-38 原点回帰。

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 原点アルケタイプ 壱


   【申真似童子は跡を追う。】











 ザァザァ、降り頻る雨の音。

 ごうごう、耳元で唸る風の怒鳴り声。


 激しく波打つ濁流の渦。

 泣き腫らした頬を強く叩く、大きな雨粒の小さなつぶて

 天へ掲げた小さな掌、風に浚われ宙を舞う視線の先の白。




「行かないで!」




 喉が裂けそうな程に張り上げた声。




「置いていかないで!」




 声にしたところで虚しいだけの悲痛な願い。

 風に浚われ飛び回っているのは、この小さな手から離れてしまった、とても大事なもの。




「止めてっ………それはっ、それはぼくの大切な──!」




 弄ぶ様に雨水で濡らし、こちらを嘲るかのようにくるりくるりと宙で翻しながら──、




 高く、高く。

 遠くへ、遠くへ。




「父さんからのっ手紙で──!」




 ──ぽちゃん。




 軈て落ちていった先には、泥混じりの波が逆巻く激流の奥深く。

 夜闇の中でもあれ程目に付いていた小さな真っ白は、あっという間に呑み込まれ、見えなくなっていった。


「ああっ………!」


 全身に降り注ぐ雨粒に混じり、大粒の涙が頬を伝う。


「どうしてっ………どうしてぇえっ………!!」


 あんなに大事に掴んでいた筈なのに。

 呆気なく掌から離れていった手紙それは、こうも簡単に失ってしまった。




「あああああっ………!!」




 天を見上げ、大口を開いて泣き叫ぶ。

 わあわあとどんなに泣いて喚いても、強い雨足が瞬く間に掻き消してしまい、この世界には自分たった一人しかいないかのような錯覚を起こす。




 ………いや、現にぼくは、たった一人になってしまっていた。




「父さぁんっ………母さぁあんっ………うわああああっ…!!」




 打ちひしがれて、へたりこんで。

 差していた傘はいつの間にか手放してしまい、風で何処かへと吹き飛ばされてしまっていた。


 地べたに付いたこの掌にはもう、何も残されていない。

 全て、全て、取り零してしまったんだ。

 もう後戻りの出来ないところまで来てしまって、自分だけ一人、残されたままに。




「……どうして………っ!」




 潤む視界。

 その脳裏に浮かぶのは先程目にした惨状。

 自分が見てしまった、惨状だ。




 きぃ、きぃ、きぃ。

 軋む音。


 ゆら、ゆら、ゆら。

 揺れる振り子。




 床に無動作に倒れている椅子と、真っ暗な部屋でもカーテンの向こうから漏れてくる街明かり。

 ぼんやりと照らし出されたリビングには……いつの間に飾られていたのだろう?

 大きな、大きな“照る照る坊主”が揺れていた。


 その“照る照る坊主”はからは……どうしてだろうか。

 自分が着ている畏まった黒い服から香る、線香の匂いと同じ香りがしていた。




『とう、さん。』




 それはついさっきまで隣に立っていた筈の人。

 どうやら自分を置いて一足先に家に帰っていたらしい。


 天井から垂らした素朴なブランコに、なんだからしくない大きなロープのネックレスでおしゃれに着飾って。


 一体、いつの間に用意していたんだろう?


 いつもいつもお仕事で、毎日忙しそうだった父さん。

 どうもお金に困っているらしい。

 いつだったかに父さんが「母さんの入院費が……」と疲れた顔で呟いているところを偶々耳にしており、ぼくは知っていた。


 元より大して裕福じゃなかったぼくの家は、今では明日のご飯の心配が当たり前な程にとても困窮していた。

 だから父さんは朝も、昼も、夜もとどんな時間に関わらず、仕事に出掛けっぱなし。

 ぼく一人、お留守番続き。

 休む間すらなく仕事へと出掛ける父さんは、いつだってぼくの為にとがらんどうな冷蔵庫の中ちょこんと一つコンビニ弁当を残してくれていた。

 時にはキッチンのテーブルにお小遣いだけが残されていたり時には何もない時だってたまにあった。

 けれども、そんな時父さんは顔を合わせようものならば、酷く申し訳なさそうに「ごめんな、ダメな父親で本当にごめん。すまないが、今日だけは我慢してくれ」って泣きそうな声で謝っていた。


