episode6 本の中にある心の友
発達障害だったのでは?と言われている偉人は多いようです。
診断のしようもない訳で、発達障害のイメージが独り歩きしてしまうのは危惧しますが、生きにくさを感じる私たちにとって、似たような特性を持ちながら、人生を切り開いて行った人々の生き方は、かなりのヒントが隠されていると思います。
独断と偏見から、発達障害かどうかは置いておいて、「なんだか、この人とフィーリング合うわ~」と私が勝手に推している方々の中から、ここではモームと、芥川龍之介について、暑苦しい愛情深めに書いていこうと思います。
1⃣サマセット・モーム『人間の絆』
大学時代に読了した『人間の絆』。特性から忘れっぽいので、大部分は忘れてしまったのですが、ペルシャ絨毯のくだりは良く覚えています。
(1)作者について
(以下、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「サマセット・モーム」のページより抜粋)
「ウィリアム・サマセット・モーム(William Somerset Maugham)
1874年-1965年。イギリスの小説家、劇作家。フランス・パリ生まれ。
10歳で孤児となり、イギリスに渡る。医師になり第一次世界大戦では軍医、諜報部員として従軍した。1919年に『月と六ペンス』で注目され、人気作家となった。同性愛者としても知られている。
8歳のときに母が肺結核で、10歳のときに父が癌で没し、一家はバラバラとなる。モームはイングランド南東部ケント州のウィスタブルで、牧師をしていた叔父ヘンリー・マクドナルドのもとに引き取られた。叔父とは不仲で、慣れない田舎暮らしで孤独な生活を強いられた。13歳でカンタベリーのキングズ・スクールに入るが、英語をうまくしゃべれず、加えて生来の吃音のため迫害され、生涯のコンプレックスとなった。これらの経験は、自伝大作『人間の絆』の前半部分に描写されている。
モームの作品は平明な文体と巧妙な筋書きを本分としている。モームは面白い作品こそが自らの文学であるといい、ゆえに通俗作家と評されてきた。モームは小説の真髄は物語性にあると確信し、ストーリーテリングの妙をもって面白い作品を書き続けたが、作品の中にはシニカルな人間観がある。
幼少時に母を亡くしており、この母への思慕は相当なもので、『人間の絆』の冒頭部で描かれている。またモームは吃音に苦しみ、ますます孤独感を強めていった。こういった境遇の後に、医学生時代に暮らした貧民街に住む人々と交わったことは、モームに人間の奥底をのぞかせた。最初に日本に紹介し、来日したモームとも面談した中野好夫は、その作品について「通俗というラッキョウの皮をむいていくと、最後にはなにもなくなるのではなく、人間存在の不可解性、矛盾の塊という人間本質の問題にぶつかる」と評している。その姿勢は、『人間の絆』において「ペルシャ絨毯の哲学」として提出される、人生は無意味で無目的という人生観に現れている。人生を客観的に描いてきたモームは、『要約すると』では「自分は批評家たちから、20代では冷酷(brutal)、30代では軽薄(flippant)、40代では冷笑的(cynical)、50代では達者(competent)と言われ、現在60代では浅薄(superficial)と評されている」と書いている。
モームの文体は非常に平明であるが、その文体はヴォルテールやスコットに学んだものである。彼の作品(特に Summing up)は、戦後日本の英語教育で入試問題、テキストとして広く用いられた。」
(2)『人間の絆』
彼が1915年、41歳の時に発表した作品が『人間の絆』です。幼少期に両親を失い、叔父に育てられた作者自身の自伝的な小説です。モーム自身の障害であった吃音は、主人公のフィリップでは、脚の障害(内反尖足)として表現されいます。
この作品の中で私の印象に最も残っているのは、「人生に意味はあるのか」を問いかけるペルシャ絨毯のくだりです。
主人公のフィリップは無宗教の人間だったこともあり、悩みます。パリで出会った老詩人・クロンショーの言葉「ペルシャ絨毯に人生とは何かという問いへの答えが秘められている」を受けてフィリップは、答えに辿り着きます。
「人生に意味はない」
一見、投げやりな一言なのですが、この言葉、解放の一言なのです。
人生に意味はない。
結局、人は運次第。
だからこそ、自分だけの出来事や思いが無数の糸となって、絨毯を織るように、死ぬ時にその意匠を眺めるのを楽しみにして生きればいいのだ、と。
私は、日々、様々な思いを感じながら生きてきました。
皆様そうだと思います。人生は「運」で左右される部分も多いです。
たまたまで、幸運にも不運にも転がってしまいます。
何をしたから、していないから、幸運 or 不運?
