こども院長

 名前を呼ばれて診察室に入ると、3歳くらいの男の子が黒椅子に腰掛けていた。私の顔を見るなり挨拶もなく、「はい、じゃあ、ちゅうしゃしまーす」と告げた。


「院長、まずは『今日はどうされましたか?』でしょ」


 看護師が側からたしなめる。


「きょうは、どうされましたか?」


 院長と呼ばれた男の子が、おうむ返しする。聴診器を耳につけたり外したりしている。

 何だこれは。一体なんの悪ふざけだ。


「あの、えっと、先生は」想定外の事態に、口調がしどろもどろになる、私。


「はい、じゃあ、ちゅうしゃしまーす」何はともあれ注射をうちたくて、うずうずしている男の子。


「院長、まずは問診しないと。何の病気かもわからずに無闇と注射を射ってはだめですよー」常識的な説教を幼児に垂れる非常識な看護師。


 普段どおり、かかりつけの内科を訪れたはずだった。数年前に会社の健康診断で高血圧を指摘されて以来、3ヶ月に1度のペースで通院している診療所だ。受付嬢も看護師も、馴染みの顔が揃っていた。院長だけが、似ても似つかぬ姿。白ひげの穏やかなつるっ禿げが、会話すらおぼつかない幼な子に取って代わっている。


「えっと、何かの体験学習とか、ですか? 本物の院長先生はどちらに?」


 わずかながら冷静さを取り戻した私は、ようやくまともな質問を看護師に投げかけた。


「ええ? いいえ、いつもどおりですけど。それよりも、どうされたんですか、今日は。早く答えて下さいね、院長、あまり長くは集中できないんで」


「あ、はい、あの、昨夜から微熱と咳がありまして……」


「はい、じゃあ、ちゅうしゃしまーす」


 平然と問い返されて思わず症状を答えたとたん、注射器を手に取る院長ぼうや。青緑色の液体がシリンジの中でたぷん、と揺れた。何の薬だ、それ。


「院長、まだだーめ。先にもしもし、してからね。ほら、もしもーし、って」


 看護師が横から院長の聴診器をくいくい引っ張って促す。しかし、院長の様子がおかしい。急に真顔になったかと思うと、月見団子みたいな下膨れを歪ませて、情感たっぷりの声量で、


「ちゅうしゃしまーす、ちゅうしゃ、ちゅうしゃするの、ちゅうしゃちゅうしゃ、ちゅうしゃああああ、ちゅうしゃするの、するのおおおお、ちゅうしゃちゅうしゃちゅうしゃああああああああああああああああああ」


 泣き出した。


「あらあら……しょうがないわねえ。こうなっちゃうと聞かないんですよ。患者様、すみませんが一回だけ、付き合ってくださいます?」


 看護師は正気の表情でそう言うと、目にも留まらぬ速度で私の左腕を掴み、駆血帯をしばりつけた。そして「ここよ、ここ、はずさないでねー、院長」と血管を指差しながら優しい声で私を押さえ込む。予想外の怪力で、身動きができない。


 院長きどりの男の子が、黒椅子から飛び降りた。いつの間にか泣き止み、きらきらした満面の笑みを浮かべている。


 看護師が指差す位置とはまるきり違うでたらめな筋肉に、注射針を突き刺した。


 激痛。

 得体のしれない青緑の液体が、私の体内に侵入してくる。

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