 だからぼくはいつもお腹がぺこぺこ、身体はふらふら。

 それでも、その我慢のお陰でいつか母さんの病気が治ってくれるのならば……そう思えば、お腹が空いても我慢するのは苦じゃなかった。


 だってぼくは、学校に行けばお昼に給食でお腹一杯食べられるのだから。

 ぼくん家が給食費をまともに払えていないのを知っているクラスメイトに「給食ドロボー」なんて、悪口を言われたりする事もあったけれど……それだって、我慢しちゃえば何てことない。


 でも、父さんはそうはいかなかった。

 いつもお弁当を買ってきてくれて、それを一番にぼくに与えてくれる父さんは、お腹いっぱいに食べているところを見たことがない。

 寧ろ、ぼくだけが“半額”のシールが付いたお弁当を食べて、向かいに座ってぼくを眺める父さんの前には何もない……。

 そんな事の方が、ずっとずっと多かった。


 昔は大きくてがっしりとした身体に力強いのが自慢だった父さん。

 日に日に痩せ細って、すっかり顔色も悪くなってしまっていた。

 ゆっくり寝てる姿だって、最後に見たのはもうどのくらい前だっただろうか。


 だからぼくは、そんな父さんがずっとずっと心配だった。

 だから、揺りかごみたく揺れながらぷかぷか眠っている父さんを見て、ぼくはなんだかちょっぴり安心・・してしまったんだ。


 何回話しかけても起きてくれないのはちょっぴり寂しいけど………ブランコが楽しくって、遊び疲れちゃったのなら仕方がないよね。




 ぽく、ぽく、ぽく。

 軽やかな打楽器の音。


 ゆら、ゆら、ゆら。

 立ち昇る白く細い煙の糸。




 淡々と続けられる抑揚の無い呪文のような歌が流れる中、ぼくは微笑みを湛える“その人”の写真を抱えて立っていた。


 色白の肌、黒壇の長髪。

 頬はほんのりと朱が彩り、形の良い唇はいつだって薄紅色を纏って弧を描いていた。

 その整った容姿からは、誰の目から見てもとても綺麗に思われることは間違いない。

 何せ、それはぼくの自慢でもあるのだから。


 そんな、誰よりも綺麗で何でも出来る“その人”は、優秀さからよく人に頼られていた。

 常々より考えるよりも先に手が出てしまうような人助け癖が功を制して、周りの人達からとても良く好かれていたのだ。


 でも、“その人”は今、窮屈そうで飾り気のない真っ白な箱の中。

 人一人入れるだけのそこで静かに横たわっていた。

 周りを花で囲まれて、胸元で手を組み合わせて眠っている。

 その顔には、箱と同じくらい真っ白な布を被されていた。




 全く、せっかく気持ち良く眠っていると言うのに。

 一体誰のイタズラだろうか?

 あれではきっと息苦しいに違いない。




 そう思って手を伸ばすぼく。

 後ろから自分を呼ぶ声が聞こえるが、その静止の声は間に合わず。

 捲り上げられるヴェール、露になったその素顔。




 そこには──自分の知らない原形の留めていない“何か”がいた。




『かあ、さん……?』




 爛れて黒ずんだ肌、崩れた顔面の形。

 それを目の当たりにして呆然と立ち尽くすぼく。

 その場から離れさせようと、ぼくを抱き抱えた父さんの咽び泣く声。


 これは母さんじゃない。

 こんなの、母さんじゃない。

 こんな醜い“人形”を箱の中に飾って、一体何が楽しいんだろう?


 本物の母さんは、何処へ連れて行っちゃったの?





 

 ………知りたがりだった幼いぼく。

 知らないままでいることこそが幸せでいられるのだと、そこで初めて知った。






「──あああああああッ……!!!」






 堪えて、我慢して、目を背け続けて………ついに折れてしまったぼくの心。


 助けてくれ、涙が止まらない。

 誰か助けてよ、こんな現実見たくなかった。

 知りたくなかった。

 気付きたくなかった。

 辛い現実から逃げ続けていたかったのに、心がポッキリと折れた拍子に、遂に目を覚ましてしまったんだ。


 一体ぼくは、どうしたら良かったんだ!




 “幼いから”。

 “貴方はまだ子供だから”。




 そんな言葉で、いつだって守られるばかりだったぼく。

 そんな言葉を口にして、ぼくを守ってくれていた人達は……もういない。




 ──早く大人になりたい。




 守られてばかりではいられないからと、その想いを胸に駆け続けていた足は崩れ落ちた。




 ──早く、“大人”になりたい……?




