二十話 シルフィン皇妃様と対決する

 私とミレニーとレイメヤーは内宮の更に奥、皇帝陛下ご夫妻のお住まいのエリアに侍女に先導されて入って行った。ここまで来たことは流石にまだ一度も無い。ミレニーもレイメヤーも顔を引き攣らせていた。ミレニーがこっそり私に言う。


「大丈夫なの? 一度お屋敷に帰った方が……」


「そうしたいのは山々だけど、お迎えまでよこされてはお断り出来ないでしょ」


 ううう。ずるずると蛇の巣穴の奥に誘い込まれるネズミの気分だわよ。


 皇妃様のお部屋の扉は古めかしい木目が出たもので、何というか伝統とか権威とか、そういう物が浮き出ているような重厚な扉だった。侍女が扉を開いてくれて中に通される。


 広い。私の部屋も私は未だに持て余すほど広いんだけど、その倍は広い。天井も高くてこれはもう広間ね。調度品を外に出せばここでかなりの規模の舞踏会が開けるわね。内装も調度ももの凄く古めかしくアンティークだ。そういえば前に、ヴィクリートが帝宮は建設されてから三百年は経っているって言ってたわね。


 皇妃様は立って私を出迎えて下さった。黒髪黒目。紫色のドレス。こうしてみると本当に私のお義母様である公妃様に似ている。流石は姉妹。皇妃様が姉で、公妃様より五歳年上だったっけ。


 勧められてソファーに腰を下ろす。正面に皇妃様。私の後ろには守るように二人、ミレニーとレイメヤーが立ってくれた。


 はー、無茶苦茶緊張する。どうしましょうかねこれ。


 皇妃様はゆったりと笑いながらこちらを見ている。社交レベルが低い私なんかに読める表情ではない。私も表情を読ませない笑顔を意識しながら言った。


「そういえば皇妃様と二人だけでお会いするのは初めてでございますね?」


「そうでしたか。でも、これからは良く会うことになると思いますよ。……皇妃の引き継ぎでね」


 はい? 何ですか? 皇妃の引き継ぎ?


 何で私が皇妃の引き継ぎをするんですか? 次期皇妃はスイシス様ですよね?


「貴女が次の皇妃です。シルフィン。次の皇帝はヴィクリートがなるのですから」


 確信を持った物言いだった。冗談や軽口では無さそうだ。私は内心混乱しながらも、ふんわりと首を傾げた。


「理由をお聞きしても?」


「メルバリードは皇帝には相応しくありません」


 皇妃様はそう仰ると口を閉ざした。婉然と微笑んだままこちらを試すように見ている。理由は考えてみろ、という事だろう。無茶言わないでよね。


 でもそうね。うーん。私は皇太子殿下を思い浮かべる。赤茶色の髪に緑の瞳な少し華奢な体格の美男子。


 目の前の皇妃様は、私のお義母様とよく似た黒髪黒目。背は女性してはかなり高い。肩幅も広く迫力のある美人。


 ……もしかして……。


「皇太子殿下は皇妃様の実のお子ではない?」


 思わず口から出てしまった私の言葉に、皇妃様は楽しそうに目を細めた。


「やはり貴女は聡明ですね。あの愚かな嫁とは大違い。同じ身分卑しき者なら、貴女の方が皇妃に相応しいわ」


 いや、スイシス様は伯爵令嬢。私は男爵令嬢。全然身分違いますからね? 一緒くたにされたら伯爵令嬢の皆様怒りますからね!


 いや、そこより重要なのは皇太子殿下が皇妃様のお子では無いという点だ。……もしかして……。


「イーメリア様も?」


 イーメリア様も茶髪青目。細身で中背。容姿に皇妃様と似た部分が無い。


「そうです。私の実の子は長女のファルシーネだけです」


 ファルシーネ様はもう隣国に嫁入りしている。


 実の子ではない。つまり、皇帝陛下のご愛妾の子だ。あれ? でも今現在、皇帝陛下にはご愛妾はいらっしゃらない筈。


「共に違う愛妾の子ですが、既に二人とも亡くなったので私が引き取り育てたのです」


 ……知らなかった。今は皇帝陛下にご愛妾がいらっしゃらないから、皇帝陛下ご夫妻は公爵ご夫妻と同じように仲良し夫婦だと思っていたのだ。しかし、どうやらそうでは無いっぽい。


