閑話集

閑話 クリューゼ男爵令嬢の前から逃げ出す

 私はクリューゼと申します。ウィプバーン公爵家次期当主、ザイモンズ様の婚約者です。


 私はコクローズ侯爵家の長女でして、十四歳の時にザイモンズ様の婚約者になりました。もちろん政略的な婚約ですよ。ザイモンズ様とは幼少時からお会いしていましたが(当然、将来的な婚約を見越して相性を見られていたのでしょう)、恋愛感情などは全くございませんでした。


 ザイモンズ様は気弱な貴公子でいらして、これはお父上に似たのだという事でございますね。


 ザイモンズ様のお父様の現ウィプバーン公爵にはお姉様と妹様がいらっしゃるのですが、それが皇妃様とレクセレンテ公妃様なのです。それで現公爵は気弱に育ってしまったとか。


 ……無理もございません。強烈な個性をお持ちのお二人に挟まれた現公爵のご苦労は想像に難くありませんよね。


 ザイモンズ様の方は一人っ子でしたが、母親のウィプバーン公妃様も大人しくお優しい方で、貴族界の争いごとからはご夫婦して離れてお過ごしでした。


 それでもウィプバーン公爵家は現皇妃様の実家でしたから、貴族界の序列は二番目でした。頂点はレクセレンテ公爵家。三位はフレイヤー公爵家ですね。


 もう少しウィプバーン公爵閣下にその気があれば、一位をレクセレンテ公爵と争う事も出来たと思うのですが、公爵は「お姉様と争うなどとんでもない」という事を態度でも言動でも示しておられました。


 そういう争い事を好まないご性質はザイモンズ様にも継がれまして、ふわふわした金髪に青い瞳のザイモンズ様は非常な平和主義者でした。


 貴族令息ですから軍務に就いておられるのですが、帝都の軍務省でデスクワークしたした事が無いそうで、兵器への魔力供給ももっぱら帝都の防衛兵器に限られ、剣を握ったことも無いとおしゃっておりましたね。


 全国を飛び回り、既に華々しい戦果を挙げた事があるというレクセレンテ公子とは大違いです。


 レクセレンテ公子であるヴィクリート様は赤茶色の髪にグレーの瞳の物凄い美男子で、しかも軍務で鍛えられた剣のような長身をお持ちです。当然、社交界の女性達の憧れの的だったのですが、軍務や領地の統治のためにほとんど帝都におられず、一部では「幻の貴公子」とまで言われておりました。


 私は身分的に当然、ヴィクリート様の婚約者候補だったのですが、我が家がどちらかと言えばウィプバーン公爵家に近かった事。そしてヴィクリート様が女嫌いでお見合いを全て蹴ってしまっているということで、私はザイモンズ様の婚約者になったのです。


 別にザイモンズ様に不満はございませんよ。私も実はあまり気が強い性質ではございません。公妃風を吹かせて配下にご婦人達を従えて社交場を闊歩するなど柄ではありませんね。ですからザイモンズ様と二人、大人しく社交界の隅っこで生きていこうと思っております。一族の意思を代弁して利益を得なければいけない公妃としては問題ありだとは思いますけどね。


 婚約して一年。十五歳になった私は本当は来年に結婚式の予定でした。


 ところが、皇太子殿下とご婚約者のスイシス様の結婚式が来年に予定されているということで、私とザイモンズ様の結婚式は先延ばしになりました。婚約期間が伸びてしまいましたが、大した問題ではございません。私は既に公爵家のお屋敷にお部屋を頂いて、準皇族となっております。余程とんでもない事が起こらない限りこのまま結婚するでしょう。


 そんな風にして穏やかに暮らしていたある日のことでございます。突然、社交界に衝撃的な噂が流れたのです。


 それは「ヴィクリート様がご婚約なさるらしい」との噂でした。は? 何ですって? それは私も驚きましたよ。


 ヴィクリート様と言えば「幻の貴公子」などと呼ばれるほど帝都の社交界に姿を見せない事で有名です。そしてどうやら女性が苦手、嫌いという噂でして、お見合いは全て断り、社交で未婚女性と踊る事は無く、そもそも社交に滅多に出て来ない方でした。お母様であるレクセレンテ公妃様が「どうも結婚したくないらしい」とお嘆きであった事を知っております。そんなヴィクリート様が結婚? どうやって女性と知り合ったのでしょうか?


