第10話 Moto3に挑戦 ジュン19才 オーストラリア

 2月に契約で渡欧すると、想定外のことが起きた。チームが変わったのである。シュナイダー監督のチームではなく、ハインツのいるチームにジュンは入ることになった。ハインツのチームメイトがステップアップしていったので、ライダーを探していたということもあるが、どうやら日本人ライダーの佐伯が同じチームに日本人がくることを嫌がったということらしい。KT社にとっては年間5位というポイントを稼いでいる佐伯は大事な存在で、その意向は無視できないらしい。どうやらMOTEGIでのジュンの走りを見て、佐伯は脅威に感じたらしい。佐伯がリタイアしたのは、他車の転倒に巻き込まれたので、それ自体はマイナス要素ではなかったのだが、その後に見たジュンの走りに佐伯は驚いていたようだ。と、その場にいたメカの岡崎さんが言っていた。

 3月末、ジュンはオーストラリアのメルボルン近郊フィリップアイランドにいた、ヨーロッパではないので、キャンピングカーはない。ジュンはメルボルンのホテルとサーキットを行き来していた。

 チーム監督やスタッフはサーキット近くの民家を借り上げて通っていた。ハインツもそこに入っていた。ジュンは新人なので、定員オーバーでホテル住まいになったのである。もっとも、チームスタッフと一緒でも英語が分からないので、孤独感にとらわれただろう。と思っていた。ホテルからは片道1時間半ほどかかるので、その車中は英会話のレッスン場となっていた。指導者は、岡崎夫人である。レースに向けて集中したいところだが、契約条項に「英語の習得」があり、チーム内で使う最低限の会話を習得することが迫られていた。

 木曜日は合同テストだ。初めてのコースなので、ハインツの後ろについて走ることになった。サーキットは日本にはないタイプの高速サーキットだ。ふたつのヘアピンカーブがあるが、左コーナー主体のうねりのあるコースだ。日本のコースは右コーナーが主体なので、コースレイアウトを覚えるのに一苦労していた。その上、海沿いにあり、海からの風を感じやすい。時には、カモメとぶつかるバードストライクもあると聞いた。ジュンは高速コースが好きなので、おもしろいコースと思っていた。

 走行前、メカの岡崎さんから

「注意する場所は、二つのヘアピン。数少ない右コーナーなので滑りやすい。それと最終コーナー。カウンターをあてて走り抜けるライダーが多い。コースのアウト側にタイヤマーブル(カス)が溜まりやすいので、そこに乗るとタイムロスになる。後は体で覚えろ」

と言われた。

 最初の10周ほどは、ハインツはジュンを気にして走ってくれた。初めのピットインでタイヤのチェックをした。やはりタイヤの状態をチェックした。やはりタイヤの左サイドだけが異様に減っていた。右コーナーで滑りやすいというのは、タイヤのバランスが悪いということなのだろう。

 次にピットアウトする時、ハインツから

「Next time , I try attack . 」

(次はアタックするぞ)

と言われた。ジュンはアタックだけが聞きとれた。本気で走るということはすぐに分かったので、ジュンもそのつもりでついていった。最初のヘアピンまでは何とかくらいついていった。でも、そこからは離された。加速がまるで違う。みるみるうちに離されていき、ジュンが最終コーナーに入るころには、ハインツはストレートに入っていった。ハインツについていくのは諦め、ピットアウトしてきたマシンについていくことにした。ちょうど佐伯が出てきていた。同じマシンだ。佐伯はまだタイヤが温まっていないらしく、そんなにスピードアップしていなかった。ジュンは楽についていけた。そのうちに、ジュンが後ろについていることに佐伯が気付いたのだろう。2周目からは本気で走り出した。ところが、最初のホンダヘアピンで佐伯のリアタイヤが滑り、コースアウトしていった。ジュンを意識しすぎて早くアクセルをあけてしまったのだろう。岡崎の言うヘアピンの怖さをジュンは目の前で見てしまった。

 ピットに戻ってきて、チーム監督のジムから

「How is machine condition ? 」

(マシンの調子は?)

と聞かれた。ジュンはコンディションという言葉を聞きとれたので、

「Good 」

と答えた。するとジムが

「How feeling of tire ?」

(タイヤの調子は?)