 現実を嘘と知らんぷりで誤魔化したところで成長すればする程に、否応なしに理解出来るようになってしまった、辛い現実。




 ──………ぼくは………。




 どんなに足掻こうとも、届くことはない。

 そう思い知らされた、非力で無力なこのちいちゃな両手。






 ──………大人に、何も知らないなりたくないままでいたかった






「置いていかないで……!」




 ぼくは叫ぶ。




「ぼくも連れていってよ………一人にしないでよぉっ………!!」




 伝えたい相手はもういない。

 訴えるべき相手は……一体誰なんだろう。

 考えても、考えても、わからない。

 胸を占めるのだって、虚しくて悲しい想いばかり。




 そうして、ただただ受け入れがたい現実に絶望して、ぼくは──、






「──お願い、“神様”!」






 胸の前で組んだ両手。

 見上げたのは荒れ狂う雨空。

 そこに向かって、ぼくは無我夢中で叫んだ。




「ぼくのお願いを聞いて!」




 叫んだって、届くかどうかはわからない。

 そもそもいるのかどうかすらもわからない。




「母さんみたいに立派な人になれるよう、勉強も頑張ります。父さんをもう困らせてしまわないように、言うことだってちゃんと聞きます──。」




 それでも周りは皆、“そのヒト神様”はそこにいるのだと口々に言う。

 それでも人は皆、“そのヒト神様”はぼくらを見守ってくれていると信じている。


 供物対価を捧げる。

 誓いを立てる制限を課す

 そうすればきっと願いを叶えてくれる──そう、信じて。




「わがままだって、もう言いません。他には何もいらないから、だからっ──!」




 だからぼくも「そうであってくれ」と切に願いながら、皆が口にするようにそれに習ってそれを叫ぶのだ。




「ぼくを一人に、しないでっ………!」




 心の中で「そんなもの、いる訳がないだろ」と嘲る、もう一人の対照的な自分を抱えながらに。




「父さんと母さんのいるところに、ぼくも連れていってよおッ──!!」




 幾ら叫べどもちっぽけなぼくの声は誰にも、“神様”にだって届くワケがない──そのくらい、わかっているハズなのに。






 ──ざぱんっ。




 逆巻く波が大きく跳ねる。

 頭上から覆い被さり、川の岸辺にいたぼくの身体はあっという間に引きずり込まれていく。






 ぐるぐる、水流に掻き回され。

 ぶくぶく、息が出来ない。






 冷たい水に包まれてしまって身動きは取れない。

 一体何が起きているのか、さっぱりわからない。






 わからない、けど……。






 冷えていく身体が水を掻く力を失っていく。

 気が遠くなってゆく。

 空気を求めて開いた口ががぽっと音を立てて泡を吐き出した。


 もう、息が──。






「(………このまま、全部終わってしまうのだろうか?)」






 薄れゆく意識の中、激しい雨の音も荒れ狂う波の音も聴こえなくなって静かになった世界で、ぼくは思う。





「(………でも、これで父さんと母さんの元に行けるとするのなら……)」






 冷たいと思っていた筈の水は、いつの間にかほんのりと温かく感じるように。

 でも、同時に感覚すらもが薄れていって、拳を握る力すらも込められなくなって──、











「(………もう、このまま目を閉じて眠ってしまっても、いっか。)」











 ──ゆっくり、ゆっくりと、深い深い眠りに落ちていった。











 原点アルケタイプ 壱


   【申真似童子は跡を追う。】


 終






 *****






『──次のニュースです。』




 早朝、そこにいる殆んどが黒と白の衣服で身を包む人達が犇めく駅のホーム。

 騒々しい雑踏に紛れて、誰かが手にしているスマホから淡々とした女の人の声が聴こえてくる。




『■■町、■■団地にて、近隣住民からの“男性が首を吊っている”という通報を受け──、』


「ねぇ聞いた? これ、一家心中らしいよ。」

「えーっやば! 小さい子もいたんでしょ? かわいそーっ。」




 知らない人達の噂話の声。

 全く知りもしない赤の他人の癖に、聞きかじっただけのおいしい都合のいいところをかいつまんでは知ったような口をして話を広げていく風景が視界を掠める。




『近隣住民からはよく───自宅には子供だけを残し──父親は不在である事も多く──、』




「父親が相当借金抱えてたらしいよ。今行方不明になってるらしい子供もさ、ずーっとほったらかしで家を留守にしてたんだって。」




『──といった事もあり、警察は児童虐待の可能性も考えており──』




「どうせギャンブルに使い込んでたんでしょー? ……あ、もしかして浮気の可能性もあるんじゃない!?」




『──母親は病院にて闘病中で──しかし事件前日に変死──』




「有り得るかも! 精神を病んで病院で寝た切りだったって母親、元は近所でも有名なくらい美人だって話らしいし、そういう顔で選ぶ男の人って浮気しやすそーじゃん?」

「確かにー! あ、でもその人、人付き合いが凄く良くって、しかも学生時代から幾つも賞とか取ってたりして優秀だったらしいよ。でもある日突然豹変したみたいに人柄が変わって、それからずっと家に閉じ籠るようになっちゃったんだっけ。」

