重ね合わせのデイドリーム・オレンジ

狂フラフープ

重ね合わせのデイドリーム・オレンジ

 目が覚める。

 病窓から見える街の景色はすっかり様変わりしていた。

 幹線道路と商業施設群の屋上が陽を受けている。見覚えのない景色に、時の流れを意識する。

 前にこの病院に来たのはいつのことだったろう。たぶんもう何十年も前のことだ。

 ベッドから手を伸べ触れた嵌め殺しの窓は、磨き上げられたようにピカピカで、記憶の中でおんぼろだったかつてのこの病院の面影はまるでない。



「時枝さん? 気が付かれたんですか?」

 病室の入り口で声がする。

 振り向くと看護師が、目を見開いて立ち止まっていた。驚いた拍子に荷物のひとつを取り落としたようで、それにまた驚いてわたわたと首を巡らせている。

「せ、先生を呼んできます」

 落とし物を拾い上げて踵を返す彼女の慌ただしい様子とは裏腹に、再び静かになった病室で、僕は落ち着いて周囲を見渡す。僕は僕自身にも意外なほど冷静に、自分の身に起きたことを理解していた。


――落ち着いて聞いてください。

――実は、貴方が寝ている間に、二十年もの歳月が経っています。

 これから自分に掛けられる言葉のことを考える。ゲームやドラマの中でしかお目にかかれない台詞が聞けるだろうか。自分の身に起きた現実味のないショックよりも、何かおかしな期待に気を取られる自分に苦笑する。

 急かされながら大股でやってきた担当医は小柄で温厚そうな壮年の先生だった。

「身体の調子はいかがですか? 身体に違和感があれば、どんなに些細なことでも言ってください」

 にこりと笑って、医者は言う。

「なにせ貴方は、丸三日も眠っていたんですから」



 医者の見立てでは、僕の脳に異常はないらしい。

 きっと事故の衝撃でひどく混乱していて、一時的に時間感覚がおかしくなっているのだ。保証は出来ないが、じきにきっと良くなるだろう。

 何とも無責任なお墨付きをもらったのは、昨日のような気もすれば、もう何月も昔のことのようにも思える。それとも今朝の出来事だっただろうか。

 おかしな時間を生きている。

 ひどく混乱こそしているが、悲観はしていない。

 時間がかかるというだけで、必要なことは全て思い出すことができた。

「ここには居ませんが、姪御さんも元気ですよ。残るような傷もないし、もう少し良くなったら会いに行きましょうね」

 身の回りの世話をしてくれる看護師が、妙に親身で居心地が悪い。やたら頻繁に話しかけてくるように思えるのは、僕の時間感覚がおかしいだからだろうか。



「兄さん」

 隣から声を掛けられて振り向くと、患者衣ガウンを着た妹は病床でこちらにけろりと笑ってみせた。

「小柚、ほんとに大丈夫なのか?」

 平気そうに見えても目元に隠した妹の疲労は色濃く見える。それでも肩をすくめて吊り上げた口の端は、どこか誇らしげな輝きに満ちていた。

「だから心配し過ぎなのよ兄さんは。母子ともに健康そのもの。明日には退院できるって、先生の太鼓判も貰ったんだから」

「だってお前、昔っからドジで――、」

 食い下がる僕の口を伸びてきたプラフォークが塞ぐ。差し入れの菓子はひどく薄味で、文句を言う妹の気持ちが分かる気がした。

「それは昔の話でしょ。他所に嫁に行った人間をいつまで小さい妹扱いしてるのよ。今じゃわたしも立派な母親なんだから」



「ねえこれ、兄さんにプレゼント」

 退院の日に妹は、ベッドの上から僕にそれを差し出した。暇だったから作ったと掌に載せられた手編みのペンダントに、お前が退院するのに僕がプレゼントを貰うのかと問うと、日頃の感謝の証だと小柚は笑った。

 引き出しに仕舞った手作りのそれを、もう一度取り出して眺める。

 そのやりとりが、どの程度前の出来事だったか、上手く思い出せない。

 あれきり見舞いに来る気配もないのは、きっと彼女が薄情だからではなく、待ち侘びる僕の側がおかしくなっているのだと思う。

 このところ僕は曜日を忘れるどころか、窓の外の季節にさえ驚く有様で、症状は時間の経過とともにますます酷くなっている。もっとも、僕の感じる時間の経過が真実だとしたらの話だが。


