第4話 うどん
リビングに入るとスーツ姿のままの母さんが、さっきまで姉さんが座っていた席でミネラルウォーターのペットボトル片手にテレビをザッピングしていた。
「お帰り。母さん」
「
挨拶に対する返事なのだろう、母さんはそう文句を言うと、制服姿の高校生たちが歌を競い合う番組にチャンネルを固定した。
「うどんでも茹でるよ」
僕は特に返事を待たず、冷蔵庫からコンビニで買っておいたうどんと白だし、それに既に刻んであるネギが小売されたパックを取り出した。
鍋を用意し、それに白だしと水を入れ、IHのコンロに置きボタンを押す。そして、うどんの入ったビニール袋にハサミで十字の切れ込みを入れたのち、3分にセットしておいた電子レンジに放り込む。
「少し寒くなって来たよね」
「そうでもないわよ」
会話のきっかけ程度のつもりで告げた僕の感想を母さんはバッサリと切り捨てた。どうやらこの前ネットで読んだ『話に困った時には天気の会話』と言うのは嘘か、もしくは天気の会話がなされた場合は相互理解のもと、お互いがそこから会話を広げていかないとダメと言う事なのだろう。
テレビでは僕と同年代の女の子たちが神妙な表情でどこかで聞いた覚えのある合唱曲を歌い始めていた。マスク姿で必死に歌うその姿は滑稽と言うよりは刹那的且つ、懸命で製作側であるTV局の意図が丸見えだった。
「この子たち結構上手いね」
「そうでも無いわよ」
またしてもバッサリと切られた。帰宅後はまず風呂に入る母さんがスーツ姿でリビングにいたので予想はしていたが、やはり機嫌が悪いらしい。
「まったく、このコロナウィルスの流行はいつになったら収まるのかしら」
母さんのひとり言とも思える呟き。ため息が混じっていたのとトーンが幾分控えめなのは、おそらくイラついて僕に少し当たってしまったのを申し訳なく思っているからだ。
「そのうち
「流行り方が変わるって、どういう意味? 」
「ヘアスタイルと一緒だよ。奇抜なものでも気がついたら受け入れる側が慣れちゃって、そのうち見ても何とも思わなくなる」
僕はそう答えると電子レンジから加熱し終わったうどんをキッチングローブで取り出し、グツグツと沸騰し始めた鍋の中に入れて菜箸で軽く馴染ませた
「アンタは冷めてるわねぇ」
「うどんは熱い方が美味しいよ」
呆れたように軽く笑う母さんに僕は出来たてのうどんを差し出すと、台所の棚からグラスと母さんが常飲している赤ワインを取り出した。
「ワインは食後にする? それともお風呂出たらにする? 疲れているみたいだからお風呂からあがった後の方が良いと思うけど」
取り敢えず僕はテーブルの上にグラスとワインボトルを置いた。
「私とあの人から何であなたみたいな気の
やはり母さんは仕事で何かトラブルでもあったのだろう。珍しく父さんの事を口にした。僕は首を捻り苦笑いをして返す。
テレビでは今度は別の高校生たちが歌う順番になったのか、僕でも知っている小田原の有名進学校の紹介が始まっていた。マスク姿のまま母校を紹介する女の子たちの中には外国人らしき子までいた。
「目が青かったり、肌が褐色の子も今は珍しく無くなって来たわね。美容業界も対応していかなきゃダメね」
テレビを見ながらのその感想がコロナウィルス騒ぎはそのうち落ち着く所に流れて行くと語った僕の感想に対する返事なのか、それとも経営者としての仕事意識なのか僕にはイマイチわからない。
「おうどん、美味しいわ」
「コンビニでひと玉100円のヤツだよ」
「ずいぶん安いわね」
「価格競争ってヤツじゃないかな」
ホントは少し前まではひと玉80円だったのが、例の戦争による煽りで100円に上がったばかりだったので僕の回答は嘘だ。だが、ここでその事を伝える事に大した意味はないと思う。
「代官山で働く予定の美容師さん、上手だったよ」
僕は先週の日曜日に切ったばかりの髪の毛先を指で軽く弾きながら、うどんを啜る母さんに感想を告げた。
「シャンプーの人も丁寧だったし、ブリーチをしてくれた女の人も手際が凄く良かった。あの人たちが回すのなら、代官山も人気店になるんじゃないかな」
「
「そうかな? 僕はオシャレで結構気に入ってるんだけど」
「風呂あがりのブローも適当で親が指定したヘアスタイルにカットされても文句ひとつ言わない
うどんを啜りながらも厳しい言葉でそう語る母さん。だがその実、笑うのを堪えているのは長年子どもやって来ているから分かっていた。そして、なぜ笑いを堪えているかも。
「ごめん、励ますの上手く無いんだ」
「充分上手よ。おかげで吹っ切れたもの。代官山の出店は税理士や周りがなんと言おうと予定通りオープンさせるわ。コロナウィルスが何よ! 」
どうやら母さんの機嫌が悪かったのは楽しみにしていた代官山店のオープンの件で周りと揉めたのが原因のようだ。
「白だしのおうどん、美味しかったわ」
ありがとうと言う意味なのだろう。母さんが僕に向かい再び笑いかけて来た。
「お風呂入って来ちゃいないよ。洗い物はしておくらさ」
「そうさせて貰うわ。ワインは出したままで良いいから」
そう言いながらリビングのドアに手を掛けた母さんが何かを思い出したようにふと立ち止まり僕を見つめた。
「理、また背が延びたわね」
「そうかな? 自分じゃ分からないけど」
「絶対に伸びたわよ・・・・・・ それとひとつ注意しておくわ。あなた、さっきみたいに無意識の内に女性を口説き落とすクセがあるみたいだから気をつけなきゃダメよ。女って男程じゃないけど勘違いしやすい生き物だから」
この前の身体測定で確かに1センチ程伸びてはいたが、バスケを中学で辞めてしまっている僕に身長はもう関係がない。ついでに言えば女性を口説き落とした事など身に覚えがない。
「よく分からないけど、母さんが元気になったのなら、僕はそれで良いんだ」
僕の返事に母さんは困ったように笑っていた。
「そういう所よ。まったく」
怒られたのか褒められたのかよく分からないけど、何故だか上機嫌になった母さんはさっきまでテレビで小田原の高校生たちが合唱していたどこがで聞いた覚えのある歌を口ずさみながらお風呂場へと行ってしまった。
「いけね。食洗機の事を伝えるの忘れた! 」
母さんが
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