「そうそう。それと、テレビで聞いた話じゃ、母親の友人が久し振りに顔を会わせたら“まるで別人みたく人が変わってた”って話もあったみたいだし……。」

「って事は、出来る女に劣等感感じて、浮気に走ったのがバレてトラブった結果奥さん病んじゃったとか!?」

「あははは! もお、あんた昼ドラの見すぎだよー!」




『──入院先でも度々口論する姿を目撃されており、夫婦間にトラブルがあった可能性も──』




「だから揉めに揉めまくって、母親を殺して引くに引けなくなった父親は罪逃れに首を吊ったとか……!? ねぇねぇ、あたしの推理チョー冴えてない? これ、もしかしたらワンチャン有り得っかも!」

「まっさかー! まあでも、だとすれば行方不明の子供っていうのもさ、そんなクズな父親ならもうどっかで殺して捨てちゃってても可笑しくなさそーだよねぇ。」

「やだぁ、なにそれこわーい! あははは…!」




 いつも通り、何処かで何かが起きて。

 いつも通り、誰かが誰かの話のネタにされて。

 目まぐるしく変化してゆく周り世界の中、自分だけは一向に変わらないまま何も出来ない癖にただただ憤っていた。


「(………あの人達、性格わる。誰かが亡くなってるって言うのに、どうしてあんな不謹慎なことを堂々と言えるんだろう?)」


 偶々耳にしただけであるそのニュース。

 その命を落としたという見知らぬ誰かに胸を痛めながら、スマホを覗き込んで下世話な会話で盛り上がっている視界の端の女子高生達へ、じとりと冷ややかな眼差しを投げ掛ける。


 当然そんな視線に気付きもしない、出鱈目臭い噂話に花を咲かせる彼女達はポンポンと言葉を重ねながら「そういやうちにも小さい弟がいてさー」「まだ赤ちゃんなんでしょ? 今度抱っこさせてよー!」と最早全く関係のない話題にまで繋げていきながら殊更話を盛り上げていく。


 そんな姿を遠巻きに眺めていた“私”は、もう見ていられないと視線を外すと呆れたように溜め息を溢した。


「──ちょっと、溜め息なんて吐かないでよ。陰気臭い。」


 不意に、少し怒ったような声音で突然そう声を掛けられて私はびくりと肩を震わせた。


「は、はい………ごめんなさい、お母さん。」


 直ぐ溜め息を溢してしまうのは自分の悪い癖だ。

 今までにも何度と同じ注意を受けたそれに、私は慌てて謝罪の言葉を口にする。


 そうしなければ、ただでさえ気難しいその人は尚更にその厄介さを増してしまうし、何ならその被害を真っ先に受けるのはいつだって自分なのだ。

 だから兎にも角にも真っ先に、私は非礼を詫びて頭を下げる。


 するとその人──私の母は苛立ちを隠しもせずに「ふん」と鼻を鳴らした。

 それからはもう何も言うことはなかったけれども、そのままそっぽを向いてしまったのだった。


 ……まずい、機嫌を損なわせてしまったかもしれない。


「うふふふふ。おねーちゃんってば、まぁたおかーさんおこらせちゃってる。」


 くすくすくす。

 嘲笑混じりの小声が、直ぐ傍から投げ掛けられる。

 その人の神経を逆撫でしてくる、人を小馬鹿にした物言いにうんざりとしながら振り向けば、そこにはニヤニヤと隠しきれていない笑みを浮かべている妹が自分を面白いものを見るかのように遠巻きに眺めていた。


 折角今まで大人しく黙っていた彼女がこうしてでしゃばってきたのは、たった今母に叱られていた私に追い討ちを掛けたいが為なのだろう。

 母の苛立ちが自身に飛び火しないように今の今まで我関せずだった癖に、まるで暇を潰せるオモチャを見付けたとでも言わんばかりに頭を下げたままの私を見下ろしてせせら笑う彼女に私はムッとすると、何も言わぬままに細めた目で睨み付け反した。

