第3話 避妊
姉さんとの会話に触発された訳では無いが、僕は風呂がら上がると何となく英語のテキストを開いて自動詞の例文を幾つか書き出していた。
He plays tennis.
I became a teacher.
She looks happy.
彼はテニスをする。
私は先生になった。
彼女は幸せそうに見える。
和訳をしてみたが、今後の人生で自分が使う事ないだろうと思える言葉ばかりで少し笑ってしまった。特に根拠は無いが後数年もすれば英語にしろハングルにしろ勉強などしなくても、外国人と話す時にはSiriあたりが自動で通訳してくれるだろうから、あまり外国語に勤しんでも意味が無いと思ってしまう。
タダでさえ無い集中力が切れた僕は父さんからメールが届いていた事を思い出し、ベッドの上に転がしておいたスマホをタップした。
“今電話していいか”
句読点もクエスチョンマークも使わられていないので分かりづらいが、どうやら父さんは僕に電話をしたいらしい。
メールの上っ面だけで読み取れば、年頃の息子に電話する前の配慮ある父の事前許可とも取れるが、あの父さんに関して言えばそれは100パーセントない。
“母さんと姉さんが側にいないなら電話で話がしたい”
僕は頭の中であの8文字足らずの父さんからのメールを正しく翻訳し直し、スマホの連絡先の欄から『父さん』を選びタップする。
「
どうしたと聞きたいのはコチラだったけど、電話口からジャズっぼい音楽と数人の声が聞こえて来る所から推測するに父さんはバーかクラブにいるのだろう。僕は自分の頭の中にある対父さん用の翻訳アプリを起動させた。
「いや、たまには声でも聞いておこうと思ってさ。父さんは変わりない? 」
「元気にやってる」
「それは何よりだね」
「うむ」
本来、おしゃべりの父さんが口数が少なかったので、僕は口が滑らかになる呪文を唱える事にした。
「最近、コロナウィルス絡みでドラマとか制作が難しいって聞くけど、役者の仕事の方は順調? ちなみに僕は今、部屋でひとりで寛いでいる最中だから」
詠唱を破棄しても良かったが、不自然にならないよう敢えて長い前置きを加え、僕は周りに母さんや姉さんがいない事を呪文のようにして教えた。
「オレみたいなベテランになるとギャラも張るから最近はTVの出演なんかを遠慮してたんだが、それでも頼られてバラエティなんかに呼ばれてな。それなりに忙しかった。そうそう、さっき来年の夏から始まる武士山テレビのドラマに出演が決まったぞ」
父の芝居掛かった言葉の終わりと共に、周りからホステスだかキャバ嬢だかの嬌声が聞こえた。おそらくは来年出演が決まったとか言っていた番組の打ち合わせの後、飲みにでも繰り出したのだろう。ウィルス騒ぎなどどこ吹く風なのが実に父さんらしい。
「父さんは人格者だからね。頼られるのは分かる気がするな。それに父さんは芝居をしている時が1番輝いているし」
「バラエティも悪くはないんだが、俺の本職は俳優だからな」
どうやら父は得意分野であるドラマや映画がコロナウィルスのせいであまり制作されなくなったのと広告収入がネットへと流れ、経費削減を叫ぶテレビ局に呼ばれなくなり、何とかバラエティに出演し食い繋ぎつつ、新しいオファーを待っていたらしい。
「用事はなに? 」
父さんの言葉の翻訳にそろそろ飽きてきた僕は端的に尋ねた。
「いやな、理は今、高校3年生だろ? 高校3年と言えば進学や就職の時期だ。のんびり屋のお前と言えど、思い悩んでるんじゃないかと思ってな。芸能会やテレビ局に興味があるのなら、俺の口利きでどうにでもなるから力になろうと思ってな」
一緒に住んでいないとは言え、実の息子の年齢をひとつ間違えてるのが父さんらしく少し嬉しかった。それに嘘もついているのもバレバレだ。声のトーンで分かる。おそらく父さんの目線は嘘をつく時のクセで僅かに上を向いているだろう。
「僕に父さんのような人を魅了するお芝居の才能は無いよ」
