第43話 夏バカンス

 スイスラウンドで優勝して、ジュンはチームからご褒美にスイスでの2週間のバカンスをもらった。ジュリアもいっしょで、最初の1週間は岡崎ファミリーも同じホテルだった。

 次のレースは2ケ月後の8月半ば。ヨーロッパは7月から本格的なバカンスに入るので、その前にゆったりしようということだ。場所はインターラーケン近くのリゾート地であるグリンデルワルド。アイガーの東壁が見える部屋に1週間泊まる。岡崎ファミリーは階下の部屋で、時々亜美ちゃんの声が聞こえる。今年で3才。かわいいさかりで、岡崎さんは亜美ちゃんの前では、いつもしまりのない顔をしている。

 初日は、何の予定もいれず、アイガーを見ながら過ごした。亜美ちゃんは、チロル風の衣装でホテル裏の草原を走り回っていた。まるで、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の世界だ。岡崎さんはカメラをずっと回している。そこで岡崎夫人から

「明日は登山電車で、ユングフラウヨッホまで行くからね。8時半、駅に集合よ」

岡崎夫人はマネージャーにもどった感じだった。来週のホテルも予約してくれていた。

「最高のホテルよ」

と意味深な顔で付け加えてくれた。来週はジュンとジュリアだけだ。なんか思わせぶりな言い回しだった。

 翌日、5人で登山電車に乗った。頂上は、夏だというのに10度以下だというので、防寒着を前日のうちに用意していた。登山電車は、アイガーの壁の下をコトコト登っていく。草原の景色の向こうにごつい壁がせまっている。なかなかの景色だ。1時間ほどでクライネシャイデック駅についた。ここで、ユングフラウヨッホ駅に向かう登山電車に乗り換えだ。トンネルは100年前に造られたという。日本では明治時代だ。重機のない時代に手掘りで掘ったのだ。当時の人々の努力に脱帽。その分、料金もバカ高いが・・・無理もない。

 途中のトンネル駅で10分間の停止。多くの乗客が降りていく。ジュリアにうながされて、ジュンも降りた。少し行くと、大きなガラス窓があって、外の景色が見える。のぞくとグリンデルワルドの村が見える。ホテルから見ていた景色を逆から見ているということだ。この駅からアイガーの壁を登山する人もいるらしいが、ほぼ90度の絶壁だ。ジュンには信じられなかった。

 30分ほどで、ユングフラウヨッホ駅に着いた。トンネルの中の駅だ。ホームを出ると、日本のポストが置いてあった。富士山と提携しているとのこと。日本の観光客が多いからだろうか? しかし、ジュンたちが行った時は、日本人とはほとんど会うことはなく、アジア系の人はK国人かC国人ばかりだった。夏休み前だから無理もない。

 エレベーターで最高地点の3571mのところにある「トップ・オブ・ヨーロッパ」に立った。ユングフラウ(4158m)、メンヒ(4107m)、アイガー(3970m)といった名峰が眼前にそびえ立っている。そして、下を見ると大きなアレッチ氷河が広がっている。でも、岡崎夫人が

「5年前に来た時よりは、小さくなってるね。やはり温暖化なのかな?」

としみじみ言っていた。岡崎さんは、相変わらずカメラで亜美ちゃんを追っかけている。亜美ちゃんは、丸っこいサングラスをかけてポーズをとっている。

「あれ、レースのキャンギャルの真似なのよ」

という岡崎夫人の話に思わず吹き出してしまった。そこに、赤いドクターヘリがバリバリっと轟音を立てて飛び立っていった。ものすごい突風が吹いた。

「高山病かしらね。呼吸つらくない?」

と岡崎夫人から聞かれたが、呼吸よりも以前にベルギーGPで、ハインツがドクターヘリで運ばれたことを思い出していた。自分の仕事が生死と向かい合っていることを改めて感じていたのだ。

 その後、氷の宮殿であるアイスパレスの見学や、チューブでのそり遊びをして楽しんだ。レストランはどこも満員だったので、どうしようかと思っていたら、岡崎夫人が、

「クライネシャイデックまで降りましょう。そこのレストランなら空いているから」

ということで、早めに下山した。本来は指定の時間の電車に乗らなければならないのだが、昼時で電車はすいていたので、乗せてくれた。

 クライネシャイデックのレストランでは、山が見えるテラス席に陣取った。連なる名峰もきれいだったが、ユングフラウの中腹にある三角錐の山が素敵だった。岡崎夫人に聞いたら、

「シルバーホルンよ。全面が雪というよりも、氷に覆われている山よ」

料理は、ホワイトアスパラガスのハム巻き。クリームソースが美味だった。付け合わせのポテトがやわらかく、ほっかほっかでおいしい。

 食べてる途中に、観光客から

「 JUN ? Are you MotoGP champion ? 」

(ジュン? モトGPチャンピオンですか?)

