-37 耳に届くは嘘か真か。

「おい、聞いたか? 数年前に死んだって話の、とある国の王子様が実はさ、本当は“誘拐”されていたんだって話。」




 人が賑わうとある町の一角にて。

 誰かと誰かが噂話をする声が聴こえてくる。


「何でも、とある悪党が王家を裏で操って、国を牛耳る為に人質に取ったんだとか。どんな奴かは知らないが、どうも悪名高いとんでもねー奴の仕業らしい。」

「まったく、酷い話だ。確か、親子三人纏めて連れ去られた挙げ句、母親は見せしめに魔物の餌にされて殺されたんだっけ? 他の二人の方はどうなったんだっけ?」

「何でも、一人だけ無事に国に帰る事は出来たそうだ。だけどよ、一人解放されなかった奴を守る為に、あろうことか悪党の言いなりになって悪行を働いちまったらしくてよ……それがバレて、今じゃ牢の中だそうだ。」

「そんな……ただのとばっちりだって言うのに、なんて可哀想な……!」

「多分だが、連れ去られたままなのが息子の方で父親が国に戻されたんだろう。全く、憐れなモンよ……親が子を思ってしたことでも、国はそれを許してやれないんだからさ。」


 それは、恐らく人伝から聞いたのであろう噂話。

 まるであたかも自身の目で見てきたかの様な口振りで熱弁する誰かの声に、それを耳にした別の誰かがその話の内容に同情し憐れみの言葉を溢す。


「それで、その悪党ってのは?」

「どうやら今、国が総掛かりで捜索中らしい。連れ去られたままの息子が依然行方不明のままなんだ。最近になって突然、草の根を分けて捜す勢いで国の使者達が世界中を駆け回り始めているんだとか……今までずっと忘れていたみたく放ったらかしにしていたのにな。ほら、指名手配書まで世に出回っているくらいだ。賞金も高額で掛けられているぜ。」

「ほう! それなら皆こぞって捜し回りそうだ! きっと悪党も王子様も、直ぐに見付かるだろうなぁ!」


 安心したような、嬉しそうな声がそう口にする。

 そういう事なら俺も手伝ってやりたいぜ! と言葉を続けて意気揚々とするのだが、そんな相手と反し、何処か言い難そうな声が続いた。


「それで上手く行くと良いんだがなぁ……。その、国が出した指名手配書ってのが、ちょいとばかし、問題があってな………コイツを見てくれよ。」

「ふむふむ、どれどれ………うん? 何だコレ? 指名手配書だって言うのに王子様のあやふや特徴ばかり書いてあって、犯人の手掛かりが一切無いぞ! これじゃあ捜そうにも捜せないじゃないか!」


 戸惑う声が文句言いたげにそう訴える。

 どうやらその指名手配書とやらには、賞金を掛けられた悪党の人相が描かれている訳ではないらしい。

 話を聞くや否や「では早速」と、その捜索の話に身を乗り出す勢いでやる気を見せていた誰かが、いざ蓋を開けてみればその余りの手掛かりの少なさに驚き「あり得ない」や「探す気は本当にあるのか?」などとぶぅぶぅ文句を言う。

 その不満の声に、そうなんだよなぁ、と同意を返す声が溜め息を吐いた。


「困ったことに、その悪党の事は誰も姿を覚えていない・・・・・・らしいもんでな。正直、国としてもお手上げなんだとか。」

「覚えていない? 一体全体、それはどういうことなんだ?」

「どうにもこうにも……その悪党ってのは姿を見ても何故だか“忘れて”しまうらしい。皆、姿を見ても見失っちまったらそれっきり、はっきりと思い出せなくなっちまうんだとさ。」


 そんな説明に「はぁ…?」と、意味が解らないと言いたげな息を吐く音が聞こえてくる。


「折角出会したところでうろ覚えになっちまうからさ、姿を見たって奴はどいつもこいつも全く違う特徴ばかりを証言して、もう収拾がつかないらしい。やれ“背が高い奴だった”、やれ“小柄な少年だった”、“身体の不自由な老人だった”、“人の形をした化物だった”……どれもこれも信憑性が薄くて、実に信用に足らん話ばっかりだ。………唯一、特徴が一致する話に多くあったのが“紅い目に隻腕だった”ってことくらいか?」