正直、因果関係はありません。
ただ、運で決まってしまうものを悩むのが人間ですが、それでいいし、
それしかないのだとも思います。
右往左往しながら、生きて行く。
最後を楽しみに。これが正解!という答えが容易に出ない所も、人生の醍醐味だと思います。
今日も右往左往しています。シなない程度には。
2⃣芥川龍之介
(1)芥川龍之介について
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』「芥川龍之介」ページより抜粋)
「芥川龍之介
1892(明治25年)-1927年(昭和2年)
日本の小説家。
生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため、東京市本所区小泉町(現・東京都墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育される。11歳のときに母が亡くなる。翌年に叔父・芥川道章(フクの実兄)の養子となり、芥川姓を名乗ることになった。旧家の士族である芥川家は江戸時代、代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主)の家である。家中が芸術・演芸を愛好し、江戸の文人的趣味が残っていた。
1925年(大正14年)ごろから文化学院文学部講師に就任。1926年(大正15年)、胃潰瘍、神経衰弱、不眠症が高じ、ふたたび湯河原で療養。
1927年(昭和2年)1月、義兄の西川豊(次姉の夫)が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺する。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかった。4月より「物語の面白さ」を主張する谷崎潤一郎に対して、『文芸的な、余りに文芸的な』で「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話のない」純粋な小説の名手として「小説の神様」志賀直哉を称揚した。このころ、芥川の秘書的な役割を果たしていた平松ます子(父は平松福三郎・大本信者)は芥川から帝国ホテルでの心中を持ちかけられ、小穴龍一や文夫人等に知らせて阻止した。
7月24日未明、『続西方の人』を書き上げたあと、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで服毒自殺した。享年36〈数え年〉、満35歳没。服用した薬には異説があり、たとえば山崎光夫は、芥川の主治医だった下島勲の日記などから青酸カリによる服毒自殺説を主張している。同日朝、文夫人が「お父さん、よかったですね」と彼に語りかけたという話もある。戒名はなく俗名で葬儀が行われたが、後に懿文院龍之介日崇居士。墓所は、東京都豊島区巣鴨の慈眼寺。」
(2)芥川龍之介「或旧友へ送る手記」
彼については、病気がちであり、仕事や私生活で悩みが尽きない人だった印象です。これから芥川の遺書を掲載しますが、遺書ですし端折らない分、かなり重い内容になります。心の状態ができるだけ良い時にお読みくださいますよう、お願い致します。
だいぶ長くはなるのですが、友人に宛てた彼の遺書を『青空文庫』より全文抜粋します。
(『青空文庫』芥川龍之介「或旧友へ送る手記」ページより抜粋)
「誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。尤も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも善い。レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。自殺者は大抵レニエの描いたやうに何の為に自殺するかを知らないであらう。それは我々の行為するやうに複雑な動機を含んでゐる。が、少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。
君は或は僕の言葉を信用することは出来ないであらう。しかし十年間の僕の経験は僕に近い人々の僕に近い境遇にゐない限り、僕の言葉は風の中の歌のやうに消えることを教へてゐる。従つて僕は君を咎めない。……
僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。家族たちに対する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。これも亦君には、Inhuman の言葉を与へずには措かないであらう。けれども若し非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。
僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。(僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の「阿呆の一生」の中に大体は尽してゐるつもりである。唯僕に対する社会的条件、――僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかつた。なぜ又故意に書かなかつたと言へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。僕はそこにある舞台の外に背景や照明や登場人物の――大抵は僕の所作を書かうとした。のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はない訣には行かないであらう。)
――僕の第一に考へたことはどうすれば苦まずに死ぬかと云ふことだつた。縊死は勿論この目的に最も合する手段である。が、僕は僕自身の縊死してゐる姿を想像し、贅沢にも美的嫌悪を感じた。(僕は或女人を愛した時も彼女の文字の下手だつた為に急に愛を失つたのを覚えてゐる。)溺死も亦水泳の出来る僕には到底目的を達する筈はない。のみならず万一成就するとしても縊死よりも苦痛は多いわけである。轢死も僕には何よりも先に美的嫌悪を与へずにはゐなかつた。ピストルやナイフを用ふる死は僕の手の震へる為に失敗する可能性を持つてゐる。ビルデイングの上から飛び下りるのもやはり見苦しいのに相違ない。僕はこれ等の事情により、薬品を用ひて死ぬことにした。薬品を用ひて死ぬことは縊死することよりも苦しいであらう。しかし縊死することよりも美的嫌悪を与へない外に蘇生する危険のない利益を持つてゐる。唯この薬品を求めることは勿論僕には容易ではない。僕は内心自殺することに定め、あらゆる機会を利用してこの薬品を手に入れようとした。同時に又毒物学の知識を得ようとした。
それから僕の考へたのは僕の自殺する場所である。僕の家族たちは僕の死後には僕の遺産に手よらなければならぬ。僕の遺産は百坪の土地と僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円のあるだけである。僕は僕の自殺した為に僕の家の売れないことを苦にした。従つて別荘の一つもあるブルヂヨアたちに羨ましさを感じた。君はかう云ふ僕の言葉に或可笑しさを感じるであらう。僕も亦今は僕自身の言葉に或可笑しさを感じてゐる。が、このことを考へた時には事実上しみじみ不便を感じた。この不便は到底避けるわけには行かない。僕は唯家族たちの外に出来るだけ死体を見られないやうに自殺したいと思つてゐる。
しかし僕は手段を定めた後も半ばは生に執着してゐた。従つて死に飛び入る為のスプリング・ボオドを必要とした。(僕は紅毛人たちの信ずるやうに自殺することを罪悪とは思つてゐない。仏陀は現に阿含経の中に彼の弟子の自殺を肯定してゐる。曲学阿世の徒はこの肯定にも「やむを得ない」場合の外はなどと言ふであらう。しかし第三者の目から見て「やむを得ない」場合と云ふのは見す見すより悲惨に死ななければならぬ非常の変の時にあるものではない。誰でも皆自殺するのは彼自身に「やむを得ない場合」だけに行ふのである。その前に敢然と自殺するものは寧ろ勇気に富んでゐなければならぬ。)このスプリング・ボオドの役に立つものは何と言つても女人である。クライストは彼の自殺する前に度たび彼の友だちに(男の)途づれになることを勧誘した。又ラシイヌもモリエエルやボアロオと一しよにセエヌ河に投身しようとしてゐる。しかし僕は不幸にもかう云ふ友だちを持つてゐない。唯僕の知つてゐる女人は僕と一しよに死なうとした。が、それは僕等の為には出来ない相談になつてしまつた。そのうちに僕はスプリング・ボオドなしに死に得る自信を生じた。それは誰も一しよに死ぬもののないことに絶望した為に起つた為ではない。寧ろ次第に感傷的になつた僕はたとひ死別するにもしろ、僕の妻を劬りたいと思つたからである。同時に又僕一人自殺することは二人一しよに自殺するよりも容易であることを知つたからである。そこには又僕の自殺する時を自由に選ぶことの出来ると云ふ便宜もあつたのに違ひない。
最後に僕の工夫したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。これは数箇月準備した後、兎に角或自信に到達した。(それ等の細部に亘ることは僕に好意を持つてゐる人々の為に書くわけには行かない。尤もここに書いたにしろ、法律上の自殺幇助罪※(始め二重括弧、1-2-54)このくらゐ滑稽な罪名はない。若しこの法律を適用すれば、どの位犯罪人の数を殖やすことであらう。薬局や銃砲店や剃刀屋はたとひ「知らない」と言つたにもせよ、我々人間の言葉や表情に我々の意志の現れる限り、多少の嫌疑を受けなければならぬ。のみならず社会や法律はそれ等自身自殺幇助罪を構成してゐる。最後にこの犯罪人たちは大抵は如何にもの優しい心臓を持つてゐることであらう。※(終わり二重括弧、1-2-55)を構成しないことは確かである。)僕は冷やかにこの準備を終り、今は唯死と遊んでゐる。この先の僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう。