 そうすれば小心者の彼女は案の定、サッと姿勢を正して素知らぬ顔で何もなかったかのように振る舞い、掌を背後に隠し顔を背けては“自分は何もしてません”と無言アピール。


 ここで私が何かしようものならばきっと、嘘泣きや怪我をした風に見せかけて「おねーちゃんがいじめてきた!」などと被害者ぶって私を悪者に仕立ててくるのだろう。

 そうなれば今正に気が立っている母は面倒事を起こされた事で殊更カンカンに怒り狂い、実際の真偽などそっちのけで私を怒鳴り付けてくることだろう。




 幼い姉妹の喧嘩には興味のない母ではあるのだけれども、妹が喧しく泣き喚いてしまえば「泣かせた方が悪い」などと私の分が悪くなるような理由を付けては妹よりも先に私を叱る。

 それ以外にも「姉なのだから妹の面倒を見るべき」、「姉なのだから妹の為に我慢をするべき」、「姉だから妹より出来て当然」、姉だから………姉だから………。




『いつまでも甘えていないで、早く大人になりなさい。』




 母曰く、それが当然の事であって当たり前であるのだからと私達姉妹にそう躾る。

 だけれども、それを押し付けられた姉の私からすれば溜まったもんじゃない。

 現にそうやって姉である私にばかり負担を押し付けて、一方で妹は面倒事は全て姉に放り投げ自由気儘に盧放しになっているものだから………妹はすっかりそれに味を占めてしまっていた。


 全く、勘弁してほしいものだ。




 そんないつも通りな私達姉妹のやり取りであり、妹からの挑発に私は自分を押さえて相手にしないでいた。

 すると、黙ったまま手出ししてこない私をどう思ったのか、彼女は偉そうに腰に手を付けてふんぞり返っては、まるで自分が説教している側宜しく嫌味ったらしい言葉を続けるのだった。


「そもそも! おかーさんがあんなにも怒ってるのっておねーちゃんのせいでしょ! 昨日の夜、お引っ越しの準備で忙しいのにおねーちゃんってばお片付けサボってお出かけなんてしようとするから!」


 違う! 私はサボってなんかいない!

 私はそう言い返したいのを唇を噛み締めて堪え、ちらりと視線を彼女から別の場所へと反らす。

 その先にいたのは母の背中だ。


 後ろ姿からでもわかるその苛立ち具合というのは、組んだ腕から少しだけ覗かせている人差し指が二の腕を叩いてリズムを刻む仕草を見ればものを言わずとも一目瞭然。

 今ここで私達が口論しようものなら、忽ちヒステリックに怒鳴り散らしては先ず真っ先に私に折檻しようとするのは間違いない。

 例えここが公共の場で人の目があろうとも……母の事だ。

 公衆トイレみたいな人目の付かない場所にでも私を引っ張って行って、母の気が済むまで平手打ちを受け続ける羽目となってしまうのは今までの経験上、目に見えている。


 妹も、そんな私を遠巻きに眺めて優越感に浸ろうと言う考えだってもうお見通しだ。

 今までにも何度と同じ目に遭わされてきたのだから、これ以上思い通りになる訳にはいかない。


「大体ねー、おねーちゃんってば本気であの大雨の中でお出かけしようなんて思ってたの? そんなの………ふふふっ! そんな危ないことするのは“バカ”くらいなんじゃない?」


 妹は話しながらに、途中口元を隠して嗤っては私の苛立ちを煽る。


 堪えろ、我慢しろ私。

 言いたいことは山ほどあるけどそれを必死に呑み込み、抑えて、ぎりっと拳を握る。


 私はサボってなんかいない。

 私のものは全部自分で片付けたと言うのに、遊んでばかりいて何もしていなかったのは妹の方だ。


 直前になって慌ててやりだして、結局間に合わないと騒ぎ出したかと思えばやれ「おねーちゃんが邪魔してきたの!」だの、やれ「おねーちゃんがやり直せって言ったから!」と、あることないこと母に言いふらし、妹の自業自得なだけだったハズが母が怒り心頭となって全くの無関係だった私まで巻き込まれる羽目となって………。


