わたしのパパ
随分と長く待たされる踏切だった。
電車が一本、リズミカルな滑走音を響かせながら通り過ぎる終わり際、重なるように、もう一本の滑走音。その終わり際にもう一本……と永遠に繰り返される予感がした。
普段なら迂回して陸橋を渡るところだが、今日はタイミング悪く工事中。おれはスマホの画面に目を落とした。約束の時間まであと1時間。なんとか間に合うか。
「あなたがわたしのパパですか?」
不意に、腰のあたりから声がした。見ると、赤いランドセルを背負った女の子が、おれの方を見上げていた。ふたつ結びにした髪の位置がアシンメトリーになっている。自分で結んだのだろうか。
「あなたがわたしのパパですか?」
電車の音で遮られたとでも思ったのだろうか、女の子は同じ質問を繰り返した。
「いや、違うよ。パパを捜しているのかい?」
「はい、捜しています。あなたはパパに似ています」
「そうかそうか」もうこれくらいの娘がいてもおかしくない年齢になってしまったかと苦笑いしながら、「似ていて見間違えたんだね。パパとはどこではぐれたんだい?」
「わかりません。ずっとはぐれています」
「もしかして迷子かな? お家はどこ?」
「わかりません。パパのお家がアンナのお家です」
一人称が固有名詞なおかげでこの娘の名前を知ることができた。
が、やっかいなことに巻き込まれた。先を急ぐときに限ってこういうトラブルに巻き込まれる。
踏切はまだ開く様子がない。放りっぱなしで逃げ出すわけにもいくまい。
だいいち、良心が痛む。
「えっと、アンナちゃん? 名字はなんていうのかな? あと住所もわかると嬉しいな」
「パパの名字と一緒です。住所はパパの家です」
困った。何の情報も得られない。おれはランドセルの脇に差し込まれたネームプレートをなぞってみた。
白紙だった。
「何か手がかりはないかな? つまり、ヒント。アンナちゃんのパパやママや、お家がどこにあるかのヒントをくれたら、助けてあげられるかも」
「パパのお写真ならあります」
そう言って、アンナちゃんはランドセルを下ろしてゴソゴソと漁り、中からボロボロの写真を取り出した。
デジタルじゃない写真なんて久々に見るなあ、と懐かしがりながら受け取って、ぎょっとする。
おれの顔だった。
仕事中、スーツを着たまま外回りをしているときの写真。随分と至近距離から撮られている。こんな写真を撮った覚えはない。
「パパのお家の写真もあります」
アンナちゃんはランドセルから2枚めの写真を取り出し、おれに手渡した。
オートロックすらない安マンションの遠景。
紛れもなくおれの家だった。
「お家の中もあります」
ぞわぞわと恐怖が肌を走り抜けているうちに、アンナちゃんは次の写真を取り出す。
おれの部屋だった。
散らかったローテーブル、ほこりの被ったゲーム機、一年中だしっぱなしの電気カーペット。どれも馴染みの品々だった。
「パパとママの写真もあります」
タキシードを凛々しく着こなした、おれ。
隣には、見知らぬ女性。
「アンナが産まれたときの写真もあります」
疲れ切った表情で笑顔を浮かべる、先程の女性。
傍らに、満面の笑みのおれ。
と、新生児。
「アンナのお宮参りの写真もあります」
「アンナの七五三の写真もあります」
「卒園式です」
「入学式です」
「結婚記念日です」
「家族旅行です」
次々と手渡される写真のどれにも、おれの姿が写り込んでいた。アンナちゃんと、見知らぬ女性。その家族の一員として、おれは写り込んでいた。
「あ、ママです」
アンナちゃんが振り返りながら声をあげる。
おれは過剰に狼狽した。
恐る恐る、アンナちゃんの見つめる方向を振り返る。
写真に映っていた女性が、手を振りながらこちらへ近づいてきていた。
「こんなところにいたの、ふたりとも。びっくりするじゃない、急にいなくなって」
そう言っておれの隣に並んだ女性は、当然のように腕をからめてくる。馴染みのない感触、馴染みのない匂い。
そのとき、ようやく電車の通過が一段落して、踏切がひらいた。
「さ、いきましょ。約束の時間に遅れちゃうわ」
そう言って、女はおれを前進させた。
先導するように、アンナちゃんが踏切を駆け抜ける。
あ、とも、うん、とも言えぬまま、おれは歩かされ、三人揃って踏切を渡る。
即座に背後で警告音が鳴って、踏切が閉まる。
絶え間なくつづく電車の通過が、再開された。
三人は揃って、歩きつづけた。
独身貴族を貫いてきたおれが家庭を持った理由は、まあざっと、こんなところだ。
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