と重ねて聞いてきた。タイアと聞こえたので、

「No I'm not tired . 」

(いえ、疲れていない)

と答えたら、ジムに笑われた。その会話を聞いていた岡崎さんから岡崎夫人に話が伝わり、後で怒られたジュンであった。

 ピット裏のテントで、ハインツが若い女性と話をしていた。ジュンが

「 Hello ! 」

と挨拶をすると、

「 Nice to meet you . My name is Julia . Haintz is my brother . Are you Jun ?

 My brother said " He is challenger . " I like challenging style . Be to friend .」

(はじめまして、わたしの名前はジュリアです。ハインツは私の兄です。あなたは、ジュンですね。兄は(彼はチャレンジャーだ)と言っていました。私はチャレンジする乗り方が好きです。友だちになりましょう)

と、ドイツ語なまりの英語でぺらぺら言われた。ジュンはライクだけが聞き取れ、少しびっくりしたが、そこにいた岡崎夫人が通訳してくれたら、ごく普通の挨拶だということがわかり、少し恥ずかしくなった。岡崎夫人から

「ほら、英会話の実習、自分の紹介をしてごらん」

と言われ、ジュンはたどたどしく話し始めた。

「 Nice to meet you . My name is Jun . I am nineteen years old . 」

(はじめまして、私の名前はジュンです。19才です)

と言ったら、

「 Oh ! nineteen ! me too . 」

(私もよ)

とジュリアが言ってきた。とても同い年に見えないぐらい大人びて見えた。姉の景子より年上に見えた。その時は、ジュリアが微笑んで終わった。でも、ジュンにとっては、生涯で初めて他人の女性と会話をした気がした。

 ホテルまでの帰路、車中で岡崎夫人に次のように言われた。

「英語を覚える早道は、ガールフレンドを作ることよ。ジュリアはいいんじゃない?」

「ジュリアさんは、チームスタッフなんですか?」

「大学2年生って言っていたわよ。今、休みで来ているんだって」

「そうなんですか」

「ジュリアに興味あり・・・・?」

「そんな、オレにとってはレースが大事です」

「別にいいのよ。ずっとレースをやっているわけじゃないし、英語も覚えられるし・・・」

その日の夜、ジュリアのことが気になるジュンであった。


 金曜日、練習走行日。ピット裏のテントに入ると、ジュリアがいてコーヒーを入れてくれた。ジュンは軽い挨拶だけをして、ピットに入った。ジュリアは手を振って声援をおくってくれた。1時間ずつ2回の練習走行。ジュンは他のライダーの走りを盗むことに精をだした。特にヘアピンからの立ち上がり方を比較して見た。ハインツがやはり上手くて、アクセルをなるべく戻さないで、立ち上がっていく。秀逸の走りだった。午後の練習走行を終えて、ハインツは3番手のタイムを出していた。ジュンは9番手だった。タイム差は0.8秒差。トップから1秒以内に10台がひしめきあっていた。

 走り終わって、ピット裏に戻ってくるとジュリアがいて、何かと声をかけてきた。岡崎夫人は、少し離れてその様子を見ている。ジュンはたどたどしく答えていたが、時々日本語で答える場面もあった。そうすると、ジュリアは顔を寄せてきて、

「 What did you say ? 」

(なんと言ったの?)

と聞いてくるので、ジュンはどきどきしていた。岡崎夫人は笑いをこらえきれなかった。帰りの車中で岡崎夫人がまた言ってきた。

「ジュリアとなかなかいい雰囲気だったじゃない?」

「つらいっすよ。もっとゆっくり言ってほしい」

「その時は、More slowly , please . と言えばいいのよ。でも、聞き取る能力をつけるには、あのスピードがいいのよ」

「そんなもんすか?」

レースよりジュリアとの会話の方が大変だと思うジュンであった。


 土曜日、ウォームアップと予選。予選結果はハインツが3位の1分37秒5。コースレコードに0.5 秒足りなかった。トップはH社の鈴木。コースレコードの1分37秒1を出した。ジュンは予選6位。1分37秒9。昨日よりいいタイムを出せた。佐伯は予選5位だった。ベスト10にKT社のマシンが4台入っており、チーム監督は上々の出だしと上機嫌だった。ピット裏に戻ってくると、ジュリアが