我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。所謂生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。僕も亦人間獣の一匹である。しかし食色にも倦いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きる為に生きてゐる」我々人間の哀れさを感じた。若しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに措おいてくれ給へ。僕は或は病死のやうに自殺しないとも限らないのである。
附記。僕はエムペドクレスの伝を読み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覚えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。
(昭和二年七月、遺稿)」
彼は冒頭はっきりと自殺者自身の心理を書き残すと述べつつ、自身の動機を「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」と述べています。
そして、自殺者の心理が語られて来なかった理由として「自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足」を挙げています。
ぼんやりとした頭で、最後の最後までに彼なりに懸命に考えようとしている姿勢が見て取れます。2年もの間、死に囚われていた人間の遺書として、ぼんやりした頭しか残されていなかった彼としては、満足いくものではなかったかもしれませんが、ここまで考えて残せることに、私は深い感動を覚えます。
「僕の第一に考へたことはどうすれば苦まずに死ぬかと云ふことだつた。縊死は勿論この目的に最も合する手段である。が、僕は僕自身の縊死してゐる姿を想像し、贅沢にも美的嫌悪を感じた。」
「贅沢にも美的嫌悪感を感じた」という部分に、私は彼の愛嬌を感じます。こんな時にまで美しさを求める「贅沢にも」と表している所が、人間味に溢れています。
「それから僕の考へたのは僕の自殺する場所である。僕の家族たちは僕の死後には僕の遺産に手よらなければならぬ。僕の遺産は百坪の土地と僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円のあるだけである。僕は僕の自殺した為に僕の家の売れないことを苦にした。従つて別荘の一つもあるブルヂヨアたちに羨ましさを感じた。君はかう云ふ僕の言葉に或可笑しさを感じるであらう。僕も亦今は僕自身の言葉に或可笑しさを感じてゐる。が、このことを考へた時には事実上しみじみ不便を感じた。この不便は到底避けるわけには行かない。僕は唯家族たちの外に出来るだけ死体を見られないやうに自殺したいと思つてゐる。」
前の部分で「家族たちに対する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。これも亦君には、Inhuman の言葉を与へずには措かないであらう。けれども若し非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。」と述べていましたが、自身が亡くなった後のことをあれこれと具体的に思いめぐらす様は、家族を大切に思っていたのだということがよくわかります。心中する者がいないと言いつつも、彼は周りの人をとても愛していました。とても優しい人だったのだと思います。
「誰でも皆自殺するのは彼自身に「やむを得ない場合」だけに行ふのである。その前に敢然と自殺するものは寧ろ勇気に富んでゐなければならぬ。)」
自殺者は自分にとって「やむを得ない」理由でするのだと。死ぬ勇気もない者が、もうどうしようもなくなってからするものなのだと。
彼も弱い人間だったのだと思います。多くの人間は弱いですよね。
「最後に僕の工夫したのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。これは数箇月準備した後、兎に角或自信に到達した。(それ等の細部に亘ることは僕に好意を持つてゐる人々の為に書くわけには行かない。尤もここに書いたにしろ、法律上の自殺幇助罪※(始め二重括弧、1-2-54)このくらゐ滑稽な罪名はない。(中略)最後にこの犯罪人たちは大抵は如何にもの優しい心臓を持つてゐることであらう。※(終わり二重括弧、1-2-55)を構成しないことは確かである。)僕は冷やかにこの準備を終り、今は唯死と遊んでゐる。この先の僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう。」
優しさと冷静さと悲しみを併せ持った準備をし、彼は「僕は冷やかにこの準備を終り、今は唯死と遊んでゐる。」と文学的に表現しています。