「紅い目? そんなの、亜人達──魔物が先祖にいる“人間モドキ”の奴らには良くある特徴じゃないか。その悪党ってのは人間じゃあないのか?」


 “人間モドキ”──誰かがそう口にした途端、もう一人の人物は突然動揺し酷く慌て始めた。


「オイ馬鹿、その呼び方は止めろって! 亜人共に聞かれたらどうするんだ! ……奴らは俺達人間と違って、町を囲う防壁の向こうで蔓延る、あの恐ろしい魔物達のように魔法を使うことが出来るんだ。そんな奴らに目を付けられてみろ、どんな酷い目に遇わされることか……! 突然竜巻を起こして吹き飛ばされてしまうかもしれないだろう…!?」

「そ、そうだった! ……そういや俺のダチも、酒で酔ってうっかり亜人に難癖つけちまって、怒った亜人に魔法で燃やされて全身大火傷を負ったんだって話、この間聞いたんだった………ううっ、そんな目に遇いたくない! なぁ、今の誰にも聞かれていないよな…!?」

「し、知らねぇよ! だって奴らは鳥みたいな目を持って人間なんか比べ物にならないくらい視力が良かったり、猫みたいな耳を持っていて遠くの話し声でも聞き取れたりするんだから! お、お前には悪いが、俺は何も関係無いからなっ! 危ない目に遇うんなら、俺まで巻き込まないでくれよ! じゃあな!」

「そんなぁ! あっ……お、オイ! 待ってくれ、俺を見捨てる気かよお!?」


 そんな声を上げながら、ドタバタと荒々しい足音が耳に届く。

 その足音は、どうやらこちらの方面へと向かってきているようだ。

 正面に見える人混みの向こう側からは、小さな悲鳴や無理矢理押された事に腹を立てて怒鳴る声が続けて聴こえだし、しかもそれが真っ直ぐに自分のいる場所に近付いてきているらしい。


 今はまだ耳にした音からでしかその状況を推し量れないが、目の前を壁のように視界を塞いでいた人混みの様子に、次第に異変を感じるようになってくる。

 奥の方から徐々にざわつきが伝播し、やがて見える範囲の人々ですらどうしたどうしたと困惑する様子が見え始める。

 その途端、目の前の人混みの壁を押しやる様に、そこから強引に掻き分けて一人の男が姿を現した。


「悪い悪い、こっちは急いでいるんだ! スマンがそこを通してくれ!」


 男はそう気休め程度の詫びの言葉を口にしながら、尚も人混みの中を駆け抜けていく。

 その時に何人ものを人を押し退けて、余裕もないまま我先にと進むものだから、そこにどんな人物がいたのかすら一切認識していないのだろう。


 途中でささやかな衝撃があった事に何の疑問を持つこともなく、録にこちらを振り返ることもしないで、男は一目散にその場を去っていってしまった。


「待ってくれー! おい、待てってばーっ!」


 続けて、先程の男が現れた方角から別のもう一人の男が姿を現した。

 彼は通りすがる者達に向けてへこへこと頭を下げつつ、何度も謝罪を口にしながら先程の男よりもずっと遅い足取りで人混みの中を進んできたようだ。

 その顔色を悪くした額からは汗が滝のように流れ、ぜえはあと酷く息を荒げて肩を上下させていた。


「はぁ………はぁ………おや? き、キミ、大丈夫かい?」


 目の前で、無精髭を携えた顎を伝う汗を腕で拭い取っていた男がこちらの存在に気付き、声をかけてきた。


「……ははぁ、もしかしてアイツの仕業だな? あんなに強引に突っ走って行ったんだ。きっと周りを見ずに、女子供もお構い無しで力任せに押し退けていったんだろう。………なぁボク、立ち上がれるかい? おじさんが手を貸そうか?」


 男は無遠慮に走り去っていったもう一人に呆れた様な言葉を溢しつつ、そしてこちらへとにこりとした笑みを向けた。

 手を差し出して「怪我はないかい?」と幼子に対して声掛ける様な気を使った言葉遣いにてそうこちらに訊ねてくる、そんな彼を、地べたにへたり込んでいた“ぼく”はずっと黙ったまま、暫しの間、深く被ったフード越しにじっと見上げていた。