 それで引っ越す前に行きたいところがあっただけの私が妹の分も片付ける事になったのだ。

 お陰様で、片付けが終わった頃にはもう夜も更けており雨足も激しくなってしまっていて、出掛けるに出掛けられなくなってしまった、というのが事の顛末である。


 結局出掛ける用事を泣く泣く断念した私はずっと心残りがあるままに、こうして重たい足取りで母の後ろを付いて歩いていたワケだ。

 理由を聞きすらしなかった母や妹にはそんな私の、そもそも端から話す気などない心境など知る由もない。


 そう言ったこともあり、私は元より落ち込んでいた。

 だというのに、更に色んな事が立て続けに起こってはどうにも気が滅入ってしまいそうな私は、何とか気を紛らわさなくては、と思い至る。

 徐に身に付けているスカートのポケットの中への手を突っこむお、私の手にはかさりとした感触が触れたのだった。


 ポケットの中にあったのは、私が今一番大切にしているものだ。


 それを親指で撫でながらに、一つ大きく息を吸って吐いてと深呼吸。

 すると身も心も痛い思いばかりでささくれていた心は次第に癒えていき、今にも爆発してしまいそうな苛立つ感情の波は凪いで落ち着きを取り戻してゆく。

 触れた指先はまだ冷たい風が吹き通る春先の寒さにかじかんでいたけれども、胸の奥からじんわりと広がっていく温もりを感じ入っていると軈てそれも気にならなくなっていった。


 そうして苛立っていた気持ちから切り替えて、あっけらかんとしてポーカーフェイス。

 「それがどうかしたの?」とでもいうかのように妹の方へと向き直すと、妹は思っていた反応が返されず、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でキョトンと呆けた。


 言葉を失って固まる妹に、最早用はない私は彼女の隣を通り過ぎると一人スタスタと母の後ろまで足を進める。

 心を静めている最中に、待っていた電車がもうすぐ到着するアナウンスを耳にしたのだ。

 そこでそろそろ動き出そうとする母の様子にいち早く気付いた私はまた母を怒らせてしまわぬように、母を見失ってしまわぬようにとその姿を捉えては一直線に足を交差させていった。


 すると後ろから「待ってよう!」と妹の声。

 振り返れば手をブンブンと振りながら一生懸命に荷物たっぷりの可愛らしいリュックサックを揺らしながら、半泣きになりながら慌てて駆け寄ってくる妹の姿が目に映った。


「まってええ、おいてかないでよおー!」

「………ああもう、しょうがないなぁ。」


 今にもびーびーと泣き出してしまいそうな妹を見て私はそう呟くと、彼女が迷子になってしまわぬようにと振り回されていた手を取った。

 目尻に涙を溜めた妹が肩から落ちそうになっているリュックの紐を握り締め、頻りに鼻をぐすぐすと鳴らす。

 そんな彼女の様子を見て、私は空いている方の手を妹のポケットへと伸ばしていくと、そこでぎゅうぎゅうに詰められていたハンカチを取り出した。


「ほら、お姉ちゃんが手をにぎっててあげるから。お母さんに見付かる前に涙をふきなさいな。怒られちゃうよ。」


 そう言いながら、妹の目元が腫れてしまわぬようにハンカチで軽く叩くようにポンポンと涙を拭き取ってゆく。

 一通り頬を濡らす涙も全部拭き取った頃、大人しくじっとしていた妹はもう一度だけ小さく鼻を鳴らすと、背負っていたリュックをぽしゃりと地べたへと落とした。


「うー、ぐすんっ……リュックおもたい。おねーちゃん、もって。」


 私は短い眉を困ったように八の字に傾けると、いつもの妹のワガママに仕方なさそうに笑った。


「はいはい。じゃあ電車に乗るまでの間だけ、ね。新しいおうちまでもうあとちょっとなんだから、きゅうけいして電車をおりたら………そこまではがんばれるよね?」

「えー……わかったよう。」

「うん、イイコイイコ。じゃあ行こっか、お母さんに置いていかれちゃう前に。」


 さっきまでの二人の険悪さはどこへやら。

 泣きべそかく妹の駄々に、仕方なさげにそのリュックを手にした私は「よい、しょっと!」と声をあげながら自身の肩にかける。

 元より自分の荷物をも抱えているが故に、大して力持ちという訳ではない幼い身体が少しだけふらついた。

 けれども、重たいなんて弱音は決して口にはしない。


 言わずもがな、結局私はこうして妹を甘やかしてしまうのだ。

 別段お節介焼きと言った性分って訳ではないのだけれど……やはり、誰かが泣いている姿に見て見ぬふりが出来ず、放って置くに放って置けない、と言うのが私の性分であるからだ。


