第四章 友情の結末

第10話 そんなの言えないよ

 八月の第二土曜日、夏休み真っただ中。


 あたしたちは街に出て、加奈が好きな水族館に来ていた。小学生のように笑顔を見せながらキャッキャッとはしゃいでいる彼女を横目に、あたしは目の前を気持ちよさそうに泳いでいる魚たちを眺めていた。


 どうにも近くにいるのがつらく、かなり意識的に加奈から離れた場所を歩くようにした。美香はそれに気づいているのだろう。何度かあたしの背中を押すようにして、加奈との距離を詰めようとしていた。


 そんな気遣いが、ほんの少しだけ苦しく感じた。


 夏で、夏休みだった。


 家族連れの多い水族館では、余計なことを考えずに済むかと今朝までは思っていたけれど、実際に来てみると加奈をどうしても目で追ってしまう自分がそこにいた。そしていつもよりも、なんだか彼女との距離が近く感じる。


 気のせいだと言われればそれまでだが、今もこうして腕に腕を巻き付けられている。


「ねえ、すごいよ紫織ちゃん!」


「……ああ、うん。そうだね」


 こちらに拒否権なんてものはなかった。いや、本音を言うとずっとこのままでいたかった。


 好きな人とこんなに近くに居られるなんて、幸せいっぱいだった。だからこそ、あたしは彼女の顔を直接見る勇気をまだ得ておらず、横目にチラチラと見やることしかできなかった。これは決して加奈が意地悪をしているというわけではなく、ただ自分の中にある感情を上手く導けないあたしが悪い。


 神田くんとの関係は、変わったのだろうか。


 目の前に見えるペンギンの話で盛り上がっている加奈の見ながら、ふとそんなことを考えていた。あれからの話を聞いたところで、あたしの出る幕はない。そう理解していたけれど、ため息をつくたびに、彼との関係に進展があったんじゃないかなんて、嫌な想像ばかりが膨らんでいった。


 まともに言葉を拾えないままボーっとしていると、彼女の口から聞き逃せない言葉がこぼれた。


「神田くんとは、やっぱりわたし……友達以上になれない」


「…へ?」


 拍子抜けした声を出してしまうほど、あたしとっては唐突だった。つい二週間ほど前まで、加奈はあんなに彼のことを目で追っていたじゃないか。それに、彼に対して気を許しているような笑みを浮かべる場面もあった。


 それらが単なる思い込みだと投げることはできなかった。少なからず特別な感情が宿っていたことは、近くにいたからこそわかる。自分のなかにある事実を認められないという想いが日に日に膨らんでいることも、識っていた。


 なのにどうして、今更加奈はそんなことを言ってしまうのだろう。


「なにかあったの?」


 動揺しているあたしを見かねたのか、美香が加奈に対してそう尋ねた。心配そうに加奈とあたしを交互に見ていたけれど、とてもそれに反応するような余裕はなかった。


 どれだけあたしが彼女に向ける感情をこじらせてしまっているのか、そして神田くんへの嫉妬心がとんでもない方向に進もうとしているのか、きっと美香はわかっている。だからこそ、あたしはあたし自身に向き合わないといけない、そう考えていた矢先の出来事だった。


「ううん、そういうわけじゃないの。ただわたし、もう神田くんのこと好きじゃない、から」


 それに応じる疑問の言葉を投げることは、できなかった。


 大波に打ちつけられてしまった船のように、どう反応すればいいの、という気持ちが心の中を暴れ回っていた。


 これでまた、ボラ部の三人で過ごせる日常が帰ってくる。適度に気をつかってしまうけれど、それでも三人で一緒にいられる。あたしは現実から目を背けるように、そういうことばかり考えるようにした。


 それからはイルカショーを観に行った。隣で焦げ茶色の大きな瞳を輝かせながら、ブンブンと体をくねらせて泳ぐイルカの動きに、彼女はすごく反応していた。


「ははは、かわいい。めちゃめた元気だよ、あのイルカ」


「ほんとだね」


 ああ、こうして加奈の隣にいられるなら、あたしはなんて幸せ者なのだろうか。


 この世に永遠も絶対も、あるわけがないとわかっている。それでもすがってしまう。彼女の”誘惑”に負けてしまい、たとえどれだけ嫌われたとしても、きっとあたしは恋焦がれてしまうことを。そして、彼女からの慈愛に似た友情がずっと続くわけがないということを。


「今日、水族館に来れてよかった。こんなふうに過ごしたのは、たぶん十年振りくらいかも。お父さんとお母さんとわたしの三人で、ちょっと遠出したの」


「もしかして、水族館はそれ以来?」


「かもしれない。美香ちゃんは?」


「そうだなぁ、私は……覚えてないや」


 なにも考えたくない。今はただ、気持ちよさそうに泳いでいるイルカを眺めていることができれば、それでよかった。どこへ行くかではなく、誰と居られるか。あたしにとって重要だったのは、その部分だった。