 ま、まぁ、ヴィクリート様が結婚するのは喜ばしい事ですよ。ええ。というか、公爵家の嫡男が結婚しないなんて不可能ではありませんか。ですからそんなに驚く事では無いのです。ええ。まぁ、ヴィクリート様との縁談があった女性は皆様、多分動揺致しましたけどね。その辺はその、女のプライドという奴でございますよ。私を袖にしたあの方が、どんな女を選んだのか、それは気にはなりますよ。


 すると、噂が流れてきました。どうもフレイヤー公爵家の方面から流れて来た噂のようです。なんでも、ヴィクリート様の婚約者は非常に身分が低い方であるとの事でした。更に聞いてみると、なんと男爵令嬢ですとか。


 そんなわけないでしょう、と私は最初、一笑に付しましたよ。だって、三大公爵家の一つレクセレンテ公爵家の次期当主であるヴィクリート様が下位貴族令嬢と結婚するなんてあり得ません。そんな馬鹿な話がある筈がありません。


 しかし、フレイヤー公爵家の皆様が言いふらすにはそういう事のようでした。後から聞いた事情では、男爵令嬢が名目上養子入りしたブゼルバ伯爵家の令嬢が、ご友人であったフレイヤー公爵家一族分家の伯爵令嬢にうっかり漏らしたということです。身分低い(それにしたって男爵令嬢はあり得ませんが)ご令嬢が高位の方に嫁ぐ時に、名目だけ高位の家に養子入りすることは良くあることです。しかしそれは厳重に秘するのが普通なのですがね。


 どうやら噂が事実らしいと聞いて、私は憤慨致しました。いえね、今更ヴィクリート様に未練があるとか、そういう話ではございません。しかしそれにしたって、侯爵令嬢たる私を振って、男爵令嬢を娶るなんて酷い侮辱ではありませんか。私だけで無く、私の友人のご令嬢方も怒っていましたよ。


 それにしても、あの女嫌いのヴィクリート様を射止めた男爵令嬢とはいったいどんな方なのでしょう。私は少し興味が湧きましたね。そのご令嬢、シルフィン様とお会いする機会は、ヴィクリート様とその方の婚約式になりました。なんと、お二人の貴賤結婚を皇帝陛下も元老院もお認めになったという事です。それは、伯爵家に養子入りしているのですから、身分的に問題は無いといえば無いのですが。それにしても男爵令嬢では魔力も乏しい筈です。


 婚約式には私もザイモンズ様の婚約者として出席致しましたよ。婚約式には皇帝陛下、皇妃様、皇太子殿下、殿下のご婚約者のスイシス様、殿下の妹殿下であるイーメリア様他、三大公爵家の皆様も勢揃いしていらっしゃいました。これはヴィクリート様が特別という訳ではなく、私とザイモンズ様の婚約式も同じでした。その時はヴィクリート様も来てらして型通りにお祝いして頂きました。


 婚約式が始まって最初は、皇族の皆様の態度はあまり好意的ではありませんでした。それはそうでしょう。貴賤結婚など帝国の身分制度を揺るがしかねない行為です。身分低い女性を愛してしまったのなら愛人にするべきなのです。ウィプバーン公爵家の皆様も、フレイヤー公爵家の皆様もレクセレンテ公爵閣下に挨拶をする表情が固いです。特にフレイヤー公爵家の皆様は、この婚約を明らかにレクセレンテ公爵家の失点と見做していました。そういう口ぶりでレクセレンテ公爵閣下に嫌みを言っております。


 そうして、濃紺の衣装に身を包んだヴィクリート様と、薄桃色のドレス姿のシルフィン様が入場してきて、私は初めてシルフィン様を目にした訳です。


 シルフィン様は小柄で細身、見栄えのする方ではございません。桃色に近いような髪色で、大きな瞳は水色。お顔立ちは整っています。面白いというか特徴的だと思ったのは笑顔で、柔らかく落ち着きがあって、何となく見る者に安心感を抱かせる笑顔なのです。


 ですが、これと言って強い特徴も無いように見えますし、外観からはなぜこれほどヴィクリート様に愛されるのか、よく分かりませんでした。


 普通は婚約指輪の交換を行ってから台上から降り、皆様の祝福を受けるのが手順だと思うのですが、お二人は何故か最初に来賓の皆様の所に降りてこられました。神殿側に不手際でもあったのでしょうか? 間近で見てもシルフィン様の印象はあまり変わりません。私にはこの時、まだ彼女が男爵令嬢であるという先入観がございました。ですから、男爵令嬢なのに皇族の皆様に囲まれても恐れ入る事も無く、普通の態度と笑顔でご挨拶やお話をしているのを見て「なんと図々しい」と思っておりましたよ。平民に近いという男爵の娘だとこうも図々しくなるのかしらね、って。


