-36 あなたは誰?
「“言われた通りに”? ごめんね、アルト。それは一体……どういう事なのかな?」
その言葉を聞いた瞬間、ぼくの喉からひゅっと息を呑む音が響いた。
身体の震えが激しくなり、恐怖のあまりに喉が渇いていく。
遂にはぼくは彼の顔を見ることすら恐ろしくなって、思わず顔を下に向けた。
その目には一杯に涙が汲み上げて、今にも力が抜けそうにな身体はぼくの腕からずっと大事に抱えていた本をするりと落っことしてしまった。
ああ、ぼくは“間違えて”しまった。
絶対に間違えてはいけないと思っていた筈なのに。
ごとん。
鈍い音を立てて、足元に本が転がる。
金の金具が周りを縁取った
落ちた衝撃で乱雑に開かれた本の中身が、パラパラと微かな音を立てながら独りでに頁を捲っていった。
顔を上げる事が出来ないぼくは、視線の先で中身を露にするその本を視界に映した。
するとぼくの頭の中は段々と真っ白に染まっていき、徐々に意識が遠退いていく感覚を覚えたのだった。
くらり、くらり。
たたん、たん。
ぼくの足がステップを踏むように一歩二歩とたたらを踏み、身体と共に視界を揺らす。
バランスを崩した身体は今にも倒れそうだ。
どうにか持ちこたえようと足を踏ん張ってみるけれども薄れていく意識が身体からその力を根刮ぎ奪い、前を向いている筈のぼくの視界に真っ青な空が映り出す………のに。
瞼が、重い。
途方もない眠気がぼくの意識を拐って瞼に重い重石を乗せていく。
それを自覚すると抗う間すらなく、ぼくの身体から力が全部抜け切ってしまっていた。
がくり。
身体が地べたに向かって崩れ落ちていく。
何の支えも無しに無動作に転がってしまうその直前、倒れ込んだ先の胸にぼくの身体は抱き止められた。
「……っと。」
ぼくの身体を包み込んだ腕からその人の体温が伝わってきて、抱き締められて触れた場所がほんのり温かく感じる。
その心地好さが相まって、ぼくの意識はいよいよぷっつりと落ちようとしていた。
「アルト、アルト起きて。目を覚ましなさい。」
その直前、頭上からそんな声が降ってきた。
優しく身体を揺すられて、確りしなさい、と目覚めを促される。
だけど──、
「(違うよ。ぼくは、“アルト”なんかじゃ、ない。)」
“アルトリウス”と言う名に、ぼくの頭が、ぼくの心が、どうしたって拒絶する。
ぼくには、その名前を受け入れる事がどうしても出来なかったのだ。
大きくて激しい睡魔の波が、緩やかに安らかな眠りの底へとぼくを呑み込む。
心を蝕む不安感や、身が竦む程の恐怖心がスッと胸から抜け落ちていく。
そして胸の中にはやがて、心地好い微睡みだけが残った。
それはまるで、一度足を踏み入れたら決して離してくれなくなるけれど、優しく手を手繰り寄せてそっと抱き締めてくれるかのような心地好さを感じさせてくれる、憂いを払い呑み込んでいく底無し沼だった。
深く、深く、落ちていく。
足の爪先から、頭の天辺まで。
まだ意識は微かに残ってはいる。
でも、もう、瞼は持ち上がりそうにない。
……いや、違うな。
本当はこのまま微睡みに身を委ねて、眠ってしまいたい。
悲しいことも、嫌なことも、辛かったことも全部全部忘れてしまえるのなら、一層のこと──。
──りん。
遠くで、鈴の音を聞いた。
──りん。
その鈴の音は、何かを
──りん。
………それは本当に、鈴の音、なのだろうか?