と聞かれた。その声で多くの観光客が振り向いて、ジュンの写真を撮りだした。お店の人が制止し、中の個室の席に誘導されておさまったが、食べ終わると店のオーナーらしき人がサインを求めてきた。さすが、スイスGP初代チャンピオンだ。岡崎夫人が

「すっかり人気者ね。これからは街を歩くのも大変ね」

と話しかけてきた。ジュンが苦笑いをしていると、

「さて、運動不足解消のために、歩いて帰ろうか?」

と言い出した。岡崎夫人の突拍子のない提案に亜美ちゃんをのぞく全員が目を点にした。

「歩いて帰るんですか?」

とジュンが聞くと、

「ええ、4時間で帰れるよ。今日は天気もいいし、9時まで明るいから余裕よ」

4時間と聞いて、皆(亜美ちゃんをのぞく)、天をあおぐような顔をした。

「まあ、線路沿いを歩くから、疲れたら途中の駅で電車に乗ればいいけどね。亜美はお散歩いく?」

と亜美ちゃんにふると、ニコッとして

「行く~!」

とかわいらしく答えた。4時間山道を歩くつらさを知らないから、ママの言うことは絶対の亜美ちゃんなのだ。

「3才の子が行くんだから、まさかいやとは言わないよね」

岡崎夫人のNOとは言わせない圧力に、ジュンたちは仕方なく頷くしかなかった。

 最初の100mは、結構な下りだった。石ころがごろごろしていて、歩きにくかった。途中、MTBが追い抜いていったが、ジュンたちの前で石にひっかかって転倒している。駆け寄ろうとしたが、すぐに立ち上がって、また走りだしていった。岡崎夫人は冷たい言い方で、

「こっちの人は、あれぐらい慣れているんだよね。自己責任の国だから」

と言い放つ。亜美ちゃんは、岡崎さんとジュンに両手をつながれて、まるで月の上で浮遊しているかのような歩き方をしていたので、キャッキャッと喜んでいた。ジュリアは、その二人の様子を見て笑いをこらえながら歩いている。最初のカーブを抜けると道はゆるやかな下りになった。右にアイガーの壁がそびえ立っている。その時、

「ドドー!」

 と地響きが聞こえた。

「雪崩だ!」

 壁の中腹に2本の雪の川ができている。登山道までくる気配はなかった。登山鉄道の線路が土手の上にあるので、その下で止まってようだ。初めて見る雪崩だ。岡崎夫人が、

「春先だと結構見られるけれど、6月の雪崩は珍しいかな」

 とヨーロッパ通の岡崎夫人の独壇場だ。さすが、ドイツ留学経験者。

 途中、湿地帯に咲く黄色の花の群生や、青いリンドウの花がきれいだった。ふだん花を愛でる習慣のないジュンだが、ジュリアがその度に歓声を上げているので、ジュリアが可愛く見えた。

 1時間ほどで、踏切を越えた。2本の線路の中間にアプト式の線路がある。ギヤをかむようにして電車がすすむ。これで、急な坂も上っていけるのだ。昔の人の知恵がすごい。踏切を過ぎると、登山電車が登っていった。かわいらしい車両だ。そこから30分ほどで駅が見えた。その時、ジュリアが

「 I am tired . My legs are likes steel . 」

(疲れた~。足が鉄みたい)

 素っ頓狂な声に皆が笑った。岡崎夫人は、

「仕方ないわね。電車で降りようか」

 と女神の決断をした。すると、そこに下りの電車がやってきた。駅までダッシュとなった。ジュンはジュリアの手を引いて、頑張って走った。心の中では、

(ジュリアありがとう。よくぞ言ってくれた)

 と感謝していた。ジュンが疲れたと言っても、一蹴されるだけなのは目に見えていた。

 ホテルにもどって、足を伸ばすことができ、夕食まで一休みだ。

 翌日は、パターゴルフを楽しみ、ゴンドラでアイガーの反対側のシュレックフェルドへ行った。眼下にグリンデルワルドの村が見え、遠くにはアイガーが見える、なかなかの景色だ。

 4日目は、岡崎夫人から

「ボンドワールドに行こう」

 と誘われた。岡崎夫人の誘いは、ちょっと要注意だが、ロープウェイで行き、シルトホルンというところの回転レストランで食事をしようというものだった。

 レンタカーで30分ほどで、ラウターブルンネンの村へ着いた。そこには、巨大な滝があった。近づいてみると、不思議なことに滝壺がない。変な顔をしていると、岡崎夫人が

「高さが300mほどあって、途中で霧状になるの。だから滝壺ができない。もちろん岩盤だからできにくいということもあるけどね」

 ロープウェイを3本乗り継ぎ、シルトホルンに着いた。途中は霧の中だったが、シルトホルンの上は青空だった。2970mの標高は、アルプスの中ではそれほど高くはないが、独立峰なので見応えがあった。

 ここは、映画「女王陛下の007」のロケ地でショーン・コネリー扮するジェームズ・ボンドが活躍する舞台だった。映画で使われたセットや小道具が展示されていて、007の映画が好きな人にはたまらないところだ。