 言われて見れば、公式の場以外で皇帝陛下ご夫妻がご一緒の場面は、そういえば無かったわね。皇帝陛下が皇妃様の手を取られている場面も無かったような。


「勘違いして欲しく無いのですが私は二人とも愛情を込めてしっかり皇帝の子に相応しいように育てましたよ」


 そうでしょうね。皇太子殿下もイーメリア様も特に皇妃様と不仲な様子は無かった。


「でも、皇太子殿下は次代の皇帝に相応しくないと思っていらっしゃる?」


「ええ。ヴィクリートの方が皇帝に相応しいと思っております」


 ……そうかなぁ。


 ヴィクリートは素敵な男だし、有能な軍人だし、領主としても素晴らしいと思うけど、社交は好きじゃないし帝都にいたがらないし、旅は好きだし、あんまり皇帝には向かないと思うの。


 むしろ皇太子殿下は少し感情を露わにし過ぎるところがあるけども、社交的だし度量も大きいし、十分皇帝陛下の器はあると思うのよね。


 一体、皇妃様は二人の何を捉えて皇帝に相応しいかどうかを決めているのだろうね?


「貴女はおとなしくしていなさい。メルバリードが婚約破棄をすれば、あの子は皇太子に相応しくないとして廃太子し、代わりにヴィクリートを立太子する予定です。有能で権力基盤の強いヴィクリートを次代の皇帝に推すものは沢山います」


 レクセレンテ公爵家の嫡男であるだけでは無く、母親がウィプバーン公爵家の娘であるヴィクリートは、皇帝陛下の息子ではあるけど、母親の身分が低く(後で聞いたら伯爵家令嬢だった)、おまけに身分低い嫁を貰ってしまった皇太子殿下よりも血統的な評価が高いのだそうだ。


「本当はイーメリアを妻に貰ってくれれば完璧だったのですがね」


 ……それで皇帝陛下がイーメリア様をヴィクリートと娶せたがったのか。母親が皇妃様では無いとすると、ヴィクリートとは血縁が程良く遠くなるしね。


 皇帝の娘を妻にすればヴィクリートは一躍皇太子殿下を追い越して、次期皇帝の第一候補になるところだった、と。


 なんだか途方も無い話だった。ヴィクリートと付き合い出してから色々驚く事が多過ぎて最近は多少の事では驚かなくなっていたのだけど、流石にびっくりだ。


「このまま行けば貴女は次期皇妃です。悪い話では無いでしょう?」


 いやいやいやいや。そんな大それた地位は望みませんよ。なんですかそれは。私は何とか次期公妃の地位は受け止められるようになってきましたけど、皇妃なんて想像も付かないわよ。


 大体おかしいじゃない。


「皇妃様はスイシス様は身分が低いから皇妃に相応しく無いと思ったのでしょう? 私なんて元男爵令嬢ですよ? もっともっと身分が低いのです。それで良いのですか?」


「そこはもう諦めました」


 諦めた?


「身分の問題は諦めても、貴女がスイシスやイーメリアの何倍も賢い事は嬉しい誤算でした。皇帝陛下が女には惜しいと言うほどの才媛ならば、身分には目を瞑るとします」


 一体どこの誰が才媛なんですかねぇ。ただの図々しい農家の娘ですよ私は。


 ただ、これで分かった。皇妃様の目的は多少の事には目を瞑ってでもヴィクリートを次代の皇帝にする事だ。


 理由は、皇太子殿下が皇帝になると、彼女と血の繋がりがない皇帝が誕生してしまうからだろう。正確にはウィプバーン公爵家と血の繋がりが無い皇帝が。


 これは私の完全な想像だけど、いわゆる三大公爵家であるレクセレンテ公爵家、フレイヤー公爵家、ウィプバーン公爵家は順ぐりに帝室に血を入れて、傍系皇族の地位を保っているのだと思う(時には皇女が降嫁したりして)。それでウィプバーン公爵家出身の皇妃様は帝室入りしたわけだけど、それで実の子供を皇帝に出来ないと、ウィプバーン公爵家は帝室に血を入れられず、血統的に皇族から遠ざかる事になってしまう。


