。

 後ろを振り返れば当然直ぐそこに、賑わう町の様子が見てとれるくらいの場所だ。


 あの濁流のような人混みの中を潜り抜けるのは思いの外大変で、とてもとても苦労したものだ。

 何度も人の波に埋もれに埋もれ、流れの勢いに負けては拐われかけ。

 否応なしに身体が持って行かれそうになった時には、繋いでいた手が離れかけて、思わず恐怖を感じてしまったくらい。

 幸いにもその時は“ナイト兄ちゃん”がぼくの身体を引き戻し、何とか事なきを得たから良かったものの……正直、今日の出来事はちょっとしたトラウマになりかねない思い出になりそうだ。


 ただ、人混みを抜けきるだけですらそんな大変な目に遭い続けて、ぼくの身体は今やすっかり疲労困憊。

 足は当然、腕も、何もかもがくたくたのヘトヘトだ。


 疲れた身体は何度も分厚くてちょっとばかし重たい本を落としかけるし、前へ出そうとした足は持ち上がり切れなくて、爪先や踵が歩みを進める度に地べたを引き摺った。

 「出来るものならば、何処かでちょっと休憩したいな」なんて、つい思ってしまう程だった。

 けれども、今はそんなわがままを言う訳にはいられず、兎に角自身の身体に鞭打ってでも進むしかなかった。


 何せ、自分の手を引く彼の足はまだまだ暫く止まりそうにない。

 行き先のことは何も知らされていないし、向かう先はどう見たって人気のない薄暗い路地の奥みたいだ。

 その通路の何も無さからしたって、どう考えてもこの先直ぐに目的地があるとは到底思えない状況だった。

 当然、繋いだその手を振り払う訳にもいかない。

 疲れたからと言って一人立ち止まることだって、今のぼくには許されないのだった。


 だって、さっきみたいに慣れない町の中で一人はぐれ、取り残されてしまうのはもう懲り懲りだったんだ。

 この手を離してまたはぐれてしまって、うっかりあの人混みにまた迷い混んでは立ち往生してしまおうものなら、今度こそぼくは泣いてしまいかねないだろう。

 一人ぼっちで心細いのは昔からダメなのだ。

 だからあんな目に遭ってしまうのは……もう二度とゴメンだった。

 

 そう考えながらぼくは、人混みの中の窮屈だった空間と地獄の心地からやっとの思いで解放されたことに清々としつつ、安堵の溜め息を吐くつもりで深呼吸の如くすぅっと空気を吸い込む。

 すると鼻の奥をつんと刺すような、得も言われぬ臭いがぼくの鼻腔を刺激した。


 何だよもう、折角の気分が台無しだ。

 思わず眉を潜めたぼくは、睨み付けるように周りを見た。

 そこでぼくは初めて周りの様子を認識したのだった。


 “ナイト兄ちゃん”に連れられてぼくが訪れた路地裏は、広くて日が射す表の大通りとは打って変わり、空間の殆んどが影で占めて薄暗く二人くらいであれば何とか並んで歩けそうな程度の狭い通路。

 そしてそこは、かなりと言って良いくらいにとてもとても不衛生な場所だった。


 そこら中にはゴミやそれを漁るネズミ等が這いずり回り、漂う空気は埃っぽくって生暖かい。

 しかも腐乱したゴミまでもが放置されているのか、嫌に鼻につく臭気やカビの臭いが入り交じってとんでもない不快臭を生み出し、尚且つそこら中で充満している。

 まぁ、そんな不快極まりない場所な訳なのだから、近付こうとする奇特な者がいないのだろう。

 後ろからは絶えず人の賑わいが聞こえてくると言うのに、その近辺にはどこまでいっても一向に人の気配がしないのだから。


 そんな路地を進むぼくはその空気を吸いたくなくて、潜水するかのように頬を膨らませて呼吸を止めて、なんとかその空気を取り込まずに済まそうと息を堪えることにした。

 ぼくより一歩前を黙々と進む彼──ぼくが“ナイト兄ちゃん”と呼んだ男の人──も、ついさっきまでご機嫌に鼻歌を奏でていたと言うのに、それもいつからか聞こえてこなくなっている。


