7
思考の渦に飲み込まれていたセルリアは、扉が叩かれる音でハッと我に返り、急いで訪問者を出迎えた。
「ジヒト様……」
夫の姿に、セルリアは驚く。
「起こしたか?」
「いいえ、少し考え事をしていたので」
「そうか。入ってもいいか」
「はい」
セルリアは、自室にジヒトがいるという光景を物珍しく感じた。
……考えてみれば、変な話。もう結婚して1年以上経つのに。
セルリアがジヒトと会うのは、朝と夜の食事時と、夫婦で参加する行事の時くらいだった。それ以外で個人的に話すことはあまりない。ジヒトの部屋を訪ねたこともなければ、ジヒトがセルリアの部屋に来るのも、今回が初めてだった。
『愚かな妻を、これ以上に弄べと?』
セルリアはジヒトの言葉を思い出す。
夫婦というのは普通はもっと仲が良いのかもしれないけど、ジヒト様は私のことを認めていない。だから、魔術を勉強して少しでも役に立てるようになれば、ジヒト様も私のことを妻として受け入れてくれると思っていた。
そんな自分に嫌気がさす。本当に私は、愚かな妻だった。
ジヒト様との距離がこれ以上縮まることはもうないだろう。私は真実を知り、ウルシェンの使いが来れば、もう会うこともなくなる。
そう考えると、セルリアは胸の奥が冷たくなるような心地がした。
……ジヒト様の優しさは、私を上手く使うためのものでしかないことはわかっている。ジヒト様が、私のことを一生認めるはずもないこともわかっている。
それでも、私は、ジヒト様が好きだ。
セルリアは、ウルシェンのイゼと話した日、自分が魔女であると気づくと同時に、この気持ちにも気がついた。
……きっと、最初から、好きだった。結婚式の日、初めて目が合った時から。
「何かご用ですか」
「……あの本」
ジヒトが指した方を見たセルリアは、息をのんだ。そこには、セルリアが先ほどまで読んでいた本が置かれていた。
油断していた。まさか、ジヒト様が部屋に入ってくるなんて思ってなかったから……。
「私も読んだことがある」
「えっ、と……興味深いですよね……」
セルリアは上手く動揺を隠すことができず、黙り込んでしまう。
読んだことがある、ということは、魔女の特徴を知っているということで。つまり私が、自分が魔女かもしれないと思ってる可能性をもちろん考えてるってことで……?
セルリアはわけがわからなくなりながら、必至に考えをめぐらせる。
「誤魔化す必要はない。君は全て気がついているんだろう」
「え…………」
セルリアは驚いてジヒトを見上げた。
「すべてって……」
「この国が君の力を利用していることに、だ」
かまをかけられているのでは、と思っていたセルリアは、ジヒトの口から放たれた言葉に呆気にとられた。
ジヒトのその美しく澄んだ瞳は、はっきりとセルリアを捉えていた。
「…………はい」
この人に嘘をつくことは出来ない、セルリアはこの時、そう思った。
そこには、セルリア自身の
◇
セルリアはジヒトの質問にひとつひとつ、正直に答えていった。
「君を悪いようにはしない。私は自分の務めを果たす責任がある」というジヒトの言葉を信じることにしたのだ。
加えてジヒトの話が本当ならば、セルリアが自分が利用されているという事実に気づき、魔術や魔女について学んでいるということには、他の誰も気がついていないらしい。
ジヒトは、第二王子であり、セルリアの夫だ。セルリアを監督し、国の利益に導く役目がある。
……きっと、私が妙な気を起こさないうちに、自分の意思で協力させようとしているのだろう。
そもそも、私だってこの国を守りたいと思ってる。その点では、私とジヒト様の目的は一致しているはずだ。
そう考えたセルリアは、ウルシェンのイゼと話した内容についてもジヒトに伝えることにした。
「ウルシェンに気づかれた以上、この国の平和のためには、私がウルシェンに渡るしかありません」
そのセルリアの言葉をジヒトは否定しなかった。
セルリアの力はオリオンにとって諸刃の剣だった。上手く使うための絶対条件は、セルリアの存在を他国に知られないこと、だったのだ。