 その事を危惧した皇妃様は妹の息子であるヴィクリートを皇帝にしたいのではないだろうか? ……うーん。でもねぇ。


 貴族的な考え方では当主の血の継承こそ大事なのだ。だから愛妾が許されているのだから。正妻は家同士の関係を重視して家格に合った家から娶るけども、愛妾にはほとんど身分が考慮されないのは何としても当主の子を得なければいけないからだ。


 その考え方から言って、皇帝陛下の血を間違いなく引いている(それは皇妃様も否定なさってない)皇太子殿下には帝位を継ぐ正統性が十分にあることになる。そこへ公爵家の都合だからとヴィクリートが割り込んだら、帝国の家の継承の正統性を揺るがす大問題になっちゃうと思うのよね。高位貴族の中にも愛妾の子供は沢山いるのだから。


「かなり無茶な事を仰っている自覚はございますか? 皇妃様?」


「無茶など言っておりませんよ。帝国のためです。ヴィクリートが皇帝になった方が帝国の為なのです」


 これは本気でそう信じているのか、それとも何らかの理由によって譲れない思いなのかは良く分からないけれど、皇妃様が本気である事だけは理解出来た。


 しかし、ここで納得する訳にはいかない。帝国を大混乱に陥れた挙句、その帝国を私とヴィクリートが押し付けられたのではたまらないじゃないの! 勘弁してほしい。良い迷惑だ。断固拒否だ。


 ただ、ここで私が反対して拒否をしても、私がポイっと排除されるだけだろう。皇妃様の権力を持ってすれば、手段を問わなければいくらでも私を消す事は出来るでしょうから。


 うーん。私は皇妃様を見ながら考える。説得の方法は多分、無い。だから説得しようとしてはいけない。要するに皇妃様を諦めさせる。ヴィクリートは皇帝になる事は出来ないと諦めさせられれば良いのだ。


 そしてふっと思いついた。これならどうだろう。


「皇妃様。ヴィクリートはもう皇帝になる権利を失っているかも知れませんよ」


 皇妃様は一瞬、何を言われたのか分からない、というように眉を顰められた。


「何を言い出すのです?」


「いえ、その、ヴィクリートが皇帝になったら、大地の女神は大地と人民に加護を下さらないのではないかと思いまして」


 私の言葉に皇妃様は目を細くする。


「ヴィクリートに魔力が無い、という事ですか?」


「いえ、そうではありません。ただ、ヴィクリートはこれまで軍務や領地で魔力を使っておりますからね。それで心配なのです」


 皇妃様の笑みが少し強張った。


 皇帝陛下、皇太子殿下は帝国全体への魔力奉納以外には魔力を使用しない。それは。帝国全土への魔力奉納ともなると、甚大な量の魔力を魔力を奉納しなければならないからだ。他に使っている余裕がないのである。


 そしてもう一つ、皇帝陛下は大地の女神に全てを捧げる者であるから、他の事に魔力を使用してはならない、からでもあるらしい。


 こちらの方は確固たる決まりになっている訳では無く、言い伝えというか貴族たちがそう噂している、程度のお話だけど。ただ、その事もあって皇帝の息子は生まれた時から他に魔力を使用しないように戒められるのだそうだ。


 ……ただ、後で聞いたら皇太子殿下は子供の頃ヴィクリートと、習いたての魔法を使って遊んでいたらしいんだけどね。


 それに、ヴィクリートは公爵領で魔力奉納が問題無く出来ていた。それは帝国の最奥で行う奉納は特別なのかも知れないけれど、領地で出来て帝宮では出来ないという事は無いでしょう。多分。


 ただ、ヴィクリートが軍務などで魔力を使っていたというのは公になっているし、これを指摘すればヴィクリートは皇帝になれないのではないか、という意見に説得力を持たせる事は出来るだろう。ヴィクリートの皇帝即位にもう一つの障害が出来てしまう訳である。