「そんなもの後からついてくる。だいたいお前は喋りは苦手かも知れんが。俺の血を引いてるからか、上背はあるし顔の作りだって整っている。それは立派な才能なんだぞ」
少し前にどこかで聞いた覚えのある台詞をリピートされた。もっとも父さんの場合は姉さんと違い僕をおだてるのが狙いではなく、威厳ある父親である事を周りにいる女性に示したいだけだと思う。
「僕は人前で何かを披露する事に向いてないって意味なんだ。父さん」
僕は姉さんに伝えた言葉をリピートし話を終わらせようと試みる。時間的にも母さんが帰って来る頃だから、いつものように夕食時の話し相手をしなければいけないし、夜のうちに洗濯機を回し終わらせ、部屋に陰干ししておきたい。そうすれば朝、ベランダに洗濯物を出すだけで済むし、今の時期でも洗濯物がかなり乾く。
「お前、ヒニンはしてるだろうな」
少しの間の後、父さんから出た唐突な言葉。電話口から再び嬌声が聞こえたが、声のトーンからこれが今日、僕に話したかった本題なのは分かった。
当然、ヒニンは否認ではなく避妊なのだろう。
「してるよ。一応」
ファーストキスすら今日済ませたばかりの僕は取り敢えず、女の子を身籠らせるような事はしていない。おとぎ話のように女の子とキスすればキャベツ畑だかライ麦畑にコウノトリが赤ちゃんを運んでくるのなら話は別だけど。
「そうか。それなら安心だ。女性は真綿のように繊細だから大切にするんだぞ」
結婚を3回、離婚を2回している父さんが女性を大切にしているかはと言えば、かなり微妙な気がした。それは避妊に関しても同様で母さんと入籍した時に既に姉さんは生まれていたと聞いているし、顔すら見た事ないが父さんには前の奥さんとの間にも僕から見れば腹違いの兄にあたる人がいたはずだ。
「よく覚えておくよ。でも、突然なんで避妊しているかなんて聞くのさ」
「横浜の高校の風紀が酷く乱れているって、噂を聞いてな。ほれ、お前、横浜の何たら台高校って所に通ってるだろ? 」
「庚台高校」
「そう、そこの高校の名前もあがってたから気になってな」
偏差値は真ん中より若干下、部活動では数年に一度、ラッキーが重なり県予選の準々決勝までいったりしてしまう。そんな努力の積み重ねをしなくても文武共にそれなりに
「確かに多少荒っぽいヤツもいるけど、それでも父さんたちが学生だった時みたいに、校舎の窓を夜壊して回るヤツとか、バイクを盗んで走りだすはヤツはいないよ」
「ソッチ方面に乱れるなら俺は応援したいくらいだ」
不法侵入に器物破損、窃盗に無免許運転を応援するのはどうかと思ったが、おそらくは僕が父さんの年代の琴線に触れるフレーズを織り交ぜたのがいけなかったのだろう。だが、今はそんな事より父さんが仕入れたウチの高校の噂についての確認をしておきたい。
「父さんは庚台高校の風紀がアッチでもコッチでもなく、いわゆるソッチ方面であるエッチに乱れているって、噂を知り合いの人から聞いたから、僕を心配してくれたんだね」
「そうだ。お前は察しが良くて助かる」
たぶん、父さんは本能的に自分のDNAを受け継ぐ僕が女の子にだらしがないのを察し、話をしたかったのだろう。まだ女の子と付き合った経験すら無いが、僕が女の子にだらしがないのは当たっている気がした。
「心配してくれてありがとう。申し訳ないけど、そろそろ勉強しなきゃいけないから切るね」
「おおっ! そうか。勉強は学生の本分だ! しっかりやるんだぞ」
「うん」
僕が最後にもう一言、父さんをおだてる言葉を言おうとする前に電話は切れてしまった。
通話が切れる寸前に聞こえてきた女性たちの父さんをおだてる嬌声。
父さんとの会話で目的語が何で自動詞が何なのかはスッカリ忘れてしまったが、僕はとりあえず自分が将来呟きそうな言葉を英訳し、母さんの夕食のお供と洗濯機を回す為、自室を出た。
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