 ですがよくよく考えれば、臆せず図々しい態度を皇帝陛下の御前で取れるという事をもっと良く考えるべきでした。私も婚約式で皇帝陛下に祝福をして頂いたのですが、恐れ多くて顔も上げられませんでした。その後、何度もお話をさせて頂いてようやく普通に会話が出来るようになった位なのです。それなのにシルフィン様は皇帝陛下と既に普通にお話しになり、皇帝陛下も、そして厳しいことで有名な皇妃様も非常な親愛の情を示していらっしゃいます。


 この時点でウィプバーン公爵閣下と公妃様は態度を改めておりました。ザイモンズ様もです。そうなれば私もシルフィン様を祝福しない訳にはまいりません。私は進み出てザイモンズ様と共にシルフィン様に祝福のお言葉を贈りました。


「シルフィン様、私、ザイモンズ様の婚約者であるクリューゼと申します。この度はご婚約おめでとうございます」


 すると、シルフィン様は私の顔をジッと見詰めました。その瞬間、私は息が詰まるような気が致しました。な、なんでしょう。別に威圧的とか、怖いとか、そういう感覚ではございません。柔らかく人当たりの良い笑顔です。しかし、その笑顔を前にすると、私はなんというか、自分の隠し事や嘘が全部暴かれてしまうような心地が致しましたね。そしてシルフィン様のお言葉がスルッと私の耳に滑り込んできました。


「この度、ヴィクリートの婚約者になりますシルフィンですわ。クリューゼ様のお話は伺っております。仲良くして下さいませね」


 ここで私はシルフィン様の異常性の一端にようやく気が付きました。な、なんですかこの方は! この方は男爵令嬢なのですよね? 養子で伯爵令嬢になっているとしても、まだまだ身分は私よりも遙かに下の方なのですよね(まだ婚約指輪を交換していないのですから、まだ準皇族ではないのです)?


 それなのにこの振る舞いはどうしたことですか? ごく自然に皇族としての振る舞いが出来ています。侯爵家出身のこの私でも、未だに皇族の方々とお話しする際は、自然と謙ってしまうというのに。シルフィン様は皇帝陛下や皇太子殿下とさえごく普通な調子でお話しています。考えられない事です。


 あまりに自然な態度なので、皆様が戸惑っています。それはそうです。皆様、男爵令嬢がオドオドしながらやってくる所を想像していたのですもの。皆様でそれを冷たく扱ってやろうという算段でした。しかし、こうも普通の態度ではそうも出来ません。こうまで立派な堂々としたシルフィン様を見下そうとすると、必要以上にこちらが威丈高な態度に出ざる得ないからです。それは品位に欠ける振る舞いです。


 しかしここで一人、それに挑戦した方がいらっしゃいました。


「貴女、男爵家の生まれなんですってね」


 フレイヤー公爵家の次期当主、ドローヴェン様の婚約者、ワイヴェル様が意地悪く問い掛けます。それに対してシルフィン様はしれっとしたお顔でお答えになりました。


「どうでしたか。今は公爵家に養子入りしておりますので」


 ワイヴェル様が鼻白みます。彼女は更に意地悪そうなお顔で言いました。


「そのような身分低い者が、皇族になるなど許されると思っているのですか?」


 するとシルフィン様はフワッと微笑んで仰いました。


「名誉な事でございます」


 ワイヴェル様が言葉を継げなくなり、唖然としてしまいます。シルフィン様はワイヴェル様の質問をスルッと躱してしまいました。これは嫌みですとか挑発をまともに受けない会話術です。上位の者からの質問にこれをやったら上位の者からの叱責を受けてしまいますが(質問をはぐらかすなんて失礼ですからね)、同格かあるいは格下の者を相手にするなら有効なテクニックです。まともに受けない。はぐらかす。そうすることで嫌みや悪口を無かったことにしてしまうのです。こうなると、言った方だけに恥を掻かせることが出来ます。


 そしてこれは同時に、シルフィン様がワイヴェル様を同格、あるいは格下扱いしたという事を意味します。ワイヴェル様はお怒りの表情を露わにされます。彼女は侯爵家の生まれです。男爵令嬢に同格扱いされるなんて屈辱でしょう。シルフィン様に詰め寄って叱責の声を上げようとして……。


「ワイヴェル」


 フレイヤー公爵閣下に止められていました。ワイヴェル様は愕然となさっていますが、公爵閣下は進み出てシルフィン様に婚約を言祝ぐ挨拶を行います。これは公爵閣下がシルフィン様とヴィクリート様の婚約をお認めになった事を意味します。こうなるとワイヴェル様もこれ以上シルフィン様を見下すことが出来なくなります。


 一族の代表者が婚約を承認したのでしたら、他の者が従わない訳には参りませんからね。ワイヴェル様は屈辱に震えながらもシルフィン様に祝福のご挨拶をし、シルフィン様は先ほどのことなど無かったかのようにご挨拶を受けられます。これではワイヴェル様はご自分の品位を下げてしまっただけに終わってしまいました。シルフィン様の完全勝利です。


