百合宮潔璃編
第9話 純白ト絶壁
少女漫画のワンシーンの様に、角から出てきた誰かとぶつかり、その後恋に落ちるなんてシチュエーションは誰しも一度は夢想した事があるだろう。
人々の――ひいては中高生の夢とでも言うのだろうか。
僕もそんな人並の夢を抱えている一男子高校生であって。
「遅刻、遅刻~!」
朝、僕は全力疾走していた。
オーバードライブと読めるタイプの全力疾走だ。
今の僕は一陣の風。
突風に近しい存在となっていた。
現在時刻は八時十三分。登校は八時十五分までにと校則で定められている。
階段を二つ飛ばしで駆け上がる。
二年生の教室は校舎の三階にある。三年生は二階、一年生は四階と、日本の悪しき年功序列を感じる階数設定に若干の不満を覚えながらも、僕はただひたすらに走っていた。
――階段の踊り場。
ふと顔を上げた瞬間、一人の少女が視界の隅に映った。
不味い……! ぶつかる――!
勢いよく走っていた僕は、簡単には止まれぬ事を悟り――。
そして弾け飛んだ。
一応言っておくが、これは比喩表現でも何でもない。
ただそのままの意味で、額面通りの意味で弾き飛ばされていたのだ。
これまで全力で登ってきた階段をごろごろと無様に転がり落ち、そして僕は完全に振り出しに戻されてしまっていた。
混乱の最中、階段の踊り場へと視線を向ける。
日の光を反射し、青みがかった輝きを放つ少女の黒髪が揺れ――。
そして彼女のスカートが動きに応じてふわりと舞う。この上下の位置関係、少女のスカートの内部が一瞬だけ垣間見えた。
――白のレース。
愛らしい大きさのリボンが、僕の脳裏に焼き付いて。
花車先輩を彷彿とさせる様な華奢な少女が僕を見下ろしている。
――純白。
――潔白。
――清白。
そんな言葉の権化が、そこには立っていた。
体格差を考えると僕が弾き飛ばされるなど有り得るはずが無いのだけれど、一体何が起きたのだろうか。
ふと、少女の胸元に目がいってしまう。
それは男子高校生の
そしてその薄い胸元を見て、思わず僕は言葉を溢す。
「…………ぜ、絶壁?」
弾かれた×薄い胸元=絶壁。
我ながら大変失礼な、失敬な連想ゲームだった。
僕の呟きを聞き取ったのか、少女は此方に鋭い視線を向けている。出会った当初の薔薇園とはまた違った無機質な鋭利さ。周囲の物全てを突き放す様な冷たさが感じられた。
少女の薄い唇が言葉を紡ぐ。
「初めましてなのだけれど、貴方…………死ぬと良いわ」
涼やかな声音と侮蔑に満ちた表情。
初対面の相手に死を勧められたのは、これまでの人生で初めての経験だった。
――昼休み。
僕は薔薇園と共に屋上で昼食を取っていた。
購買部で買ったメロンパンとカフェオレを嗜む僕。そしてその横では薔薇園がお弁当を広げていた。
曲げわっぱのお弁当箱には彩り豊かなおかずたちが詰め込まれている。
綺麗な姿勢のまま、彼女はそれを食していて。
天下無敵の不良少女という触れ込みが出回っているけれど、その本性はギャップ面白激かわ生物だ。
こうした一面も薔薇園が持つギャップの一つか。
「そのお弁当、自分で作ったのか?」
僕はもくもくと箸を進める彼女へと問う。
「ああ。料理は小さい頃におばあちゃんから教えてもらってたからな」
「へぇ、凄いな。こんな綺麗なお弁当作れるなんて、薔薇園は良いお嫁さんになれそうだ」
「ぐふっ……! ごほっ、ごほっ……!」
「おいおい、大丈夫か? ほら、お茶飲め」
唐突に咳込みだした薔薇園にペットボトルのお茶を渡し、背中を
「はい、ひっひっふぅー。ひっひっふぅー」
「……勝手にあたしを孕ませるな」
「ちょっと、やめて下さいよ薔薇園さん。僕の清廉潔白なイメージが崩れちゃうでしょうが」
「鬱金にそんなイメージ元から無かったでしょうが」
はて。そうだったか。
登場時から此処まで清楚一筋だったはずでは? 僕は訝しんだ。
「ふぅ……。鬱金が変な事言ったせいで死ぬところだった」
ペットボトルの蓋を閉めながら彼女は言う。
「僕のせいなのか? こんな可愛らしい女子に毎日料理を作ってもらえたら幸せだと思ったんだが」
僕がそう言葉を口にした瞬間、肩を殴られた。
恥ずかしさからなのか薔薇園は顔を俯けている。
「……殴るぞ?」
「もう殴ってましたけど?」
「次は腹をいく」
「やめてくれ。流石の僕も嘔吐系の方は守備範囲外だ」
「早速、清廉潔白のイメージが崩れてるぞ」
「僕の清楚キャラに泥を付けたな!?」
「ゲロじゃなかっただけマシでしょ?」
お昼時に何とも汚い話となってしまった。
最初は薔薇園の料理の上手さを褒めていただけなのに。やはり清廉潔白キャラへの路線変更は僕には無理だったのか。
僕が悔しがっている中、「ところで」と、薔薇園が口を開く。
「昼食はいつも売店で買ってるのか?」
「いや、今日は母親が寝坊したからな。普段は僕も弁当だよ」
僕の母親はバリバリのキャリアウーマンだ。仕事大好き人間なので、ちゃんと弁当を作ってくれるだけでも有難い。
だが母親は、というか僕以外の家族全員朝が極端に苦手なので、僕が毎朝人力アラームとして彼らを叩き起こさなければならない。けれど、今日はその僕も運悪く寝坊してしまったので、家族全員が遅刻の危機に陥ったという次第である。なので今日は弁当ではない。
「……それだけで足りるのか?」
薔薇園からの質問に、僕は微かに目を見開く。
これはまさか……。いや、そんなはずは……。
淡い期待を抱えたまま、僕がゆっくりと横を向くと、薔薇園が卵焼きを箸でつまんでこちらへと差し向けていた。
「食べる……?」
そんな愛らしく小首を傾げられてしまえば、僕の答えは一つである。
「食べます」
即答だった。
花に誘われた蜜蜂の如く、僕はその綺麗な形をした卵焼きに吸い寄せられていく。
美少女にあーんしてもらう。これは全男子高校生の夢だろう。
人生の実績をまた一個、解除してしまったな。まぁ、「友達を作る」から大分ショートカットをしているとは思うけれど。
「あーん」と、卵焼きを口に含んだ瞬間――。
ガチャリ。
突如、屋上の扉が開かれた。
僕は卵焼きを薔薇園から食べさせられている状態のまま、やって来た人物へと視線を移す。
「薔薇園さん貴女また……って、あら? 貴方、まだ生きていたのね」
そんなぶっきらぼうな声音で告げたのは、今朝方僕を階段で吹き飛ばし、死ぬ事を勧めてきたあの清廉潔白な少女だった。
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