三十八話(後) ヴィクリート嫁の凄さを再び思い知る
遊牧民のところに交渉に向かう頃には、ハイフェンの送ってくれた五千騎も到着したし、公爵領には軍勢がひしめいていた。この数をもって侵攻すれば、北の遊牧民をなで切りにすることも出来るだろう。
しかしシルフィンがそんな事を許す筈も無い。私はそれでもその五千騎を連れて遊牧民の土地へ向かうことにした。交渉が決裂したら、あるいはこちらに敵意を見せるなら、その瞬間に戦争へと移行して連中を滅ぼせるようにと考えたのである。
シルフィンと私は悪路用の馬車に乗り、北の国境へと向かった。遊牧民との土地の境には小さな川があり、そこを仮橋を架けさせて越える。この国境はあくまで目安である。遊牧民達は本来もっと北の方に住んでいる。そして領都の城で魔力奉納すると、円形に効果範囲が広がるので、その範囲が魔力的な意味での公爵領だ。あまり範囲を拡げ過ぎると魔力が追い付かないため、大体一日で行き来出来る距離に魔力範囲は留めてある。その距離が大体この川の位置なのだ。
川を越えて少し進むと急に寒くなった。公爵領の魔力的境を越えたのだろう。すると周囲から途端に木々が消えた。そして空は曇り、荒涼とした光景が広がるようになってしまう。
なるほど。これは酷い。不断はあんなに青々と草が茂っている草原が、ほとんど枯れて灰色になってしまっているのだ。
私は北の遊牧民の土地には何度か来た事がある。理由は主に馬の買い付けだ。遊牧民達と公爵領はこれまでは友好的に付き合っており、馬や乳製品、毛織物と食料貧や生活雑貨を交換する形で交易を行っていたのである。何度か彼らの族長会議にも公爵領から代表者を派遣したし、色々上手くやっていたのだ。
だからこそ、裏切られた、という怒りが強まるのである。もしも略奪に来る前に相談してくれたなら、私だってそれは彼らを救うために尽力しただろうに。しかも、よりにもよってシルフィン一人でいる時に攻め寄せるなど、本当に許せない。
しかしシルフィンは、荒れ果てた草原を見て痛ましそうな顔をしていた。それを見れば彼女が、なんとかして遊牧民達を助けたいと思っているのは明白だった。私は彼女の優しさを誇らしく思うと共に、その優しさが平気でこちらを裏切ってくるような相手に通じるものかとも思い、複雑な気分でいた。
草原の中央にぽつんと大岩が聳え立つところが交渉場所だった。この大岩のお陰で風が避けられるからだろう。周辺には遊牧民の使う天幕がいくつも展開してあり、大きな集落を形作っていた。
おそらくは遊牧民の族長たちが招集したのだろう。何千騎かの遊牧民の騎兵がいた。しかし、如何にも草臥れ果てた、みすぼらしい戦士達だった。それはそうだろう。彼らは困窮した挙げ句に公爵領でも禄に食料が調達出来ず、おまけに領都でシルフィンと戦って更に疲弊したようだから。帝国の完全武装の五千騎とは比べものになるまい。
七名の族長がやってきて私とシルフィンの前にぎこちなく跪いた。遊牧民の儀礼に跪く姿勢は無い筈なので、これはこちらに媚びるためにやっているのだろう。それだけ切羽詰まっているという事だろうが、私はその浅ましさに腹が立つだけだった。
そして略奪品の返還をし「これでこちらは約束を守ったぞ」とばかりにふんぞり返る連中には本気で殺意を覚えてしまう。これでこちらが援助をしても、こいつらは正当な対価を得たとばかりにこちらに何の感謝もしないに違いない。
そんな状況では、また困窮すれば再び公爵領に侵攻してくる事だろう。そんな馬鹿馬鹿しい事はそうあるものではない。私もだが、シルフィンと一緒に戦ったアーセイムや、その横にいるシルフィンの侍女のレイメヤーも憤懣やる方ないという表情だ。この調子では公爵領で遊牧民から略奪被害を受けた者達も援助に同意などしないだろう。
それでもシルフィンが援助を強行すると、彼女が公爵領の住民から非難され支持を失ってしまう事になりかねない。ここは私が彼女を止めなければならないだろう。彼女を納得させるために少しの食料を渡せば約束は守ったという言い訳は立つ。あの不誠実な連中にはそれで十分ではないか。
内心怒り狂っている私を、シルフィンは遊牧民の集落の見学へと誘った。彼女は私の事がよく分かっている。私が農村が好きで平民達と親しく付き合っているのを知っているシルフィンは、私が遊牧民の平民と交流すれば気分が変わると思ったのだろう。確かにこれ以上、族長どもと話をしていると、発作的に斬り捨ててしまいそうだ。私はシルフィンに同意し、二人並んで集落へと近付いた。
……流石に、私も絶句した。
