4-4.「チヒロさん。いまの私の妻は、あなただけです」
「私は女の”勇者”として、子を宿さねばなりません。そのため、危険な現場には配属されないと聞いています」
それが机上の空論であることを、ハタノはよく理解していた。
チヒロが、嘘をついている訳ではない。
ただ、戦争に危険のない場面があるかと問われれば、否だろう。
戦地に赴いた彼女が十日後、死体になったとしても、ハタノはそれを受け止めるしかない。
「承知しました。頑張ってください、チヒロさん」
「ええ。まあ、特別なことをするわけではありません。いつも通りの仕事ですので」
勇者は元々、国に仇成す者と戦うのが仕事だ。
特別に身構える必要も、ないだろう。
……が、ハタノは馬車の外に流れる田園風景を見ながら、思う。
(世の夫は、妻が戦争に行くと聞いたら何をするのでしょうか)
”才”を重視する帝国では男が必ずしも戦を担う訳ではないが、やはり男が出る確率は高い。
男女の立場は逆だが、恋人を見送る者として、何かすべきだろうか?
(美味しい食事、とか? 最後の晩餐と言いますし。まあ、うちの妻は草食動物ですが)
或いは一時の別れを惜しみ、しんみりするのが良いのか。
でもそれは、チヒロにとって迷惑だろう。
……安全祈願のアクセサリ? ”勇者”の装備品に不要なアイテムは持たせられない。業務の邪魔になる。
そもそも彼女が、ものに対して執着を示すとも思えない。となると……
「チヒロさん。私は、何かした方が良いのでしょうか」
「と仰いますと?」
「戦にでる前に、美味しい晩餐を食べたり、あるいは別れを惜しんで涙したりする、とか」
「……世間の夫は、朝、出勤する妻を見送るたびに泣くのですか?」
「仕事とはいえ、戦争ですから。朝に出た恋人が、二度と帰宅しないこともあるでしょう」
「ええ。ですが人は、泣こうと祈ろうと死ぬ時は死にますし……」
彼女の価値観が、鮮明に出てる言葉だと思う。
ハタノが余計な気を遣えば、チヒロには逆に迷惑をかけてしまう。
仕事の邪魔をしたくないと考えたハタノは、結果、彼女が一番望むであろうことを選択する。
「そうですね。では私は何もせず、チヒロさんを見送りましょう」
「はい。もし私が帰らなければ、雷帝様より連絡が入るでしょう。遺産については一任します」
「よく考えれば私も治癒中に、患者に殴られて死ぬかもしれませんね。遺産整理しておきますか」
それで話は仕舞いです、と、ハタノはクッションに背を預ける。
……ハタノ達夫婦の会話は、こんなものだ。
その距離感だからこそ、上手く付き合っているとも言えるし、こんなものだろう――
「旦那様。私からして欲しいことは、特にありません。……が、私はこれまで、旦那様ほど話が合う人と出会ったことがありません」
「?」
脈絡のない話のふりに、眉を寄せる。
チヒロは平然とした顔で、相変わらず、窓の外を眺めながら、ぼそりと。
「旦那様も存知の通り、私は人に好かれる性格ではありません。人としての面白味に欠け、知人の勇者にも、お前は何が楽しくて生きてるのかと問われたこともあります。……その度に、煩わしく思います。放っておいてくれ、と。ただ仕事をしているだけなのだから、と」
会話の流れが掴めない。
彼女は、なにを言いたいのだろう?
「ですので旦那様のように、私の仕事の邪魔をせず、けれど本当は心配してくれてるのだろうな、と……私にも何となく伝わるよう接して頂けることは。私としては、とても、幸せなことだと感じています」
「そう、ですか」
「はい。そして私は、そんな生活を無為に捨てて死ぬようなことは致しませんので、ご安心ください」
そこで話は唐突に終わった。
「……?」
「…………」
ハタノの了承を求めるわけでもなく、結論を出す訳でもない、ただの独り言。
その意味が理解できず、暫く考えて……
はた、と気づく。
(もしかして今のは、妻なりに、好意を示してくれたのだろうか。必ず帰ってきますから、と)
あまりに不器用すぎる台詞だが、解釈するとそうなる気がした。
……でも、あの妻が本当に?
