コーヒーカップ
飲んだ瞬間に口いっぱいに広がるコーヒーの香りが心地よく、碧依は感嘆のため息をついた。ついもう一口口に含んでしまう。
突然涼しい風が吹いて、碧依は思わず目を細めた。どこからか、胸いっぱいに吸い込みたくなるような爽やかな空気が流れ込んでくる。
風がやんで目を開けると視界いっぱいに緑が広がっていて、いつの間にか碧依は丘の上に立っていた。周りを見渡すと、すぐ左に立っている鈴乃と目が合う。鈴乃は丘の麓を指さした。
「ねえ碧依。あれ見て。」
鈴乃に言われて碧依が目を凝らすと、少年と白い大きな犬が走って丘を登ってくるのが見えた。その姿はだんだんと大きくなり、やがて碧依と鈴乃の目の前で立ち止まった。
少年は立ち止まると
「ほらね、ハナ。ここならだれもいない。僕らだけの秘密基地だよ。」
「ワン!」
ハナと呼ばれた犬が少年に飛びつくと少年は笑い声を立てて丘の上に大の字になって寝ころんだ。ハナがその上に覆いかぶさるようにして少年の顔をなめると、少年の姿が白いふさふさの毛に覆われて見えなくなる。ハナの首にはめられた赤い首輪が白い毛の中で映えている。
「私たちのこと、見えてないみたいだね。」
鈴乃が碧依にささやいた。碧依はうなずく。少年も犬も、碧依と鈴乃にちらとも視線を向けない。
「ハナ。やっとお金がたまったんだ。これでお店が開けるよ。」
ようやく解放された少年が嬉しそうに言った。ハナは嬉しそうにしっぽを振って吠えた。
「ワン!ワン!」
「ハハ、ありがとう、ハナ。今まで誰も見たことがないくらい素敵なお店にするつもりなんだ。来たお客さんみんなが僕のお店を忘れないような、そんなお店にね。」
「ワン!」
「ハナも手伝ってくれるよね?」
「ワン!」
ハナはもちろんだというように吠えた。少年は微笑むと大きく伸びをした。
「さて。」
少年が立ち上がり、伏せていたハナが飛び起きる。
「行こう、ハナ!」
少年とハナは来た時と同じように走って丘を下って行った。
場面が切り替わって、碧依と鈴乃はどこかのカフェの店内に立っていた。「フォゲット・ミー・ノット」の店内とは雰囲気が似ているがテーブルや椅子の配置が違う。そして何より店主が違った。
さっき丘の上にいた少年がカウンターの中でコーヒー豆を
チリン、というベルの音が鳴って、少年とハナが顔を上げた。入口の扉が開いて一人の少女が入ってくる。少女は少年の姿を見つけて微笑むと碧依と鈴乃のすぐ隣を通ってカウンターまで歩いて行った。やはりふたりの姿は見えていないようだ。
「カオル、開店おめでとう。」
カオルと呼ばれた少年は少女のことばに破顔する。
「ミサ、わざわざありがとう。」
ミサと呼ばれた少女は微笑んで首を振ると持っていた紙袋をカウンターにそっと置いた。
「これ、開店のお祝いに。よかったら使って。」
「え?いいの?」
「うん。私なりに考えて選んでみた。」
カオルは紙袋を受け取ると中から梱包された二つのカップを取り出した。驚いたようにミサの顔を見て尋ねる。
「開けてもいい?」
「もちろん。」
カオルが梱包材を外すと中から現れたのは表面に水色の花模様があしらわれたコーヒーカップだった。
「うわぁ。ミサ、ありがとう!大切にするよ!ほら、ハナ。見てごらん、きれいだろ?本当にこのお店にぴったりだよ。」
「ワン!」
ハナはしっぽをぶんぶんと振ってミサにとびかかった。うれしくてたまらないというようにミサの手をぺろぺろと舐める。
「ふふ。喜んでもらえてよかった。」
「きっとお客さんも気に入ってくれるよ。」
「そうだといいな。」
また場面が切り替わって、碧依と鈴乃は元通り向かい合ってカフェのテーブル席に座っていた。
戸惑った碧依が首をかしげると足に柔らかいものが触れた。驚いて足元を見ると、カフェの床に座った黒い猫が碧依と鈴乃を黄色の賢そうな目で見上げていた。
「ニャー。」
「あ、猫ちゃん。」
鳴き声に気がついた鈴乃がつぶやくと、黒猫はテーブルに飛び乗ってきた。鈴乃の手に頭をこすりつけて甘えるように喉を鳴らす。
「なあ、その首輪、さっきの犬の…。」
黒猫の首にハナがつけていたのと同じような赤い首輪がはまっているのに気が付いて碧依は鈴乃に声をかけた。
「うん。それだけじゃないよ、碧依。このカップも、さっきのと同じじゃない?」
鈴乃は碧依のことばにうなずくと自分の前のカップを指さした。そう言われて碧依は目の前のカップを持ち上げる。白いカップの表面に水色の花があしらわれているそれは、確かにさっき見たカップによく似ていた。
「本当だ…。」
「お待たせしました。こちら、ケーキになります。」
店主が二人のテーブルにケーキの乗ったお皿を運んできて、机の上の黒猫に気がついた。
「あ、タマが失礼しました。この店の守り神なんです。人懐っこいんですよ。どうやら、お客さんのことが気に入ったみたいですね。」
「守り神?」
鈴乃が首をかしげて店主に聞き返した。
「ええ。私の相棒です。私がこの店を継いだときに飼っていた猫の孫なんですけれど、タマがいるとお客さんがよく来るような気がして。だから守り神なんです。昔からこのカフェの店主は動物を連れていることが多いんですよ。」
「そうなんですね。」
鈴乃はタマを撫でた。店主は微笑んでお皿をテーブルに置いた。
「どうぞ。」
碧依と鈴乃は店主がテーブルに置いたケーキに目を落とす。イチゴをふんだんに使った小さなケーキだ。そしてそれが乗せられたお皿にもまた、コーヒーカップのそれと同じように水色の花があしらわれていた。
「おいしそう。」
店主は鈴乃のことばにうなずいた。
「こちらも当店自慢の品でございます。ぜひ、フォークで二つに割ってからお食べください。」
「いただきます。」
二人は言われた通りフォークでケーキを半分にしてからケーキを口に運んだ。
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