──りん。
その鈴の音の声は数を重ねる毎に、次第に明確な意味を持ってぼくの鼓膜に響き始めたのだ。
──り、りん。
『──“アーサー”。』
ぱちり。
一気に眠気が吹き飛んだ。
確りと開いた目を丸くして、ぼくはパッと顔を持ち上げる。
そこにいたのは、ぼくの身体を抱き抱えた“ナイト兄ちゃん”の顔だ。
訳も解らず混乱したまま呆然と見詰めていた先で、目を覚ましたぼくを見下ろす“ナイト兄ちゃん”が緩やかに微笑みを浮かべた。
「やあ、目は覚めたかな? “アルト”。」
「え、あ……?」
「もう、急に倒れるから驚いてしまったじゃあないか。具合が悪いのなら、兄ちゃんに言いなさいっていつも言っているだろう?」
「ふぁい………??」
何が起きたのかすら理解出来なくて、状況を飲み込めず間抜けた変な声ばかりが口から溢れる。
“ナイト兄ちゃん”はいつの間にか拾ってくれていたあの銅色の本を、そっとぼくに手渡してくれた。
それからぼくの頭をぽんぽんと撫でると、“ナイト兄ちゃん”はすっくと立ち上がってこちらへと手を差し出す。
「ほら、行くよ。今度は迷子になってしまわないように、兄ちゃんと手を繋ごうね。」
微笑みを湛えた“ナイト兄ちゃん”はそう言うと、ポカンと呆けているぼくがその手を取るのを待った。
それに気付いたぼくはハッとして慌てて自分の手を伸ばす。
でも、互いの手が触れるその直前、ぼくの手はピタリと動きを止めた。
ちらり、と上目遣いで彼を見上げる。
微笑みを浮かべたままの彼が、翡翠の瞳をこちらに向けたままこてんと頭を横に傾けた。
「? どうかしたのか?」
「………な、なんでも、ない。」
彼の問い掛けにぼくはそう言って誤魔化して手を取った。
温かな人の体温が触れた手からじんわりと伝わってくる。
握り締めたぼくの手が少し大きな手に握り返されて包み込まれていった。
「ん、良い子。」
頭上からそんな声が降ってくる。
握った手と手を見詰めていた視線を上へと向けてみれば、優しく微笑む“ナイト兄ちゃん”が目を細めてぼくを見下ろしていた。
その愛おしげにぼくを見詰める瞳に、ぼくは──
──ぞくりとした悪寒が背筋を走るのを感じた。
ふいっと背けた視線。
握られた手が震えてしまわぬよう、ぼくはきつく歯を食い縛る。
手を引く“ナイト兄ちゃん”の足に合わせて、ぼくもまた足を前へと進ませる。
「今日は何を食べようか。“アルト”は何か食べたいもの、ある?」
穏やかに話し掛けてくる“ナイト兄ちゃん”の問い掛けに、ぼくは少し思案して「何でも良い」とだけ小さく返す。
「そっか。じゃあ、今日は“アルト”の好きなものを作ってあげようか。さっき市場で珍しい果物と質の良い新鮮な肉を買ったんだ。折角だし、この前摘んだ山菜と一緒に焼いて食べちゃおう。」
勿論果物はデザートに、ね。
笑ってそう言う“ナイト兄ちゃん”にぼくはまたこくりと頷いて返す。
本当は食欲なんてなかった。
それでも彼の言葉に肯定するのは、彼からの施しを絶対に拒んではいけないからだ。
彼の命令には、絶対に逆らってはいけなかった。
無事でい続けていたいのならば、ぼくは“彼”の機嫌を損なわせないように目一杯慎重にならなくてはいけないのだから。
彼はぼくの返答に満足そうに頷くと、それから進む方へと視線を戻していった。
俯いたまま歩くぼく、隣からご機嫌な鼻歌が聴こえ始める。
「♪、♪、♪」
有象無象の群衆の中、ぼくは彼に手を引かれて先の解らない道をひたすらに歩く。
片手には
身に纏うは古びて赤茶けた襤褸のような外套。
頭の天辺から膝下まで覆い隠すその下には、首から下げた“御守り”がぼくの歩く振動に合わせてちゃらちゃらとチェーンを鳴らしていた。
──ねぇ、聞いた? あの噂。
人より
──かの大国の、拐われた王子様の話。
──生まれて直ぐに連れ去られてしまったから、あれからもう何年も経った今じゃ、本当は誰もその姿を知らないの。
そっと後ろを振り返る。