 ……これが男爵令嬢? 嘘でございましょう。私はこの時にシルフィン様のお生まれを忘れる事に致しました。そんな事に拘っていたら、彼女の本質を見失います。これはちょっとただ者では無いかも知れません。


 先に皆様からの祝福を受けてから、シルフィン様とヴィクリート様は婚約式の儀式に上りました。そして指輪の交換をして、来賓の皆様からの拍手を浴びております。挨拶と儀式の順番が逆でしたら、恐らく全員が揃って拍手をしてお二人を祝福することは無かったでしょう。もしやこの順番もシルフィン様がお決めになったのでしょうか?


 儀式が終わり、場所を帝宮に移して晩餐会と舞踏会が行われました。これも私の時と同じです。恐ろしく巨大な会場に、有力貴族も招いての大々的な催しです。私は幼少時から社交に出て、練習のためにホストも何度かこなしておりましたが、こんな大規模な夜会は出るのも見るのも初めてで、それをいきなりホストとして仕切らなければ(勿論、公爵夫人も協力して下さいましたが)ならなくなった私はあまりの忙しさに、翌日に倒れて寝込んだほどです。それくらい大変なのです。


 ところが濃いグリーンのドレスに白金のティアラという出で立ちのシルフィン様は、これをなんなくこなしてしまわれました。何百人という方に料理のお取り分けをするのですが、これは時間も掛かれば一人一人に挨拶をしなければならない難行苦行です。こなすには皆様のお名前、身分、話題を覚えておく必要があります。もちろん、侍女がメモを見ながら逐一教えてくれるのですが、それでも聞いたら思い出せる程度には暗記の必要があります。


 シルフィン様はごく自然に皆様と会話をして時折、お相手する方と笑いあっておられます。つまり会話が普通以上に成立しているという事です。暗記が出来ていなければこうはいきません。


 ……生まれは兎も角、シルフィン様が昨日まで社交界に一回も出て来られなかった事は間違いありません。つまり、この場の方々とは面識一つ無いはずです。それなのになぜ普通に会話が成立しているのですか? あり得ない事です。


 私は今のシルフィン様と同じ経験をしたからこそ、その異常性が分かります。……そうです。この場にはもうお二人、この規模の婚約式を経験した方がいらっしゃいます。皇太子殿下の婚約者であるスイシス様と、フレイヤー公爵家のドローヴェン様の婚約者ワイヴェル様です。近くに座るお二人を盗み見ますと、お二人とも表情が不自然に引き攣っておられます。やはりシルフィン様の凄さに気が付いたのでしょう。


 舞踏会でシルフィン様とヴィクリート様がお披露目に踊ったダンスは、もう完璧で、これではもう誰もお二人のご婚約に異は唱えられないでしょう。私ももうすっかりシルフィン様に兜を脱ぎました。これはダメです。私には手に負えそうにありません。この時点で私はシルフィン様には逆らわないようにしようと考え始めておりましたよ。


   ◇◇◇


 シルフィン様は社交に出始めると、あっという間にお友達を増やしてしまわれました。


 社交というのはつまりは仲間を増やすために行うのです。お友達を増やし、身分が高い者なら身分低い者を配下に入れ、社交界で勢力を拡大するのです。その事によってお家の影響力を拡大し、貴族界での地位向上を狙います。それが社交の目的です。


 身分が低い者でしたら、有力なご婦人の配下になり、同じ配下の婦人の者と協力して主として仰ぐ方の勢力拡大に協力致します。主の勢力が拡大すれば、自分の社交界での地位も向上しますからね。そして主と仰がれた者は配下のために自分の地位向上を狙い、更に上位の方の派閥に入るなり、自分が上位になるなりします。


 私などは既に公爵家の次期公妃(予定)ですから、既に社交界ではほぼ頂点の存在です。私の身分でお友達はつまり自動的に派閥の配下ですから、私はお友達を増やして、他の三大公爵家の次期公妃の方との順位を争わなければなりません。


 まぁ、私はあまり争いが好きではありませんし、社交も上手ではありません。なのでこれまで私はワイヴェル様に社交界の勢力争いでは負けっ放しでした。これは私の婚約者のザイモンズ様も同じで、フレイヤー公爵家のドローヴェン様に男性社交界でも勢力争いは負けていたそうです。


 レクセレンテ公爵家はというと、現公妃様がもの凄い大勢力をもって女性社交界を制圧していますが、ヴィクリート様は社交がお嫌いですし、これまで婚約者がいませんでした。ですから、次代の社交界ではフレイヤー公爵家と我がウィプバーン公爵家に大きく遅れを取っている状態だったのです。その差は圧倒的でしたから、正直シルフィン様は社交界での地位確保に苦労すると思われておりました。