 無意識に、腕の中で抱えていた本を握る手に少しだけ力が籠る。

 やがてふいっと顔を反らすと、目の前に差し出された手には少しも目もくれず、掌を土で汚しながらぼくは自力で立ち上がってみせた。

 何も答えないまま、口を固く閉ざしたままに。


 男は、そんなぼくの愛想のない態度に一瞬面食らい、目をぱちくりと瞬かせた。

 しかし再び笑みを作って見せると「大丈夫そう、だね」と優しげな声音で言い、序でに行き場を失った手を然り気無く引き戻していった。

 その時の男の笑顔は少しだけ頬が引き釣っているように見えた気がした。

 でも、そんな事はぼくにはどうだって良いことだ。


 目の前の人物に対しぼくは決して何か言葉を返すことなく、むしろ男から視線を外しては気にかけることなく、無関心にその場にて過ごす。

 片手に大きくて分厚い本を抱えながら、空けたもう片手で尻餅ついた時に引っ付いてしまった砂埃をポンポンと払い除けていた。


 掌に腰に、それから膝裏に……と上から順に汚れを落としていき、仕上げに何度か後ろを振り返って、もう服に砂粒が付いていないかを再度確認。

 やがて汚れ落としが完了した事で、ぼくは改めて正面を向き直す。


 すると目の前にはまだ先程の男が佇んでおり、立ち去らずにいる所かキョロキョロと周りを見渡して、何かを探すような素振りを見せていた。


 一体何を探しているんだろうか?


 しかし、どうやら目的のものは見付からなかったようだ。

 男は不思議そうに首を傾げたのち、ぼくの方へと向き直すと身を屈めて再び声をかけてきた。


「……なぁボク、お父さんかお母さんは何処だい?」


 それはとても丁寧で、まるで割れ物に触れるかのような恐る恐る口にしたかのような声音だった。

 思うに彼は、人混みの中で一人佇むぼくの事が余程気になるらしい。

 男は愛想笑いを顔に貼り付けて、無害っぽく振る舞いながらそう訊ねてきたのだが………ぼくはそれにも何も答えずにいた。


 それでも男はこちらの様子を伺いながら「何処から来たんだい?」「お家の場所は解るかな?」「お名前、言えるかい?」と質問を幾度と変えて訊ねてくる。

 どうにかこちらから情報を引き出そうと画策しているようだった。


 しかしぼくは頑なに口を閉ざしたまま。

 視線を男に向けてじっと見詰めるばかりで、決して何も返そうとはしなかった。

 それどころか、頭から全身を包み隠す、薄汚れた赤茶けた色のポンチョみたいなフード付きマントの鍔をくいっと引き寄せ、対面する相手に自身の顔をあまり見られぬよう男からの視線を遮る。


 やがて男は質問のネタが尽きたのか、或いは聞き出すことを諦めたのか、二人の間に沈黙が流れ始めた。

 一向に口を開く様子が見られないぼくに、困り果てた男は渋い顔を浮かべて後頭部を掻いた。


「困ったなぁ……多分この子が迷子なのは間違いないんだろうけど、意志疎通が出来ているのかがさっぱりだ。」


 男は溜め息混じりに言葉を溢した。


「もしかして、言葉が伝わっていないんだろうか? だとしたら尚更じゃないか。俺はイーリシュ語しか話せないんだ。ゲルニー語かフランシア語なら多少は解らなくもないが……チナ語やロスォ語なんかだったらこれっぽっちも解らない。ポニ語なんかじゃ、もっとちんぷんかんぷんだ! はてさて、一体どうしたものか……。」


 男はそうぼやきながら、黙りこくったままのぼくの前で頭を痛そうに抱えて呻き声を上げた。




 イーリシュ語とは、人類の公用語として世界中で一番よく使われている言語であり、尚且つ、ぼくが生まれ育った故郷の主言語だ。

 だから、実は彼の言葉はちゃんとこちらに伝わっている。


 なら、どうして返事をしないのか?