「 Jun good job 」

と言って、抱きついてきた。ヨーロッパの人間はハグが当たり前だが、ジュンは若い女性にハグされるのは初めてだった。顔が真っ赤になった。それを見た岡崎夫人はげらげら笑っていた。


 日曜日、天候は晴れ。でも、風は強い。決勝は午後2時なので、ゆったりと昼食をとる時間があった。メインのMotoGP は午後4時からだ。TV放送の関係だと聞いた。この時間、ヨーロッパは日曜の朝8時なのだ。Moto2 とMoto3 は録画で、その後に放送されるということだった。日本にはCSで生中継されている。父親と姉の景子はTVの前で見ているのだろうか? 母親はきっと台所でヒヤヒヤしているのだろうな。とジュンは思っていた。ただ、食事中、ジュリアがやたらと食べさせようとくるので、少し煩わしかった。レース前には、あまり多く食べたくなかった。でも、ハインツはふつうに食べている。このあたりが、ヨーロッパの人間の図太さと日本人の繊細さの違いなのかと思った。すると、ジュリアと岡崎夫人が話をしているのが見えた。その話が終わると岡崎夫人が近寄ってきて、

「ジュリアが心配していたよ。ジュンは具合悪いのか?って」

「そんなことないですよ。決勝日の昼食はいつも食べないようにしているんで・・」

「だよね。だからジュリアには、ジュンはナーバスだからって言っておいた。どうやらジュリアはあなたに気があるみたいよ」

「エッ!・・・」

ジュンは驚いた顔をして、ジュリアの顔を見た。すると、ジュリアは微笑みを返してくれた。女の子に思われるなんて、初めてのことだった。今までマシンが恋人みたいな感じでいて、いつも傍らには姉の景子がきた。だから他の女の子は寄ってこなかった。免疫ゼロのジュンであった。

 決勝のグリッドについた。ジュンの心臓は今までにないくらいドキドキしている。いわば、未知の世界への挑戦なのだ。シグナルがブラックアウト。一瞬クラッチミートが遅れた。うしろの列のマシンが横に並ぶ。幸いなことにジュンはアウトコースなので、集団に巻き込まれずにすんだ。大きめのラインで第1コーナーをまわる。まだタイヤが温まっていないので、無理はしない。後続の集団で何台か転倒しているようだった。Moto3 では、スタート直後のアクシデントはつきものである。日本みたいに様子見をするライダーは皆無に近い。皆、イケイケなのである。中にはジュンより若いライダーもいる。ちょっとでもスキを見せると抜きにかかってくる。

 ハインツいわく、

「 Riders of moto3 are very crazy . Be careful . 」

(モト3のライダーはとてもクレージーだ。気をつけろよ)

それを聞いた時は、何を気をつければいいのか分からなかったが、この数日で少し分かったような気がした。

 ヘアピンを無事に通過し、後半の最終コーナー。ここが勝負のしどころだ。ここでスピードを上げないとストレートで抜かれてしまう。サインボードは見ることができなかった。混戦なので、他のチームのサインボードがたくさん出ていて、自分のボードが分からなかった。ましてや、次は右の高速ターンだ。左にあるボードをいつまでも見ているわけにはいかない。一瞬で見る必要があった。今、何位にいるかよりも、まずは前のマシンについていくことが大事だった。

 2周目のホンダヘアピンで前のマシンが1台転倒していた。練習走行で佐伯が転倒していたところだ。まだタイヤが温まっていなかったのだろう。

 3周目、シベリアコーナーといわれる第6コーナーで、後ろからの風をジュンは感じた。苦手な追い風だ。ブレーキの感覚がいつもと違う。下手をすると前のマシンにぶつかるか、コースアウトだ。

 4周目、今度はコースのハイポイントで左コーナーになる第9コーナーでカモメと併走してしまった。ここは上って、下るというブラインドコーナーで、前でアクシデントがあったら巻き込まれるところだ。でも、ペースを緩めることなく、皆攻めていく。ここで攻めなければ勝てないのである。急に視界にカモメが入ってきた時は、ドキッとした。

 5周目から10周目までは、前方でめまぐるしく順位が変わっていた。ジュンは集団の後方で、その争いを見ていた。

 11周目、やっとサインボードを見ることができた。「P9」だ。9位なら、トップとは1秒差ぐらいか、まだあきらめる距離ではない。だが、まだレースの中盤。全日本なら終盤の距離だ。4448mの距離を23周もするのである。体力の必要性を感じたジュンであった。