 ……もしかしたら、ぼくと一緒のことを考えているのかもしれない。


 そんなこんなで進めば進む程、静けさが強まるのに比例して辺りを見渡せるだけの明るさは失っていく路地は、段々とその様子が変わっていっていることにまたぼくは気付いた。

 一番顕著に見受けられる変化と言えば、さっきまでそこら中に散乱していたゴミ等の人が訪れたような痕跡が徐々になくなっていることだ。

 それに釣れて、散々足元をうろちょろと駆け回っていた虫やネズミも見掛ける頻度が少なくなっていき、かと思えばいつの間にかパッタリとその姿を見なくなっていた。


 今まで足の踏み場に困るような、散々物が散らばっていて不快極まりない空間だったのが一転、ただひたすらに何もない一通の通路へ。

 周りの建物が作る影に覆われ、生温い風が素肌を撫でていくその空間が醸し出す気味の悪い空気と相まって、何だか怖くなってしまったぼくは思わずごくりと喉を鳴らす。

 そしてすがり付くように、彼から握られた手にほんの少しだけ力を込めた。


 ……思えば、何だかさっきから妙な気配を感じるような気がする。

 何かが近くに潜んでいるかのような、誰かにじーっと見られているかのような……思わずぶるりと身震いしてしまう、それはそれはじっとりとしたビミョーに嫌な心地だった。

 例えるなら………そう、じろじろと品定めされている視線や、腹を空かせた狼に獲物として狙われている羊になった気分みたいな、余り生きた心地のしない落ち着かない感じ。

 ぼくと“ナイト兄ちゃん”以外、そこには誰もいないと言うのに……可笑しな話だ。


 しかし、その代わりにさっきの空間を一杯に占めていたあの不快臭はもう随分と落ち着いてきたようだ。

 やっと呼吸が苦じゃなくなって、それにはつい安堵の息を吐きかけた。

 だったのだが……ぼくはまた「うげぇっ」と表情を歪ませた。

 最悪なことに、あの不快臭が鼻腔の奥にへばり付いてしまったみたいだ。

 呼吸をする度に、あの不快感がぼくの嗅覚を悪戯に刺激してきた。


 どうやらまだしばらくは、その不快感からは抜けられないらしい。

 何を嗅いでも嫌な臭いしか感じられない、バカになってしまった鼻にぼくはまた憂鬱になって肩を竦めるのだった。

 





 ──……こつ…。




「……?」


 何だろう?

 ふと、後ろを振り返る。

 今、微かではあったが何か物音が聞こえた気がした。


 頭だけを後方に向けて、キョロキョロと辺りを見渡してみる。

 しかし、遠くにさっき大通りから入る時に通ってきた路地裏への入り口が見えるだけ、狭い通路にはぼくらの他に誰もいない。


 おかしいな?

 今確かに、ぼくらとは別にもう一人分の足音が聞こえた気がしたのに……気のせいだろうか?


 ぼくは小さく首を傾げると、気を取り直して前へと頭を向き直した。




 ──………こつん。




「──!」


 今度は勢い良くバッと振り返る。

 直ぐ様に音がした方向へと視線を向けたつもりだったぼくだけども……やっぱりそこには何もいない。

 それどころか、その狭い通路にはもう身を隠す物陰すらない。


 ぐぬぬ……何だか悔しい。


 正体不明の物音に、ぼくは思わずやきもきする。

 だってそこに何かがいるのは解っているのだ。

 しかし、その“何か”と言うのが何なのか解らない。

 解らないからどうしてもその正体を知りたくて、とてもとても気になってしまって………“知りたがり屋”のぼくは好奇心が擽られて、何ともどうにももどかしくなってくる。


「(音は確実に近付いてきている。だったら今度こそはその正体を掴んでやるぞ……!)」


 そう胸の内で“ふんすーっ!”と意気込みながら、再びぼくは前を向く……フリをした。


 何せ、正体不明の何者かは、どうやら“達磨さんが転んだ!”をご所望らしい。

 相手がその気であるならば、こちらは歩き出す音を聞いた瞬間に振り返ればきっとその姿を捕らえられる筈。

 なればこそ、ネズミだろうと何だろうと今度こそ犯人を見逃すまい!

