03. 小川太陽 【続】小川です。助けてください。
To: Niban Senji
二晩 占二 先生
失礼いたしました、文章の途中で誤送信してしまいました。
何せこれほどの長文をこのような小さな端末からポチポチポチポチ入力するのは生まれて初めての経験でございますので。ご容赦ください。
さて、原始ブラックホールを用いてパラレルワールドに逃避した
先生もお気になさっていることと思いますので、ワームホールを通過している際の体感を表現いたしますと、とても長くとても短いぐにゃぐにゃひん曲がった橋を渡っているような感覚でした。
大人ひとりがようやく通れる程度の幅の細い通路を歩き、複雑な勾配と螺旋を巡り巡って元の場所へ戻ってくるような、騙し絵みたく不思議な橋でした。
ワームホールの別称を、アインシュタイン・ローゼン橋といいますが、なるほど納得の奇妙な橋っぷりでした。
そんな風にしてワームホールを抜けると、私は宅配の途中でした。荷物を運んでいました。
青と白の縦縞模様のユニフォームを身に纏い、トラックを運転していました。
それが、その世界での私の生業だったのです。
私は配達業務が遅れるのも構わず、急ハンドルをきってトラックを逆走させました。
業務の途中であることは重々承知ではありましたが、私は荷物をお届けするためではなく離婚を決意する前の妻を探すためにパラレルワールドへ馳せ参じたのです。
問い合わせの通知と思わしきコールが鳴り乱れましたが、そんなものにかまっている余裕はありませんでした。
不思議な感覚でした。
もとの世界軸での私の記憶に、パラレルワールドにおける私の記憶が上塗りされていたのです。
一方の私は先程仕事を終えて帰宅し、妻から離婚届を突きつけられたところだというのに、もう一方の私は午前中の配送業務に勤しむ宅配業者の配達員でした。
元の世界の妻は今ごろ自宅で荷物の整理をしているはずなのに、この世界の妻は近隣の駅構内のコーヒーショップでアルバイトしている頃であろうことが、記憶から予測できたのです。
そうです、先生。
これも発見です。我々の論文にも仮説として記述しましたが、これは実際に再現可能な事実だったのです。
すなわち、ワームホールは空間だけでなく時間も超越するのです。次に論文を再投稿する際にはこの点をディスカッション項目で強調することにいたしましょう、きっと。
さて、私はその世界軸での記憶に基づき、妻の元へたどり着くことができました。
私がコーヒーショップの自動ドアをくぐると、妻はお馴染みのおしとやかな笑顔をこちらに向け、いらっしゃいませ、と言いかけて、「いらっしゃいま」と途中で停止しました。
途端に笑顔が引っ込み、眉間にシワが寄り、目に怯えの色が滲み出始めました。
そんな妻の表情を見て、私は思い出したのです。
この世界では、まだ私は妻と結婚しておりませんでした。
それどころか、交際すらままならず、数日前に手酷くフラレたばかりだったのです。
友人から紹介され、妻と出会い、いやあすみませんお忙しいところをぼくの名前は小川と申しますえへへ、などと自己紹介する処までは順調だったようです。
しかし元の世界軸よりも輪をかけて女性とのお付き合いに不慣れなパラレルワールドの私は、あろうことか初デートのスポットに、近所のしょぼくれたショッピングモールを大抜擢しました。
そこはショッピングモールとは名ばかりの、ザ・婦人服店とザ・文房具屋とザ・生協だけで構成されている地域密着型の究極系のようなワンダーランドでした。
その上、ディナーをフードコート、もとい生協の端に設置されたセルフサービスの飲食コーナーで済ませようとしたのです。イヤハヤ、なんとロマンチックなデートコースなのでしょう!
私は恥ずかしくなって逃げ出しました。
いくら鋼のハートと揶揄される私とはいえ、そんな絶体絶命な嫌われっぷりから挽回するほどのテクニックも度胸も持ち合わせてはおりませんでした。だって、生協デートですよ。無理ですって。無理無理。
まあとはいえ、私には伝家の宝刀がありましたので、彼女の視線から逃れた後はすぐに落ち着きを取り戻しました。
宅配用のトラックに乗り込むと、再び腕時計型ガジェットを起動し、原始ブラックホールを生成しました。
ぎゅぎゅぎゅっと周囲の質量が圧縮され、私はまた違う可能性を求めて次のパラレルワールドへと旅立ったのです。
しかし、アインシュタイン・ローゼン橋を渡りきって次の世界に降りたった私は、その光景に愕然としました。
文明が、ないのです。
あたり一面、荒廃した大地が広がっていました。
荒廃した大地を私はひとり、歩いていました。
妻とは数日前に死別していました。
最後の言葉はかすれていてよく聞き取れませんでした。
「あいしてる」であってほしいというのが私の願望でしたが、実際は「しんじまえ」であったようにも思います。
先生は私の隣を付き添って歩いていました。
いえ、先生は私の隣を付き添って歩いている、という幻影を見ていました。
実際には、すでにこの世界には私以外の人類は残されていませんでした。
食料も尽き、水も見当たらず、私の体力は限界に近い様子でした。
何も食べていないはずなのに突如吐き気がこみ上げてきて嘔吐すると、赤紫色の気味の悪い液体がごぼごぼと溢れ出て、荒れ狂った地面に染み込んでいきました。
もう、私も長くないのだな、と悟ったところで思い出しました。
私はパラレルワールドを渡り歩いてこの世界へやってきたのだということを。
すんでのところで危機回避の記憶を取り戻した私は、震える指でガジェットを起動し、ワームホールを潜り抜けて、さらに別の世界軸へと逃げ出しました。
今度は、明治時代の食堂でした。
先生は町でも名の通った腕利きの料理人で、私はその弟子でした。降り立った場面は早朝の仕込みの最中でした。
私はまだ眠い目をこすりながら青魚の鱗などを落としておりました。
妻については、探しだすまでもありませんでした。
この世界でも、妻は私の妻のままでした。
ただし、妻との意思疎通は大変むずかしいものでした。
私が「おい」と呼びかけても、「ちょっと」と手招きしても、妻は気づきません。妻に用事を頼むときはいちいち料理の手を止め、近くに寄っていって肩を叩かねばなりませんでした。
そうやってようやく目が合って、妻は自分が用事に呼ばれ続けていたことに気づくのですが、謝罪もなければ言い訳も口にしませんでした。
その世界の妻は
耳はまったく聞こえず、唇からは一切の意味を持つ言葉を発することができませんでした。
そうです、先生。
現在であればきっと、何かしらの発達障害であると認定され、療育なり何なりが幼少時から受けられていたことでしょう。
大人になってからでも、どこかしらに相談場所があるのでしょう。
しかしながら、明治のこのご時世では、どこに行って誰を頼って、そうして妻に何をしてあげられるのか、皆目見当がつきませんでした。
いてもたってもいられなくなった私は、味噌が切れたので買い出しに、などと先生に嘘をついて飛び出し、そして再びガジェットを起動して、パラレルワールドへの旅に出ました。
[メッセージの一部が表示されています]
xxxx年yy月zz日 22:16 <taiyou.ogawa@xxxx.xmail.com>
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