 12周目、ハイポイントの第9コーナーを過ぎたところで、前方の1台がコースアウトしていた。これで8位になったが、何がおきたかは分からなかった。ストレートにもどると、ボードに「BIRD」と出ていた。もしかしたら、カモメにぶつかったのかもしれない。

 13周目、シベリアコーナーで2台がコースアウトしていた。どうやらぶつかったみたいだ。これで6位。

 14周目、トップが見えてきた。ハインツは2位につけている。ジュンの前は佐伯だ。同じKT社のマシン。相手にとっては不足はない。ジュンはヘアピンで佐伯の後ろに追いつき、彼のラインを追っかけた。佐伯は嫌がって、ラインをやたらと変えている。

 15周目、最終コーナーにタイヤマーブルが見え始めた。暑さのせいで、タイヤがへたってきている。ジュンたちKT社のマシンはハードタイヤを選択している。後半勝負と見ていたからである。H社のマシンはミディアムを選択していたチームもあった。この暑さでは後半もたないだろうとジュンは思っていた。

 16周目、サインボードを見ると、「KEEP」と出ている。KT社同士でぶつかってはたまらないとチームは考えたのだろう。ジュンも残り3周が勝負と思い、佐伯のペースに合わせて走った。

 17周目から20周目は、トップ集団に変化はなかった。

 21周目、最終コーナーでアクシデントが起きた。トップのマシンが高速コーナーでハイサイドを起こし転倒していた。タイヤがたれてきたのかもしれない。ハインツがトップに出た。ジュンは5位に上がった。

 22周目、トップ争いがすごい。抜きつ抜かれつを繰り返している。ハインツと争っているのは、ポールポジションをとったH社の鈴木だ。コースレコードを出したのに、前半はトップに出ず、タイヤを温存していたのである。ジュンはこの周ミスをした。第6コーナーのシベリアコーナーでブレーキミスをしたのだ。ブレーキをかけたのに、スピードが落ちない。追い風を感じた。すると前を走っていた佐伯のマシンに接触しかねないほど近づいてしまった。危うく押し出すところだった。S字カーブで佐伯が後ろを振り向き、ジュンをにらんでいることが分かった。そこにカモメがスーッと飛んできた。佐伯は後ろを見ていたので、カモメに気付いていない。振り返った瞬間にカモメがヘルメットにぶつかった。バードストライクだ。佐伯のラインが急に変わる。立て直すためにカウンターをあてていた。その脇をジュンが走り抜けた。4位に上がった。

 23周目、ファイナルラップだ。トップの3台がラインを交差させながらコーナーを攻めている。ジュンは10mほど離されている。最後のヘアピンを抜けて、1位はH社のウィリアム、2位はハインツ、3位は鈴木の順番だ。最終コーナー勝負。ハインツはインに入り、得意のドリフトをしている。ウィリアムがアウトに膨らんでいる。そこにライン重視できた鈴木がインを駆け抜けていった。ウィリアムはタイヤマーブルにのって、滑っていった。ハインツが目いっぱいアクセルをあけて、鈴木を追ったが、ジュンはどちらが勝ったか分からなかった。だが、ジュンは3位に入ったのである。表彰台に上がることになったが、複雑な心境だった。今回の表彰台は相手のミスで得たものだ。自分のテクニックで抜いたマシンは1台もなかった。転倒しないで走るということだけでも凄いことなのかもしれないが、それだけレベルが違うということだし、MOTEGIの90度コーナーのように自分の武器となるコーナーも無かったである。自分がしたのは、前を走るマシン、特に佐伯の走りを追いかけるだけだった。加えて、ブレーキングミスを起こし、それが原因で佐伯ににらまれたのである。そのことで、佐伯とのトラブルを呼ぶことさえしてしまった。悔いのあるレースだった。

 ピットレーンにもどると、ハインツはすでにもどってきていた。2位のポジションにマシンを置いている。だが、マシンから降りようとしない。ジュンがマシンを置いて、ハインツに近寄ると、彼はガソリンタンクにヘルメットをおしつけ、涙を流していた。あの最終コーナーでのミスを悔やんでいたのだ。オフィシャルにうながされて検査のコーナーに移った。ハインツは涙をぬぐっていたが、ひとつもニコッとしなかった。ジュンもそうであった。