 そう思って意気込んだぼくは、その何者かへとフェイントをかけるべく、音が聞こえてくるその瞬間を伺いながら耳をすまして、今か今かと待ち続けた。


 その時、ぼくが本をより高く抱えて口元を隠したのは勿論表情を隠す為だ。

 ぼくは真面目に正体を暴こうとしているのだから、楽しくなってついにやけてしまっている、何てことはある筈がない。

 知らないことを知りたいだけだ。

 何も、知ることが楽しみだとか、そんなこと思ってなんか……。

 そう、自分の身は自分で守れる、人よりちょっぴり大人なぼくにそんなことがある筈がないのだ!

 ………ホントだよ?




 ──こつん。




「(今だ!)」


 今度こそは見逃さないぞ──そう意気込んでぼくは、ぐりんっと頭を勢い良く回す。

 聞こえた音は直ぐ後ろから、先程確認していたから隠れる場所なんてないことは解っている。


 だからぼくは勝利を確信して意気揚々と振り返った、のだけれども──。




 ──とんっ。




「えっ──?」


 突然、後ろから軽い衝撃が背中へと当たる。

 振り返る最中だったぼくの身体はその不意打ちに対処しきれる筈もなく、呆気なく前へとよろけていった。


 と、とん、と足音が空間に響き、前のめりになって転ける寸前、前方を歩く彼の腰に抱き付くような形でぶつかる。

 思わず「わぷっ!」と小さな悲鳴が自分の口から溢れた。


「ご、ごめんなさ……!」


 そこから直ぐ様離れると、ぼくは咄嗟に彼へと謝罪の言葉を口にした。

 今、どうやら自分は誰かから背中を押されたらしい。

 すると、目の前でピタリと立ち止まり静かに佇んでいた彼の背中の向こう側から、深い溜め息を溢すような吐息の音を聞いた。




「………で、何で約束を破った?」




 町の賑わう人の声が遠くから微かに聴こえてくる中、聞き慣れた声が今までにないくらいに低く路地裏に響く。


「“許可を出すまで傍を離れるな”──はお前にそう指示した筈だ。」


 ぼくの肩がびくりと跳ねる。

 一人称の変化、それから先程まで穏やかな口調だったのが、途端、上から言いつけるような物言いへ。


 思わず身体が竦み上がる。

 忘れていた自分の立場の危うさと恐怖心が甦り、自分は何てことをしてしまったんだ……! と思わず目に涙を滲ませる。


「なのに、何故………あの場からいなくなっていたんだ?」


 目の前の彼が徐に腕を持ち上げる。

 その手は自身の頭へと向かい、爪先が小麦色の髪を束ねる髪結い紐を摘まみ──そして、引いた。


 はらはらと髪が落ちていく。

 縛られていた髪が肩を毛先で撫で、今まで露だった線の細いうなじを覆い隠す。

 路地裏を通り抜けていく風が解けた髪をここぞとばかりに弄び、横顔を隠して靡いていった。




 その時、ぼくはその人の姿が変わりゆく様を目の当たりにした。


 あの髪結い紐が彼の髪を離れる瞬間のことだ。

 鮮やかな小麦色の毛先に、突如暗い色が浮かび上がる。

 それは透明な水に一滴の墨を入れたみたく、じわりじわりと広がりを見せて、あの日溜まりのような小麦色をあっという間に侵食していったのだ。

 首回りから後頭部、後頭部から脳天へ。

 すっかりと小麦色が消え失せた頃、最後にそこに残っていたのは夜空の色よりもずっと暗く深い、黒壇の色。


「………ねぇ、聞こえているのなら返事をしなよ。これ以上、僕を怒らせないでくれる?」


 苛立ち混じりの声が再び路地裏に響く。

 ぼくは直ぐ様返事をしようと口を開いた。

 けれども、上手く言葉を話せなかった。