 ところが、シルフィン様はもの凄く社交上手な方だったのです。


 まず、お茶会などでは非常に柔らかな態度で、主催者を立てて自分は控えめに振るまい、それでいて常に新しい話題を供給して場を盛り上げます。これではお招きした主催者の婦人は当たり前にシルフィン様に好意的になってしまいます。シルフィン様は花々にもの凄く詳しく、飾られた花々や庭園に見える花を見てその事について話題を提供し、それに絡めて屋敷の主人を褒めるのです。これは主催の方は嬉しいですし、周囲も感心します。


 庭園を散策するとこれが更に顕著になります。花だけでは無く木々や蔓草、野草の類いを使って話題を切らさず、庭園の設計のセンスや手入れについて主催者を褒めるわけです。自慢のお庭を褒められて喜ばない方がおりましょうか。特に庭園造園がお好きな方々、ブログレンツ侯爵婦人などは大喜び致しまして、一気にシルフィン様の熱心な支持者になったほどです。


 更に、シルフィン様はお芸術関係にも造詣が深く、絵画、楽器演奏をそつなくおこなしになります。特に絵がお好きだそうで、室内での静物スケッチや屋外でのスケッチをする会に出て来られて、こちらでも大人気でしたね。実は私も絵が好きで、そういう社交ではご一緒することも多くなったのですが、シルフィン様は自分の絵はあまり見せびらかさず、人の絵を褒めて下さる方で、身分を笠に着ないで身分低い者にも自分の絵に改善点が無いかどうか質問していらっしゃいました。これはなかなか出来る事ではありませんよ。


 もう一つ面白いのが、小さいお子のいらっしゃるご夫人が雪崩を打ってシルフィン様の支持者になった事です。これにはワイヴェル様の元支持者や私の支持者だった方々も含まれておりまして、これはどうしたことかと驚きました。


 聞くところによると、自分の可愛いお子をシルフィン様に紹介すると、お子が瞬時にシルフィン様に懐いてしまったという事です。それはもう、男女問わず。赤子から成人直前のお子まで。シルフィン様を見るなり笑顔になり、抱き付き離れなくなったのだそうです。シルフィン様も子供がお好きなようで、一緒に遊んだり学習をして下さったりしたそうです。


「あんなに子供が懐く方が悪い方である筈が無い。あの方には天性の人望がある」


 という理由で、子持ちの若い夫人があっという間にシルフィン様を慕うようになってしまったのです。既に子持ちなのですから、次世代とはいえ私達よりも年上の方です。そういう方を自分の配下に入れるのは本来凄く難しいのです。それをまさか、子供を味方にすることで、母親も籠絡してしまうとは。


 そんなこんなで、シルフィン様の派閥は急拡大。あっという間に私の派閥を越えてワイヴェル様の派閥に匹敵する規模になってしまいました。ワイヴェル様は「なぜあのような身分卑しい者に皆が靡くのですか! 上位貴族の誇りがないのですか!」と叫んでおられましたが、私はもうとっくにシルフィン様には敵わないと諦めておりますので、全然悔しいとも思いませんでした。


 あっという間に女性社交界で存在感を急拡大したシルフィン様。これに危機感を抱いたのは言うまでも無くワイヴェル様を始めとするフレイヤー公爵家一族の方々でした。フレイヤー公爵閣下はこの頃から既に病気がち。お妃様は既にお亡くなりになられていまして、フレイヤー一族を動かしているのはドローヴェン様とワイヴェル様でした。


 ……ワイヴェル様には同情の余地がございます。この方はドローヴェン様とご婚約なさったときには直接庇護して下さる公妃様が既にいらっしゃいませんでした。そこが私とシルフィン様とは違ったのです。ご婚約も早かったですし(公爵家としては早く婚約させて、亡き公妃様の代わりに女性社交界で頑張ってもらいたいという期待もあったのだと思います)。ワイヴェル様はそれでも頑張って、次代の女性社交界を牛耳りつつあったのです。その頑張りをあっという間に台無しにしてくれたシルフィン様に好意的になれないのも無理はありません。


 おまけにドローヴェン様は昔からヴィクリート様を強くライバル視しておられました。これではヴィクリート様の婚約者であるシルフィン様とワイヴェル様が対立するのは無理からぬ事でした。


 ワイヴェル様は一族のサッカラン侯爵夫人を使って(この方はスイシス様のお母様なので、皇族に準ずる扱いになりますのでシルフィン様も疎かに扱えない存在です)シルフィン様にちょっかいを出していましたが、シルフィン様はそんな事で揺らぐような方ではございませんでしたね。むしろ嫌がらせをしたせいでサッカラン侯爵夫人の品位が落ちる事態となり、発言力まで低下する有様でした。


