森のトンネルの向こう側

 いつもより帰りが遅くなってしまいました。

 彼氏に振られたと泣きわめく友人の愚痴が止まらず、ようやく開放されたころには夕暮れどきでした。


 わたしの家は、市内から2時間ほど離れた山手にあります。辺鄙へんぴなところです。30分に1本しか走らない電車に揺られ、車窓の景色がどんどん暗くなりゆくさまを眺めていました。最寄り駅につくころには、すっかり夜になっていました。



 お母さん、怒っているかな。



 門限に厳しい母を思い浮かべながら、スマホのライトを点灯します。

 駅前を離れると、極端に街灯が少なくなるのです。


 もちろん辺鄙なところとはいえ、一応はベッドタウンの名を冠している一角です。アスファルトで丁寧に舗装された道くらいはあります。でも、コンビニも、ドラッグストアも見当たりません。


 夕方過ぎには閉店してしまう定食屋やパン屋のシャッターを脇目に、家路を歩きます。上り坂ばかり、20分はかかります。

 少しでも遅れを取り戻そうと、足早にのぼります。


 やがて、わずかな人の気配からも遠ざかって、風景は森ばかりになります。

 今年の春に越してきて以来、わたしはこの森が苦手です。鬱蒼うっそうと茂る緑の大群は、いつかわたしたちの生活すら呑み込んでしまうのではないか、という得体のしれない巨大な広がりを感じさせました。


 トンネルです。木々が積み重なってできた、自然のトンネル。


 通称、森のトンネル。


 昼間でも暗いのに、この時間になるとスマホのライトが照らす小さな空間以外は何も見えません。一面、夜に満たされています。


 ほんの数メートルの距離ですが、わたしは躊躇ちゅうちょします。しっとりとした闇が、不気味さを助長しているように感じます。ここを抜けた先にも延々と暗闇が続いているような気がします。


 けれど、家までの道のりはこの先、一本道です。迂回するすべはありません。

 勇気を出して、一歩一歩、進みます。スマホを握る手に力が入ります。


 暗闇のなかに入り込んで数歩、ふと、水の流れる音がしました。

 左手のほうです。

 見ると、木々の向こう側に何かがきらりと輝いた気がしました。


 気になって、そっと、枝をかき分けてみると、少し離れたところに川が流れていました。大きくて、穏やかな流れの川でした。ちょうど森の途切れるところを横断しているようです。影に邪魔されることもなく、月の光を浴びてきらきらと輝いていました。


 わたしはそちらへ近づいてみたくなりました。

 きっと、明かりに飢えていたのでしょう。少しでも闇から遠ざかりたかったのでしょう。母に怒られることも忘れ、木々の隙間を縫っていきました。


 川はやはり綺麗で、水面に映る満月も美しく、心を奪われました。

 水流を覗き込んでみますが、さすがに何もわかりません。月が放つ儚い照明では、水の中までは見透かせないようです。


 朱塗りの橋が、ありました。

 ところどころ古びて、塗装も禿げてしまっていましたが、月明かりのせいでそれすらおもむきに感じられます。



 昔の参道か何かかしら。こんな場所が隠れていたのね。



 わたしは森の秘密を暴いたような晴れやかな気持ちになり、闇への不安が薄れていくのを感じました。

 橋の前に立つと、向こう側には一本の山道が、月の光を反射してか、白く浮き上がって見えました。どうやら、あの先の山まで続いているようです。

 山は、わたしの嫌いな暗い森を貫いてそびえたっていました。とても美しいシルエットでした。雪ぼうしをかぶった頭が月光を浴びて幻想的に染まっています。


 しばらく、ただぼうっと、その山に見惚れていました。

 ふいにバイブレーションが響いて、スマホを握っていたことを思い出します。

 母からメッセージが入っていました。



 今どこ?



 わたしはそれを無視して、ふたたび幻想にひたります。

 あの美しい山を、もっと近くで見てみたくなりました。


 ちょっとだけ、近づいてみようかな、といたずらごころが芽生えます。

 どうせもう、手遅れなくらい門限は過ぎているのです。


 木々の根をまたぎながら朱塗りの橋に近づき、一歩、踏み出します。

 橋の板が、ぎっ、と鳴りました。

 きれいな音。

 あの暗い森とくらべたら、まったく、怖くありませんでした。


 ぎっ。

 もう一歩、進みます。


 呼ばれている。そう感じます。


 ぎっ。

 もう一歩、進みます。


 呼ばれている。何に?


 ぎっ。

 もう一歩、進みます。


 呼ばれている。山に?


 ぎっ。

 もう一歩、進みます。


 そこで、ふたたび手の中のスマホが震えました。

 やはり母からです。

 今度は、電話でした。


 延々とつづくコールに無視もできず、わたしは通話を繋ぎました。



「あんた今どこにおるん」



 開口一番、母は問います。

 わたしは、何故か、すぐに答えられませんでした。

 この場所のことを何と伝えたらいいのか、わからなくなってしまいました。


 わたしは今、どこにいるのでしょうか。



「帰り道、森のトンネルの、あたり」



 かろうじてそう答えます。間違ってはいませんが、正確でもありません。

 川のことも橋のことも山のことも、伝えることができませんでした。



「そんなら、もうすぐ家に着くね。なんか知らんけど、めっちゃ心配になったわ。あんたがもう帰ってこんような気がして。なんでこんな遅なったんよ?」


「そんなわけないやん、友達と喋っててん。帰ったら話すわ」


「わかった。ご飯あっためとくから、はよ帰っといでね」


「うん、わかった。あ、お母さん」


「ん、なに?」



 なぜか母を呼び止めてしまいました。特に言いたいこともないのに。

 とっさに浮かんだ言葉、



「月が綺麗ね」



 それに対して母は、



「何言っとん。今夜は新月やで」



 そう言い残して、通話は切れました。


 橋の真ん中、現実に引き戻されたわたしは戸惑いました。


 水面に浮かんだ満月は、夜空には存在していませんでした。

 ただ川と、橋と、山だけを、美しく幻想的に照らしていました。


 なぜ、わたしは、あれを月の光だと思いこんだのでしょうか。

 いま、わたしは、どこへ行こうとしていたのでしょうか。


 理由のない焦燥感に襲われ、わたしは踵を返します。

 ぎっ、ぎっ、と再び橋をきしませ、木々の根っこを踏み越えて、森のトンネルへ戻りかけました。


 そのとき。


 ふいに、視線を感じて、私は振り返りました。



 先ほどまで美しい山があった場所に、巨大な、何体もの人型の影が、寝そべった姿勢で山積みになっていました。


 そいつらは一斉にのっそりと寝返りを打って、白い顔を偽物の月光に浴びせながら、異常に大きな赤い眼で、悔しそうにこちらを見つめていました。



 それ以来、何度も森のトンネルを通りましたが、あの川も、橋も、山も、見つけることはできませんでした。

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