第30話 蛇

「落ち着いて、何があったのか教えてくれ」


 出来るだけ優しい声音で僕は語り掛ける。


「男の人に、追いかけられた……」


 竜胆は震えた声を発した。

 かなり動揺している様子で、呼吸が乱れていてる。

 これは一度、落ち着かせた方が良いな。


「取り敢えず、近くのファミレスにでも入るか」

「うん……」


 僕が提案すると、竜胆は小さな頷きを返した。





 ファミレスの店内は思ったより閑散かんさんとしていた。

 僕たちは店員に案内されるがまま、奥の方の席に腰を下ろす。

 提供されたお冷を一息に飲み干す竜胆。ぷはっ、と勢いよくコップを離し、呼吸を整えている。


「竜胆、今なら何でも頼んで良いぞ。全部僕が奢ってやる」


 それを聞いた竜胆はテーブルの上に並べられたメニューをまじまじと見つめ、左上に載っていたチョコレートパフェを指さした。

 そしてそのまま指を右端までスライドさせる。


「じゃあ、ここからここまでを全部……」

「おいおい竜胆さんや。他人の言葉を額面がくめん通りに受け取っても良い事なんて無いって学校で教わらなかったのか?」

「生憎、そんな世知辛せちがらい事は教えてもらってないかな……」

「親のお年玉預かっておくねは絶対に返ってこないし、先生の怒らないから言ってごらんはブチギレる前振りだし、一生のお願いは人生で何十回も使うんだ」

「何だか含蓄がんちくのある言い振りだね……」


 そう呟く竜胆は僅かな笑みを浮かべていた。

 幾分か彼女の気持ちも落ち着いた様で、ひとまず一安心である。

 結局、注文はチョコレートパフェ一つだけで済んだ。まぁ今の僕にはそれだけでも充分な痛手ではあったのだけれど。


「ん、うま……」


 パクパクとパフェを食べ進めていく竜胆。

 彼女はものの数分でそれを平らげてしまった。

 完食後、一息ついている竜胆を暫く眺めた後で僕は口火を切る。


「竜胆を追いかけてきた男について聞いても大丈夫か?」


 怖い記憶を思い出させるのは忍びないけれど、今後の彼女の安全を鑑みるにこれだけは聞いておかなければならない。


「うん、もう落ち着いたから大丈夫……」


 竜胆は空っぽになった容器を見つめながら静かに語り出した。





「……なるほどな」


 一頻ひとしきり竜胆の話を聞いた後で僕は呟く。


 ――彼女の話を要約すると以下の通り。


 ・竜胆のバイトしているメイドカフェには鴨池という常連客がいた。

 ・鴨池は竜胆の事をいたく気に入っており、彼女に本来応対していないサービスまで要求してくるようになった。

 ・何度か鶴巻さんから注意をしたけれど鴨池の態度は変わらず、結果的に彼は店を出禁になった。


「それで、今回その男が店の近くで待ち伏せしてたって事か……」


 僕がそう口にすると、竜胆は申し訳なさそうな表情で頷く。


「ごめんね、うつ先輩……。こんな事に巻き込んじゃって……」

「何言ってるんだ竜胆。僕は園芸同好会の所属だぞ。この芽吹市で困っている美少女がいたなら、いつ如何なる場合でも駆け付けて助けるのが僕の使命だ」


 僕の人格形成のほとんどは仮面ライダーダブルの左翔太郎とワンピースのサンジに由来している。

 風都を泣かす奴を許さない男が左翔太郎。

 女の涙の落ちる音を聞き取れる男がサンジ。

 そして芽吹市の泣いている美少女を助けて回るのがこの僕――鬱金薫だ。


「ふふっ、頼もしいね……」


 竜胆は微かに表情を綻ばせた。

 その表情に僕は安堵して。

 ……良かった。鴨池という男に追いかけられた事に対する恐怖心は段々と薄れている様だ。


「そう言えば、竜胆は桜庭と同じクラスなんだってな」

「うん……。何か入学式の日にさくちゃんの方から声掛けてきてくれたんだ……。あれ、もしかしてうつ先輩ってさくちゃんと知り合い……?」