 そして驚いた事に、シルフィン様はヴィクリート様と、皇帝陛下のご命令で帝国全土の視察旅行にお出かけになりました。詳しい事情は分かりませんが、これは大変な事です。皇帝陛下のご命令を受けたのはヴィクリート様だとしても、シルフィン様も同道を許されたと聞いております。これにはシルフィン様の支持者は湧き立ちました。流石はシルフィン様だと。これで一気にシルフィン様の評価は確定しました。つまりワイヴェル様や私の一つ上のランクに出たと考えられたのです。それはそうでしょう。皇帝陛下の命を受けるなんて男性の高位貴族でもあまり無いことですよ。まして女性。しかもまだシルフィン様は婚約者です。


 ワイヴェル様と私の面目は丸つぶれになりました。私はとっくにシルフィン様に降参状態でしたから良いとしても、ワイヴェル様は大分荒れましたし、フレイヤー公爵家一族は危機感を強めたようです。そしてフレイヤー公爵家のドローヴェン様とワイヴェル様は、この事態に対抗するために、どうやらウィプバーン公爵家との連携を目論見始めたようなのでした。


 すなわち、これ以上レクセレンテ公爵家の勢力が拡大すると、ウィプバーン公爵家、特に次代のザイモンズ様と私は困るでしょう? という理屈です。いや、困りませんが。私もザイモンズ様も権力欲は薄いですし、そもそもヴィクリート様にもシルフィン様にも敵うとは思えません。私としては下手にシルフィン様に手を出して、あの底知れぬ才覚で仕返しされたらと思うと、とてもでは有りませんが彼女に対抗したいとは思えません。


 しかし、ワイヴェル様はグイグイと押してきました。何としても私を味方に付けて、二公爵家の総意としてシルフィン様に対抗して行きたいと考えたのでしょう。一人ではもはやシルフィン様に対抗出来ない、という思いは分かります。分かりますが迷惑です。


 ですが、そう言えないのが私の弱気の悲しいところです。キッパリ断ってワイヴェル様と敵対関係になるのはそれはそれで怖いのです。ワイヴェル様の方が社交界で勢力がお強いですし、個人的な迫力でいっても敵いません。これはザイモンズ様とドローヴェン様のご関係も同じでして、結局私達は押されるまま、何となくフレイヤー公爵家と連合を組まされるような形になってしまいました。


 シルフィン様とヴィクリート様が視察からお帰りになってすぐ、皇太子殿下とスイシス様の結婚式が執り行われました。そこでまた衝撃的な光景を私は目にすることになったのです。


 なんと皇太子殿下と妃殿下になられたばかりのスイシス様が、シルフィン様に頭を下げて何やら強い感謝の気持ちをお伝えしているのです。これには列席の皇族や上位貴族が唖然呆然ですよ。な、何が起こっているのですか? しかも皇帝陛下も皇妃様も、涙を浮かべんばかりにシルフィン様の手を取って感謝の意を伝えています。いったいどういう事なのですか! し、シルフィン様は何をしでかしたのですか! 


 しかしシルフィン様は困ったようなお顔で皇帝ご一家を宥め、それでスイシス様がまた感動して涙を浮かべる有様。この日以来、皇太子妃殿下のシルフィン様への態度は一変してしまいました。これまでは妃殿下はそもそも社交がお得意で無かった事もあり、あまりシルフィン様とは近いご関係では無かったと思うのですが。いや、どちらかというとシルフィン様を避けている感じでございました。妃殿下はフレイヤー公爵一族のサッカラン侯爵家のご出身です。それにしてはフレイヤー公爵家に肩入れしている風ではございませんでしたが、それにしてもシルフィン様に隔意を示していても無理はないのです。


 それがもう、ご結婚以来、妃殿下はシルフィン様にべったりでした。毎日のように帝宮にシルフィン様をお招きになり、ご歓談なさっているそうです。あり得ない頻度です。他の社交でもシルフィン様がいらっしゃらないと出席しないとまで噂されるほどでして、確かに妃殿下出席の社交にはかならずシルフィン様のお姿があり、必ずセットでいらっしゃいました。


 これが、シルフィン様が妃殿下を頼りにして、腰巾着のようにくっついているのなら分かるのです。しかし、事実はどう見ても逆です。明らかに妃殿下がシルフィン様にくっついているのです。シルフィン様は懸命に妃殿下を立てていらっしゃいましたが、こうまであからさまに妃殿下がシルフィン様に依存していては隠しようがありません。


