父の難病、碁盤の城、モノトーンの魚

 数年前、父に難病の診断がついた。


 網膜色素変性症。

 数千人に一人の奇病。遺伝性疾患。

 視野がだんだん、狭くなっていく病気。


 幼いうちに発症した場合、40歳代で失明にまで至るケースも少なくない。その点、父は定年退職後に発症が発覚したものだから、堂々と身体障害者手帳で旅行三昧できるぜ、ぐわっはっは、などと笑っていた。


 それから、数年が経った。

 病状は着実に進行している。

 それに伴って、父は生活を失っていった。


 愛車のボディに凸凹をたくさん作って、運転免許を取り上げられた。

 くだものの皮と一緒に指の皮を剥いてしまって、料理を取り上げられた。

 走り回る孫を交通事故に巻き込みかけて、子守を取り上げられた。


 いろんなものを生活から取り上げられて、最後に、囲碁だけが残された。


 誰かと向かい合って対局するわけではない。家族はみんなして囲碁サロンや老人会の集いをすすめたが、「あんなじじいばっかりの集まり、誰がいくか」の一点張り。自分もじじいのくせに。


 それで、もっぱら、棋譜並べばかりをしている。


 何十冊も買い込んだ教則本を順に広げて、番号のとおりに碁石を打っていく。


 ぱちん。

 ぱちん。


 黒と白、どちらが勝つかわかりきった対局を、毎日つづけている。どれだけ上達したところで、倒すべきライバルはどこにもいない。


 リビングの奥にダイニングテーブルがあって、そこを占領していた。新かやの10号、卓上碁盤を広げて。家族の食事場所は別間に追いやられた。


 他人への害が少ないから取り上げられなかっただけで、父の目はもうとっくに、囲碁に対応する能力を失っていた。


 棋譜の番号を見失っては不機嫌になる。落丁だ、と本のせいにする。

 碁石を取りそこなっては床に落とす。どこに落ちたのかすら、見えなくなる。


 いつの日か、物置には白と黒の碁石が何袋も積まれていた。

 捜すことすら諦められた碁石は、そこから補充されていった。


 ぱちん。

 ぱちん。


 今日も、父が囲碁をしている。

 棋譜を並べている。

 碁石を掴みそこねる。

 碁石が床に落ちる。落ちる。溜まる。


 最初はひとつ、ふたつ。

 だんだんと、とお、にじゅう。

 ついには、ひゃく、せん。


 そうやって徐々に徐々に、床面積を占領していく碁石は、いずれ海になっていく。

 白と黒の、海。


 ため息が風になって、ざらざら、碁石どうしが触れ合って波打つ。

 魚が跳ねる。モノトーンの鱗。モノトーンの水しぶき。

 釣りをしている漁師さん。ロマンスグレー。釣れますか。ぼちぼちでんな。


 父は漁師さんから魚を譲ってもらって、それを食べる。

 家の一角、ダイニングテーブルの孤島に、碁盤の城をかまえて。


 ぱちん。

 ぱちん。


 丸くなったモノトーンの背中を家族に向けて。


 ぱちん。

 ぱちん。


 碁石を打つ音が、響いている。

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