三話 シルフィン公爵邸にドナドナされる
ヴィクリートが言い出した事を「何を馬鹿な事を言っているのか!」と叱り付けてくれる人がいれば簡単だったのだ。平民同然の男爵令嬢を次期公爵の嫁にするなんて無理に決まってるだろ! 馬鹿なのか! と誰かが言ってくれれば。
しかし彼は次期公爵。彼を叱り付ける事が出来る人など帝国広しと言えどそんなにいないんですよ。ましてブゼルバ伯爵家の人には無理だった。
それでもブゼルバ伯爵は汗みどろになりながらも何とか即答を避けた。流石に結婚話にはレクセレンテ公爵のご許可がいるのでは無いか。話を進めるのはそれからでも良いだろうという理屈で。
ヴィクリートは不満そうだったが、伯爵の意見は尤もだったのでそれ以上は無理強いはしなかった。しかし彼は私にプロポーズした瞬間から、私の事を侍女では無く「自分の婚約者候補、つまり恋人」として扱いだし、ブゼルバ伯爵家の方々にもそう扱うように要求した。
具体的には私は直ぐさま侍女服からドレス姿に着替えさせられた。ドレスはお嬢様(私と同い年で背格好も似ている)の物をお借りした。お嬢様は驚きと怒りで凄い顔をしていらっしゃったけど、その、私が望んだのでは無いので私をそんなに睨まないで欲しい。
そしてお食事を同席させられた。ヴィクリートの隣に座らされたのだ。ちょっと待ってくださいよ。
私は実家では庶民そのままだったので、テーブルマナーのなんたるかなんて全然知らないのだ。カトラリーの使い方は一通り習ったけど(給仕の時に知っている必要があったため)それ以外は何にも知らない。お嬢様の所作を給仕の時に見ていたので、それで見よう見まねで真似てやってみるしか無い。お陰で私だけお皿の音がカチャカチャうるさくて恥ずかしいったら無かったわよ。
だが、ヴィクリートは全く気にする様子も無く、私をうっとりとした表情で眺め続けた。愛情で輝かんばかりの表情だ。流石に恋愛経験ゼロの私にでもその表情の意味は分かる。こんな美男子にそんな愛情たっぷりの笑顔を向けられて浮かれないなんて無理よね。私も思わずうっとりと微笑み返したりした。
食事が終わると彼は伯爵に「シルフィンを自分の妻にするために協力するように。そうすればブゼルバ伯爵家もけして悪いようにはしない」とかなりの圧力を掛けていたわね。ブゼルバ伯爵家としても悪い話では無いのだろう。伯爵は確約はしなかったものの前向きに検討するという話はしていた。
そしてヴィクリートは客間に引き上げたのだが、その際にはもう私を寝室に伴うくらいの勢いだった。いやいや。待って待って。いくら何でもそれはまずい。いくらもう口づけを何度も交わした仲とはいえ。
結局、私はヴィクリートが泊まるその隣の客間にお部屋を用意された。いや、屋根裏にある使用人部屋に帰れば良いんだけど、そんな事は許されなかったのだ。
お世話係に侍女が付けられたんだけど、当たり前だけど彼女は同僚だ。というか、特に仲の良いミレミーという彼女を付けてくれるよう侍女頭にお願いした。栗毛で丸顔なミレニーは私をジトッとした目で睨んで言った。
「何をしでかしたのシルフィン?」
私は仲の良い彼女にだから赤裸々に、事情を何もかも話した。事情を聞き終えたミレニーは頭を抱えてしまった。
「なに、あのイケメンそんな凄い人だったの?」
先ほど使用人食堂でヴィクリートが食事をしていた時に、ミレニーもヴィクリートを見ているのだ。
「そうなのよ! それで、なんだか私の事を嫁にするって! 無茶苦茶なのよ!」
私は涙目で叫んだのだが、ミレニーはフルフルと首を振った。
「諦めなさい。シルフィン。お貴族様の我が儘は良くある事よ。逆で無くて良かったじゃ無い」
ミレニーもほとんど平民という身分の女性だ。帝都生まれで貴族の横暴に晒される平民の事を何度も見たことがあるらしい。
「あのイケメンが飢え死にしそうになった事に逆ギレして、醜態を目撃した貴方を打ち首にする可能性もあったのよ?」
お貴族様ならそれくらいの権限があるし、しかもよくある事だとミレニーは言った。