 こんな状況になってしまえば、皇太子殿下が皇位を継いだ御代で、シルフィン様、つまりレクセレンテ公爵家が重用されるのはもう確実でございましょう。とてもこの状況を覆せるとは思えません。私はとっくにシルフィン様には降参して全面降伏して跪きたい気分なのですが、ワイヴェル様はそうではありません。そしてワイヴェル様の派閥に組み入れられてしまった状態の私も簡単には離脱出来ない状況になっておりました。これは私の支持者がシルフィン様に負けないで欲しいと期待しているからです。そんな事を期待されても困るのですが……。


 そんな訳で私はワイヴェル様に巻き込まれて、シルフィン様に嫌がらせというか、嫌みを言いに行くのに付き合わされる事になったのですが、それがもう、端で見ているのも恥ずかしいくらいやり方が不味かったのです。


 もう一度言いますが、ワイヴェル様には同情の余地がございます。彼女はまだ年若く、それなのに一族の期待を一身に集め、社交界制覇に力を尽くさなければならず、それはほとんど成功しかけておりました。彼女の才覚や人望は本物でした。強気な性格、他人を巻き込む押しの強さ、そして威厳など、彼女には本当に社交界の華としての実力があったのです。単に、それ以上の怪物が現れてしまっただけで。


 人望著しいシルフィン様を社交界トップから引きずり下ろすには、どうしても皇太子妃殿下とシルフィン様を引き離す必要がありました。そのためにワイヴェル様が選んだのは、妃殿下にシルフィン様の悪口を吹き込むことでした。この時点で発想がもう頂けません。ただ、方法が他に思いつかないことも事実です。というより最初からあんなにご信頼を深め合っているお二人を引き離すのが無理なのです。


 案の定、妃殿下は逆にワイヴェル様に怒り、彼女を遠ざけるようになりました。無理もありません。信頼を預けている方の悪口を言われて怒らぬ者が居るでしょうか。焦ったワイヴェル様は妃殿下の母親であるサッカラン夫人を使って、妃殿下に接近を図ります。流石に実の母と共にあるのではワイヴェル様を遠ざける事は妃殿下にも出来ません。


 ところが、このサッカラン侯爵夫人は気位が高く、下位の者を必要以上に見下すところがございました。そのため、シルフィン様にまで見下した態度を取り、何度か凹まされて周囲からの評価は下がる一方でした。この夫人が妃殿下とシルフィン様の前で、お二人が歓談している伯爵夫人や令嬢を捕まえて、身分を理由に詰ったのです。


 これはいけません。貴族界は上位貴族が動かしていますが、その中でも公爵侯爵の数は少ないのです。これは公爵は皇族、侯爵は皇族の血を濃く引く家というくくりがあるからです。上位貴族の中では伯爵が一番多く、また、侯爵よりも領地が大きく功績も大である家など沢山有ります。つまり帝国を支えているのは数多くの伯爵家なのです。それなのにその伯爵身分をあからさまに見下しては、その多くの伯爵家の皆様から反感を買うばかりでしょう。


 案の定、そのような事をする度にサッカラン侯爵夫人とワイヴェル様の人望は下がって行きました。一方、シルフィン様は侮辱された方に心よりお詫びをされていて、妃殿下も母の所業に申し訳なく思っていると言っていらっしゃいました。これでお二人は身分低い者にも心優しいと、評判を高めて行く事になります。私も何度かワイヴェル様に引っ張られてしまいましたから、私の評判もザイモンズ様の評判も下がってしまいました。私はもう困り果ててしまい、遂に私はフレイヤー公爵家の派閥からの離脱を考えるようになりました。


 そんなある日のことです。サッカラン侯爵夫人とワイヴェル様は、また例によってシルフィン様と妃殿下とお話ししていた伯爵令嬢を詰り始めました。この時、私もザイモンズ様も同道していましたが、私はこれを良い機会だと思いました。ここで伯爵令嬢を庇い、ワイヴェル様との決別を示そうと思ったのです。


 伯爵令嬢は上位の夫人の叱責に耐えきれずに泣き出しました。今です。ここで私が進み出て伯爵令嬢を庇い、私だって身分低い者に優しいのだという所を見せ、ワイヴェル様との決別を示し、皇太子妃殿下とシルフィン様に謝罪し、お二人の派閥に入れてもらうのです。私がそう決意した、その時でした。


 シルフィン様が微笑みを消して、こちらを、ワイヴェル様とサッカラン侯爵夫人を睨んだのです。……これには驚きました。シルフィン様が社交の場で、これほどはっきりしたお怒りを見せる事など無かったからです。そして同時に、これはシルフィン様の失態になるはずでした。社交の場で感情をあからさまにするのは、貴族夫人として一番やってはいけない事だからです。


