二十四話(後) 皇太子はシルフィンに頭が上がらない(上)
ヴィクリートとシルフィンの馴れ初めも聞き終わり(自邸前で遭難したのが原因だと聞いた時には腹が捩れるかと思った)、シルフィンと母たちも少しは交流して、そろそろお茶会も終わろうかというタイミングだった。
突然、シルフィンが立ち上がり、身体をテーブルの上に乗り出して手を伸ばしたのだ。有りうべからざる行為だった。無作法極まりない。
ここまでシルフィンはそこそこ(あくまでかなり大目に見ればだ)行儀良くしていたのに、一体何が起きたのか。仰天する一同を尻目に、シルフィンは母の前に取り置かれていた茶色いケーキの上に載っていた、香り付けのハーブをひょいと摘み取った。
そしてそれを止める間もなく口に入れたのである。これには私も、ヴィクリートも絶句である。な、なんという事をしてくれるのか! 他人の皿の物をつまみ食いするなんてマナー以前の問題だ。それともこれが平民では普通なのだろうか?
呆然とする私の前で、シルフィンは更にとんでもないことをしてみせた。口に入れたハーブをモグモグと噛んだ後、東屋の外に勢い良く吐き出したのである。
私は呆れを通り越して怒りを覚えた。こんな無作法を見せられて、母がシルフィンに好意的になるとは思えない。いかなる理由があろうとだ。それどころか、不敬であるとしてシルフィンを罰すると言い出すかもしれない。
そんな事になったらヴィクリートとシルフィンの婚約など夢のまた夢だろう。まったく何という事をしてくれるのか!
と私は憤ったのだが、シルフィンが何というか彼女らしくない平坦な顔で言った言葉を聞いて怒りなど霧散してしまう事になる。
「食べないで下さい。これ、毒ですよ」
は? 私も、流石のヴィクリートも唖然とした。
「毒だと?」
驚く私にシルフィンは淡々とそのハーブが腹痛を起こす毒であることを説明した。何でも故郷では薬にも使うハーブであることから気が付いたとのこと。大した毒ではないと強調していたが、問題はそこではない。
皇妃たる母の皿に毒を盛った者がいるという事では無いか。とんでもない事だ。大事件と言って良い。少なくとも料理を取り分けた侍女、そして菓子を作った料理人を全員捕らえて尋問せねば!
ところがここでイーメリアが叫んだのである。
「スイシス! また貴方の仕業ですね!」
イーメリアが金切り声で叫ぶ事には、スイシスはこれまでもイーメリアに数々の嫌がらせを仕掛けてきたのだそうだ。
有り得ない話では無いな、と私は思った。というのは、スイシスとイーメリアはあまり仲が良くは無かったからだ。
というか、スイシスからはイーメリアから色々嫌がらせをされたと訴えられてもいる。ドレスに虫を付けられたとか、食事に辛い調味料をたっぷり混ぜられた、とか。
これでも険悪という程では無く、こうして普通にお茶会に同席して表面上話が出来るのが貴族女性の恐ろしさというところなのだが、スイシスとイーメリアが互いに嫌がらせをし合っていてもさして驚く事ではない。
が、今回は皇妃で有り、スイシスが畏れている母が巻き込まれている。確かにイーメリアの主張通りスイシスだけがケーキを取っていないのはおかしいが、母が食するものにまで毒を仕込むのはおかしい。
スイシスは平静を装ってはいるが、顔色は悪い。私はこれを見て、スイシスがこの件に関わっているのは間違い無い、とは思ったのだが、スイシスの視線は母に向いていた。……私は嫌な予感がした。
この件が母の自作自演という可能性に気が付いたのだ。ケーキに毒を仕込んだのはスイシスかも知れないが、もしもあのままシルフィンが毒を指摘せずにいた場合、ハーブが毒である事は母によって指摘される予定になっていたのではないだろうか。
その場合、大問題になり、一人ケーキを取り分けられなかったスイシスが疑われる。最高位の皇妃である母の選んだケーキを一人だけ踏襲しなかったのだから疑われて当然である。そうなればスイシスは罪に問われる事になるだろう。
しかし? 疑問も残る。そんな事になったら大変な事になる事が分かっているスイシスがそんな事をして何になる? しかしここでスイシスが言った。
「私はそんな事は致しませんよ。それより、そのハーブは本当に毒なのですか? 確かめた方がよろしいのでは? その、人に取り入る為にに嘘を手柄にする方も庶民の中にはいるそうですし……」
苦し紛れの言い訳、ではあるが、この言葉にはこの件を誰の責任にする筈だったかが示されている。そうシルフィンだ。シルフィンが皇妃に毒を仕込んだという事になれば、シルフィンとヴィクリートの婚約は当然破談になる。
ああ、母の目的はそれか。私はようやく腑に落ちた。母はヴィクリートとシルフィンの婚姻を認める気など無いのだ。だからスイシスを動かしてケーキに毒を仕込ませた。