「我々人間は人間獣である為に動物的に死を怖れてゐる。所謂生活力と云ふものは実は動物力の異名に過ぎない。僕も亦人間獣の一匹である。しかし食色にも倦いた所を見ると、次第に動物力を失つてゐるであらう。僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。僕はゆうべ或売笑婦と一しよに彼女の賃金(!)の話をし、しみじみ「生きる為に生きてゐる」我々人間の哀れさを感じた。若しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。しかし僕のいつ敢然と自殺出来るかは疑問である。」
彼は自身を「動物的に死を怖れてゐる」1匹であるとし、次第に動物力を失いつつあり、自分が今住んでいるのは「氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。」と言っています。売春婦と賃金の話になり「生きる為に生きてゐる」自身も含めた人間の哀れさを感じ、死は幸福ではなく、自身に平和をもたらすと話しています。
「唯自然はかう云ふ僕にはいつもよりも一層美しい。君は自然の美しいのを愛し、しかも自殺しようとする僕の矛盾を笑ふであらう。けれども自然の美しいのは僕の末期の目に映るからである。僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せずに措おいてくれ給へ。僕は或は病死のやうに自殺しないとも限らないのである。」
最後に自然について書かれています。美しいものを美しいと思える心がまだあるにも関わらず、死を選ぶことが私も矛盾しているように感じました。でも「末期の目に映るから」美しく見えるのだと、彼は言います。私にはまだ「末期」が来ていないからわからないのかもしれません。
彼は「僕は他人よりも見、愛し、且又理解した。それだけは苦しみを重ねた中にも多少僕には満足である。」こう言いますが、多少の満足でこの世から去って良かった人では無かったと、私は思います。
「僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覚えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。」
附記として、神になりたかった20年前(15歳ころでしょうか?)と、大凡下の一人としている今。旧友とともにあった自信に満ち溢れた過去の記憶を思い起こしているのでしょうか。それとも、過去の若く未熟だった自分を滑稽に思いつつ懐かしんでいるのでしょうか。
ぼんやりとした頭しか持てず、頑張れない自分、死ぬことを緻密に想像してしまう自分、もう美しい物語を紡げなくなった自分に絶望してしまったのかもしれません。
でも深い孤独の中で、彼は矛盾しているようですが、確かに周りの人を愛していました。
彼が亡くなったのは35歳の時です。私より若い。生きている間の彼の遺したものを考えると、驚きますが、若すぎますよね。70代まで生きていたら…なんて考えたら、ちょっとわくわくしてしまうくらいです。
(3)芥川龍之介「或阿呆の一生」
ここでは、前述した「或旧友へ送る手記」の中で触れられている作品「或阿呆の一生」について書いていきます。
この作品について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「或阿呆の一生」のページより抜粋します。
「芥川龍之介作の短編作品。雑誌『改造』1927年10月号に掲載された。
1927年の芥川自殺後に見つかった文章で、51のごく短い断章から成る。芥川が自身の人生を振り返って書き遺したものとされ、一種の自伝である。友達への遺書の中に、この事が詳しく記されてある。冒頭部分には久米正雄宛ての文章がある。
「先輩」として谷崎潤一郎、「先生」として夏目漱石、発狂した友人として宇野浩二が登場する。」
この作品は、前述した「或旧友へ送る手記」の中で、次のように触れられています。
「僕は何ごとも正直に書かなければならぬ義務を持つてゐる。(僕は僕の将来に対するぼんやりした不安も解剖した。それは僕の「阿呆の一生」の中に大体は尽してゐるつもりである。唯僕に対する社会的条件、――僕の上に影を投げた封建時代のことだけは故意にその中にも書かなかつた。なぜ又故意に書かなかつたと言へば、我々人間は今日でも多少は封建時代の影の中にゐるからである。僕はそこにある舞台の外に背景や照明や登場人物の――大抵は僕の所作を書かうとした。のみならず社会的条件などはその社会的条件の中にゐる僕自身に判然とわかるかどうかも疑はない訣には行かないであらう。)」
自殺の動機「僕は僕の将来に対するぼんやりした不安」について書かれていると述べられています。
またまた全文載せたいところではありますが、かなりの量になってしまうため、ここでは、私がご紹介したい部分だけ抽出して書いてみようと思います。
以下、引用先は『青空文庫』芥川龍之介「或阿呆の一生」のページです。
「僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。
君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。
僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親を持つたものたちを如何にも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己弁護をしなかつたつもりだ。
最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を剥ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。
昭和二年六月二十日
芥川龍之介 久米正雄君」
冒頭、友人の久米正雄に宛てた文章の中で、「僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親を持つたものたちを如何いかにも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己弁護をしなかつたつもりだ。」と、別れを告げています。
「最も不幸な幸福」。何となくわかるのです。
孤独を抱えた人間は、幸福の中にあっても、どこか底知れない寂しさを感じながら生きているから。そんな気がします。書けば書くほど孤独を思い知らさせる。そしてそれは、悪い気もせず、居心地が良かったりもする。そんな感情があったのかもしれません。より圧倒的な孤独に身を委ね、平和な境地に赴きたかったのでは?という気さえしてしまう冒頭の部分です。
一生を終えるわけですから、この世にサヨナラを告げる時、ふとした拍子だったとしても、どなたでも「究極の境地」を迎えるものなのかもしれません。
「五 我
彼は彼の先輩と一しよに或カツフエの卓子に向ひ、絶えず巻煙草をふかしてゐた。彼は余り口をきかなかつた。が、彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けてゐた。
「けふは半日自動車に乗つてゐた。」
「何か用があつたのですか?」
彼の先輩は頬杖をしたまま、極めて無造作に返事をした。
「何、唯乗つてゐたかつたから。」
その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「我」の世界へ彼自身を解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時に又歓も感じた。
そのカツフエは極小さかつた。しかしパンの神の額の下には赭い鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。」
半日自動車に乗っていたという先輩が、事も無げに言い放った言葉「何、唯乗つてゐたかつたから。」。
「その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「我」の世界へ彼自身を解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時に又歓も感じた。」
これ、他の人と話していて、「何それ!そんな感じ方新鮮!!」みたいな事は、いまだに良くあって。人と話していて、楽しいのって、その人の中では「当たり前」なことが、私の中では新鮮に映ることなんです。「目が明く思い」と言いますか。ちょっとの痛みと歓び。羨ましさ。他の人と話していると、自分の中には無いものに頭を殴られるような衝撃を受けることがあります。
「八 火花
彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也烈しかつた。彼は水沫の満ちた中にゴム引の外套の匂を感じた。
すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雑誌へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
架空線は不相変鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。」
雨に濡れながら、上着のポケットに発表予定の原稿を隠しつつ、紫色に発光する電線を眺めている情景です。
鋭い火花を放つその紫色の閃光を、妙な感動とともに、人生において物欲が無かった自身が「命と取り換へてもつかまへたかつた」と述べています。
走馬灯なんて言いますが、この作品はそんな位置づけに思われ。とはいえ、走馬灯を鮮やかに文章化していることに、「本当に死を覚悟して書いたのかな?」と思えるくらい、死に相対した人が振り返る内容としては、あまりにも緻密で鮮烈で。作品と閃光と。彼は美しいものをもっと見て、もっと紡いでいたかったのではないかと、思わずにはいられないのです。
「十四 結婚