 恐怖のあまりに歯がカタカタと鳴ってしまい、喋ろうとしても言葉が喉に詰まって出てきてくれなかったのだ。


 早く、早く返事をしなくちゃ。

 ちゃんと言う事を聞かなくちゃ。

 ……焦りばかりが、募っていく。




「ご、ごめんなさ──」

「はぁい、ごめんなさい。」




 青ざめた顔を俯かせ、やっとの思いで声を吐き出したその時だった。

 ぼくの声に重なって、もう一人の声が路地裏に響く。


 背後からだ。

 ぼくは反射的に後ろへと振り返る。

 先程まで確かに誰もいなかった路地裏の通路の真ん中、そこにはいつの間にか人の姿があった。




 その人物は、ぼくと同じくらいの年頃の男の子だった。




 染みも黒子も一つとしてない、ミルクで色を塗った陶器のような滑らかな色白の頬。

 スッと通った形の良い輪郭に、さらさらとした絹糸が流れるかのような琥珀色のマッシュヘア。

 生え際右寄りの所から分けて左右へと流した前髪と、それから──。




 ぼくはその子のことを知っていた。

 つい先程まで、一緒にいた子だからだ。


 まだ出会ってからそう経ってはいない。

 なのにとても見慣れているその風貌の不思議な少年は、まるでぼくを鏡で映したかのように一部を除いて殆んど“同じ姿”をしていた。

 兄弟でも、親族やそれ近しい者ではない筈なのに。


 ただ、今はそれよりもずっと気にかかることがあった。


「(あれは………誰だ?)」


 その子は確かにぼくの知る人物だった。

 知己の関係と言うにはずっと浅いところまでしか関わったことはなく、顔見知りと言う程には認識のある間柄なのだけれども……それでも、あの少年からは奇妙なまでに未知なる“何か”を感じて止まない。


 白の長袖シャツの上に紺のベストを着込んだ身形の良いその男の子は、両手を背後の腰辺りで組んでニコニコとした満面の笑みをぼくらへと向けている。

 その何を考えているのか解らない笑みは、見ていると何だか不思議と妙な心地を覚えさせてくるもの。

 それを視界に捉えていると、不意に背筋をぞわっとした悪寒が走り抜けていった。

 瞬く間の一瞬にしてぼくの身体を走った悪寒は、末端から全身にかけての肌と言う肌を粟立たせていったのが自分でも解った。




 満面の笑みを浮かべるその子が、ゆっくりと顔をこちらへと向けられる。

 その子の視線とぼくの視線とばちりと合った。

 

 その日の光に翳した硝子玉みたくキラキラと輝く瞳に映っているのは、最も顕著に、そして明確にぼくとその子の違いを現す色だ。

 様々な色彩が渦巻いているかの如く、瞳の中で混ざり合って見える──極彩色。


 その──ぼくと同じ容姿でも、その端々が何処か精巧な写し人形のように作り物染みた風貌である──男の子は、しばし目を細めると口角をより釣り上げた。

 その“ニィ…”とした笑みと言うは、彼の顔がぼくと同じだと言うのに、ぼくの顔が浮かべているものとは到底思えないくらいに不気味なものであった。


 思わず、ぶるりと一際強い震えが走る。

 ぼくはその何か嫌な気配に恐ろしいものを感じると、顎を引いて肩を竦めた。

 それと同時くらいの頃、グレーの六部丈パンツから脹ら脛が露となっている足が交差し、前方へと踏み出し始めた。


「お腹が空いてしまったんだ。だからね、少しくらいなら良いかなーって、思って。」


 コツコツと足音を立てながらその男の子は、ぼくと同じ声で話しながらゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。