 ただ真っ直ぐに前を見据えながら、握り締めた妹の手を引っ張って歩みを進め始めていく。

 遅れてやってくる私達に気付いた母の「早く此方へ来なさい」という声が聞こえてきた。

 それに私達は声を揃えると、元気一杯に「はぁい」と声を上げるのだった。




 近付く電車の気配に、辺りは次第に浮き足立ってゆく。

 私達の待つ電車は、行ったことなど一度もない知らない土地へと続くものだ。


「ねぇ、おねーちゃん。」


 不意に妹から呼ばれて、私は「うん、なぁに?」と返す。


「あたらしいあたしたちの“おとーさん”、どんなひとなんだろーね。前のおとーさんよりカッコいいかなぁ?」


 そんな純粋な妹からの問い掛けに、私は思わず言葉に詰まる。

 妹はそんな私を気にすることなく、言葉を続けた。


「……前のおとーさん、怒ってたね。うらぎったなーって。………ねぇおねーちゃん、おとーさんはなんであんなにも怒ってたの? あたしたち、悪いことしたの?」


 妹の言葉に私は何も言えず、ただ黙ったままに元の家を去る間際に見た父の姿を想起する。




 随分と家具が無くなってもの寂しくなった私達の元の家。

 そこで窶れた顔で呆然としたまま、ただただがらんどうとなった家の中を見詰める父。

 母はそんな父を一瞥もすることもなく、私達を連れて家を出た。




 可哀想なお父さん。

 母に捨てられてしまった、私達のお父さん。




 出来る事ならば傍にいてあげたかったけれど、私は母には逆らえない。

 「あの人、最後まで詰まらない人だったわね」なんて、何でもないように言う母は本当にひどい人だ。

 でもそれ以上に、そんな母を恐れて父を庇ってあげることも、その傍に残ることすら選べない弱虫な私はきっともっとひどい人間なのだろう。




 もしも神様が私のことを見ていたのならば、こんな悪い子な私はいつか罰を与えられたっておかしくない。




 今日、私は父を見捨てて、去りたくもない故郷を離れる。

 苦い想い出も楽しかった想い出も、めいっぱい染み付いたランドセル。

 今はもう色褪せて鮮やかな赤だったのがほんのりとした朱色になっていた。

 手にしたばかりの頃はとてもじゃないが結構大きくって、抱えるのだって一苦労。


 でも、それもあと幾日と朝日を迎えた頃、この想い出詰まった鞄とて用済みとなってしまうのだろう。

 代わりにこの鞄の中に詰め込んだ、あの見知らぬ女の子達と同じような、黒色に染まった制服がこれからの私の相棒となるのだから。




「(いっそ、こんなことなら春なんて来なければ良かったのに。)」




 そんなひねくれた想いを胸に、これから迎えてくれる新しい家と新しい父のいる新天地へ向かう私達は──、






『──行方不明の少年について、もし目撃情報があればご連絡を──』






「………おねーちゃん?」






 不意に止まった私の足。

 隣の妹が不思議そうに顔を覗き込んでくる。






『──昨夜から行方が解らなくなっている少年は、■■川近辺での目撃を最後に──少年のものと思われる傘が河川敷にて、損壊した状態で発見されており──』






「……ねぇおねーちゃん、電車来ちゃうよ。」






 傍にいるはずの妹の声が次第に遠く感じてくる。

 代わって、嫌に耳に入ってくるのはニュースのアナウンス。




 ばくばくと駆け足で跳ね始める脈動。

 私はポケットの中身を握り締めた。




 心臓が痛い。

 胸が苦しい。




 ………胸騒ぎ嫌な予感がする。






『現在、行方不明となっているのは■■小学校、六年生の男の子──』


「……あれ? ■■小の六年生って、おねーちゃんと同じだね。」






 見知らぬ他人の手のひらにある小さな画面。

 私を見上げた妹が真っ直ぐにそこを指指す。






「ねぇねぇ、鈴芽すずめおねーちゃん。あのこ、知ってるひと?」






 耳鳴りがする。

 周り全ての音がノイズのようにぼやけていく。


 私の後ろで全く待ちわびていない電車がやってくる。

 心残りだけをこの町に置き去りにして、無慈悲に私を拐っていこうとするカウントダウンは今も止まらない。






 ただ、






 ただ、それでも、







 “再会いつかまた”を夢見ることが出来たのならば、それを糧に私はまだ走り続けられると思っていたのに。











『──カムラ、イオくん。“神村かむら一織いお”くん、12歳──』