「勿論知ってるぞ。桜庭も僕と同じ園芸同好会だからな」

「そうだったんだ……。うつ先輩の放恣ほうし活動の餌食になっちゃってるんだね、さくちゃんは……」

「勘違いもはなはだしいぞ竜胆。色々と好き勝手やられてるのは僕の方だ」


 そう告げる僕の脳内では、つい数十分前まで一緒に居たド変態の顔が思い返されていた。



 僕と竜胆はその後もしばらく談笑をしてからファミレスを後にした。

 そして僕は竜胆を彼女が住まうマンションまで送り届ける。


「送ってくれてありがとう、うつ先輩……」


 丁寧に頭を下げる竜胆。


「良いよ。これ位なんて事ない」


 僕はひらひらと手を振る。


「警察にはちゃんと相談した方が良いぞ。後、今後の送迎は親に頼むなり、鶴巻さんとかに頼むんだ。勿論、竜胆さえ良ければいつでも僕を頼ってもらって構わない」


 それこそ桜庭に頼むのも良いだろう。

 物理的な戦闘力で言ったら結我ちゃんがいる桜庭の方が安全な気さえする。


「分かった……。今日は本当にありがとう……」


 竜胆は今一度お礼を述べてからマンションの中へと入っていった。





 長い一日を終えて、僕はようやく自身の帰路へと着く。

 駅から大分離れた辺りでズボンのポケットに入れていたスマートフォンが振動した。

 確認すると、眩ちゃんからの電話である。


「はい、もしもし。こちらお客様相談センターです」

『何の?』

「人生の」

『重っ!? 世界運営してる側のサービスじゃんそれ』

「良いぞ、眩ちゃん。着実にツッコミマシーンとしての道を歩んでるな」

『そんな未知、足を踏み入れた事さえないよ。……って、そんな事はどうでもいいんだってば。お兄ちゃん、何時に帰ってくるの?」


 案の定、眩からの電話は帰宅時間の確認だった。


「あと、十分位で着く。夜ご飯にはきっと間に合うよ」

『間に合わなかったら?』

「罰として、一週間僕を椅子として扱っていいぞ」

『何それ。お兄ちゃんにとってはご褒美じゃん』

「ただ四つん這いになって椅子だとか言い張るつもりはないぞ。江戸川乱歩の人間椅子みたいに、椅子の内部に僕が潜り込むんだ」

『余計に変態性と犯罪性が増しちゃってるよ。マシマシだよ』


 耳心地の良いツッコミを楽しみながら歩いていると――。



 道の真ん中に、一匹の蛇がいた。



 それは一匹と表現するにはいささか巨大な体躯たいくをしていて。

 白色の街灯が蛇を照らし、薄紫色の鱗がそれを反射している。


『お兄ちゃん? どうしたのー?』


 眩ちゃんの声が遠くに聞こえられて。

 蛇に睨まれた蛙とはまさにこの事。

 僕は瞬きや呼吸さえも忘れてしまいそうな程、その蛇に意識を持っていかれていた。


 ――どれだけの時間が経った?


 僕がふとそう思い至った時。

 蛇は音も無くその場を去っていった。


『お兄ちゃーん? おーい? これ、繋がってる?』


 眩ちゃんの騒がしい声が僕の意識を現実に引き戻す。

 目の渇きと息苦しさが同時に僕を襲う。


『なになに!? いきなり息荒げないでよ!』


 割と本気で嫌そうなクレームが飛ぶ。

 流石に女子中学生の耳元で呼吸を荒げるのは良くなかったか。


「ごめん眩ちゃん。道の真ん中にでっかい蛇がいたんだ」

『え、どれくらいの大きさ?』

「人を丸々呑み込めるレベルかな」

『お兄ちゃん……。家に帰ってきたらさ、一緒にお母さんたちに謝ろ……?』

「何だどうした急に」

『流石に幻覚見えちゃってるのは駄目だって』

「僕は別に違法な薬物はやってねぇよ!?」


 そんなアングラ寄りなツッコミが、閑静な住宅街に響き渡った。

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