 やがて、男の子の足がピタリと止まったのはぼくの目の前。

 同じ背丈のぼくとその子が並ぶと、背筋をピンと伸ばしたその子と怯えて身を縮込ませて背中を丸めたぼくとでは、ぼくの方が少しばかり上目遣いっぽく見上げる形となる。


 それでぼくはおどおどとしながらその子を見上げると、身体を縮込ませて身構える。

 すると、その子はぼくに向けてニコッと笑み、そして両手を広げた。


「やあ、アーサー。さっきは置いてきぼりにしてごめんよ。」


 慣れない人混みは怖かったろう? と言葉を付け足して、謝罪を口にする彼は尚も笑みを浮かべたままだ。

 そこには一切の悪びれる様子はなく、世間話でもするかのような気軽さで言葉を続けて紡いでいた。


「お詫びと言っちゃあなんだけども……君にはとても怖い思いをさせてしまったんだ。だから“私”が君のことを慰めてあげよう。」


 あの広げられた腕の意味が解らず、どう対応したら良いものかと困った顔をして固まっていると彼からそんなことを言われた。


「大丈夫。ぎゅっと抱き締めて、こう………“よしよし”って、頭を撫でてあげるだけだから。」


 そう言ってぼく似な男の子は、抱き寄せた頭を撫でるかのようなジェスチャーをして見せる。

 そして、ぼくへと視線を向けると「……ね?」って言って微笑みかけた。


 ぼくは迷った。

 その子の笑みが何だか怖くて近付きたくない……そう思っているのも確かではある。

 でもそれ以上に未だ握られたままの右手が、隣にいる彼がぼくをあの子の元へ行かせないようにしているみたいだったのだ。

 心なしか、彼のいる隣から釘を刺すかのような視線と圧のようなものすら感じるような気がしていた。

 だからぼくはその場を離れることが出来なかった。


 とは言っても、その子の誘いを拒んでしまうのもなんだか怖い。

 その為、ぼくを誘うあの子の元へ向かうのも、行けない理由を口にするのも、どちらにしたって無性に恐ろしく感じてしまって、ただただひたすらに困り果てて、より身体を縮込ませるばかりとなるのだった。


 おろおろと視線を揺れ動かし、何も言葉を出さない口を何度も開閉させて狼狽えるぼく。

 すると、ぼくの目の前の男の子が不意に「ああ」と声を溢した。

 何かに気が付いたみたいな声音だった。

 そしてその男の子はぼくと同じ声を透き通るような涼やかな声音にして「アーサー」とぼくの名前を呼んだ。


 呼ばれてぼくは顔を上げた。

 ……上げてしまった。




 極彩色の瞳がぼくを見詰める。

 ぼくはその瞳に視線を合わせる。

 ばちりと交差した視線は絡み取られるように釘付けになり、それからはもう外せなくなっていた。

 その瞳は見詰めているだけで頭の中がくらりと揺れたような錯覚を起こし、そして吸い込まれていってしまいそうな感覚がぼくを襲った。


「“おいで”、アーサー。」


 その声を耳にした途端、今まで感じていた恐怖がぶわりと吹き飛んた。


 緊張が解けて、警戒心は失せる。

 頭の中が次第にふわふわとし始めて考えが纏まらなくなり、微睡みのような感覚を覚えて瞼がとろんと落ちては視界をぼやかした。

 そしてぼくはあの子に呼ばれたからと、呼ばれたからにはその言葉の通りに行かなくちゃ……そんな思考だけが頭の中に残り、それに従って行動しようと思った頃には既にぼくの足は動き始めていた。


 よた……よた……とぎこちない足取りが無意識に動く。

 自分を迎え入れてくれようとするあの大きく開かれた腕の中へと自然と向かっていたぼくの身体は、何だかあの子に引き寄せられているかのようだった。


「私はいつだって君の味方さ。怖いこと、恐ろしいこと、不安なことがあったのならば、その時はいつだって私の事をを頼ると良い。……大丈夫、君がそんな思いをしないで済むように、嫌なことは私が全部……全部……ぜぇんぶ、食べてあげよう。」