 表彰台に上がっても同じだった。観客やメディアが優勝した鈴木だけを賞賛していた。日本のメディアで、ジュンにカメラを向けている人はほとんどいなかった。後でチームスタッフから表彰台の写真を見せられたが、優勝した鈴木だけが晴れやかな顔をしていて、脇の二人はむすっとしていた。

 ピットにもどると、チーム監督やKT社の役員から

「 Good job ! 」

の連発の祝福を受けた。第1戦で上位に4台が入ったのである。チーム監督のジムは上機嫌だった。チームの二人が表彰台に上がり、チームポイントはダントツの1位になったのだから・・・でも、二人の不機嫌な顔を見て、はしゃぎすぎるのをやめた。ハインツの悔しさは自分もライダーだったから充分わかるのである。そこに、隣のピットから佐伯が駆け込んできた。

「ジュン、てめぇの走りはなんだ! オレにぶつける気だったのか!」

とすごい剣幕だ。ジュンはあっけにとられ、萎縮してしまった。

「だまっていないで何とか言え! てめぇのせいで表彰台を逃したじゃねぇか!」

日本語で怒っているので、チームスタッフは何事かという顔をしている。メカニックの岡崎さんだけが状況を察して、二人の間に入ってくれた。

「まぁまぁ、落ち着いて」

「あの走りをされて、落ち着いていられるか! 死ぬかもしれなかったんだぞ!」

「すみません。オレのブレーキミスです」

ジュンは小声であやまった。

「すみませんですむか! てめぇなんかレーサーやめちまえ!」

佐伯の罵声に岡崎がきれた。

「何を言っているんだ! ああいうことはレースでよくあること。ましてや、あそこは追い風でブレーキが効きにくいところ。それは佐伯くんも知っているはず。それに対応できないライダーは勝てない。それがレースだ。ましてや、レース中に後ろを見るなど、ローカルライダーなみの仕草。それでカモメにぶつかったのは自業自得。ジュンのせいじゃない。自分の未熟さを棚にあげるんじゃない」

という言葉に、佐伯は何も言い返せず、ふてくされた顔をして自分のピットにもどっていった。

「岡崎さん、ありがとうございます」

「あまり気にするな。プロのライダーは自分中心だから勝つためには何でもするんだよ。あいつも勝ちたいんだよ。それが世界だ」

「岡崎さんは、前に世界に来たことがあるんですか?」

と聞いたら、岡崎夫人が来て、

「うちのだんなさんは、前はY社のメカだったんだよ。世界GPのライダーの面倒を見ていたの。でも訳あってやめて、今はKT社のメカ」

「クミ、その話はなしだ。もう10年も前の話だ」

と言ったところに、ジュリアがピットに乱入してきた。本来はピットに入れないのだが、ジュンがなかなかテントにもどってこないので、お祝いを言いたくて入ってきたのである。

「 Jun ! Brabo- !」

と言って、ジュリアはジュンにだきついてきた。そして、ほっぺにキスをした。ジュンは一気に顔が赤くなり、思わずジュリアを突き放してしまった。そこにハインツが来て

「 Sorry 」

と言って、ジュリアを裏のテントに連れていった。ジュンは岡崎夫人にうながされてテントに入った。そこでは、ジュリアがテーブルの上にうずくまっていた。ジュンはどうしたらいいかわからず、まずはジュリアの隣に座り、背中をポンポンとたたきながら

「 Are you OK ?」

と聞いた。すると、ジュリアはジュンの胸に飛び込んで泣いてきた。ひとしきり泣いて、

「 I am so happy . Jun & brother stund on podium . very very happy 」

(私はとってもうれしい。ジュンと兄が表彰台にあがった。とてもとてもうれしい」

悲しくて泣いていたと思っていたジュンは、うれし泣きと知って、ますますどうしたらいいか分からなくなった。でも、ジュリアが離れるまでは動けそうもなかった。女の子の甘い香りだけが、刺激的だった。

 