しかし、私は頭が痛くなった。そんな事をしたらスイシスだって巻き込まれて大変な事になるかくらい分かりそうなものだが。だが、スイシスは母を畏れていて、母の言う事には逆らえないようなのだ。私がスイシスに、母に逆らわないよう言い含めているという事もある。
それと、残念な事だがスイシスはストレスを溜める性格であり、その発散のためにイーメリアに嫌がらせをする程度には陰険なところがある。これはストレスを溜めさせている私も悪いのだが。
なので、ヴィクリートの婚約者として幸せ一杯で乗り込んで来るだろうシルフィンに、スイシス自信が嫌がらせをしたかったという気持ちも少しはあったのだろう。スイシスのこういうところはその内に治さなければなるまい。
しかしどうしたものか。スイシスの言葉を聞いてヴィクリートの毛が逆立っている。落ち着け。ヴィクリートが怒ってスイシスを怒鳴りつけるような事態になったら面倒な事になる。
母は意味ありげに笑っているし、イーメリアはスイシスを追求しているし、スイシスは窮して顔を強張らせている。ここは皇太子権限で事態を預かり、捜査という名目で侍女や(この場合は関わった侍女全員なので、母の侍女や公爵家の侍女にも責任を問わねばなるまい)料理人を処罰して誤魔化すしかない。
私がそう考え始めたその時、突然シルフィンが立ち上がると、再度身体をテーブルの上に伸ばし、件のケーキの上のハーブをひょいひょいと摘んで食べてしまった。は? ちょ、ちょっと待て! それは其方が自分で毒だと言ったのではないか!
しかしシルフィンはなぜかそれを咀嚼して飲み込むと、即座に東屋を駆け下り、近くに咲いていたラッパ状のピンクの花弁を持つ花を摘みとり、それを口に咥えた。そしてそれをいっそ清々しくぺっと地面に吐き捨てると、何食わぬ顔で東屋に戻って来た。
あまりの事に静まり返る我々に、あの花はハーブの解毒剤になるのだ、と言ったシルフィンは、水色の瞳をギラっと光らせた。驚いた。かなり迫力のある眼光だったからだ。それを向けられたイーメリアとスイシスが小さく悲鳴を上げる程度には。
そしてシルフィンは大きな音を立てて手を一回叩いた。パーンと良い音がする。私も反射的に身構えてしまう。貴族女性の振る舞いとは何もかもかけ離れているシルフィンの行動は予測が付かない。スイシスなどは震えている。
「はい。この話はこれでお終いにしましょう。証拠のハーブは私が食べちゃいましたし、誰にも被害は出なかった。それで良いではありませんか」
シルフィンはそう言い切って強引に事を収めてしまった。……いや、そういう訳には……、と反論しかけた私だが、確かにこれ以上犯人探しをしても、スイシスが犯人にされる未来しか見えてこない。母が指示したなどいう事は表に出てこないだろうから。
それなら無かった事にした方が良い……。私はハッとした。シルフィンは私を意味ありげに見ていた。これは恐らく、これ以上追求するとスイシスが大変な事になるという事を理解しているのだ。だから強引にうやむやにしろ、と言っているのだ。
恐らくはそれを理解したと思われるヴィクリートが、シルフィンを庇うように抱き寄せながら、かなり棒読みの口調で言う。
「そうだな。購入したハーブにうっかり紛れ込んだけだろう。よくあることだ」
……どうやらこの話に乗るしか無さそうだ。イーメリアは納得せず騒ぐだろうが、元の企みが恐らくは母の発案なのだから、これ以上の騒ぎにはならないだろう。
シルフィンの体調が心配だから、と下がろうとするヴィクリートとシルフィンを私はちょっと信じられない思いで見ていた。
これは、あれだ。このシルフィンという女性はちょっと只者では無いかも知れぬ。今回の件で明らかになった、咄嗟の判断、洞察力、理解力、そして行動力は並大抵では無いぞ?
少なくとも、スイシスやイーメリアには及びもつかない。スイシスはこれから皇太子妃、そして皇妃として、公妃となるシルフィンの上に立ち制御していかねばならないのに。
いや、この私ですら皇帝となって彼女を扱い切れるのかどうか。
この時、私と同じような感想を抱いた者がもう一人いる。ただし、彼女が抱いたのは懸念ではなく期待だったようだが。
その人物。つまり母は、シルフィンを呼び止めて、こう言ったのだ。
「シルフィン、大儀でありました」
その表情は私が見た事もないほど満足げだった。母がこれほど他人に向けて好意的な表情を見せるなど考え難い事だ。私はそれを見て嫉妬に近い感情を覚えた。
私は母にこんな表情をしてもらえた事が無かったからである。この時、母は私よりもシルフィンの事を高く評価したのだという事があからさまに分かった。
私は、男女の違いもあるから、と自分の感情を抑え込んだのだが、この時のことは後々重大な事件を引き起こす事になってしまうのである。
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