 それはただ単純に、ぼくには彼の問い掛けに返答する気がないだけだ。

 もっと言えば、彼自体相手にするつもりこそ毛頭ない。

 だからこそ、こうして無駄に話し掛け続けられる方がよっぽどこちらとしても迷惑な訳で「早くどっかに行ってくれないかな」なんて思ってしまって、ぼくはつい眉間に皺を寄せてしまうのだった。


 一層の事、ぼくの方からこの場を去ってしまおうか。

 そんな思考が頭を過る。

 その方がずっと単純で、簡単で、今すぐにでもこの見知らぬ男の質問責めから逃れられるものだから、ついそうしたくなってしまう。

 でも、それは今のぼくには出来ない解決法だった。


 何故なら今、ぼくはここから離れられないからだ。

 離れられないからこそ逃げ出せず、しかも“誰とも話してはいけない”からこそ何も返せない。

 だから実の所、こちらとしても一向に去る気配のない彼への対応に困ってしまって、どうしたものかと考えあぐねていたのだった。


 そうしてぼくらは互いに、頭を抱えたくなるような問題にぶち当たってしまっていた。

 二人立ち往生し困り顔を浮かべる、そんな時だった。




「アルト、アルトリウス! 何処にいるんだ? いるなら返事をしておくれ!」




 不意に、人混みの向こうから人の名を呼ぶ大きな声が飛んできた。


 男は「おや?」と顔を上げて、何処から来る声なのかキョロキョロと頭を左右に振って周りを見回し始める。

 その時にぼくはと言えば、その声を耳にした途端にパッと顔を上げ、少しも迷いを見せることなくとある方向に向かって、真っ直ぐに視線を向けた。


 聞き馴染みのあるその声に、ぼくはすがる思いでずっと閉じていた口を大きく開く。

 思い切り息を吸い込んで、弾けるようにその方角へと向かって声を張り上げた。


「にゃいっ──ナイト兄ちゃん!」


 咄嗟に大声を出したからだろうか。

 ぼくは勢い付き過ぎて、つい自分の舌を噛んだ。

 ぶわりと湧き出す羞恥心から顔に熱が籠り始める。

 ぼくはフードの鍔を握り締めて、思わず俯いてしまった。


 一方その頃。

 そんなぼくの声を聞き付けてくれたのか、人混みの中から一人の青年がこちらへと向かってくる様子がちらちらと垣間見えてくるようになった。


 ずっと駆け回っていたのか、その人は息を切らして汗を頬や額に浮かべ、ヨロヨロとした足取りでふらついているようだ。

 人混みの上から時折見えてくる、頻りに周りを見回しているのが遠目からでも解った。

 行き交う人の波に逆らっている為か、その流れに何度か浚われそうになりながらも、後ろで一つに纏めた肩や目の下に毛先が付く長さの小麦色の髪を振り乱して、誰かの名らしきものを叫んでいる姿は誰が見ようと人を探しているのは一目瞭然だ。


 そんな彼の目元には耳と眉間の下──大体鼻の根本辺りと言ったところだろうか?──に引っ掻けるように二つの輪っかを作った針金みたいな金具がちょこんと乗っけられていた。

 穴の中心にはどうやら小さな硝子板を嵌め込まれているようなのだが、嵌められているのが一般的に良く見かけるような色付きのものではなく、一切混じりっけのない透き通るような透明無色のもの。


 ……透明だから視界の邪魔をしないとは言え、目の前に置いて着飾らなければならないような装飾品にどんな用途や利点があるのか、ぼくには全く理解出来ないけれど。


 そんな一風変わったアクセサリーを身に付けたその人の風貌は、すれ違う者がつい目を引かれてしまうような、少しばかりの異質さがあった。

 だからと言って物凄く目立つとまでは言えないけれども、その“少し変わっている”と思わざるを得なく感じてしまう原因と言うのが、その装飾品に限った事ではなかったから尚更だった。


 その身に纏った服装は町の人のようには質素過ぎず、かといって貴族のようには豪奢ではない。

 雨風をしのぎ身を守る為に確りとした、少し厚めの生地や素材で作られているらしい、所謂“旅装”とされるものに限りなく近い風変わりな衣裳だ。

 しかし、幾ら“旅装”と言っても、その人の服装と言うのが良く見聞きするものとは違い、驚く程にとても軽装なものでもあったのだ。


 防具はなく、武具もなく、大きな鞄やモノを背負う為の麻袋すらも見掛けられない。

 精々、袖は短くも背中のプリーツは膝裏まで届く濃いベージュ色のロングコートに、両手には指貫きの革グローブを嵌めて、それから膝下まであるロングブーツも同じベージュ色で革製のものを身に付けているくらいだ。