何でも、ヴィクリートをこのお屋敷に連れて来た時、如何にも怪しいがどうも貴族ではないかと疑われた彼に、食事を振る舞うことを執事や侍女頭が決めたのは、もしも彼が貴族であった場合、彼を門前払いした使用人が逆恨みでまとめて処罰されるかも知れなかったからだという。保険の意味合いで一応食事を与えたのだ。結果的にはそれが正解だった訳だが。
それくらい帝都では平民は貴族を恐れているらしい。私が育った故郷では、そもそも周りに貴族がいなかったから知らなかった。いや、家は男爵なんだから貴族だった筈なんだけどね。
「とにかく、とりあえずは逆らわない事よ。その公爵様があなたを気に入っている間は乗っかっとけば良いじゃない。今は助けられた感動のせいで興奮しているけれど、すぐ興奮は冷めて冷静になるわよ。その時にあんまり調子に乗ってると処罰されるかも知れないからほどほどにね」
そう言われて私はちょっと冷静になった。そうね。今はヴィクリートも興奮してるのよ。その内冷静になるわよね。そうすれば多分、私を嫁にするなんてバカな事は言い出さなくなるわよね。
ヴィクリートが我に返った時に、こんな女にプロポーズしたなんて! と恥ずかしさのあまり逆ギレしないように、大人しくしといた方が良いわね。私はそう方針を決め、アドバイスをくれたミレニーに感謝した。
そうして私は寝たことも無いような豪華なベッドで安心して眠りに付いたのだが、私のそんな見通しはあまりにも甘過ぎたというしかない。私はまだヴィクリートの事を良く知らなかったのだから仕方が無いけれど。
◇◇◇
端的に言えばヴィクリートは真面目な男だった。美青年なのに浮ついた所は何一つ無い。後から知ったがむしろ堅物で女性は苦手。社交界も苦手なため、帝都に居着かず領地や国境の軍基地にいることが多かったらしい。
そんな彼が「結婚しよう」と言い出したのだから、それはいい加減な与太話では無かったのだ。そうとは知らない私は、ヴイクリートは助けられた感動で興奮しているだけで、すぐに彼は我に返り、私に見向きもしなくなるだろうと思い込んだのだった。
その間、ちょっとお嬢様生活を楽しんでも良いんじゃない? と思った私はそれから数日間、ミレニーに侍女役をやってもらいながら「お嬢様ごっこ」をして遊んでいた。ドレスを着てそれっぽくお茶を飲み、ミレニーと「似合わないわね!」と笑い転げたりした。呑気過ぎる。
もちろんその間、ヴィクリートとは毎日彼の部屋や庭園で面会したわよ。彼は既にここが自分のお屋敷であるかのようにリラックスしていたわね。行き倒れて保護されたくせにね。実際、彼は賓客だった。むしろお屋敷の主人である伯爵は小さくなっていたのだ。
それもその筈で、某系皇族にして次期公爵であるヴィクリートのご機嫌を損ねれば、それほど格の高くないブゼルバ伯爵家など簡単に吹き飛んでしまう可能性があるのだそうだ。
なのでブゼルバ伯爵は私に対しても非常に辞を低くして丁寧な態度で振る舞った。まぁ、そもそもそんなに横柄な方では無かったのだけど。
何しろヴィクリートが「結婚する」と明言した以上、私はもう彼の恋人という事になる。私への失礼は即座にヴィクリートのご機嫌に跳ね返ってくると思ったのだろう。
更に言えば、ヴィクリートは私をブゼルバ伯爵の養女にした上で娶るとも言った。これは男爵の娘をいきなり次期公爵の嫁にするのは、あまりに貴賤結婚過ぎて無理だからである。伯爵家の養女にすればそこをなんとかクリア出来るという計算だ。
すると、ブゼルバ伯爵家としては養女とはいえ公爵家に娘を輿入れさせるという大名誉を賜る事になる。これは帝国貴族界での格が爆上がりする出来事だし、公爵家の後ろ盾を得ればその後の貴族界、政界での扱いも全然変わってくる事になるだろう。
つまり、ブゼルバ伯爵家にとって私を一時養女にして公爵家に輿入れさせる事はメリットが非常に大きいのである。そうであれば私を粗略に扱う筈が無い。それどころかヴィクリートの気が変わらない内に私を嫁に押し込んでしまいたいとさえ考えた事だろう。
なので私はブゼルバ伯爵公認の元、ヴィクリートと毎日会い、一緒に食事をして、散策をして。お茶をして、談笑して過ごした。今まで侍女として忙しく過ごしていたのにえらい違いだ。私は。本当にお嬢様になったみたいねー、とこの時はまだミレニーと呑気に笑っていた。私はどうせすぐにヴィクリートが私に飽きると思っていたから、一時のお嬢様ごっこだと思っていたのだ。
