二十五話(後) 皇太子はシルフィンに頭が上がらない(下)
幸いなことに父との面会はすぐに許可が出た。私はヴィクリートと共に父の執務室に急いだ。
父は何事かと驚いた様子だったが、私とヴィクリートの話を聞いて、しばし沈黙、暝目し、それからおもむろに目を開けて言った。
「分かった。メルバリード、ヴィクリート。後は私に任せるが良い。……大丈夫だ。悪いようにはせぬ」
父にしては歯切れの悪い仰りようだった。しかし、こう言われては後は父に任せるしかあるまい。
退席しようとする私に父が呼びかけた。
「メルバリード」
「はい?」
「其方はスイシスの事を愛しているか?」
何を言い出すのか。しかし私は父に向き直り、父の目を見つめながら頷いた。
「はい」
「そうか……。私は、シュレミーヤ、其方を産んだ者を、心の底から愛していた」
……父が私の前で生母の名前を呼んだのは初めてだった。そして、父があえて生母を「妻」とも「母」とも呼ばなかった事にも気が付いていた。
「しかし、妻には迎えなかった。何故だか分かるか?」
私は返事をせず父の事を見詰めていた。
「そんな事をすればシュレミーヤが苦労することは分かり切っていたからだ。身分の違いを乗り越え、周囲を納得させるというのは簡単な事では無い」
それは分かる。スイシスが突然皇太子の婚約者になって、どれほど苦労しているかは私にも分かっているつもりだ。
「……しかしな。今になって後悔してる。スイシスと、シルフィンの姿を見てな」
父の笑いは苦かった。まだそんな歳でも無い筈なのに、その瞬間だけ父はずいぶん年老いてしまったように見えた。
「私が、其方達のように護ることが出来たなら、乗り越えられたのかも知れぬ。そして、皇妃に、妻にあのような思いをさせずに済んだのかも知れぬ」
この時の私には父の言葉の意味があまり分からなかったのだが、鎮痛な表情の父の姿を見かねた私は言った。
「……私は父上と母上は良いご夫婦だと思います」
すると父は意外な事を言われたというように顔を上げた。
「そう見えるか?」
「ええ」
父と母は多少よそよそしくはあるが、食事などで一緒にいても不快そうな様子は見えない。ダンスをしても非常に息は合っているし、そういう時はお互い楽しそうにも見える。公的な場では皇帝と皇妃として立派な役目を果たし、政務も阿吽の呼吸で振り分けてこなしている。立派な皇帝ご夫妻だと思う。
「私は、スイシスと、父上と母上のような立派な皇帝夫妻になろうと話しています」
母は、自分の子ではない私とイーメリアをしっかり育ててくれた。愛情も十分頂けたと思う。何しろ私は一度も産みの親に会いたいと思った事が無い。
尊敬出来る父と敬愛出来る母。私は共に失いたくなかった。
「末長く母上とお仲良くなさってください。父上」
私がそう言うと、父は今度こそ本当に苦笑した。
「其方に励まされるようではな。私も老いた」
そして父らしく闊達な笑顔を浮かべた。
◇◇◇
私とヴィクリートは御前を下がったが、スイシスに会いに行ったシルフィンはなかなか帰って来ない。ヴィクリートが慌て出す。
「何かあったのでは無いか?」
あの戦場でも常に冷静沈着だったと評判のヴィクリートが椅子に座ってもいられないほど動揺しているのを見るのは愉快だったが、私も心配だった。シルフィンもだが、スイシスも、そして尋常な様子では無かった父と、母も。
しかししばらくしてシルフィンが帰ってきたとの報告が侍従からあった。ヴィクリートはサロンから飛び出してわざわざ廊下まで行ってシルフィンを出迎えた。
シルフィンはなんだかフラフラしていたが、ヴィクリートに倒れ込むように縋り付いた瞬間、確かにこう言った。
「皇妃になり損ねました」
私の中に戦慄が走り抜けた。
皇妃になり損ねた。つまり、皇妃になるチャンスがあった。どうやって?