生きた魔女がオリオンにいると知られれば、ウルシェンだけではなく、他の国々もセルリアを狙う。そうなれば、必ずやオリオンは戦場になる。仮に、オリオンが魔女を殺したと宣言したとしても、それが真実であるとは誰も信じないだろう。生きた魔女とはそれほどまでに強大な兵器なのだ。
「確かに、君がここにいる限り、この国は戦争を続けるだろう」
だが、とジヒトは続けた。
「君がウルシェンに渡り、搾取され続けたのなら、いずれこの国は彼らに支配される」
セルリアは返す言葉がなかった。
そのことについては考えていなかったわけじゃない。ウルシェンという魔術大国に魔女の力を与えてしまえば、あっという間に彼らは勢力を拡大する。オリオンを含めた他国を侵略しようとしてもおかしくない。
私自身の命を人質にすれば、オリオンには手を出せなくなると思ってた、けど……。
セルリアは、自分の考えの甘さに気づいた。
あまり考えたくはないが、自死さえできない状況に陥るかもしれない。
「でも、どうすれば……」
途方に暮れたセルリアに、ジヒトが意外なことを言った。
「セルリア、君自身が魔女の力を扱えるようになればいい」
「魔女の力……?」
「
ドーズとアフィリーテ。どちらもあの本に書かれていた名前だった。ドーズは奴隷となって生涯を終え、アフィリーテは世界を統一するまでに至った偉人だ。
「アフィリーテは、人々を洗脳できた……?」
本によると、アフィリーテは周囲の人々を洗脳することで、搾取されることなく、むしろ逆に上へ上へと上り詰めていったそうだ。
「そうだ。洗脳は、魔術ではない。妖精の力を、彼女は使いこなしていた」
まだよくわかっていないセルリアに、ジヒトは説明を続けた。
「魔女は、己の中にいる妖精の能力を、使うことが出来る。文献を読む限り、ドーズはそれができなかった。故に、為す術なく搾取され続けた」
「つまり、私が妖精の力を使いこなせれば、ウルシェンとも対等に渡り合えるということですか」
「その能力にもよるだろうが、状況を打破する切り札にはなり得る」
セルリアは息を飲んだ。
魔術は人間と妖精の等価交換によって成り立つ。より強い力を発揮したい場合はより大きな魔力が必要になり、それ故に魔術には限界がある。
でも、もしも自分が、妖精の力を際限なく自由に使えたら?
「……その、どうすれば妖精の力を使えるのですか」
セルリアの言葉に、ジヒトは首を横に振った。
「わからない。きっと何か、きっかけや条件があるのだと思うが……」
ジヒトは少し考えてから、セルリアを正面から見つめた。
「ウルシェンの使節団がここへ来るまで、あと3ヶ月ある。その間に、方法を探す」
「3ヶ月……」
やはり、もう次の訪問の予定は立っていたらしい。
セルリアは3ヶ月という数字を心に刻む。
この間に、ウルシェンからオリオンを守る方法を考えなければ。
「私は何をすればいいですか」
「引き続き、魔術の勉強を。妖精の力を使えるようになったとしても、その力が有用であるとは限らない。簡単な術式だけでも書けるようになっておいた方がいい。後で本を届けさせる」
ジヒトはそれだけ言うと、セルリアに背を向けた。
「私は、アフィリーテについて調べておく。何かあれば、知らせに来る」
部屋を出て行こうとするジヒトに、セルリアは慌てて声をかけた。
「ジヒト様! あのっ、その……ありがとうございます」
ジヒトはセルリアの言葉を聞くと、一瞬立ち止まり、何を言うこともなく、そのまま部屋を後にした。
セルリアは気が抜けて、床に座り込む。
……まさか、こんなことになるなんて。
うかつだった。ジヒト様にバレていたなんて。
イゼ様に会ったことが知られていたのか、魔女について調べていることに気づかれていたのか。なににせよ、今後はもっと気をつけて過ごさないと。
でも、ジヒト様の協力を得られたのは大きい。実際、妖精の力のことも知らなかったし。ウルシェンに渡る時も、ジヒト様の協力があれば上手くいくかもしれない。
……やっぱり、あの言葉は、ジヒト様の優しさだったんだな。
セルリアは噛みしめるようにそう思うと、立ち上がった。
魔術の勉強をしよう。
私は、奴隷にはならない。この手で、お父さんを、ジヒト様を、オリオンを守ってみせる。
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