第2話 メール

 玄関のドアを開けるとリビングからテレビの音が聞こえてきた。下駄箱に入れてない女性物のローファーが向きを揃えず転がっている所を見ると姉さんが仕事から帰って来ているらしい。


 洗面所で手洗いとうがいを済ませ、リビングを覗くと姉さんがシーザーサラダにフォークを突き立てながら、誰かが不倫したと言うどうでも良い話題を大袈裟に告げるワイドショーを眺めていた。


「姉さんただいま。また、父さんが不倫でもしたの? 」

「あの人の不倫ならもっと大騒ぎになってるわよ。今回は政治家。衆議院議員のオッサンだって」

「なんだ父さんなら面白かったのに」

おさむ、アンタその冗談お母さんの前で絶対に言わないでよ」

「分かってるよ」

 3年ほど前、母さんと姉さん、そして僕を置いて若い舞台女優の元に行ってしまった父さんは、そこそこ有名な俳優だ。顔は1年程前に合わせたきりだが、ネットや雑誌でたまに名前を見るので、おそらくはまだ元気なのだろう。


「夕食、冷蔵庫の中にラザニアが入ってるから。足りなければ杏仁豆腐もあるわ」

 姉の言葉に従い、大きいが殆ど冷凍食品しか入っていない冷蔵庫を開けて、コンビニ製のラザニアと杏仁豆腐をお盆に乗せる。


「姉さん、麦茶飲むなら入れるけど」

「ビールがいいわ。黒いやつ」

 美容師の資格をとり、母の店舗のひとつであるみなとみらい店の副店長になってから姉さんはやたらとアルコールを飲むようになっていた。20才を過ぎているので、特に文句は無いがあんなモノのどこが美味いのか僕にはよく分からない。


 リビングテーブルに姉と斜向かいになるように腰掛けつつ、黒い缶ビールをテーブルの上に置いた。

「くぅぅ、やっぱ仕事の後のビールは最高ね」

 プルトップを引く音と共に聞こえてきた姉さんの声。


「仕事、大変みたいだね」

「こんなご時世だもん。そりゃあ大変よ。やれ消毒だ、検温だ、クラスターだのってイヤになる事ばかりよ。アルコールや使い捨てマスクのコストだって馬鹿にならないし」

 僕としては辣腕らつわん経営者であり、美容師としても腕が良いと聞く母さんと、大河で主演まで務めた父さんの影を絶えず背負って接客業をしなければならない比喩のつもりだった。姉さんはたぶん、それを理解したうえで敢えて経営方面の会話を返して来た。


 テレビのワイドショーは相変わらず衆議院議員のおっさんの不倫騒動をけたたましく報じ続けいる。どうやら事務所の費用も不正流用していた疑いがあるらしい。


おさむ、進学はどうするの? 」

 一本目のビールが底を突いたのか、姉さんが詰問と共にテーブルに置いた黒い缶が乾いた音を立てた。

「まだ、先の話だよ」

 僕は睨むような視線を躱しつつ、席を立ち冷蔵庫から冷えた新しいビールを取り出し、テーブルの上に置く。


「まだ先って、アンタもう高2でしょ? お母さんのお店を手伝うなら美容師の資格取らなきゃいけないのよ」

「姉さんと違って僕は手先が絶望的に不器用だからなぁ」

 僕はかなり前から用意しておいた断り口上を告げる。引かれたプルトップから溢れ出した炭酸の音が無遠慮に響いた為か、広いリビングが少し息苦しい。


「そんなもの後からついて来るわよ。だいたい、アンタはお母さんの血を引いてるから手先は器用で料理も卒無そつなくこなすし、電球だって簡単に取り替えるじゃない。洗濯物だって一手に引き受けてくれるし」

 冷凍食品をチンする事と電球の付け替え程度が出来る事を器用と呼ぶのなら、日本人の大半を器用と呼ばなくてならない気がする。洗濯に至っては僕の数少ない趣味だし、その仕事の殆どを洗濯機とお日様がやっているのだから手先の器用さは全く関係がない。


「僕が言いたいのは美容とかオシャレとかは自分には似合わないって意味なんだよ。姉さん」

 何口目かのラザニアを噛み終えてから、僕はもうひとつ用意しておいた断り口上を告げた。


「仕事は似合う似合わないでするモンじゃないわ。今の美容師は腕が良いのは当たり前だけど、ビジュアルや会話のスキルも凄く大切なの。アンタは喋りは苦手かもしれないけど、背も高いし、見てくれもかなり良い部類だから、基本的なカットをマスターするだけで女性客が取れる。それってある意味凄い才能なのよ」

 16年も一緒に暮らしているので理解しているが姉さんは今、僕をおだててくれている。だが、姉さんの人格が分かっていない人が聞いたのなら、お客さんを馬鹿にしているし、僕に女たらしになれと言っているように聞こえるだろう。


 ラザニアと杏仁豆腐を食べ終わった僕は、既に空になっていた姉のシーザーサラダの皿とフォークをトレーに乗せ、台所へと運び丁寧に洗ってゆく。


「才能については良く分からないけど、将来については少し真面目に考えてみるよ」

「そうしなさいよ。お母さんを見てるから分かると思うけど、人生って、のんびりもしてなければ、甘いものでも無いんだから」

「うん」

 一応肯定代わりに頷いた答えたが、僕は当時も既婚者であった父さんと不倫までしたうえ結婚に至ったのに10年と少しで別れてしまった母さんの人生がどんなものかなんて分かっちゃいない。そして、たぶんこの先も分からない。


 洗い物を終え、近いうち食洗機を買う事を母に告げる事を決めた僕が顔を上げると姉さんはテレビに視線を移していた。胸のポケットに入れっぱだったスマホを何となく覗くとディスプレイにはメールの着信を告げる通知。


「風呂入って来るよ」

 姉さんに見えないようにスマホを胸のポケットから尻のポケットへと移した僕は洗い物で濡れた手をペーパータオルで拭いてゆく。

「蓋は開けっぱなしで良いわ。アンタが出たら私もぐに入るから。それと歯磨き粉が切れそうだから新しいヤツ出しといてくれる? 」

 テレビに顔を向けたままの頼み事。声のトーンからして、たぶん姉さんは不倫問題からロシアの大統領の経歴へと移ったワイドショーの内容とは全く関係ない事を考えている。


「例の歯を白くするヤツだよね。分かった出しておくよ。ついでに歯ブラシも新しいモノに変えておくから」

「アンタはあの人みたいにならないでよ」

 例え思っていなくても頷く事は出来るので、肯定くらいしてみようかと思ったが、僕は敢えて姉さんの言葉に対し返事をしなかった。女性が会話の3手くらい先を読んで投げかけて来た言葉の後は何が出るか分からない。それは今日、駅のホームで会った西野さんが教えてくれた。


「洗濯物はいつものように洗濯機に放り込んでおいてくれれば良いからさ」

 テレビに顔を向けたまま、乾杯をするように黒い缶ビールを軽く上にあげた姉さん。靴を揃えられないのと早合点しがちなのを除けば姉さんは美人だし、優しいので僕は特に文句はない。


「コロナウィルスに戦争に不倫、ワイドショーも報じなきゃならない事が多くて大変だね」

 僕はイヤミとも独り言とも取れる言葉を残しリビングを出た。


 さっき届いた気まぐれな父さんからメールの内容の確認は後回しにしても良いだろう。どうせ碌な内容じゃない。

 風呂に入るための着替えを取りに行く中、姉さんの口から『パパ』と言う言葉を聞いたのは、いつが最後だったろうと僕はそんな事を考えていた。



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