7-2.「私はまだ、あなたの前で、人の形を保てて、いますか?」
手慣れた玄関を開けた時、帰ってきたんだなと、ハタノは妙な懐かしさを覚えた。
リビングへ繋がる木造の廊下。
二人がいつも食事をとる簡易テーブル。
残り香のように漂う生活臭を懐かしく思いながら、ハタノはふと、ついてきたチヒロに挨拶をする。
「ただいま戻りました、チヒロさん」
「はい。私も帰りました、旦那様」
二人で挨拶をしてから、ふと、ハタノは定番の台詞を思い出す。
「チヒロさん。先に、お風呂にしますか? それとも草にしますか」
「そうですね。まだ魔力供給が十分ではありませんし、食事を頂ければ。やはり自宅の魔噛草が一番です」
「家の方が、やはり寛げますからね」
大事件の後にもかかわらず、妻の返事は、ずいぶん淡々としていた。
それから二人で食事にした。
ハタノは保存食にしていたパンを囓り、チヒロはいつも通り草をはむはむと嗜む。
彼女が常時魔力を蓄えていたお陰で延命できたのかもと思うと、ハタノは何となく魔噛草に感謝したくなる。
(自分も、たまには草を食べてみた方が良いのでしょうか)
妙なことを考えつつ、ハタノは郵便受けの封筒を開封する。
治癒院から届いた書類に目を通しつつ、また院を空けたのでミカに怒られるだろうな、と苦い顔をした。
その後、お互いゆるりと別々に風呂へとつかり……
久しく身体を休めている間に、夜を迎えた。
(……ようやく、ほっと息がつけますね)
ベッドに妻とともに横になりながら、息をつく。
久しく迎えた、何も考えなくてよい時間。
ハタノはぼんやり天井を見上げながら、今晩のことについて考える。
チヒロの体質変化については、未知の部分が多い。
どうやら“勇者”の魔力と、竜の魔力が混じり合っているようだが、チヒロ自身それを上手くコントロール出来ずにいるようだ。
彼女の体質については雷帝様も気にされている。
ハタノはこれから夫であると同時に主治医として、彼女の治癒に当たることになる。
――ああ。でも体質が変わった可能性がある、ということは……?
「チヒロさん。失礼ながらお尋ねしますが、魔力の質が大きく変わったのなら、生まれてくる子はどうなるのでしょう?」
「……そう言われますと、疑問ですね」
「ええ」
「もし私の子に、翼が生えていたらどうしますか?」
考えていなかった。
が、チヒロは特に気にした様子もなく、しばらく考えて。
「ああでも、翼があれば”勇者”の仕事も捗りますし、悪いことではないのかも……?」
それはそれでどうかと思うが、その話は後にしよう。
チヒロの容体管理が先だ。
……と、ぼんやり将来について思いを馳せるハタノの手に、チヒロがくいと指を絡めてきた。
隣を見ると、彼女がいつの間にかハタノを見つめ、その無垢な瞳を薄く揺らしている。
流石に、鈍くはない。
サインは理解する……が。
「チヒロさん。お疲れではありませんか?」
「疲労感はありますが、しばらく、励んでおりませんでしたし……」
「別にいいと思いますよ。今日くらい休んでも。雷帝様も怒らないでしょうし」
「それでも、日々の勤めを果たさない訳には参りませんし。……それに、気のせいか、ずいぶん久しぶりの気もしますし」
その実直さが妻らしいと笑いながら、ハタノは身体を起こす。
彼女を押し倒しながら、ゆっくりと、その指先に指を絡めていく。
竜を屠り、心臓を穿たれてなお生き延びたとは思えない、華奢で細い指先。
その隙間に自分の指を絡めながら、ハタノは柔らかな彼女の顔を覗き込んで――……
はた、と、手が止まる。
――明確なきっかけがあった訳では、ない。
強いていえば、窓辺より差し込む月光が、彼女の銀髪をうっすらと光らせたという程度の。
そんな、ささやかな理由……。
「…………」
「旦那様?」
「ああ。すみません、ただ……」
ハタノはそっと、妻の頬に触れる。
色白ながら、血の通った頬。
ハタノをまっすぐに見つめる、透明な宝石のように美しい瞳。
そこから確かに感じる、人の温もりを覚えながら……
ああ。
チヒロは今、心臓を鼓動させ、生きているのだな、と心の底から実感する。
(今、この人は生きている。私の前で、熱を持っている)
チヒロが生存しているのは、奇跡としか言いようがなかった。
竜の氷像。ハタノの閃き。少しでも歯車がズレていたら、チヒロが亡くなっていたことは想像に固くない。
仮にハタノがもう一度彼女を救えるかと問われれば、自信が無い。
それ位、危うい現場だった。
だからこそ彼女がいま、ベッドの中で自分を見つめている事実に。
しっかりと色づき、血の通った彼女をこの手で抱けることに、安堵する。
(……まあ、妻にそんなことを言っても、面倒がられるだけでしょうが)
チヒロに、ハタノの覚えた恐怖は伝わらないだろう。
蘇生してすぐ竜の魔力の応用を閃き、帝国のために戦う勇者。
己の生死すらも業務の一環と捉える彼女に、ハタノが――怖かったし、心配した、と口にして伝わるとは思わない。
この安堵感は、ハタノが彼女に対し一方的に抱いたものだ。
だから、黙って居ようかと思った、けど――
「チヒロさん」
「はい」
「……生きていてくれて、ありがとうございます。私は、あなたが生きていて、嬉しいです」
珍しく、ハタノは気持ちを素直に口にした。
生死の現場が彼女にとって当たり前でも、それでも、生きて帰宅できたことを喜ぶのは、悪いことじゃない。
いや、良いことだ。
死んでからでは、遅すぎる。
そんな衝動に駆られ、ハタノが珍しくお礼を告げ。
改めて、その身体を抱こうとして――……手を止める。
(……え?)