そうしている内にレクセレンテ公爵家と連絡が付いた。これが物凄く間抜けな事に、公爵邸の裏門は空いていて、お勝手口から中にいた留守番の執事に話が出来たのだそうだ。ヴィクリートが歩いて(まぁ、広大な公爵邸の敷地を一周するのは骨だっただろうけど)裏門まで行けば自分の家の門前で行き倒れるなどしないで済んだ事だろう。
驚いた公爵邸は大急ぎで使用人を呼び戻し、連絡が付いた三日後にはブゼルバ伯爵家に迎えの馬車をよこしたのだった。黒塗りの四頭引きの巨大な馬車で、あまりの豪奢さにブゼルバ伯爵でさえ顔が引き攣っていたわよね。
私なんかほへーっと口を開けているしかなかった。それは全く別の世界から来た乗り物にしか見えなかったから。
やぱりヴィクリートは私とは全然違う世界の人なんだなぁ。と私は少し寂しい気持ちで思った。
この数日、ヴィクリートとは毎日会い、いっぱい話をした。ヴィクリートは少し口下手な所があるけど優しくゆっくりと話をしてくれるし、私の言う事を麗しく笑いながら聞いてくれるから非常に話し易かった。優しく、誠実で、しっかりしている。もちろん物凄い美男子で、笑顔が柔らかで、私を常に労り守るその振る舞い方は紳士の中の紳士という感じで、いやもう、何もかもが素敵だった。
こんな素敵な人が私にプロポーズしてくれたなんて凄い事で。夢みたいだなと思う。しかし、そう。これは夢だ。彼と私は住む世界が違う。私が話したこれまでの人生や生活をしっかり聞いたヴィクリートは、その事をきちんと認識した事だろう。
もう行き倒れから助けられてから何日も経つ。あの時の興奮や感動も冷めた事だろう。次期公爵の結婚など国家的な重大事だ。一時の気の迷いで決めて良いことではない。その事を思い出しもしただろう。
この大きな馬車に乗り込み、ヴィクリートが行ってしまえば、私は二度と彼に会うことも無かろうね。多分、あの話は無かった事になり、私は元の侍女に戻るだろう。まぁ、ヴィクリートは誠実だし義理堅いから、結婚を無しにする代わりに金貨を百枚くらいはくれるかも知れないわね。
そうしたらそのお金で故郷に土地を買って農業をやろうかな。侍女も悪く無いけれど、私はやっぱり土をいじって耕して農作業をするのが性に合っているみたいなのよね。お父様の実家の子爵家と交渉して実家だった土地を買って、そこでのんびり暮らすのだ……。
なんてことを考えていた私は、自分の前に突き出された手に気が付くのが遅れた。……なんぞ? これ?
ヴィクリートが怪訝な顔で私に手を差し伸べていたのだ。私は首をこっくりと傾げる。
「なんでしょう?」
「なんだとはなんだ。行くぞ。シルフィン」
行く? 一体どこへ?この時の私は本気でそう思った。ヴィクリートは更に怪訝な顔をして、なぜかブゼルバ伯爵に確認を入れる。
「良いのだろう? 伯爵」
伯爵は何度もウンウンと頷いたわよね。
「もちろんでございます。お連れ下さい!」
ヴィクリートは頷くと私にもう一度手を伸ばした。
「養父の許可も出ている。行くぞ。。シルフィン。公爵邸へ」
……ええ⁉︎
私は本気で驚いた。ど、どうして私が同行するのか? その、結婚話がどうとかは置いて置いても、私が公爵邸に連れて行かれる理由が分からない。
呆然と立ち尽くす私を見て、ヴィクリートは説明の必要を認めたようだった。彼は私のすぐ横に来て私の肩を軽く抱き微笑み掛けた。
「君は身の回りのものを何も持っていないだろう? 婚約前にその辺りを整えなければならないが、公爵家との婚姻に必要な品々を揃えたら、ブゼルバ伯爵家はおそらく破産してしまう。だから君の身の回りの品や結納品などは公爵家で持つ事にした。そのために君は公爵邸に来てもらわなければならない」
たかが娘一人を公爵家に嫁入りさせるだけで伯爵家が破産するとは俄かには信じ難かったのだが、これは完全に事実である。貴族の嫁入りは、嫁入り側がありとあらゆる費用を負担した挙句に持参金を持たせるのが普通だ。
おまけに公爵家に相応しい衣装や装飾品や日用品、家具なども用意しなければならない。総計すると確かにこれは莫大な金額になる。まぁ、まだこの時の私にはそこまで分からなかったけどね。