皇妃、つまり母に成り代わる事など出来まい。だから彼女の言う皇妃は現皇妃では無い。次代の皇妃だ。そして次代の皇帝は私の筈だ。
つまり彼女は私の妃になるところだったという意味か? いや違う。私の婚約者、皇太子妃はスイシスだ。ということはシルフィンが皇妃、皇太子妃になるためには皇太子が私でなくなる必要がある。
誰に? シルフィンの婚約者はヴィクリートだ。シルフィンが皇妃になるためにはヴィクリートが皇帝にならねばなるまい。
つまり、シルフィンが皇妃になり損ねたというのは、ヴィクリートが皇帝になり損ねた事を意味するのでは無いか? どうして? どうやって?
父は母の元に向かったと思う。その場にシルフィンがいて、ヴィクリートを皇太子にするというような話が出たのでは無いか。しかしその話は無くなった。だからシルフィンは皇妃になり損ねたと言ったのだ。
私は呆然とした。私はこの時、この瞬間まで、自分が皇太子の座を奪われる事など考えた事も無く、そのライバルがヴィクリートであるなどと考えた事も無かった。私が皇位を継げない可能性があるとすれば、それは年の離れた姉であるファルシーネが皇太女になった場合だけの筈だった。
しかしそれは父が、私に位を継がせるために姉を他国に嫁がせた事で無くなった。なので私には皇位を争うライバルなどいないはずだった。
しかし考えてみれば、皇帝の息子とは言え、産みの親が伯爵家出身の私より、公爵家同士の者の子供であるヴィクリートの方が血筋が良いという考え方も出来る。そして同じく身分低い女性を妻に迎えたとは言え、今や才女として父母や大臣たちにまで認められつつあるシルフィンの方が、特に何の実績も残していないスイシスよりも評価は高かろう。
そう考えると、ヴィクリートとスイシスは私の皇位継承に高い壁として立ちはだかりかねない存在だったのである。そして、父母、いや、おそらくは母が、ヴィクリートを皇帝に推そうとした。
理由はヴィクリートは自分の妹の息子だから。自分の血を引かぬ私を皇帝にしたくなかったという事では無いか。私はその事を考えると心の底が冷えるような心地がした。私は極力、母と自分が血の繋がりが無い事を気にしないようにしていたのだが、母は違ったのだろうか? 血の繋がりの無い私を、どうしても皇帝にしたくなかったのだろうか?
暗い思いに沈みそうになる私に、ヴィクリートが声を掛けてきた。
「皇太子殿下」
私はハッとなった。ヴィクリートが私を称号で呼ぶことは滅多に無かったからだ。
「安心しろ。私は其方を補佐する者だ。皇帝になど断じてならぬ」
「そうですよ」
なんだか疲れ果てているような声でシルフィンも言った。
「皇帝とか皇妃とか、そんな恐ろしいモノにはなりたくありません。まっぴらごめんです。殿下とスイシス様にお任せします」
私は思わず目を瞬いた。この二人、今、皇帝と皇妃の座を足蹴にしたぞ? 厄介者のように扱わなかったか?
皇帝と皇妃の座を巡って、皇族が血で血で洗う争いを繰り広げたことなど帝国の歴史にいくらでもある。帝国の最高権力者である皇帝の座は、親兄弟が骨肉で争って手に入れる価値のある地位だと思われているからだ。
しかしこの二人は歯牙にも掛けなかった。それどころか私とスイシスに押し付けたいくらいの態度では無いか。どういうことなのだ。
考えればすぐ分かった。この二人は皇帝の座の重さを理解しているのだ。私も皇太子として日々務め、皇帝たる父の苦悩を見ているから理解出来るが、皇帝という地位は単純に羨望されるに相応しいような楽な地位では無い。職務は膨大、責任は重大、必要な魔力は甚大で、皇帝陛下と皇妃様はこれを協力して必死に乗り切っていらっしゃる。
これを引き継ぐのかと思うと怖じ気付く気持ちは私にもある。ヴィクリートとシルフィンはこれを素直に口に出したのだろう。
だが、私には分かる。この二人は自分たちがその重責を担わなければならないということになった瞬間、敢然とその重責に立ち向かうだろうという事が。ヴィクリートとシルフィンは共にそういう人物だ。
むむ。負けられぬ。私はこの時、初めてこの二人に負けたくないという気持ちが芽生えたのだった。私は皇帝になり、この二人の上に立ち、この二人を使いこなして帝国を運営しなければならぬ。