 幾ら貧乏で防具を買う余裕がなかったとしても、最低限急所を隠す鉄甲が貼り付けられているのならば多少はマシなのだが………何処を見ようとも、それら全てに置いて装備しているのは柔かな生地のみしかなかった。

 ならばそこに防御力なんてものは、欠片どころか微塵もある筈がない。


 大抵の旅人ならば、大きな壁を隔てた町の外の恐ろしさを知っている。

 その理由は、脅威的なまでに力が強く、そして魔法という超常現象を引き起こす奇跡の力を容易く操る生物──“魔物”がそこら中を闊歩しているからこそだ。


 人は彼らを一括りに“魔物”と呼ぶが、何も彼らはただ単一の存在と言う訳ではない。

 多種多様の……しかも幾百幾千通りもあるそれら全ての種族には“魔法”を使うことが可能である、と言う点に人は最も重きを置いているからこそ。

 だからこそ人は、魔法が使えるそれらの生物のことを総じて“魔物”と称しているのだった。




 そんな彼らの多種多様さと言うのは、本当に幅広いものだ。

 例えば、剣で切りかかろうが少しも傷を作ることも叶わず、逆に剣の方が折れてしまう程に硬い鎧のような皮膚を持つ巨人がいたり。

 例えば、水のように身体を溶かして如何なる隙間をも潜り抜けるものもいれば、酸の身体を持ちあらゆるものを融かして食らう流体の、そもそも生物と呼べるのかどうかすら疑問甚だしい存在がいたり。

 そして、そんな魔物の中には、岩や鉄などおよそ食用とするには余りにも不可解なものを好んで食するものもいたりして……。


 兎にも角にも、魔物と言うのはただひたすらに人知に及ばぬ生態を持った奇妙で不思議な生物であることが大半だ。

 そんな彼らに人はその不可解さと圧倒的な力の差故に、相容れぬ存在として昔から忌避、或いは畏怖してきているのだった。


 犬や猫のように、獣染みていて言葉は通じず。

 狼や虎のように、野生に生きて制御は利かない。

 そう言った存在だからこそ、人は皆彼らの存在を脅威とし、町と外を区切る壁を築いては魔物の侵入を拒んで身を守る。

 だからこそ、壁の向こうへと行くのならば武器と防具と“死ぬ覚悟”を胸に抱いて、防壁も守護も何もない、人の手が加わっていない未開の大地を踏み締めなくてはならなかった。