「あら、クロシェですか?」

 ペンダントに目を留めた看護師は感心した声を上げる。

「すごいですねえ、お上手ですねぇ」

「ええ。妹から貰ったんです」

 妹の名が僕の口から出た途端に、看護師は目に見えて表情を引きつらせた。隠しきれない動揺を顔を逸らすことで誤魔化そうとして後退る彼女の肩が病室家具に当たる。

「――危ない!」

 思わず彼女の手を引き寄せる。勢い余ってベッドに尻餅をついた彼女は事情を理解できないまま目を白黒させて僕を見上げている。

 たっぷり数秒見つめ合った後に、ようやく頭上から積み上げられていた消耗品の類が降り注いだ。

 沈黙に耐えかね、すみません、と謝罪の言葉が口をついて出る。

「あの、取り越し苦労というか、余計なことをしました……」

「私こそ不注意で……危ないのは事実ですし……あそこに物を置かないようにと普段から言われていて……」

 お互いお互い歯切れ悪く視線をさまよわせて、手を離して距離を取る。気恥ずかしさを振り払うように会釈して部屋を後にする彼女に、こちらもぎこちなく礼を返す。


 ひとりになった後で、もう一度自分が見た光景を頭に思い浮かべる。

 降り注ぐ小物の山は、看護師にぶつかるかどうか、間一髪のタイミングだったはずだ。見間違いや勘違いだったろうか。あれは僕のおかしくなった感覚が見せた幻?

「……いや、違う」

 無意識に口に出し否定する。まだ起きていないことを、僕の眼は確かに見ていた。

 ――未来視。

 病窓から外に目を向けると、遠くに慌てて洗濯物を取り込む近隣住民の姿が見えた。

 通りかかる人を呼び止めて雨が降っているかと尋ねると、怪訝な顔をして空を見上げる。

「今日は晴れていますけど、どうかされました?」

 結局、通り雨が路面を濡らしたのは、それから一時間も経ってからのことだ。

 未来が見える。

 さりとて何かの役に立つわけでもない。

 見える未来を選べもしないし、それがどのくらい先に起きるかもわからない。



 宝くじの当選番号や未来の競馬中継でも映りはしないかとコイン式テレビに金を食わせる愚を悟ったころ、画面はどこか遠くで起きた電車の事故を映し出した。

 燃え盛る炎と黒煙。なぎ倒された鉄柱。線路沿いの建物に突っ込む横転した車体。死傷者の数を数えるニュースキャスターの声を掻き消すように、脳裏に悲鳴と轟音が響き渡る。

 幾つもの巨大な影を横切りながら列車はごとごと揺れ、車両内には沈みかけの夕陽が差し込んでいる。たくさんの乗客が詰め込まれた人波の中で僕は亡霊のように立っていた。

 小柚。夕陽に照らされた妹は、膝の上に舟を漕ぐ我が子を載せて、慈しむように頭を撫でている。そのふたりを一際大きな影が列車ごと呑み込み、暗がりの中で顔を上げた妹が、こちらを見た。

――轟音。

 殴り付けるような慣性が身体を吹き飛ばし、天地を失った車内が四方から圧し潰すようにひしゃげて迫った。

 視界は陰り、遥か後方の泣きじゃくる声だけがかろうじて意識に響く。

 呟きは掠れて消える。指先だけは動く。捻じ切れた車両の骨組みに貫かれた妹が、血の海の中でかすかに笑ったような気がする――。



「――さん、時枝さん? どうなさいました?」

 我に返ると、担当医がこちらを覗き込んでいた。

 びっしりと顔を埋める自らの脂汗と強張った全身を自覚する。浅い呼吸で喉が鳴る。落ち着いてください、と触れてくる腕に縋ってようやく、自分のいる場所を思い出した。

 白昼夢? 違う。あまりにも鮮烈なビジョンは現実と地続きの、今ではないいつかだ。

「……電車が、」

 唇が震える。叫んだつもりで絞り出せたのはそれきりの言葉だけだった。

「大丈夫です。落ち着いてください時枝さん。それは現実じゃない」

 先生の嫌に冷静な眼が、僕を諭すように僕の眼を見つめる。

「お願いします……! 妹に伝えてください……!! 事故が、事故が起こるんです……!」

 駆け寄ってくる看護師たちに取り押さえられ、僕は腫れもののようにベッドに縛られる。

 僕の訴えに耳を貸す者は誰一人いなかった。



「あの。時間が、おかしいんです」

 縮こまるように膝を見詰めて、高科継子は小さな声で呟いた。

 彼女と会うのはいつ振りだろうか。おかしくなった僕の感覚では考えるだけ無駄な疑問だ。だが僕は病室を訪れた彼女の言葉を聞いて、自分が果たすべきをきちんと思い出すことができた。