目に映るのはやっぱりこちらを見向きもしない人の群れ。
彼らはきっと、何の変哲もないいつも通りの日常を過ごしているのだろう。
……その直ぐ隣で、一体どんな出来事が起きているのかすら、知らないままに。
ああ、今日も──嘘や出鱈目ばかりが蔓延って、目に見える世界を曇らせていく。
──だから、誰も見たことがないから皆言ってるの。
──『本当に、そんな王子様はいるのか?』って。
視線を前へと戻す。
手を引かれて向かう先はぼくには解らない。
ぼくはただ大人しく、この手を引く“彼”に付いていくだけなのだから。
例え向かう先に何が待っていようと、何が起きようとも、ぼくは進み続けなければならない。
進み続けなくてはならない。
何故ならそれは紛れもなく、ぼく自身が選んだ道なのだから。
──牢屋の中の父親は気が触れてしまってすっかり床に臥せってる。
──王子様のことはそんな正気ではない人間の言葉だけ、それも“生まれていた”ことだけしか皆知らない。
──だから皆、挙って半信半疑な“悲劇の王子様”の噂話に、尾ひれはひれ付け足し、つい夢中になっていく。
その為には、是が非でも絶対に足を止める訳にはいかなかった。
例えそれが、“悪魔に魂を売る”ような事であったとしても。
例えそれが、“自分を偽り続ける”ことになってしまうとしても。
それには勿論不安はあるけれど……大丈夫、ぼくにはこれ以上失えるものなんてもう限られている。
──その中身が嘘か本当かだなんて、そんなの二の次そっちのけ、関係ない。
──皆がお喋りしてしまうのは、それがただ単に“面白い”からって理由だけ。
──だから皆、自分勝手に都合良く想像を膨らませて、噂話に花を咲かせてしまうの。
──だって、人は言うでしょう?
──“他人の不幸は蜜の味”って。
父と母はぼくが生まれた頃には
大好きだった育ての親の“あの人”達も………もう、この世にはいない。
だからぼくは、一人ぼっちになってしまったあの慣れ親しんだ住み処を、自らの意思で離れたのだ。
このヒトの手を取って、進み続けることを決めたのだから。
かつて失ったものを取り戻す為に。
本当の“自分”を見失ってしまわないように。
もう二度と、大事なものを失くしてしまわないように………あの日手に取った、この“本”を抱えて。
──ところで、あの“悲劇の王子様”の名前って何だったっけ?
──さぁ、何だったかな?
──“誰か”の名前を模していたような気がするね。
それでもまだ、今でも迷う時がある。
自分が何者だったのか、本当の自分とは何なのか。
だからその時はいつだって、この“中身を読むことが出来ない”本を見てぼくは“ぼく”であることを再確認するのだ。
この“本”は、ぼくの宝物のようなものなのだから。
……その理由も今じゃもう、思い出せないけれど。
それでもぼくは正しく在りたい。
白か黒かだけでも、せめてハッキリとさせていたいんだ。
一人でも歩けるようになる為に。
迷わずに、ちゃんと前を向けるようになる為に。
銅色の、蝙蝠の翼が生えた蜥蜴の絵が描かれたその“本”の表紙には、“とある人物”の名前が刻まれている。
本の題名は──“アーサー”。
──………ああ、思い出した!
──確か、拐われた王子様の名前は“アーサー”・C・ハイブラシル!
──ハイブラシル王国13番目の、空席の王子様!
それは、ぼくの
*****
親を失い、家族を失い、生まれ育った家を去って。
元の名を捨て、姿を眩まして、重い荷物は全て
身軽な身一つ、手には本一冊、宛のない旅路に踏み出し日々一歩前進。
行く先は知らない。
暗雲も、晴天も、どうぞ風の気の向くままに。
右も左も解らないぼくはただ、この手を引く背中を追い進むだけ。
ぼくを導いてくれる彼が見据える先には、一体何があるのだろう?
ぼくには“
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