 どんなに周りの雑音にまみれていても、その名前だけははっきりと聞こえてくる。

 それもそうだ。

 その名前を耳にした時はいつだって、もっと良く聞こえるようにってすませてしまうから。




 もう癖になってしまっていたんだ。




 痛いほど高鳴る胸。

 呼吸が止まるほどに詰まる喉。

 いつだって“キミ”を前にすれば私は弱くなっていく。

 泣かないと心に誓ったハズのこの目からだって、どうしようもなく涙が零れてしまう。




 “キミ”を想うだけで、私はどうしたっておかしくなってゆくんだ。

 “キミ”を想うだけで、私の精一杯の虚勢強がりは呆気なく剥がされてゆくんだ。


 “キミ”を想うだけで、“キミ”を想うばかりに、私は──、






「………あ……ああ………あああああ………っ!」






 溢れ出す涙、抑えきれない。

 妹が私を呼ぶ声、母が私を怒鳴る声。

 もう私の耳には届かない。


 駅のホームの真ん中で泣きじゃくる私に、怪訝な顔をする見知らぬ誰か達。

 過ぎ去って行っては何事もなかったかのように、今日も、明日も、これからだって、いつも通りに変わらず過ごしていくのだろう。






 どこにいるのか、誰もわからない“キミ”。

 今何しているのかすら、誰もわからない“キミ”。

 ただそれだけだと言うのに、私は何となくに気付いてしまったんだ。


 



 キミはもう──“どこにもいない”んだって。





 ポケットの中身、握り締め過ぎてしわくちゃになったのは一通の手紙。

 離れがたい故郷、キミがいる町を去る前に最後にと、もう一度だけ会って渡したかったもの。


 それは、ずっとずっとキミに伝えたかったこと。

 ずっとずっと、キミに伝えられずにいたこと。






『はじめて会った頃からずっと、キミのことが好きでした。』






 もうすぐ春がやって来る。

 出逢いも別れも引き連れて、私から大事なものを作らせては奪い去っていく季節。


 時の流れと共に、私の身体は日に日に成長し知らぬ間に背も随分と高くなっていく。

 心はキミを失った時のまま、記憶の中のキミはずっと幼いまま。

 時計の針が私だけを連れ去って、後戻り出来ない階段を昇らせていくように変わらない毎日にこの身を投じさせる。


 生きる意味は見付からない。

 頑張る為の糧はもうすぐ底尽きそうだ。


 今にも崩れ落ちてしまいそうな自分の心を騙し、誤魔化し、壊しながら、傷付いた幼い恋心を抱えたままに私は一人中学生に──大人になっていく。






 それはまるで、地獄の底へ向かって落ちていくかのような心地でした。






 キミがいなくなった世界で死人のようにぼんやりと生きる私は、何度も何度も後悔を重ねる。




 もしもあの時、もしもの話。

 形振り構わずに、キミに会いに行っていたのならば。

 もっと早くに、キミへ想いを伝えられていたのならば。


 ……少しは何か、違っていたのかな?






 そんなもしもIFは今じゃもう、意味なんてないけれど。











 原点アルケタイプ 壱


   【啼かぬなら、哭かしてしまえすずめの仔】


 序章




 ▲▲▲▲▲











 ぴいぷう。

 風が報せる、目覚めの笛の音。

 きらきら。

 辺りを照らす陽の光、瞼を太鼓にしてノックする。


 吹き抜けていく風の悪戯に、捲り上げられる前髪がさらさらと宙を流れる。

 その下の目は未だ閉じられたまま、すうすうと心地良さげに溢す寝息のリズムに乱れはない。


 騒音はなく、眠りを阻害するモノもない、平穏そのものなその空間。

 陽の光に包まれて、只々穏やかに眠り続ける“彼”は、きっとまだ目を覚まさないのだろう。




「…………んん……。」




 もぞり、身動ぐ身体。

 膝の上、大事そうに抱えた本を掴む掌に少しだけ力が入る。




「………かみ、さま………。」




 小さく開いた口から零れる寝言。

 それは“誰か”を指す名。

 それは“誰か”を呼ぶ声。

 その小さな声は当人に届くことはなく、そして届かないのであれば意味を為す事もないのだろう。


 虚しく静寂な虚空へ掻き消えていく、蝶の羽ばたきのようにささやかな声。

 その呼び声に反ってくる声はなかった。




 ──りん。




 一度だけ響いた、とても小さくてささやかな……鈴の音福音を除いて。





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