 つまり、私は皇妃様が無理強いすれば、貴族たちにこの件を流して問題にしますよと言っているのだ。要するに脅しているのである。


 皇妃様は笑みを消して私を睨んだ。無表情、お面のようなお顔だった。ひー怖い。美人がそんな顔をなさると余計に怖い。


「こざかしいこと。そんな事で私の計画を潰せるとでも思っているのですか?」


 対照的に私はニコニコと愛想の良い笑いを振りまいたわよ。別に皇妃様に逆らっているのではありませんよアピールだ。


「いえいえ。これだけで皇妃様をお止めできるとは思っていませんよ。ですけどね。同じような懸念材料はもっと沢山あるのですよ」


 私は指折り数えた。さっきも考えたけど、血統的に何の問題も無い皇太子殿下を廃太子するなんてとんでもないという懸念から、皇太子殿下とスイシス様の結婚はもう秒読みで、隣国からの出席者はもう予定を組んで下手をすると国を出てしまっているという事。その結婚をぶち壊せば国際問題にもなりかねないということ。


 ヴィクリートが皇帝に向かないという話。何しろ私が田舎の男爵令嬢だった事はみなさんご承知なのにこれを皇妃にするなんて流石に貴族界が承知しないだろう、しかもスイシス様(彼女が伯爵令嬢だったという話は皇族に近しい貴族しか知らないのだそうだ)を下ろしてという話もした。


 次々と私が上げる問題点を皇妃様は無表情のまま黙って聞いていらっしゃった。そして話し疲れた私が言葉を切ると、一言仰った。


「それがどうかしましたか?」


 一見、取り付く島もないような言い方だけど、それ以上の言葉、対策方法を仰らないということは、つまり無いのだ。無理推しゴリ押ししか方法は無い。


 つまり、皇妃様自身も無理だと気が付いていらっしゃるのだ。それでも、何とか何としてでもヴィクリートを皇帝にしたい。その理由がいまいち判然としないんだけどね。


 そして私は決定的な事を笑顔のまま言った。


「皇妃様。もう一つございますわ」


「……なんですか?」


「皇太子殿下の代わりに自分が皇帝になる事なぞ、ヴィクリートが承知する筈がございません」


「承知させます」


「無理です。ヴィクリートの頑固さは皇妃様もご存知の筈です」


 あの一度決めたらガンとして動かない、潔癖で頑固なヴィクリートが、仲の良い従兄弟である皇太子殿下の代わりに自分を皇帝にするなどと言われたら、激怒してしまうだろう。何としても皇太子殿下を復帰させようと全力を尽くすだろう。


「皇妃様と決定的な対立に陥るでしょう。それでも皇妃様はヴィクリートを皇帝に推そうというのですか?」


 推挙している皇妃様と推される当人であるヴィクリートが全面的に対立している状態で、皇妃様が何をやっても目的の達成は不可能だろう。まして相手はヴィクリートだ。こう言っては何だが彼は有能だからね。皇妃様では相手にならないと思う。


 流石に皇妃様も黙り込む。……何というか、そもそもヴィクリート本人に何の相談も根回しも無く、彼を皇帝に推そうとするのが間違いなのだと言いたいんだけどね。気が付かなかったのか、気付きたく無かったのか。皇帝になら誰にでもなりたがると思っていたのか……。


「……貴女が居なければ上手く行ったのです……」


 ゾッとするようなお声だった。積年の恨みとか長い間の妄執とか、そういう感情が渦巻いていた。ひー!


「ヴィクリートをイーメリアと結婚させれば、血統的な正統性から、メルバリードを廃太子さえすればそのままヴィクリートが皇帝になる筈だった。貴女がヴィクリートを寝取らなければ!」


 寝取ったとは人聞の悪い! 寝てません。まだ一度として寝ていませんからね! それに……。


「ですから、ヴィクリートが承知しませんよ! あの人は皇帝になんて絶対になりたがりません!」


 あの人は帝都に居つきもしないじゃありませんか。あれは結婚して公爵になっても多分変わらないでしょうね。家臣筆頭も無理よ、きっと。


 しかし皇妃様は聞いちゃいなかった。こちらを物凄い目で睨みつけている。気が付けば皇妃様の後ろの侍女までが殺気立った目でこちらを睨んでいた。ひえ!