 涼やかな声がぼくの鼓膜を擽り、頭の中に優しく染み入ってくる。

 何も考えられなくなっていた頭はその言葉を素直に受け入れていくと、思考の奥の奥へと浸透し、そして刻み付けられていく。




 するとどうだろう、次第にぼくの心に変化が起き始めた。




 先程までは確かに恐ろしく感じていた筈のあのニタニタとした笑みに、ぼくはいつからか恐れや不安などの感情が感じられなくなっていた。

 ……いや、正確に言えば“ならなくなった”“解らなくなった”と言うよりは、そんな気持ちを過去に抱いていたことをもうすっかりと忘れ去ってしまったかのような感覚だ。


 得も言われぬ不気味さを感じさせてくる笑みは穏やかな微笑みへ。

 獲物として見られているかのような心地を覚えて思わず危機感を抱いてしまう視線は、軈て見守られているかのような慈しみの眼差しへ。

 いつからかそう認識が変わっている事には一切の自覚がないままに、ただひたすら妄信的に、あの子の傍こそがこの世で最も安全で安心出来る場なのだと思い込むようになっていた。




 だって、あの子は確かに言ったのだ。

 「自分は君の味方だ」って。

 だからきっとそうなのだろう、彼が言うのだから間違いない。




 そんな傾倒しきった思考にぼくは何の疑問も感じないまま、迷いも恐れもなくあの子の目の前へ。


「うんうん、イイコイイコ。素直で従順な子は実に好ましいね。」


 少年が満足そうに頷くと、ぼくを誘い込む手を頭へと伸ばし、フードの鍔に指先を引っ掛ける。

 ぱさりと微かな音を立てて頭を覆っていたものが落ちていくと、その下に隠されていた自身の栗色の髪が露になった。


 視界が開けたその中で、一瞬だけあの子が真っ赤な舌をチロリと見せたような気がした。

 それは何処か腹を空かせた肉食獸が、美味なる獲物を前にして舌舐めずりする様を彷彿させたけれども……ぼくにはもう、そんなこと気にもならない。


「さぁさ、その首から下げた“御守り”を外してご覧。………良いかい? “あの人”には見えないように、ね。」


 耳元で少年がぽそりとそう囁く。

 内緒話をするみたく小さく口にされた言葉は夢現で朧気な頭でもスッと入り込んでくる。

 ぼんやりとしながらもそれを理解したぼくは、何も疑問を感じることもなく外套下で首から下げていたものへと手を伸ばしていった。


 ちゃらり、とチェーンを鳴らしながらぼくが手に取ったのは、細い鎖状のネックレスを通した歪な星の模様が彫られた石飾りだ。

 その古びてボロボロとなり今にも砕けてしまいそうな石飾りを手にしたぼくは、少年から言われるがままにそれを首から外そうとして……途中で思い留まった。




 そう言えばこれ、誰に何と言われても絶対に外してはいけないって言われていたような……?




 これはぼく自身の身を守る為のものだから、と……初めてその首飾りを受け取った時に誰かからそう言われたような、そんな記憶。

 ええと、あれは………誰から言われたんだっけ?