 翌日、チームスタッフは次戦のマレーシアに旅だって行った。ハインツとジュンには今回の表彰台のご褒美として、3日間の休暇を与えられた。水曜日までにマレーシアのセパンに来ればいいということだった。ジュリアと岡崎夫人も一緒だ。ジュリアはマレーシアの前にドイツに帰国するとのこと。岡崎夫人はマネージャーとしてついてきているが、いわばお目付役だ。

 4人は、オーストラリア西部のパースにいた。インド洋に面したリゾート地だ。ビーチの目の前の高級ホテルに泊まった。2部屋しか取れなかったので、男性部屋と女性部屋に分かれた。ハインツがジュリアとの一緒の部屋を嫌がったのである。兄妹でも、一緒の部屋で寝たことがないということだった。さすが、自立心の強いドイツ人である。

 火曜日、一日フリーだった。ジュンたちは浜辺で日光浴をしていたら背中が暑くなり、すぐにホテルのプールに移動した。背中がひりひりしていた。昼食は4人でシーフードを堪能するはずだったが、サラダだけでテーブルがいっぱいになってしまった。50cmはあろうかというプレートででてきて、それを4人分頼んでしまったのである。日本人もドイツ人もびっくりである。岡崎夫人が

「これって、一皿で4人分だよね。ごめんね。気付かなくて・・・」

と恐縮していた。その後に、エビフライやカキフライが出てきた。小さな皿にのってきて、こっちの方が前菜感覚だった。4人で笑いながら食した。

 昼食後は、プールサイドでカクテルタイム。ジュリアは19才だが、ドイツ人は18才から大人扱い。ジュンだけがノンアルコールで「チチコラーダ」を飲んだ。ココナッツミルクが入った白くて甘いトロピカルドリンクだ。その後、ジュリアは軽い眠りに入り、寝言で

「 Jun , Wenn Sie 」

と言って、寝返りをし、片手をジュンの体に乗せてきた。ジュンはその手をどけようとしたが、思ったより柔らかかったので、その手をしばらく握っていた。そこに、岡崎夫人がやってきて、

「あらあらお熱いこと」

と声をかけてきた。すぐに、ジュンは手を離したが、またジュリアが寝言を発した。

「 Wenn Sie 」

とまた言っている。すると岡崎夫人が

「あら、だれのことを言っているのかしら・・・?」

と言うので、ジュンが

「ジュリアは何と言っているんですか?」

「ドイツ語で(あなたが好き)って言っているのよ。だれのことかしらね?」

「・・・」

ジュンは固まってしまった。寝言で告白されるなんて・・・。でも、ジュリアの寝顔を見ていると、かわいく見えてきた。起きていると英語でたたみかけてくるので、やや煩わしいところもあるのだが・・・。

 その夜は、日本料理店でお寿司を食べた。出てくるものが安心して食べられるからである。ただウラ巻きというのがあり、不思議だった。日本人の板前さんに聞くと、

「欧米人はノリが前面に出ていると、爆弾のイメージがあるらしく、中に巻くようになったんですよ」

という返事が返ってきた。創作寿司は、やたらと大盛りで数個でお腹がいっぱいになった。でも、港町なので魚は美味しかった。

 部屋に戻ってベッドに入ると、アルコールが入ったせいか、ハインツの寝言と歯ぎしりがひどかった。寝ながらレースをしているのがありありだった。ハインツは妹と寝たくないと言っていたが、自分の寝言と歯ぎしりを気にしていて、文句を言われるのが嫌だったということが、あらためて分かった。

 水曜日は移動日だ。ジュンは寝不足で空港に行った。ジュリアが1時間早いフランクフルト行き。3人はクアラルンプール行きだ。搭乗口でジュリアを見送ると、寝ぼけ眼のジュンにジュリアがとびついてきた。そして、ジュンの唇にチュをした。ジュンは凍りつき、一瞬で眠気が覚めた。

「 See you next time . I wait you in Europe 」

(また会おうね。ヨーロッパで待っているわ)

と言い残し、機内に入っていった。ハインツと岡崎夫人はにやにやしている。ハインツは片言の日本語で

「お・つ・か・れ・さ・ん」

と日本人たちがよく使う言葉を発してきた。妹のことだから、ちょっと意味が違うのではないかと思うジュンであった。


 次戦は、暑さとの戦いになるマレーシア・セパンサーキット。スコールも予想される天候との戦いでもある。ジュンにとっては試練の戦いになるかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る