 皇妃様お付きの侍女だもの。もしかしたら戦闘技術の嗜みがあるのかも知れない。皇妃様の忠実な部下である彼女たちは、主人の野望を阻まんとする私を憎んでいるかも知れない。


 皇妃様の号令一下、襲い掛かって来たらどうしましょう。私はすばしっこいから逃げられると思うけど、ミレニーとレイメヤーが心配だ(彼女たちは私を守ろうと皇妃様の侍女を逆に睨んでいるけど、二人とも戦闘能力は皆無だ)。それにこのまま皇妃様の前から逃げ出したら、皇妃様に何を言いふらされるか分かったものではない。


 私をヴィクリートと別れさせてイーメリア様と結婚させれば全て上手く行くなんて事はありませんよ。それくらい皇妃様だってちょっと考えればわかるじゃないですか。諦めましょう? このまま皇太子殿下とスイシス様がご成婚なされば何の問題も無いじゃないですか。


 なんて事言っても皇妃様の耳には届きそうも無い。このままここで乱闘でも起これば、その事自体を罪にされかねない。どうしよう……。


「そこまでだ。イセリアーネ」


 突然横合いから声が掛かった。男性の声だ。


 ご婦人の部屋に立ち入る事が出来るのは、基本的に夫のみだ。つまりこの皇妃様のお部屋に、しかも皇妃様の許可無く立ち入れる方なんて一人しかいない。


 皇帝マクファーレン三世陛下がゆっくりと近付いていらっしゃる。私は思わず立ち上がり、ミレニーとレイメヤー共々深く頭を下げた。


 いつも快活なご様子で笑っている皇帝陛下が、この時ばかりは厳しいお顔でいらっしゃった。流石の威厳だわ。


 進み出る皇帝陛下を見ながら皇妃様は呆然としていらっしゃる。


「陛下……」


「全て聞かせて貰った。メルバリードとヴィクリートから報告も受けている」


 ご夫婦の寝室は皇帝陛下と皇妃様の私室に繋がっていて、寝室を経由すれば皇帝陛下はこのお部屋にこっそり入れるのだ。まぁ、本来は非マナー行為なんだけどね。


「バカなことは考えるな。我が後継はメルバリード。これはもう動かぬ」


 皇帝陛下がキッパリ申し渡すと、皇妃様は私に聞こえるくらいギリっと歯を軋ませた。


「……そんなにあの女の子供を皇帝にしたいのですか?」


「其方との間に男子が生まれれば。もちろん皇帝にしたとも。イセリアーネ」


 これは勿論皇帝陛下の本音だろう。生まれなかったものは仕方が無い。何としても血を次代に繋ぐのは貴族の当主の使命なのだ。私だってヴィクリートとの間に男子がの得られなければ、涙を呑んで彼に愛妾を娶らせなければならないと覚悟しているくらいなのだ。


 しかし、理屈と感情は別よね。皇妃様の表情には愛憎というか悔恨というか諦念というか、そういうものがない混ぜになったものが浮き上がっていた。


「其方を罰したくはない。分かってくれ。イセリアーネ」


 皇帝陛下と皇妃様は数秒睨み合っていたが、やがて皇妃様は肩を落とし顔を俯けた。


「シルフィン。あとは任せるが良い」


「……はい。御前を失礼させて頂きます」


 私は一礼し、ササササっと皇妃様の横をすり抜けると、可能な限りの速度で出口を目指した。長居は無用! 帰るわよ!


「シルフィン」


 しかし皇帝陛下が出口に差し掛かった私に声を掛けてきた。ひー! なんでしょう! まだ私に何か?


「其方がいてくれて助かった。礼を言う」


 うぐぐぐぐ。私が皇帝陛下に感謝されるような事がなにかありましたかね? しかし問い返すような事は出来ず、私はただ一礼したのだった。


 私はお作法に叶う可能な限りの速度で内宮を抜けて、見慣れた外宮まで出てきてようやく一息吐いた。ぶはー! や、やっと人間の世界に戻ってきた感じ。やっぱり内宮は恐ろしいところだわ。ミレニーもレイメヤーもホッとした表情だ。


 そこへ足早に近寄って来る大柄な人影。グレーの瞳が心配気に揺れている。


「シルフィン。大丈夫か!」


「ヴィクリート〜!」


 私はよよよとヴィクリートに向けて力無く倒れ込んでしまった。勿論ヴィクリートは抱き止めてくれる。


「どうした。何かあったのか?」


 何かあったも何も……。私は説明しようとして、あまりにも色々あり過ぎて、考え抜いた挙句、こう言った。


「皇妃になり損ねました」


「は?」


 ヴィクリートの仰天顔を見ながら、私は彼にしがみつき、どうにか落ち着きを取り戻したのだった。


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