ハタノは訝しみつつ、そっと妻の顔を伺う。
チヒロは相変わらず馬車の外の景色に目をやり、こちらを見ない。
「チヒロさん。こちらを向いて頂けませんか」
「いやです」
「なぜ?」
「理由はありませんが、なんとなく」
けれど窓にうっすらと反射した彼女の横顔は、ほんのすこし紅色に染まっていて。
ああ。すごく分かりにくいけれど、感謝の意を示してるのだなと気付き、ハタノは苦笑しながら、自分もまた長閑な田園風景を眺めることにした。
お互いに、心配しすぎない。けれど関わりすぎる訳でもない。
そんな業務的、ビジネス的な態度が――ハタノには、心地良い。
*
特段、理由はなかったが、その夜はいつも以上の猛りを覚えた。
何事も、数を重ねれば上達する。
当初は鉄壁の防御力を誇っていた勇者の牙城も、その滑らかな肉体に幾度となく指を這わせられれば、おのずと弱点は露わになる。
己の妻が、どこを弱みとしているか。
どこに触れると反応し、どこを責めると悶えるのか。
幾ら秘密を隠そうとしても、上気した頬と零れ落ちる嬌声を耳にすれば、夫とて学習する。元々この旦那は頭が良いし、人様を喜ばせたいと思っている節がある。
その優しい手つきは初夜の頃から変わることなく、けれど着実に上達し、愛しくない妻を責め立てる。
……無論、学ぶのは夫だけではない。
妻もまた幾夜と過ごす間に、夫について知り尽くし始めていた。
時に深く口づけを交わし、初夜では触れるなど想像もしなかった夫の分身に手を伸ばす。
たまに、夫しか知り得ない甘い声を囁いてみる。
その方が燃え上がると理解すれば、彼女は業務としても人としても、好意を示すことを厭わないし、何より――
(旦那様が、気持ちよさを我慢してそうな顔を、されている)
その顔を見るのが、新妻は嫌いではなかった。
職務上必要なくとも、喜んで貰えるに越したことはなく……気づけば自分の方から積極的に迫ることもある。
(私は今、彼に抱かれているのですね)
子作りを業務と捉え、真摯に励むつもりではあったけれど。
それ自体を心地良い、と感じるようになるのは、チヒロとしても本心から意外であり。
同時に、うまく言葉にできない、けれど胸の内から熱くなるような高ぶりを覚えながら、夫の背中に腕を伸ばした。
*
そうして二度目の行為を経て――
けど、それでも肝心の旦那は、やはり旦那であった。
「……旦那様? 先程からやたらと、私の臀部を揉むのはなぜでしょうか」
「え? ああ、すみません。失礼」
「いえ。嫌ではないのですが。なにか新しい試みかと」
チヒロの問いにハタノは珍しく、失敗した、と。
顔に出して申し訳なさそうに眉を寄せていた。
「先日の、フィレイヌ様から頂いた尻尾の件について、考えていまして。頭の中でイメージしてみたのですが、失礼ながら実物に遠慮無くさわって許されるのは、妻くらいなものでして」
「成程。仕事熱心な旦那様らしいです。……ちなみに旦那様は、尻尾がある方が可愛いですか? 地方の少数部族には、尻尾を信仰する、ケモナー、という宗派があると聞きますが」
「詳しくは知りませんが、耳や尻尾がついてるからケモナーであると発言すると、原理主義者に襲撃されるそうなのでお気をつけください」
「それは初耳です」
雑学を交えつつ、チヒロは彼の胸板に触れる。
肉体的な強度はチヒロの方が高いが、それでも、男の身体は硬く角張っているなと思う。ハタノは優男ではあるが、チヒロは彼に男を感じることがある。
そんな夫に、めずらしく、チヒロの悪戯心が囁いた。
「それにしても、旦那様。妻が戦地に旅立つというのに、他の女の尻について考えるのは不敬ですよ」
「……すみません。失礼を」
「冗談です。先にも告げましたが、私は旦那様が他の女に手をだそうと、咎める必然性がありません。私がいない間も、もし望むのであれば好きにして頂いて構いませんし――」
「チヒロさん」
彼がふいに身体を起こし、チヒロを押し倒した。
乱暴な態度に逆らわず見上げると、夫がチヒロの両腕を押さえつけ、真摯に、彼女を見下ろす。
強い瞳だ、と、チヒロは思う。
ハタノはチヒロの瞳を、透き通る宝石のようだというが、ハタノもまた眩い星のような瞳をしてるなと密かに思う。
「チヒロさん。いまの私の妻は、あなただけです。ですから、あなただけを見るべきでしたね」
「旦那様。歯の浮くような言葉を告げましても、やることは変わりません」
「ええ。ですが、気の持ちようは変わります。でしょう?」
ハタノは遠慮なく身体を下ろし、何度目かになる口づけを交わす。
そのまま三度目の行為に至りながら、チヒロは再び満たされる。
チヒロは人間の言う、愛、というものを今一理解していない。
求めたこともない。
知らないものは最初から欲しいとも思わず、その心は常に砂漠のように乾いている。
それを、嫌だと感じたこともない。
けれど砂漠の最中に、一匙のオアシスがあるのは、決して嫌いではない。
――この時間が、嫌いでは、ない。
(などと口にすれば、旦那様に迷惑がかかるでしょうけれど……)
妻は黙り、けれど返答の代わりに、夫となる男の背中に手を伸ばす。
夫は彼女に答えるように、その身体を優しく丁寧に包みながら、もう一度口づけを交わしてくれた。
*
その数日後、予定通りに辞令が届いた。
内容を、ハタノは知らない。戦争における彼女の役割など、知ってはならない。
なので普段通りに、ハタノは妻を見送る。
「いってらっしゃい、チヒロさん。お気をつけて」
「いってきます、旦那様」
そして新妻は、ハタノの前からしばらくの間、姿を消した。
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