 故に、古今東西何処の誰に訊ねようとも、もしもこんな風貌で旅をしていると聞いたならばきっと、手を叩きながらに大声で笑ってしまうことだろう。

 そして皆口を揃えてこう言うのだ。




 ──命知らずめ大馬鹿者だ、と。




 厚手の革のグローブを嵌めた掌を口元の横に添えて、彼は何度も同じ名を叫んでいるらしいのが遠目に見えてくる。

 人の波に揉みくちゃにされながら、やっとのことで人混みを抜け出す事が叶うと、漸くその人物とぼくとの間に視界を遮るものが無くなった。

 すると、そこで初めて彼がこちらの存在に気付いて視先を向けた。


 瞬間、互いの目がばちりと合う。

 ぼくはもう一度“ナイト兄ちゃん”と叫ぼうと口を開いた。

 しかしぼくが声を出すよりも先に、彼の声がこちらへと届いた。


「アルト!」


 彼はぼくの姿を見付けるや否や、その名前を叫ぶと共に直ぐ様こちらに向かって駆け出した。

 かと思えば、フードで顔を隠して俯いていたぼくの肩に勢い付いたまま掴み掛かる。


「こんなところにいたのか! あれ程迷子になったら大変だからって、一人で好き勝手に歩き回らないようにって注意していたのに……俺の傍から離れちゃあダメじゃないか!」


 視線の高さを合わせるようにしゃがみこんだ彼は、そう言って短い眉を下げ「凄く心配したんだからな!」とぼくを叱りつける。

 しかし、それは決して声を荒げて捲し立てる様なものではなかった。


 怒り心頭と言うには勢いは弱く、腹を立てて怒ると言うよりかはこれっぽっちも荒々しくない。

 まるで危ないことをした子供を叱り付けるみたいな、相手を思いやっているが故に、厳しい言い方になっているかのような叱咤の声だった。


 目の前間近に近付けられたその顔には、潤みを帯びた翡翠色の瞳が硝子板越しに真っ直ぐぼくを見詰めている。

 よくよく見てみれば、その目尻には一杯に雫を膨らませて溜め込まれているのが解った。

 それは、彼が一度でも瞬いてしまえば今にも溢れ落ちてしまいそうに思えた。


 ぼくはどうしたら良いのか解らず、直立不動のまま黙りこくる。

 すると軈て、目の前で雫がぽろっ…と溢れ落ちそうになるのを見た。

 しかしそれが頬を濡らす前に、半袖のコートの下から伸びている中着の長袖が目元をぐいっと拭い去っていく。


 すると、彼は急にぼくの身体の至るところを触れて回り始める。

 ぼくは彼の行動に面食らって驚いてしまい、つい後退ってしまった。

 しかし直ぐに、それが身体の何処かが怪我をしていないか確認しているのだと、その行為の意味にぼくは気が付く。

 だからぼくは彼の邪魔をしないように、身体を動かしてしまわぬようそっと背筋に力を込めるのだった。


 隅々まで調べては心配そうに、頻りに「大丈夫だったか?」「怖い思いをさせてごめんよ。」と、彼は何度もぼくに声を掛ける。

 先程は確かに尻餅こそ付いてしまったぼくではあるが、それでもほんのりと腰に痛みがある程度なので、当然他は無事である。

 だからそれを伝えようとまた口を開きかけるぼくだったのだけども、彼が余りにも真剣にぼくの身体を見て回っているので、何だかそれに水を差すのは気が引けてしまって……結局ぼくはまた何も言えず終いなまま、最後まで大人しくすることに決めるのだった。


 暫く続いた触診が漸く終わったらしい。

 確かにぼくの身には何一つとして傷はない、そんな無事である事を確認し終えた彼が細く長い息を吐き出す。

 ぼくの両肩に手を置いたまま、俯いてしまった彼の表情はこちらからは見えない。

 だけれども、彼の後頭部の小麦色──そこには何色かの糸で編まれた紐状の髪結い紐が小さなポニーテールを作っているのが見えた──しか見えない視界の中、下から消え入りそうな声で「良かった……本当に、良かった……!」と微かに声を溢していたのは、確りとぼくの耳に届いていた。


 そんな彼の言葉にぼくは何だか居たたまれなくなってしまい、思わず肩を竦ませる。

 顔を少しだけ俯かせて、口をもごつかせながら「ごめんなさい」と小さく呟いた。

 すると彼は、まだ少しだけ涙が残っていたらしい濡れた目を細めて、何も言わないまま笑みを浮かべてぼくの頭をそっと撫でた。


「ああ良かった。お兄さん、見付かったんだね。」


 そこに、蚊帳の外で空気になっていた男が、安心したような声を溢したのが聞こえてきた。

 ぼくが“ナイト兄ちゃん”と呼んだ彼がその声に反応してそちらへと顔を向けるので、続けてぼくも見上げてみる。

 そこで、ホッと胸を撫で下ろす仕草を見せていた男がぼくらの視線に気付き、そして苦笑した。


「言葉が通じていないんだと思って、自分だけじゃ手に負えなさそうだったからさ……丁度今、町の衛兵さんを呼びに行こうか迷っていた所だったんだ。……ボク、無事に家族と再会出来て良かったね。」


 男はそう言って穏やかな笑みを浮かべると、ぼくの頭上へと手を伸ばしてくる。

 恐らくそれは、“ナイト兄ちゃん”のように頭を撫でようとしただけなのだろう。

 だけどもぼくはその場から一歩下がり、彼の手から逃れるようにそれをかわした。


 男も、まさか逃げられるとは思わなかったのだろう。

 行き場を失った掌を宙に浮かせたまま、彼は引き釣った顔に苦笑いを浮かべた。

 そこに“ナイト兄ちゃん”が割って入り、そして男に向かって……なんと、勢い良く頭を下げたのだ。


「すみません、ウチの弟がご迷惑をお掛けてしてしまったようでっ……!!」


 ペコペコと何度も頭を下げ出す彼。

 男は目を丸くして面食らい、固まる。

 何度も何度も謝罪を繰り返す“ナイト兄ちゃん”を前に、少ししてやっと我に返った男は苦笑して、掌をひらりと見せた。


「いえいえ、自分も偶然ここを通り掛かっただけなので! 寧ろこちらの方こそすみません。どうも、自分の友人がここの通りを強引に抜けていく時に、その子にぶつかっちゃったみたいで。」