 そうしてかつて誰かとした約束を思い起こし、ぼくは思わず手を止めてしまうのだけれども……残念ながらそんな考えは直ぐに霧散していった。

 ぼくの頭を撫でる手が脳裏に浮かんだ余計な思考を緩やかに掻き回していって、より一層何も考えれなくなっていったのだ。


 少年に言われるがままとなったぼくは首飾りのチェーンを手に取るとその身から離すべく頭を潜らせていった。


 そしてぼくは“外してはいけない”と約束されたことを忘れて、遂に首からその石飾りを外してしまったのだ。

 すると目の前の少年が歓喜に打ち震えるかのような、ご馳走を前にしたみたいに堪らないと言った声を溢した。


「ああ……本当に、君は“美味しそう”だ──。」


 その声は思わずと言った様子で口から溢れたようだった。

 熱の籠った吐息を溢し、笑みを浮かべた頬は興奮からか紅潮させ、うっそりとした表情にあるその異質な色の双眸は爛々と輝いていた。


 ぼくは首飾りを手にぼんやりと立ち尽くしていると、そこへあの子の腕がぼくの身体を包み込んだ。

 そっと背中に回された腕からは温かな体温がぼくへと伝わってくる。

 思わず“ほう…”と溜め息が溢れてしまうような、じんわりと染み入ってくる心地好さに感じ入りながらうっとりと目を細める。

 そしてぼくは相手の肩へと頬を乗せしなだれかかっていった。

 ゆっくり、ゆっくりと息を吐きながら……全身から力を抜いて。


 ………ふと、自分の身体から、妙な感覚を覚えた気がした。


 ほんの僅かな違和感であるそれは、もので例えるとすれば細やかな穴を開けた器から少しずつ水が滲み出るかのような感覚だ。

 あの子と触れ合った場所を通じて、さらさらと抜けていくそれが一体何なのかはぼくにはわからない。

 ただただ理由の解らない喪失感だけが残って、その矢先にまたその喪失感すらも段々と薄れていって……。

 けれども、そんな中でぼくの身体から徐々に減っていく何かに対し、反比例して胸の中膨らみ始めるものがあった。




 それは、その子の抱擁を受けているだけであらゆる全ての憂いが霧散していくかのような……途方もない安心感だ。




「ふふ、ふふふふふ。漸く手が届いたね、アーサー……私はずっと、ずっとこの時を待っていたんだ。」


 耳元で少年の声が響く。

 しかしその言葉は思考を止めた頭の中に入っても全て曖昧模糊にぼやけてしまって、意味すら持てずにただの音に成り果て消えていった。


 そうしてぼくの中から不安が消え、恐怖は薄れ、悲しみも忘れて胸の内にあった筈の、つっかえの一切がなくなっていく。

 身も心も温かく包み込んでいくような心地好さは、ぼくの意識や心から全ての危機感や警戒心をも融かして無くしていった。

 際限の無い安寧の微睡みに沈むようなその心地は、無性に脳裏に底無し沼を彷彿させた。

 そこに何か危ういものを感じたような気がしたけれども、その余りの心地好さからその子の抱擁を拒むことは出来ず、寧ろずっとこのままが良いとすら思えてしまって、結局ぼくには逃れようという気が起こらなかった。


 いつしかぼくはその少年の事を何だか離れがたく感じ始める。

 その安寧が余りにも魅力的で、無性に求めて止まなくなり、軈て自らの腕をその背中に回して抱き締め返した。


 かつん。

 お守りが落ちる音がした。


いただきます捕まえた──。」


 不意に、あの子の口から何故か食前の言葉が聞こえた気がした。

 理由はわからない。

 頭がぼんやりとして上手く思考を回せないから、目の前の少年が口を大きくかぱりと開けてぼくの首筋に近付けていく理由だって何も考えられないまま。

 その子が自分に何をしようとしても、ぼくはただそれを受け入れるだけ──そう思ってしまうようになっていたのだから。




 あの子はぼくを受け入れるように。

 ぼくはあの子へと身を捧げるように。

 共に身体を寄せ合って、共に互いを求め合う。


 やがて少年の歯がぼくへと届きそうな──そんな時だった。




 不意に、ぼくの身体がクンッとくの字にしなった。

 後ろから襟首を捕まれて、強引に後ろへと引き寄せられる。

 ぼくは驚いても声を出す暇すら与えられずに、今度は頭を上から押さえ付けられて否応無しに身を屈めさせられた。

 一体何が起きたんだ?

 そう思って思考を回すよりも先に、頭上で何かが風を切って通り抜けていくような“ひゅんっ”と言う音が鳴った。




 ──ゴシャンッ!




 風を切る音が聞こえた次の瞬間、今度は少し離れた場所から凄まじい打撃音が響いた。

 驚いて顔を上げてみれば、ついさっきまで目の前にいた筈のあの子が……なんと真横にあった壁に打ち付けられていた。


「かはッ……!」


 息を吐くと同時に、あの子の口から血がパタパタと吐き出される。

 背中向こうには頑丈な筈の石煉瓦の壁がめり込み、崩れ、ガラガラと小さな石雪崩を起こしているのが見えた。


 トンッ──かしょん。


 直ぐ傍で軽やかな地を叩く音と、続けて何かが割れる音に、釣られてぼくは直ぐ様そちらへと顔を向ける。

 そこではくるりと身体を一回転させながら、上げていた片足を地へ降ろしていく“彼”の姿があった。





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