あまりにも集落の状況は悲惨だった。公爵領の農村に比べて、人々は明らかに痩せ細っており、疲れ果てていた。そして、常なら集落を取り囲むようにしてもの凄い数がいるはずの羊や山羊や馬などが、ほとんどいない。しかもその家畜もあばら骨が見えるくらいに痩せ細っている。
困窮しているどころでは無い。あからさまに全滅寸前。とてもでは無いが、この次の冬は越せまい。……なるほど。私はこの時、初めて彼らが公爵領に略奪に来た事情を理解した。これでは公爵領と交渉している暇も無かっただろう。ここまでなる前に相談してくれれば、とは思うが、おそらくはこの春になれば状況が改善すると前の冬には思っていて、対応が遅れたのだろう。
しかしそれにしても、これはもうどうにもならないだろうと私は思った。
遊牧民の集落はここだけでは無い。確か何年か前の調査では広い草原地帯で三万人近い人間が居たはずだ。その全てがここと同じように困窮していたとしたら? とてもではないが助け切れないだろう。
公爵領にだってそこまでの食料備蓄は無い。そもそも、その少ない食料備蓄は遊牧民に奪われたでは無いか。冬に備えるためには、公爵家が出資して領内の農民達に食料を援助しなければならないのである。遊牧民より領内の農民に援助する方が優先である。
ついでに言えば、今回帝都に頼んだ援軍や、ハイフェンから借りた軍勢の糧食などは当然だが公爵家持ち。領都や荒らされた街や村の復興に掛かる費用だって考えなければならない。レクセレンテ公爵家は非常に裕福ではあるが、その公爵家をもってしても今回の侵攻の後始末に掛かる費用はかなりの痛手である。何しろ我が家はアンガルゼ王国遠征の費用もかなり出費している(こちらは賠償金や港の権益から戻ってくるが)。
それなのに、これほど困窮した三万人を来春まで完全に助けられるほど援助することは出来ない。いくらレクセレンテ公爵家でも無理なのである。
「無理だ。シルフィン」
私はそう言うしかなかった。
シルフィンは顔色を真っ青にして、潤んだ瞳で人々の事を凝視していた。おそらくはその優秀な頭脳で必死に出来る事を探しているのだろう。彼女の不幸はここで何も考えず、私に「可哀想だから援助をしましょう!」と叫べない事である。彼女は理性的だし頭も良い。叫ぶ前にきちんと公爵領の実情を思い描き、不可能である事を私が説明をするまでも無く理解してしまう。
しかし、心のままに動けない事はある意味不幸なのである。彼女が馬鹿な女であれば、援助出来ないという私を詰り、責任を押し付ける事も出来ただろう。それが、彼女は自分で自分を納得させなければならなくなった。おそらくは冬に辿り着くまでに全滅するであろう遊牧民達の死を、自らの内に抱え込まなければならなくなってしまった。シルフィンは優しいが故に、斬り捨てる事が出来ない。自らの中に大きな悲しみと耐えがたい苦しみを抱え込んでしまうことになるのだ。
その悲しみと苦しみを少しでも和らげたくて、私は言った。
「援助はしよう。だが、その程度でどうにも出来ない事は君にも分かるであろう?」
無駄な援助になるであろう。しかしそれでシルフィンの心が少しでも和らぐのなら。
シルフィンはそう考えた私の気持ちをしっかり受け止めてくれたのだろう。彼女は潤む瞳で無理矢理に、儚げに微笑んだ。
「……ありがとう。ヴィクリート……」
私達は族長達に当面の援助を約束した。彼らは驚喜しているが、私は冷めた目で彼らを見てしまう。この者達がもう少し早く、去年の冬前に公爵領を頼っていたなら、少しは出来る事があったものを。何もかも貴様らのせいでは無いか。喜んでいる場合か。少しはシルフィンの先見の明を見習うが良い。
私達は滅び行く民族に別れを告げ、領都に戻るために馬車に乗り込もうとした。私がシルフィンの手を引き、馬車へ導こうとした、その時だった。
シルフィンが不意に、私の元を離れて馬車の間近に聳え立つ大岩の方へと向かった。何か気を引くものでもあったのだろうか? 私も彼女を追って岩の方へと近付く。護衛は訝り、シルフィンの侍女は「また何をしでかすつもりなの?」と言いながら私達の後ろに続く。
シルフィンは大岩の間近に近付くと、両手を岩肌に当てた。そして額も岩に押し付けるような姿勢で祈りの言葉を唱え始めたのだった。
「天にまします大いなる大地の女神よ。この大地に恵みを齎したまえ。我は心より祈りを捧げ、我が魔力を奉納せんとす。どうか大地に潤いを、大気に暖かさを、人々の顔に笑顔を……」
すると、シルフィンの手元に火花のようなものが散った。こ、これは魔力奉納? 領都の城で魔力奉納をした時と起こる現象が似ている気がする。シルフィンもほんの少し魔力を持っているのだから、魔力を地に捧げる事は出来るだろうが、しかしなぜ何の整備も儀式の体裁も整っていないところで魔力の奉納が出来るのだ?