「詳しく話を聞かせてくれるかな」

 折り目と皴の両方が付いたパンツスーツ。幼さゆえのどうしたって拭えない服に着られている印象は、癖っ毛と野暮ったい眼鏡のせいでますます強い。

 要領を得ない説明の後、口で説明することを諦めた彼女は卓上時計の文字盤を掌で覆った。

「今から頭に思い浮かべた時間を口に出さずに数えます。あたしが何秒数えたか、当ててみてほしいんです」

 しばらく無言で、じっと向かい合ったまま、時間が過ぎるのを待った。

「数え終わりました」

 水を向けられて、僕は胸の内で数えた数字を口にする。

「三十秒くらいかな。君は何秒数えたんだい?」

「二分です」

 継子が時計に被せられた手をどかす。現れた時計の針は、彼女が文字盤を掌で隠してから五分近くが経過したことを示していた。


 彼女が僕と同じように通常の時間感覚を失っているのは、疑いようのないことに思えた。偽物の時間の中で生きているのだと、継子は言う。

 否定することは出来なかった。

 記憶の遥か向こうにある、本物の時間というものに、僕はもう手が届かない。

「未来を見たんです。誰にも信じてもらえないけれど、確かに見ました」

 まだ起きていない事故の記憶。

 彼女が見たと語る未来の記憶は、僕が見たそれとほとんど一致していた。

「誰に言っても、馬鹿げた妄想だとまともに取り合ってもらえませんでした」

 当然だろう。誰だって間違いなく、そんな話は妄言として聞き流してしまう。

 きっとこの感覚は、経験した人間にしか理解できない。だからこそ、彼女はここにやってきた。僕の下へ。

「自分でもおかしなことを言っていると思います。でも、分かるんです。ただの夢や幻じゃない。あたしの見た光景にはきっと意味があって、なにかを、変えられるんじゃないかって」

 すがるような目をして、声を震わせて、彼女は懇願する。

「お願いします。一緒に、未来を変えてください」



 病院を抜け出し、僕は走った。

 事故の原因は沿線の老朽化した鉄柱が倒壊したことだった。

 まだ間に合う。現場は病院から三キロも離れてはいない。日が傾く前に、軌道内に入り込み脱線の原因となる鉄柱を撤去できれば、事故は防げるはずだった。

 もうすぐだ。もうすぐ現場に辿り着く。

 稜線に掛かった夕陽が目に入って、脳裏に過去の記憶がいくつも浮かぶ。

 あの日もひどく夕焼けが赤かった。

――ほら見て、猿みたい。兄さんにも抱っこさせたげようか?

 この先だ。この先で全国紙の一面を飾るような大きな鉄道事故が起きる。

 三十人近い人間がこの場所で死に、その中のひとりが妹の小柚になる。

 小柚は死ぬ。死んでしまう。

 走る。息の続く限り全力で駆けた。

 踏切の遮断機が遠くで鳴り始める。



 あの日もひどく夕焼けが赤かった。

――ねえ見てよ。わたしの子。この子、わたしの子なの。なんだか信じられない。

 小柚。患者衣に身を包んで、生まれたばかりの姪っ子を愛おしそうに見詰める小柚の横顔が、不意に別の誰かと重なったような気がした。

 ああ、そうだ。本当によく似ている。

 小さい頃は母親似でないと思っていた。けれど歳を経るごとに、眼も鼻筋も、少し癖のある髪質も、母親を写し取るようにそっくりになっていく。



 たどり着いたその場所には大きな献花台が設えられ、無数の花が添えられている。

 周囲の建物に残された傷跡は、一月前にこの場で起きた事故が如何に凄まじいものだったのかを物語っている。



 事故から十五年以上経った今でも、現場にはいくつも花が添えられている。

 犠牲者の名が並ぶ記念碑に刻まれたその名を見つけて、継子は呆然と立ち尽くしていた。

 高科小柚。僕の妹。彼女の母親の名前を。

「……どうして」


「君は今、自分の記憶が、過去の出来事であることを理解できずにいるんだ」

 僕はその背中に声を掛ける。

「いいかい、継子ちゃん。君が見たのは、君がまだ物心もつかない頃に経験した事故の記憶だ。君はまだ小さかったから、こうして過去視をするまで忘れていただろうけれど、君が未来の出来事だと思っているこの事故は、もう十五年以上も前の出来事なんだよ」

 振り返った継子の顔に理解の色が広がって、それから、感情の抜け落ちた死人のような無表情へと変わっていく。


「何度も」

 涙が一筋流れた。

「何度も、知らないひとの夢を見るんです」

 踏切の遮断機が鳴り続ける。

「名前もわからない、顔にだって少しも覚えがない。でも、その人が大切なひとだって、分かるんです。失いたくない。居なくなって欲しくない。会えなかったら一生後悔するって、あたし、分かるんです」