彼は結婚した翌日に「来※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)々無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詑びを言つてゐた。彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……」
「二十 械
彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。」
嫁姑問題ではないですが、伯母と新妻の板挟みで苦労したのかもしれません。天才でありながら繊細な彼は、一家の主でもあり、親戚、仕事関係など他人との軋轢に苦労したことが伺えます。
「二十四 出産
彼は襖側に佇んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤児を洗ふのを見下してゐた。赤児は石鹸の目にしみる度にいぢらしい顰め顔を繰り返した。のみならず高い声に啼きつづけた。彼は何か鼠の仔に近い赤児の匂を感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。――「何の為にこいつも生まれて来たのだらう? この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。――何の為に又こいつも己のやうなものを父にする運命を荷つたのだらう?」
しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。」
残念ながら、私は今現在の世の中も「何の為にこいつも生まれて来たのだらう? この娑婆苦の充ち満ちた世界へ。――何の為に又こいつも己のやうなものを父にする運命を荷つたのだらう?」と思わずにはいられません。
生きることは苦しいです。目を瞑って暮らさなければ。だから、私は子供達には目を大きく見開いたままでも、幸せに生きて欲しいと願っています。少しでもいいから。
「三十一 大地震
それはどこか熟し切つた杏の匂に近いものだつた。彼は焼けあとを歩きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐つた死骸の匂も存外悪くないと思つたりした。が、死骸の重なり重つた池の前に立つて見ると、「酸鼻」と云ふ言葉も感覚的に決して誇張でないことを発見した。殊に彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だつた。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。「神々に愛せらるるものは夭折す」――かう云ふ言葉なども思ひ出した。彼の姉や異母弟はいづれも家を焼かれてゐた。しかし彼の姉の夫は偽証罪を犯した為に執行猶予中の体だつた。……
「誰も彼も死んでしまへば善い。」
彼は焼け跡に佇んだまま、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。」
1923年(大正12)に起きた関東大震災のことを書いています。
芥川はこの作品とは別に「大正十二年九月一日の大震に際して」と題して、この時の様子を記しています。こちらも『青空文庫』に掲載されています。「誰も彼も死んでしまへば善い。」と「或阿呆の一生」では記していますが、震災直後に記された「大正十二年九月一日の大震に際して」には、「我等は皆歎くべし、歎きたりと雖へども絶望すべからず。絶望は死と暗黒とへの門なり。」「同胞よ。冷淡なる自然の前に、アダム以来の人間を樹立せよ。否定的精神の奴隷となること勿れ。」と述べるなど、強い気持ちで震災の前後を冷静に記録し、自身の思いを書き残そうとしています。
少なくとも、震災直後に書かれた文章では、彼は震災後の復興など前向きにとらえていると思います。やはり、死を前にしてかなり悲観的に記憶を思い起こすと、記憶の切り取り方、自身の中での意味合いも変わってしまうのかもしれません。
「三十六 倦怠
彼は或大学生と芒原の中を歩いてゐた。
「君たちはまだ生活慾を盛に持つてゐるだらうね?」
「ええ、――だつてあなたでも……」
「ところが僕は持つてゐないんだよ。制作慾だけは持つてゐるけれども。」
それは彼の真情だつた。彼は実際いつの間にか生活に興味を失つてゐた。
「制作慾もやつぱり生活慾でせう。」
彼は何とも答へなかつた。芒原はいつか赤い穂の上にはつきりと噴火山を露し出した。彼はこの噴火山に何か羨望に近いものを感じた。しかしそれは彼自身にもなぜと云ふことはわからなかつた。……」
制作欲は残っているが、生活欲は残っていない。死を前にしてとても印象的なフレーズに思います。若い未来ある学生との会話。噴火山に感じる羨望の念。人間である以上は、生きたいと願うことが、当然生きるために必要な訳で。生活をできるだけ疎かにしないことは命を守ることにも繋がるのだと思います。月並みな話にはなりますが。
「 四十 問答
なぜお前は現代の社会制度を攻撃するか?