しかしシルフィンの魔力では奉納しても大した事は出来まい。彼女が魔力を大幅に増やしたという事は聞いていないのだ。私の見る限り、彼女の魔力では最低威力の魔力小銃を一発撃てるかどうかといったところだ。奉納しても周辺の草が僅かに青くなるくらいではないだろうか。
しかしシルフィンは一心に祈っていた。閉じられた瞳。風に靡くストロベリーブロンドの髪。ベージュのドレスも相まって、この時の彼女の姿は神殿で祈りを捧げる巫女の姿を思わせた。その彼女を見ていると、自然と私も胸に両手を当てて、大地の女神に祈りを捧げたい気分になった。もちろん、魔力を奉納するわけには行かないが、せめて大地の女神に、この地を癒やしてくれるようにと願ったのだった。
見ると、帝国の者は護衛も、お付きの者も、同じように祈っていた。シルフィンの真摯な祈りの姿勢に心を動かされたのだろう。……やはり、シルフィンは凄いな。彼女は常に真摯で真剣で慈愛に満ちている。その姿はいつも人々を感化し、良い方向に導くのだ。そう。おとぎ話で聞く聖女というのは、恐らくシルフィンのような女性であったに違いない。
私がそう思った瞬間だった。
シルフィンが突然光り始めたのだ。最初は淡く、次第に虹色の強烈な輝きを放ち出す。
「な! シルフィン!」
私は慌ててシルフィンを助けようとしたが、足が動かない。なぜだ? 輝くシルフィンが放つ強烈な「何か」に阻まれて、一歩も動くことが出来ない。まぶしさに耐えながらシルフィンの事を見ると、そこにはシルフィンの姿をしたシルフィンでは無い「何か」がいた。
私はぞっとした。なんだあれは! その「何か」は、私に面白そうな流し目をくれた。そして僅かに口を動かして何かを言った。
なんだ! 何と言った! 私が混乱の局地に達した瞬間、シルフィンは爆発的な光を放ち、私は耐え切れずに目を閉じてしまった。同時に熱いくらいの暴風が吹き荒れ、護衛の者やお付きの者が悲鳴を上げる。遊牧民達が何やら叫ぶのも聞こえた。
光と嵐が収まり、私は目を開けた。真っ先に探し求めたのはシルフィンの姿だ。彼女が無事なら後は何でも良い。
シルフィンはこちらを向いて立っていた。緑溢れる草原の中、真っ青な空を背景に、黒く光る岩に片手を当てて立つシルフィンは、神々しいとしか言い様がなかった。しかし私は気が付いた。彼女はまだ、シルフィンでは無い。なぜなら瞳の色が違う。虹色に輝く大きな瞳は、明らかにシルフィンのものでは無かったのだ。
しかし次の瞬間、シルフィンの目の色が虹色から本来の水色に戻った。そしてふっと目が閉じられると、彼女の全身からカクンと力が抜ける。
危ない! 私は全力で彼女に駆け寄り、倒れるところを抱き留めた。シルフィンは静かに私の手の中に倒れ込んだ。
「シルフィン!」
私は心配したのだが、顔色も平静だし、呼吸も静かだ。そして、すぐに目を覚ましてくれた。
シルフィンは私の事を見ると麗しく微笑んだ。先ほどの虹色の瞳での笑みとは違った、飾らないあけすけな笑顔。私の見慣れたシルフィンだったことに、私はこの上なくホッとした。
シルフィンは辺りを見て驚いていた。私もこの時、初めて周囲の様相が一変している事に気がついたのだった。
大草原には緑が戻り、大空は青く、暖かな風が吹いていた。……なんだこれは……。
奇跡だ。そうとしか言い様があるまい。そしてその奇跡を起こしたのは……。
「一体君は何をしたのだ?」
私が問うと、シルフィンは少し困ったように微笑むと言った。
「……大地の女神様にお会いしました」
……やはりそうなのか……。私は驚くと共に納得していた。あの、この私が一歩も動けなくなった強烈な波動。あれはやはり神々の持つ神威だったのだ。
シルフィンは会った、と表したが、あれはシルフィンに神が宿ったという事なのだろう。そしてそのお力で、この草原の大地を癒やした。あの一瞬で、これほどの癒やしを大地に与えるには膨大な魔力が必要となることだろう。
