満開の桜が綺麗なキリンの下で
桜が綺麗ね。
私がそう言うと夫は、まだ12月ですよ、と薄く微笑む。何よ、敬語なんか使って。いやらしい。
でもほら、ピンクの。満開じゃない。
窓の方を指差して、私。こんなぽかぽかに暖かいのよ。12月の訳がないじゃない。
夫は無言で、微笑み続けていた。
銀縁の眼鏡が陽光を跳ねて、眩しく輝いている。
すると、ドアが開いて、男性が入ってくる。
あら、夫だわ。
お気に入りの銀縁眼鏡が、きらきら。無精髭にも白髪が混じって、点滅しているみたい。みっともないから、剃っておしまいなさいよ。
でも、ちょうどよかったわ。今、クッキーが焼き上がったところなの。味見してみて。
私がそう言うと夫は、クッキーなんてありませんよ、と目を大きく見開いて笑う。
どこを見てるの。こっちよ、こっち。ほら、そこ。その、お皿の上。
むきに、なって。
私が力強く指差すけれど。夫は笑っているばかり。
すると、ドアが開いて、男性が入ってくる。
どなただったかしら。見覚えのある顔。
銀縁の眼鏡がおしゃれね。でも無精髭は似合わないから、剃ってしまったほうが良いわ。白いお洋服も、よれよれじゃない。ちゃんとアイロンをおかけなさい。
出会い頭にお説教。
銀縁眼鏡の男性は、また笑顔。
僕のこと、覚えていますか?
男性は無精髭を指差して、微笑む。
ええ、ええ。覚えていますよ。八百屋さんのとこの息子の……。
私がそう言うと男性は、声を高くして笑った。いやらしい笑い方。もっとお上品になさいな。
すると、ドアが開いて、男性が入ってくる。
あら、どうしたのあなた。顔が真っ黒じゃない。
私がそう言うと男性は、え、何か変ですか、と左の側頭部を取り外した。崩れた穴ぼこから、別の顔が出てくる。そっちの顔は、黒くない。銀縁眼鏡に、無精髭。
ああ、もう、治ったみたいね。
私がそう言うと男性は、どんな風に見えていたんですか、としつこい。
うるさいわね。無視するわ。
すると、ドアが開いて、男性が入ってくる。
あら、夫だわ。
ほら、ご覧なさい。
キリンが走っているわよ。
私がそう言うと夫は、キリン、飼っているんですか、と間抜け面で聞き返してきた。
何言っているのよ、頼りないわね。
放牧しているに決まっているじゃない。
ほら、早く捕まえてよ。逃げちゃうから。
すると、ドアが開いて、男性が入ってくる。
あら、先生。またいらしたの。
私がそう言うと先生は、カナエさん、僕のことがわかるんですか、と驚いた。
わかるも何も、入院したときからお世話になっている先生じゃないですか。もう何日経つのかしら。入院生活にも飽き飽きしてきましたわ。
ねえ、先生。私の病気、あとどれくらいかかるかしら。
しん、と沈黙。
先生は、悲しそうに目を細めた。
そして、淋しそうに言葉を続けた。
カナエさんの病気はね、治らないんです。
私の胸が、つうん、と。痛い。
……癌?
呟くように。私は、尋ねる。
先生は、首をゆっくり、左右に。
レビー
認知症ですが、アルツハイマー病とはぜんぜん症状が違うんです。特徴的なのは、幻覚が見えること。
薬の粒が虫に見えたり。カーテンの柄が満開の桜に見えたり。天井のシミがキリンに見えたり。
僕の顔が、亡くなったご主人のように、見えたり。
……そう。
ささやくように。私は、うつむく。
日によって、時間帯によって、症状の強さが変わるのも特徴です。今日が軽症の日で良かったです。いつ病気の説明ができるのか、悩んでおりましたので。
先生の切なそうな眉の形は、とても「良かった」なんて思っているようには見えなかった。
私は来客用のソファを指差しながら。
先生。
立ち話もなんですから、あちらに座ってお話しません? ソファ、新調したんですよ。
私がそう言うと、先生は目を伏せて。
カナエさん。
あなたはもう、両手足が固まりきっています。
3年以上、寝たきりなんですよ。
先生は、マスクをなさっている。口元は、見えない。
すると、ドアが開いて、男性が入ってくる。
あら、夫だわ。
ねえ、あなた。
ちょっと大きい声じゃ言えないけれど。
宝くじがあたったのよ。
3億円。
伯母さんに知られないようにしてね。
あの方、がめついから。
ところで、通帳、見つけておいてくれた?