資本主義の生んだ悪を見てゐるから。
悪を? おれはお前は善悪の差を認めてゐないと思つてゐた。ではお前の生活は?
――彼はかう天使と問答した。尤も誰にも恥づる所のないシルクハツトをかぶつた天使と。……」
「 四十一 病
彼は不眠症に襲はれ出した。のみならず体力も衰へはじめた。何人かの医者は彼の病にそれぞれ二三の診断を下した。――胃酸過多、胃アトニイ、乾性肋膜炎、神経衰弱、慢性結膜炎、脳疲労、……
しかし彼は彼自身彼の病源を承知してゐた。それは彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。彼等を、――彼の軽蔑してゐた社会を!
或雪曇りに曇つた午後、彼は或カツフエの隅に火のついた葉巻を啣へたまま、向うの蓄音機から流れて来る音楽に耳を傾けてゐた。それは彼の心もちに妙にしみ渡る音楽だつた。彼はその音楽の了るのを待ち、蓄音機の前へ歩み寄つてレコオドの貼り札を検べることにした。
Magic Flute――Mozart
彼は咄嗟に了解した。十戒を破つたモツツアルトはやはり苦しんだのに違ひなかつた。しかしよもや彼のやうに、……彼は頭を垂れたまま、静かに彼の卓子へ帰つて行つた。」
社会に苦しめられていても、やはり社会に食らいついていかないと、生きて行くことは困難になると思います。それが難しいから、敵対したくなるのはわかるのです。社会に食らいついていくとは言いましたが、実際は迎合し、媚びへつらい、自分を亡くして行く作業ではありますが。それができないなら、死を選ぶしか無い気持ちは、大いにわかります。
「四十九 剥製の白鳥
彼は最後の力を尽くし、彼の自叙伝を書いて見ようとした。が、それは彼自身には存外容易に出来なかつた。それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算の未だに残つてゐる為だつた。彼はかう云ふ彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。しかし又一面には「誰でも一皮剥いて見れば同じことだ」とも思はずにはゐられなかつた。「詩と真実と」と云ふ本の名前は彼にはあらゆる自叙伝の名前のやうにも考へられ勝ちだつた。のみならず文芸上の作品に必しも誰も動かされないのは彼にははつきりわかつてゐた。彼の作品の訴へるものは彼に近い生涯を送つた彼に近い人々の外にある筈はない。――かう云ふ気も彼には働いてゐた。彼はその為に手短かに彼の「詩と真実と」を書いて見ることにした。
彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来をたつた一人歩きながら、徐に彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。」
死を覚悟させた剥製の白鳥について書かれています。みすぼらしい剥製に自分の一生を重ね、「涙や冷笑のこみ上げるのを感じた」と綴られています。発狂か自殺かしか残されていない境地に追い詰められ、運命を待つことにした芥川は発狂を待たずに、命を絶つことを選択します。
私も惨めに思うことって、まあ、ありました。サヨナラしたくなった事も、1度や2度じゃありません。でも、私は選べなかった。そこまで追い詰められはしなかった。芥川に言わせれば、平和をまだ手にできていないわけで、ある意味、まだ闘いの中にある。弱すぎるせいで生きているのかもしれません。
「五十一 敗北
彼はペンを執る手も震へ出した。のみならず涎さへ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴエロナアルを用ひて覚めた後の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。
(昭和二年六月、遺稿)」
最期の章で「敗北」と題されています。
彼は何に負けたのでしょうか?本当に負けたと思っていたのでしょうか?何に?
答えは私の人生の終焉まで考え続けたいと思います。
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