おとぎ話には、祈りに応じて大地の女神様が降臨し、魔力を祈る女性に与えて大地を潤したというものがある。これは歴史上、何度か本当にあった出来事らしい。そういう女性は……。
「……聖女になったのか? シルフィン?」
そう。聖女と呼ばれる。実は、帝国を創建した初代皇帝は聖女の子孫であったと言われる。彼は魔力奉納のやり方を開発し、魔力をそれ以外に活用する魔力兵器も創り出し、帝国の元になる国家を創建したのだ。
そういう歴史があるために、帝国は聖女を非常に重要視してきた。危険視してきたと言っても良い。聖女になった女性は全員が強制的に帝都に連れて来られ、全員が皇妃になっている。聖女は大地の女神様に魔力を直接与えられた者であり、巨大な魔力を持っている。代を重ねていくに従って薄くなって行く皇族の魔力を再び増やすために、聖女は皇妃にさせられたのだ。
その聖女にシルフィンがなってしまった。これは大変な事だ。もしも聖女が他の国に流出してしまい、他の国が大きな魔力を持つことになったら帝国の優位が揺らぐというのも、聖女が皇妃になってきた理由の一つなのである。その流れから言うと、シルフィンは皇妃に、現皇帝の皇妃様やメルバリードの妃殿下を押しのけてなってしまってもおかしくない。
とんでもない事になった。私はその時、シルフィンに憑依した大地の女神が、私に向けて悪戯っぽく発した言葉を唐突に認識した。
『これから大変だろうけど、頑張ってね』
と大地の女神は言ったのだった。……何を勝手な!
私は地団駄を踏みたくなったが、大地の女神様がシルフィンを聖女にしてくれたお陰で、この草原が蘇り、草が萌えたお陰で家畜を肥やすことが出来るのは確かだった。遊牧民の知恵で草原の野草から穀物を集めたりも出来るだろうから、当面の援助さえ有れば生活を立て直すことは出来るだろう。
遊牧民達は奇跡を目撃して、先を争ってシルフィンの足下に駆け寄って平伏した。族長だけでは無く、戦士達も武器を投げ捨て、涙ながらにシルフィンに祈り、集落の者達も大きな声で泣きながら祈っていた。
そんな遊牧民達の様子を見ながら、シルフィンは嬉しそうに、別に気負う様子も無く笑っていた。美しく慈愛に満ちたその姿はまさに聖女そのもの。私はこれでもシルフィンの事が、まだまだ見えていなかった。過小評価してしまっていた。そう思うしか無い。
「一体君は、どこまで凄くなるのだ? シルフィン?」
するとシルフィンは目を丸くして、少し怒ったように唇をとがらせた。
そして私の手をぎゅっと握ると、はっきりとした口調で言った。
「私は貴方の可愛い婚約者。それ以上でもそれ以下でもありません」
……ガツンと頭を殴られたような心地がした。そうだな。その通りだ。
男爵令嬢から次期公妃になっても本質に変化が無かったシルフィンの事だ。聖女になっても彼女のまま、自然に涼やかにこなして行く事だろう。私はその彼女に寄り添い、彼女を護り、そして愛して行こう。聖女になった彼女には様々な面倒事が降り注ぐ事だろう。夫になる私も女神の言ったように「大変な事」に巻き込まれるかも知れない。
だが、シルフィンがシルフィンのままで、私が私のままでいれば、きっとどんな事も乗り越えられるに違いない。二人が信じ合い、愛し合ってさえいれば大丈夫だ。
私はシルフィンを抱き寄せ、シルフィンは私に抱き付く。そう彼女と私は婚約者同士。この秋には結婚するのだ。その未来を誰にも邪魔はさせない。皇帝陛下にも、あるいは大地の女神様にもだ。
人々の祈りの中で、私とシルフィンは同じ未来へと思いを馳せたのだった。
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