この二人に劣り、気持ちでも負けていたらそんなことは出来ない。臣下から「ヴィクリート様とシルフィン様の方が皇帝と皇妃に相応しい」などという声が上がったら、歴代皇帝たる父祖に顔向けが出来ぬでは無いか。
私は顔を上げ、なるべく堂々とこう答えたのだった。
「もちろんだ。皇帝は私で皇妃はスイシスだ。其方らになど譲らぬわ」
◇◇◇
ヴィクリートとシルフィンが帰ってしばらくして、私は父に呼び出された。内宮の奥深く、皇帝一家のサロンには父と母と、スイシスがいた。スイシスは私の顔を見上げて泣きそうな顔をしていた。
私はスイシスの横に腰を下ろした。父と母は並んで私達の前に座っている。
父と母は穏やかな顔をしていた。私はちょっとビックリした。なんというか、このお二人が並んでいる時に、このように緊張感の無い顔をしている事は無かったように思うので。
そして父母は私とスイシスに頭を下げた。これも驚愕の出来事だ。皇帝陛下と皇妃様が臣下に頭を下げるなどあり得ない話である。それが例え息子である皇太子である私に対するものであってもだ。
「二人には済まぬ事をした」
父が言った。
「スイシスに他家の者への嫌がらせを命じたのは私の手筈だった。皇妃に命じてな」
スイシスは驚愕に目を見張っているが、私は聞くなりそれが嘘だと分かった。父は私が自分が出来なかった伯爵令嬢との婚約を果たしたことが妬ましかったのだ、と言ったが、父は先ほど「婚約は考えもしなかった」と言った筈だ。
だからこれは、母が命じたということを、庇ってのことなのだろう。
「済みませんでした。スイシス」
母が素直にスイシスに頭を下げる。信じられない。母の表情は私が見たことも無いくらい穏やかで、トゲが無かった。な、なんだ? 昨日お会いした時にはこうでは無かった。冷然とスイシスと婚約破棄をしろと言っていた母とのあまりの違いに私が呆然としていると、父が苦笑しながら言った。
「シルフィンに、夫婦揃って叱られたのだ」
な、何ですと?
「『皇帝ご夫妻ともあろう者が何と器量の小さいことをするのか』とな。私も皇妃も顔色が無かったぞ」
私は背中に冷や汗が流れた。こ、これは、文言は嘘であろうが、シルフィンが何かを皇帝陛下と皇妃様に言い、それがお二人の心を動かし、何らかのお話し合いがお二人の間に持たれて、このように私達への態度が大きく変わることに繋がったのだろう事は本当だろう。
つまりシルフィンが父母を動かしたは間違い無いという事になる。
父は母スイシスの手を取って涙ながらに詫び、スイシスも涙を両目に溢れさせながらこれを受け入れ、自分もこれからも皇太子妃として頑張ることを誓っていた。歩み寄ることが難しい、時間が掛かるだろうと思っていたスイシスとお二人の関係がこうもあっさり良くなってしまうとは。一体何事が起きたのか。
見ると、父は母手を取り合い、微笑み合っていた。これまでこんな事は見られなかった。これか。これが恐らくシルフィンが成し遂げた事なのだ。
皇帝一家の関係がギクシャクしていた事の根本原因は、父母の不仲であった。不仲と言うほどでは無いと思っていたが、やはり結婚の事情で蟠りがあったのだろう。
それが綺麗に解消されている。それは、お二人の間で納得が行くお話し合いがあったのだとは思うが、そのきっかけは明らかにシルフィンによるものだ。
……どういう事なのだ。一体シルフィンは何をしでかした?
分からない。分からないが、一つ確かな事は、私は、いや、皇帝一家はシルフィンに甚大な恩義が出来てしまったという事だ。父も母もスイシスも、そして私もだ。これから先、私はスイシスと共に帝国を率い、運営して行かねばならない。その時に有能である事帝国一と言える、ヴィクリートとシルフィンの協力は不可欠だ。
その家臣筆頭が確定的である二人に、私もスイシスも、あまりにも大きな借りがあり過ぎて頭が上がらなくなってしまった。これは困ったと思う反面、あの二人で有ればそれを笠に着て権力を専横するような無茶苦茶な事はしないだろうという安心感はある。
とりあえず、結婚式でシルフィンに会ったら、全力で感謝を示すことにしよう。私とスイシスはお互いにそう誓ったのだった。
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