あなたが失くしたんだから、ちゃんと責任持って、見つけなさいよ。
良いわね。
すると、ドアが開いて、男性が入ってくる。
あら、夫だわ。
ねえ、あなた。
あの山は売れたのかしら?
手入れもろくにできず、持て余していたじゃない。
草はぼうぼう、道はでこぼこ、金網もぼろぼろで、危なっかしいだけだわ。
二束三文でもいいから、早く売っておしまいなさいよ。
何よ、知らないふりして。
情けないわね。
すると、ドアが開いて、男性が入ってくる。
どなただったかしら。見覚えのある顔。
ねえ。私たちがむかし、住んでいたお屋敷。あったでしょ。古くて大きい。この間、壊してしまったところ。
あの跡地に建てた電気釜のためのプレハブ小屋は、三角形の壁を斜めにして使うのよ。
知らなかったでしょ。使えなくて困っていたんでしょ。
ちゃんと、覚えておきなさいね。
すると、ドアが開いて、男性が入ってくる。
あら、先生。またいらしたの。
いつもおしゃれね、その眼鏡。銀縁で。
でも少し曇ってらっしゃるわ。ちゃんとお手入れなさった方が。
私がそう言うと先生は、カナエさん、僕、眼鏡なんてかけたことないですよ、と。
先生。
殺してくださいな。
もう、嫌なんです。
見えないものが見えて、覚えていたことを忘れて、でたらめな記憶に振り回されて、死んだ人が笑って、真冬に桜が満開で、キリンが目の前を走って。
先生のことも、先生だとわかっていない時があるんでしょう?
私のことも、私だとわかっていない時があるんでしょう?
今だって、本当はそう。
私は、どこで生まれたの。誰から生まれたの。誰に育てられたの。お兄さんは何人いるの。姉は。妹は。弟は。みんな、今、どこにいるの。どの学校を出たの。何のお仕事をしていたの。夫とはどこで出逢ったの。子供はいるの。孫は。ペットは。
どんどん、思い出せなく、なって、いくんです。
どんどん、失って、いくんです。
私を。
先生。
殺してくださいな。
いずれにしたって、このまま弱っていくんです。
あと何年かしたら。弱りきって、死んでしまうんです。
そんな、頼りない命じゃ、ないですか。
今すぐに私のままで死ぬのか。
何年か過ぎて、私じゃないモノになって死ぬのか。
そんな、違いだけじゃ、ないですか。
ねえ、先生。
嫌なの。
私、嫌なのよ。
私じゃないモノになって、死にたくないの。
私のまま、死にたいの。
ねえ、先生。
殺して頂戴よ。
お願いだから。
殺して。
この細い首を、きゅっ、とするだけでいいんですから。
そこのティッシュをくるくる丸めて、のどの奥に押し込むだけでいいんですから。
窓をがらりと開けて、真冬の桜の下へ放り出してくれるだけでいいんですから。
ねえ、先生。
殺して頂戴よ。
お願いだから。
殺して。
お願いだから。
すると、ドアが開いて男性が入ってくる。
あら、夫だわ。
にこにこ微笑んで、となりまで歩み寄る。そっと、よれよれな白いお洋服のひじをつまむ。
桜が綺麗ね。
私がそう言うと夫は、まだ12月ですよ、と薄く微笑む。何よ、敬語なんか使って。いやらしい。
でもほら、ピンクの。満開じゃない。
窓の方を指差して、私。こんなぽかぽかに暖かいのよ。12月の訳がないじゃない。
夫は無言で、微笑み続けていた。
銀縁の眼鏡が陽光を跳ねて、眩しく輝いている。
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