 しかし、私は後で思い返しましたが、ここでシルフィン様が、自分の失態になるのを承知で下位の令嬢のために怒る事が出来る方だからこそ、あのように人望があるのでしょうね。人は、自分のために親身になってくれる方に靡きます。特に、自分のために怒ってくれる方には信頼を置きます。帝国女性社会の頂点にありながら、シルフィン様は他人のために親身になれる方なのです。だからこそあのように急速に支持が拡大し、皇太子妃殿下にも信頼されるようになったのです。


 そしてシルフィン様はお優しいだけの方ではございません。


「侯爵夫人。貴女は勘違いしています」


 シルフィン様が低い声で仰った瞬間、私はザイモンズ様の手を掴んで踵を返しました。こ、これはもう駄目です。シルフィン様は本気で怒っています。こうなれば、サッカラン侯爵夫人やワイヴェル様にどうにか出来るとは思えません。今更私が伯爵令嬢を庇ってももう何にもなりません。タイミングを逸しました。


 あと出来る事は、逃げ出すだけです。巻き込まれないうちに逃げ出して無関係を装うのです。勿論、シルフィン様のお怒りから逃げ出すのは失態です。私に対して失望されてしまう方もいらっしゃるでしょう。しかし、そんな事は些細なことです。このままではとんでもない事になります。


 シルフィン様がお怒りになるということは、妃殿下もお怒りになるということです。妃殿下はサッカラン侯爵夫人の実の娘ですし、フレイヤー公爵家のご養子ですが、今の妃殿下を見ればそんな血縁よりもシルフィン様との信頼関係の方を優先するのは明らかではありませんか。妃殿下に直々に叱責を受けるような事態になれば、私の社交界での地位が大きく下がってしまいます。


 そして単純に言って私はシルフィン様のお怒りが恐ろしかったのです。まともに受ける勇気は全然ございません。私はザイモンズ様のお手を引いて戸惑う彼を引きずるようにその場を離れ、遂には会場からも出てしまいました。


「サッカラン侯爵夫人! 控えなさい!」


 背後から妃殿下の珍しいくらいに大きな、お怒りの言葉が聞こえました。言わんことではありません。私は妃殿下の叫びに追われるように廊下を早足に歩きましたよ。


   ◇◇◇


 結果論的に、逃げ出した私の決断は大正解でした。


 妃殿下の叱責を受けてサッカラン侯爵夫人は社交界での立場を失い、フレイヤー公爵家と妃殿下の関係も切れてしまいました。お陰でワイヴェル様とその派閥は壊滅的な打撃を受けて、このことが後々のファルシーネ様が絡んだ大事件に繋がってしまいます。


 もしもこの時に、私が逃げ出していなければ、ワイヴェル様と共に私の株まで暴落して、その結果ワイヴェル様と協力関係を続けるしかなくなり、ファルシーネ様との時にまで巻き込まれ、反乱の罪で私の首まで飛んでしまったかも知れません。非常に危ないところだったのです。


 私はあれ以来、シルフィン様に恭順を誓いました。シルフィン様はそもそも温厚ですし、配下の者に絶対の服従を求めるような方ではございません。それどころか私に対して同じ公爵家に嫁入りする者としてシンパシーを感じて下さったのか、仲良くして下さいましたよ。


 皇太子妃殿下は、内気なところが同じである事で気が合ったのか、こちらも私と仲良くして下さいまして、自然と私はお二人と社交をご一緒にさせて頂く機会が増えました。お陰で私の派閥はお二人の派閥と同化して、女性社交界に穏やかな時代が訪れたのでした。とっくにこうすれば良かったですわ。ワイヴェル様には気の毒な事だったと思いますが、そもそも妃殿下でさえ頭が上がらず、遂には聖女になられてしまったシルフィン様に楯突くのが間違いだったのだと言うしか有りません。


 ところで、シルフィン様が男爵令嬢であった事が本当だったとは、仲良くなってからシルフィン様ご本人に伺いました。シルフィン様曰く、ほとんど農民で平民同然だったそうです。驚く私にシルフィン様は笑って仰いました。


「でも、それが何か問題でも?」


 ……もちろん、私はこう言いましたよ。心から。


「いいえ。問題などあろう筈はありませんわ。シルフィン様はシルフィン様ですもの」

 


――――――――――――

「私をそんな二つ名で呼ばないで下さい! じゃじゃ馬姫の天下取り 」(SQEXノベル)イラストは碧風羽様。「貧乏騎士に嫁入りしたはずが!? 」(PASH!ブックス)イラストはののまろ様です。好評発売中です! 買ってねー(o゜▽゜)

 


 

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