分かったのはどうやら結婚話が無しになるどころか、ヴイクリートとブゼルバ伯爵の間でより具体的な話しにまでなっていることだった。つまり、ヴイクリートは飽きるどころか本気で私を公爵家の嫁にするつもりなのである。
マジか。正気か? と言いたいところだけど、ヴイクリートが浮かれた人物では無い事はもう良く知っている。彼の瞳には熱狂などは少しも無く、ただ私への静かな愛情だけが浮かんでいた。これは、本気の目だ。
私の顔は今更ながら青くなる。ちょ、ちょっと待って! いきなり、いきなり公爵邸にって言われても、私はどうしたら良いの? 公爵邸に何があるのか、どんな人がいるのか、そして何をしなければならなくてどういう扱いをされるのかも分からないのだ。怖い。恐ろし過ぎる。
私が尻込みするのを見てヴィクリートは優しく微笑んで「私が君を守るから心配はいらない」と言ってくれて、それはそれで私の胸はときめいたが、それで恐怖が無くなるわけがない。
私は思わずミレニーを見てしまう。ミレニーは心配そうな表情で、顔色を青くして私を見守っていてくれた。でも、彼女に何が出来るという訳ではない。
しかし、視線を交わす私とミレニーを目ざとく見付けたヴィクリートは軽く上を向いて何やら考え込んだ。そしてハラハラした表情で待機しているブゼルバ伯爵に向けてこう言った。
「そうだな。誰も知らぬ公爵邸に一人で向かうのは不安であろう。伯爵、どうだろう。シルフィンとこの侍女は親しいようだ、この侍女をシルフィン付きとして我が家にくれまいか?」
「ひえっ!」
ミレニーは悲鳴をあげたが殿上人たちは下々の都合などお構い無しだ。
「ああ、大丈夫でございますとも! ミレニー! 良いな!」
伯爵の命令では良いも悪いも無い訳である。実際呆然として返事も出来ないミレニーを放置して事態は進行した。
「これで不安は無いであろう。シルフィン。さぁ、行こうか」
そしてヴィクリートは私の腰を抱き寄せ、私の右手を自分の右手で取ると、事態を飲みこみ切れない私を優しく馬車へと導いた。御者とは別に執事と思しき白髪の老紳士が馬車の横に立っていて。私とヴィクリートに恭しく頭を下げてきた。
「すまぬな。コルミード」
「いえ。ご無事でようございました。殿下」
そしてコルミードは私に向けて胸に手を当てる略式の礼をしながら自己紹介をした。
「姫君。お初にお目に掛かります。公爵家にて執事長を拝命しておりますコルミードでございます。以後、お見知りおき下さい」
これに優雅に返答出来るほど私のお嬢様度は高くない。私は辛うじて「よ、よろしく」とだけ言った。そしてヴィクリートに導かれ、青い椅子にベージュの壁で構成された、広い馬車の中に導かれた。つまり乗せられてしまった。そしてヴィクリートの対面に座らされる。
続いて私の専属侍女にこの時からなってしまったミレニーがフラフラと乗り込み、私の隣に座る。
「……どういう事なの?」
「わかんない」
ミレニーの呆然とした問いに私も呆然と答える。ヴィクリートの隣にコルミードが座り、外から馬車のドアは閉じられた。ヴィクリートは窓を開き、外に向かって言った。
「世話になった伯爵。では。父とシルフィンの嫁入りについての話をしたら。其方にも招待状を出すゆえ、公爵邸に来るように。心配するな。悪いようにはせぬ」
それに対して伯爵が何かを言っていたが私にはよく聞こえなかった。そしてヴィクリートが窓を閉めると、馬車はゆっくりと動き出した。驚いた事にほとんど揺れが無い。帝都にまで送ってもらった子爵家の馬車は物凄く揺れて腰が痛くなったものなのに。
事態に全く付いて行けず呆れ果てている私に、ヴィクリートは麗し笑顔全開で言った。
「さぁ、忙しくなるぞ。でも大丈夫だ。シルフィン。君の事は私が守るからな」
……彼の誠実さは疑わないけれども、問題はそこでは無い。一体全体何が起こっているのか、そしてこれから何が起こるのか。何がどうしてこうなったのか。何もかもが一切分からないのだ。
ただただ唖然茫然する私(とミレニー)を乗せて。馬車はさして遠くも無いレクセレンテ公爵邸へ向けて、ガラガラ音を立てて進んで行くのだった。
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