 あの日の僕は、彼女と同じ顔をしていたのだろう。

「絶対に、絶対に助けなくちゃ、って」


 今も隣にいるように感じる大事なひとが、もうどこにも居ないことを突き付けられて、情動のままに溢れ出す無数の記憶が、目の前の全てを埋め尽くして、言葉にならない悲痛な金切り声が遮断機の警告音さえ掻き消そうな程に響き渡る。錯乱した継子は手足を無茶苦茶に振り回しながら、どこかへ走りだそうとする。

 僕はその手を、決して離さぬよう握る。


 目と鼻の先を、猛スピードで電車が通り過ぎていく。

 風圧と轟音が凄惨な事故の記憶を呼び覚ます。

 現実と区別の出来ない質感を纏って、あの日の地獄が舞い戻る。


 夕陽の客車が影に吞まれ、殴り付けるような衝撃と轟音と悲鳴。

 区別のつかない床と壁と天井、その全てがひしゃげて迫り、捻じ切れた骨組みに貫かれて、血の海で妹がかすかに笑う。

 押し退けた我が子が、紙一重、僕の腕の中へと逃れたことを見届けて、小柚は確かに笑ったのだ。


 無数の思い出を、トラウマを、地獄のような光景を掻き分けて、僕は継子を抱き締める。

 何があっても、僕はこの手を離してはならない。

 あの日と同じように、妹の忘れ形見を力の限り抱き締める。決して離さぬよう。必ず守ると誓ったのだから。



 何のことはなかった。

 変えることのできない過去を、自らの手で変えられる未来と取り違えただけだ。彼女は幼い頃に失った母親を助けられると思い込んだ。

 二度と取り戻せないものを、取り戻せると信じたあの日の僕と同じように。


 小さな子供のように泣きじゃくる継子がようやく落ち着いたころ、僕は彼女を町外れの高台へと連れ出した。

「……ここは?」

「大丈夫。すぐに思い出す」

 切っ掛けとなる共通の何かを引き金として、僕らは過去を幻視する。それらはまるで現実と見分けのつかないほど精巧な姿で僕らの前に姿を現し、夢や妄想だと断じるにはあまりにも生々しい。

 だから目に痛いほどの夕焼けが、僕らにとってのこの場所を、過去と現在の入り混じる場所にする。

 妹がまるで母のようにおかしなことを言い始め、肌身離さず複数の時計を身につけるようになったのは二十歳を越えた頃からだった。

 あの日小柚は、僕に同行をせがんだ。

 旦那に頼めと渋る僕を、兄さんでなければ駄目なのだと珍しく強情を張る。何故そうもこだわるのかと聞くと、きっと今日は夕焼けがきれいだから、とだけ彼女は答えた。


「時枝の家系の女にはね、不思議な力が備わっているの」

 街を見渡すこの場所に腰掛けて、小柚は膝の上のまだ小さな我が子に語り掛けた。

「今はまだこんなに難しい話は分からないだろうけど、あなたは必ず思い出す。場所や状況に紐付けられて、過ぎ去った過去の記憶が、まるで目の前の出来事みたいに脳裏に浮かぶの。基本的には発現するのは女だけ。遺伝的なものだと思うけど、詳しくは不明。最初は混乱すると思うし、個人差もあるから断言はできないけれど、慣れたら普通に生活できるようになるから安心して」


 繋いだ手の感触から、継子の感情が伝わってくる。彼女の眼にも、僕と同じ光景が映っているはずだった。なぜって僕らはあの日、一緒にこの場に居たのだから。

 街の屋根屋根を染め上げる朱色の光が視界いっぱいに広がって、その光景に重なって、夕陽に染まる小柚が笑う。

「だからね、継子のおばあちゃん――お母さんとおじさんのお母さんも、ほら、今もそこに座ってわたしにたくさん……たくさんのことを、おばあちゃんは、お母さんに教えてくれてるの。今は分からなくても、聞いて、継子。あなたが産まれてきたとき、お母さんがどんなに嬉しかったか」


 そして、涙ぐむ小柚は僕に向き直って言う。

「それから兄さんにも、母さんから伝言――お兄ちゃんなんだから、妹を守ってあげてね」

 破ってしまった母の言いつけを、守れなかった妹の口から再び聞きながら、僕は隣で声を殺して泣き続ける継子の手を握り、まだ母親の死さえ上手く理解できない小さな姪を膝の上に抱き締める。

 僕の涙を拭う小さな指を、振り向いてこちらを見上げる瞳を、必ず守ると誓った。


 綺麗な夕焼けだけが何ひとつ変わらない。

 いつだってその全てを照らしている。

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