 11時になって、回転レストランがオープンした。窓側の席は、1時間かけて1周する。あいにくの天気で雲海しか見えないが、それもひとつの経験だ。料理の種類は豊富だ。フリードリンクでシャンパンもある。帰りは、ジュンが運転することになっていたので、アルコールは控えた。岡崎夫人とジュリアはシャンパンを飲んで盛り上がっている。岡崎さんは相変わらず亜美ちゃんの相手だ。

 帰りの途中駅で、岡崎夫人が

「この霧の天気では無理ね。残念」

 と言っていた。駅のポスターを見ると、絶壁を横切る回廊がある。一人しか歩けない幅で、高さ300mほどのところを歩くのだ。天気が悪くて助かったと思った。ジュンは高所恐怖症だった。スピードは怖くないのだが・・・。

 帰りの運転は、最新のベンツだ。左ハンドルには慣れているつもりだが、ATの扱いやナビの操作が難しかった。操作ガイドはドイツ語だ。ジュリアが英語に訳してくれたが、結局ジュリアの言いなりになってしまった。岡崎夫人が、

「来週、ツェルマットに行く時は、同じタイプになると思うから慣れていた方がいいよ」

 とアドバイスしてくれた。

 残り2日は、グリンデルワルドからバスに乗ったり、近くをハイキングして過ごした。天候に恵まれ、ゆったり過ごせた。

 最終日、インターラーケン行きの電車に乗る岡崎ファミリーを見送って、レンタカー会社で車を借りた。やはり、この前のベンツだった。ツェルマットに行く道は、峠越えをすれば6時間かかるが、トンネルを抜けるカートレインに乗ると3時間で行ける。ジュンは以前に見た古い映画で、このカートレインのシーンがあって、一度乗ってみたいと思っていた。30分ほどでカートレイン乗り場に着いた。ゲートで料金を払い、カートレインに乗り込む列に並んだ。バスまで並んでいる。10両ほどの貨物列車がやってきて、最後尾の車両に乗り込むための鉄板がしかれた。広さがあるので、それほど運転は厳しくない。貨物車の所定の場所に着くと、エンジンを停め、サイドブレーキをかけた。係員が確認にやってきた。

 列車が動きだすと、10分ほどはスイスらしい緑の草原の中を走る。突然、トンネルに入った。そのとたん、コールタールの臭いが立ちこめてきて、開けていた窓をしめた。途中で工事をしていたので、その臭いのようだ。30分ほどで、トンネルを越えた。また緑の草原地帯だ。トンネルは、照明もなく、何もない暗闇だ。エンジンを停止しているので、エアコンが使えない。決して快適とはいえないが、山越えの時間短縮には効果的だと思った。霧の中の峠越えを考えたら、絶対カートレインの方がいい。

 ツェルマットのひとつ手前の駅、テッシュには3時間で着いた。ここのレンタカー営業所にベンツを返す。1日で1万円ほど。ヨーロッパのレンタカーは安い。

 登山電車に乗り換えて、ゴルナーグラートという展望台のある駅に向かった。天気はあいにくの雨模様で、高所なので駅からホテルまでの100mがつらかった。チェックインをすると、ジュニアスィートの部屋に案内された。ツィンベッドの部屋だ。天気がよければ、マッターホルンが見える。小ぎれいな部屋で、シャワー付き。山の上にあるのに、部屋にシャワーがあるのはうれしい。その日は、運転の緊張疲れがあったので、早めに寝た。

 翌朝、カーテンをオープンにしていたら、少しずつ明るくなり、4時に目を覚ましてしまった。窓を見ると、山が燃えている! いや、山に朝陽があたって赤く見えているのだ。神々しい姿だ。ジュンは、すぐにジュリアを起こした。ジュリアは寝ぼけながら、ジュンのそばにやってきて、

「 Wao ! Fantastic ! Bravo ! Bono ! 」

(ワー! すごい! すごい! すごい!)

といろいろな言語で騒いでいる。話に聞いていたマッターホルンのモルゲンロートを間近に見ることができたのだ。15分ほどで、赤はシルバーに変わった。荘厳な景色だ。

「岡崎夫人の言ったことは、このことだったんだな」

とジュンは初めて岡崎夫人に感謝の念をもった。ふだんは高飛車な言い方で、言い負かされることが多いからだ。ジュリアは、うるうるした目付きで、ジュンにくっついていた。ジュンがジュリアを見ると、目を閉じている。ジュンのキスを待っている。ジュンは、レースカーテンを閉めて、ジュリアを抱き寄せた。

「 Doesn't a dad get angry ? 」

(パパがおこるんじゃないの?)

「 No problem . He said Jun is nice guy by last time's victory . It was being praised . I think he won't oppose any more . 」

(大丈夫。この前の優勝で、ジュンはすごい奴だ。と誉めていた。もう反対はしないと思う)

 しばらく見つめ合って、ジュンとジュリアは口づけをした。その後、ベッドに入り、二人はいっしょになった。その日は、夕方まで食事もせずに、ずっとベッドで横たわっていた。ジュンは、あらたな責任を感じていた。愛する人のために生きると、心から思っていた。


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