「とんでもない! それもこれも、保護者としての自分の監督不届き故に起こしてしまった事なので……!」


 後頭部に掌を当てると申し訳なさそうに眉を下げながら、こちらもと頭を下げ返したその男。

 それにぎょっとした“ナイト兄ちゃん”がまた慌ててしまって、胸の前に出した両掌をブンブンと横に振り出した。

 そうして二人の大人達は暫くの間、ぼくの頭上でへこへこと頭を下げ合い続けるのだった。


 多分、きっと、この二人はとても波長が合う者同士なんだろう。

 片や迷子や困っている者を放って置けないお人好し気質らしく、片や庇護下の者は目の届く範囲に置いておかねば気が済まない程に過保護で心配性な気質のようだった。


 つまりは近からずも遠からずである“似た者同士”なのだ。

 だから、場違いなぼくは彼らの邪魔にならないよう、口を閉ざしたまま静かにその場に佇むことにした。






 そう、空気になるように。

 そっと息をひそめるように──。






「──アルト。」


 不意に、“ナイト兄ちゃん”の声がその名を呼び、ぼくは思わずびくりと肩を揺らす。

 いつの間にかぼーっとし過ぎて、意識が遠退いていたのかもしれない。

 ハッとして見上げてみれば、目の前にはナイト兄ちゃんが鼻の付け根に引っ掻けていた硝子板の飾りを額まで持ち上げて、心配そうにぼくの顔を覗き込む姿があった。


「え、えと……。」


 ぼくは思わず身動いだ。

 ぎこちなく視線を揺れ動かし、横目で周りを見てみる。

 いつの間にか、先程の男は立ち去っていたようだ。

 ぼくの傍には目の前にいる“ナイト兄ちゃん”と、ぼくらには一切無関心な人の群れがあるだけ。


 ぼくは咄嗟に思考を巡らせる。

 焦りから額に汗が滲み、胸の奥から湧き起こる不安感にこくりと喉が鳴る。




 ………一体、今はどっち・・・なんだろう?




「……アルト? どうかしたのか?」


 再びその名前が彼の口から紡がれる。

 びくっと身体を揺れ動かしたぼくは、ついさっき見た自分を見遣るあの硝子板の向こうの瞳が忘れられずに、咄嗟にこう言ってしまった。




「ごっ、ごめんな、さっ……ぼくは、ちゃんと……い、言われた、通りに…出来ていました、か……?」




 身体も口も極度の緊張から酷く強張ってしまって震えており、それでもと何とか喉から絞り出したのは途切れ途切れな言葉。

 胸元でぎゅっと抱き締めた大きな本、すがり所がそこにしかない腕は小刻みに小さく揺れている。

 正面から向き合う事が出来ず、上目遣いで恐る恐るに見上げた目にはうっすらと浮かぶ涙に視界が滲んでしまって、映る景色は歪んで見えた。




 ぼくにはもう後がない。

 後がないから絶対に間違ってはいけないのだし、絶対に間違ってはいけないのだからこそ、彼から言われた通りにちゃんと演じなくては偽らなくてはならない。


 でも“間違ってはいけない”から、本当にこれで良いのかとどうしても不安は募っていく。

 するとぼくの身体は本当に動かせなくなってしまって、言うことを聞かなくなった足は前にも後ろにも進んでくれなくって、どうしようもなくなってしまうのだった。




 必死に絞り出したぼくの問い掛けからと言うものの、二人の間に沈黙が流れていく。

 待てども待てども返答はなく、ただ静かにこちらを見詰める彼の口元には笑みが浮かんだまま、口角を緩く釣り上げて弧を描く唇はどう見たって隙間なく閉じ切られていた。


 暫く経って、その微動だにしなかった唇がゆっくりと開かれるのを見た。

 酷く穏やかで優しげな微笑みを湛えていた彼は困った様な表情を浮かべて眉の両端を下げると、決して聞き逃してしまわぬようにと、ぼくに向けてとても緩やかな動きで言葉を紡ぎ始めた。




「“言われた通りに”? ごめんね、アルト。それは一体……どういう事なのかな?」





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