ハタノは信じられないものを、目の当たりにし……
驚き、声をかけた。
「チヒロさん? どうか、されましたか」
「はい。何か?」
「どこか痛いとか、辛いとか」
チヒロが怪訝そうに、ぱちり、と可愛い瞬き。
「特にありませんが……どうかしたのですか?」
「いえ、だって、チヒロさん」
「はい」
彼女は、気づいていない。
自覚がない。
ハタノは、そんなチヒロの頬を指ですくい、そっと――
涙を払う。
「……泣いてますよ?」
「………………え?」
言われて、チヒロはそこで初めて、自分の頬にぺたりと手を当て……気づく。
うっすらとした透明の涙が、その柔らかな頬を伝い、零れ落ちていることに。
「あ、れ。私が、泣いている?」
「ええ」
「……す、すみません。どうしたのでしょう。いえ、別に痛いとか、そういうのは、ない、のに」
彼女の弁に反して身体は震え、その表情が青ざめていく。
ハタノは無意識のうちに魔力走査を発動するが、チヒロに魔力変化は見つからない。
けれど、チヒロは奥歯をカチカチと、極寒の中に一人取り残されたかのように震え、己の身体をぎゅっと抱き締めていた。
悪夢に出くわした、子供のように。
我慢しようとしても、耐えきれないとばかりに、ほろほろと涙が零れていく。
その姿が、ハタノの脳裏に数多の患者と戦った記憶をよみがえらせる。
――死の病に瀕し、自分が死ぬのだという恐怖を突きつけられた、患者達の姿だ。
「チヒロさん」
「はい――っ」
「失礼」
ハタノは、チヒロを優しく、けれど力強く抱き寄せた。
彼女の顔を己の胸元に埋めさせ、子が、親に甘えることを許してあげるかのように。優しく、包むように。
「チヒロさん。……チヒロさん」
「はい」
「怖かったでしょう」
「え」
「危うく、死にかけたのです。人として、怖くないはずがありません」
「……で、ですが、私は」
「あなたは、自分の仕事にとても忠実で、誠実な方です。また”勇者”として、他人に弱みを見せないことは、大切なことだと思います。……ですが」
彼女の嫋やかな銀色の髪を撫でながら、ハタノはそっと妻に耳打ちする。
「いまは、私しかいません。……ですから、たまには。子供のように、怖がって泣いてもいいのですよ、チヒロ」
彼女の喉が、ひくっと、ちいさく震えた。
ハタノは黙る。
言葉はもう必要ない。それ位、ハタノだって理解する。
「旦那様、私、は」
ひきつった声はやがてハタノの耳にも聞こえる程に大きくなり、その瞳から大粒の涙が我慢出来ずにこぼれ落ちていく。
きっと我慢していたのだろう。
辛かったのだろう。
彼女自身、自覚できないくらい、重いものを背負っていたのだろう。
チヒロは顔を見られないよう俯きながら、それでも、ハタノの熱を求めるように身体をたぐり寄せ、背中に腕を回し、布団の中に隠れながらも人の温もりを求めるように、ぎゅっと掴み。
「旦那様。……私は。私の心臓は、まだ、動いていますか」
その声は、闇の底から絞り出したかのように、細く。
「私はまだ、生きていますか。……私はまだ、あなたの前で、人の形を保てて、いますか?」
ひどく弱々しい、けれど確かに彼女の本音を絞り出した、心の悲鳴そのものだった。
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