ポルドフのおじいさん
それから。
クリエはアンペルとともに戦場を回った。
アンペルは兵士として、クリエは小姓としてさまざまな役務を。力仕事や水くみ、軍馬の世話、それらをいやな顔一つしないでこなした。
軍馬の世話をしている今は右腕の動かないポルドフのじいさんがアンペルに向かってこう打ち明けた。
「嬢ちゃん……いや顔を隠しててもわかるとも。あれは嬢ちゃんじゃな、物覚えもいいし、手抜かりもしないしサボりもしない。ほかの小姓と比べるとまったくよく働いてくれるよ」
「礼はクリエに言ってあげてください、そういうのを喜ぶと思うので」
アンペルがポルドフじいさんに言うとじいさんはちょっと困った顔をする。
「そうかい。褒めたらその言葉を理解できないとかなんとか言っていたが……」
「……照れ隠しでしょう」
「だったらいいが」
「………」
補給部隊を率いるサングート将軍からもその働きぶりは目にとまり、直々の小姓として正式に召し抱えたいとの声もかかった。クリエは首を横に振ると、『アンペルと星が見られなくなるのは、困ります』と答えるだけだった。
二人そろって休らえるときがあれば、決まって星のことを語った。クリエの知識も大分増えていった。ある日夜二人で空を見上げながらアンペルは言った。
「ではクリエ、復習だ。黄道について」
「黄道は太陽の通り道です。黄道に沿って太陽は空を巡ります」
「その黄道ぞいにある変わった動きをする星は何だ? たとえばあの星だ」
「はい、惑星と言います。白く輝くあの星は木星ですね」
「なぜ惑星、惑う星と呼ばれているか、覚えているか?」
「はい、ほとんどの星は天盤に張り付いたようにその位置を変えませんが、惑星と呼ばれる星はその黄道上をそれぞれの軌跡で自由気ままに移動します。日々巡行してますが、時に逆行……正反対の方向へ動いたり円を描いたような動きなどをして惑う……だから惑星と呼ばれています」
「上出来だ。すごいよクリエ」
「褒められることは理解できません」
「いやいや、なれてくれ」
「なぜですか?」
「なぜってそれは人の好意だからだ。好意を受け取れる人間にならないと。人に本当の好意を持てないと俺は思うな」
「本当の好意?」
「好きってことさ」
「星を見るのは好きです。アンペル、あなたのことも……好きです」
「……」
アンペルは困ったように笑った。クリエはそんな表情をどこかで見たような気もしたが、どうしてもそれが思い出せない。
「この間クリエを褒めてくれたじいさんがいたろ。ほら右腕が動かない」
「はい ポルドフさんですね」
「そのときクリエはどう思った?」
「理解……、できませんでした」
「それじゃあ困るよ。じいさんだってかわいそうだ」
「かわいそう……」
「好意を好意と受け取ってもらえないことは悲しいことなんだ。かわいそうなことなんだ」
「……」
でもよくわからないものはわからないのだとクリエは思った。それがなんだかすまないようなことがして、クリエは肩をすぼめてしまう。
そしてまた死も近くにあった。
クリエによくしてくれたポルドフじいさんが死んだ。いや、ポルドフじいさんだけではなく、多くの命が奪われた。
行軍の最中に弱い後方部隊が敵の奇襲を受けたのだ。
テントは燃え、馬や食料は奪われ、挙げ句の果てに女たちは強姦され、奪われた。
ポルドフじいさんはすでに背中に矢を二本受け瀕死だった。
じいさんは戦場でまごまごしているクリエを見つけると、クリエの小さな体を抱きかかえ、地面のくぼみに伏せた。
そしてクリエの存在を敵から身を隠したまま、物も言わずに冷たくなっていった。
アンペルたち精鋭が敵を追い払うまで、敵は我が物顔でいいようにしていたが、やがて、ちりぢりに逃げていってしまった。クリエは五体満足で保護された。
その後、アンペルたちは二つ穴を掘り、敵と味方をそれぞれ埋葬し祈りを捧げた。クリエはアンペルに聞いた。
「なぜみんな人を殺して生きてきているのに、悲しそうに弔うのです?」
「人を殺してきたからさ」
「意味が、よくわかりません」
「俺たちは人を殺し他人の大事な食料を奪う罪深い存在だ、わかるな? クリエ」
「は、はい……」
「だけどだれかが許してあげなくちゃいけない、神様が許してくれるかもしれない.
でもそれはだれにもわからない。だから俺たち仲間が俺たち自身を許してあげるんだ。そうでなきゃ……」
「そうでなきゃ?」
「この世はあまりに生きるに酷すぎるじゃないか」
「……」
慟哭のようなアンペルの物言いに、クリエは恥じらい、押し黙った。
その夜。二人は星を見ながら、語り合った。今日は星のことではなく、違うことを話している。星の明かりはそういうことを話すのに向いてもいた。
「ポルドフのおじいさん」
ぽつり、クリエは言葉を発した。
「ああ」
「私を助けてくれました」
「そうだな」
「なぜでしょう?」
「それを考えるのがお前の人生だ」
「……人生」
「……クリエにはまだわからないか」
「以前そんなことを言われた気がします」
「人生のことをか?」
「クリエにはまだわからないかって」
「そっちか」
「いつかわかる日が来るんでしょうか?」
「クリエ次第だな」
アンペルはクリエを眺めながらいった。クリエは少し迷っていたが切り出した。
「おじいさん、私を隠しながら冷たくなっていきました」
「別に、つらい記憶は思い出さなくてもいいんだぞ」
「いいえ、覚えておきたいです……おじいさんのために」
「そんなことを覚えておくより、じいさんから受けた好意を覚えておけ」
「……好意」
「そうだ、それだけ覚えておけ。それだけ覚えておけば死者には十分だ」
「はい……」
「お?」
アンペルが驚いたように表情を変える。
「え?」
「いま、笑ったな」
「そうですか?」
「笑ったクリエは初めて見た気がする」
「そうかも……しれません」
「そして涙を流すクリエも」
「え……?」
しれず、クリエは頬に手を当てる。確かに涙が一筋、伝わっていた。そしてそれがクリエには止められない。
「あれ、なんで、私……」
アンペルはクリエに近づくと、そっと抱きしめた。
「……」
クリエはポルドフじいさんや死んでいった人たちのことを思い、泣いた。アンペルはそんなクリエの頭を優しく撫でる。
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