 水族館の入り口にあった、夏場限定の風鈴飾りの写真を数枚撮り、あたしたちはそのまま夕ご飯を済ませて解散した。本当のところはもう少し一緒にいたかったけれど、そういうわがままを口にするのはなんか違うと思い、喉のあたりまできていた言葉を奥に追いやった。


 夏休み最終日、目の前に広がるのは宿題の海。


 水族館に行った日の夜に送られてきた加奈からのメールに、返信ができたのは翌夜だった。なんてことのない、ただ水族館での感想と『ありがとうね』という一文が添えられた文章で、送られてきてすぐに目を通していた。


 思うように言葉が出てこず、メールを返すだけに半日かけてしまった。あたしはどうも、他人に向ける言葉を思いつきやすいのは、直接会っているときらしい。


 そして、苦手な数学の宿題が手つかずのままで残っていた。参考書を見てもさっぱり解らず、あたしは頼れる友人を呼ぶことにした。


「やっほ」


「ありがとうね、来てくれて」


 溶けて地面にくっついてしまいそうな暑さの中、家まで来てくれたのは、中津美香だった。誘った時点まではなんだかんだ理由をつけられて、引き返すんじゃないかと思っていたけれど、そんなことはなかった。きちんとこうして、あたしの家まで来てくれた。


「お茶いれていくから、あたしの部屋で待ってて」


「わかった」


 本当は加奈も誘うつもりでいた。けれど、彼女に送るために書いた文章ができたあとも、美香にメルを送ったあとも、あたしは送信ボタンを押せなかった。そこでようやく気がついた。あたしが抱いている想いは、こんなにもちっぽけなものだったのか、と。


 気持ちを動かせるほどの強い感情を、もっていない。それに気づいてしまい、急須を思わず離しそうになるほど、動揺していた。こんなこと、考えたってどうしようもないのに。しかしきっと、答えのない疑問だからこそ、深く考えてしまうのだろう。


 夕陽が落ち始めたころ、美香のおかげで残り一割ほどまで宿題が進んでいた。もし一人でしていたらおそらく半分も進んでいなかったと思うと、彼女の有難さが身に染みた。


「それにしても、まさか基礎問題しかやってないとはね」


「しょうがないじゃない。わからないんだもん」


「あのね、基礎は授業で解説してたでしょう。だから、できて当然なの」


「厳しいなぁ、もう」


 ねえ、加奈とはあれから話した?


 時々タイミングを見計らって、そう聞こうとした。けれど、どうにもつっかえて言葉が上手く出てこなかった。本人ではなく美香に聞こうとしているのに、こんなに緊張してどうするんだよ、あたし。


 あたしが宿題をしている隣で、美香は文庫本を読んでいた。彼女はいかにも今どきの女子高生というような、弾けた雰囲気の子だった。実際のところは、成績は上位に入るほどで、趣味が音楽鑑賞と読書という”渋い”女の子であり、あたしと話の通じる相手でもあった。


 まあ、だからこそ図書委員になったというのは、あるのかもしれない。


「ね、風のうわさに美香が小説書き始めたって聞いたんだけど、ほんと?」


「誰から聞いたの、そんな話」


「加奈が言ってた」


 シャーペンを動かす手を止めて美香のほうを見てみると、文庫本の上から覗くように視線をこちらに向けていた。その仕草があまりに女の子っぽくて、あたしは少し笑ってしまった。


「そっか。うん、書いてるよ」


「順調に進んでるの」


「そうだね。比較的順調、かな」


「やっぱり恋愛ものだったり?」


「する。んとね、二人の女の子がいて、一人を取り合う話」


「……ものすごく既視感があるんですけど」


「自覚あるんだ」


 このままじゃいけないと思っていても、現実はそう簡単に動かない。動いてくれない。最終的には、自分の手で事を動かす必要がある。


 あたしの背中を押すように、美香が『自分から進まなきゃ』と言ってくれたことも、十分すぎるほどに、痛いほどに、これまでの経験から理解していた。それなのに、まだあたしは見ているだけだった。


 そんなのでいいのか、本当に。そう言われているような気がした。今動かないと、もう先はないという予感がしていた。


「あたし、加奈にほんとのこと言おうと思う」


「ほんとのことって?」


「加奈のこと、友達じゃなくてもっと違う意味で好きだって、こと」


「もう直接、付き合ってください、って言えばいいのに」


「それは……なんか違う気がする」


 友達以上になりたいのか。それはあたしが決めることではないけれど、つい考えてしまう。


 誰のそばにもいない彼女の姿を知っているからこそ、そう思ってしまうのだろうか。友達だからできることだって、きっとある。現状に満足しているからこそ、それで納得しているのか。加奈から恋愛感情を向けられるのを、あたしはどこかで否定していた。


 そんなことあるわけがないと、決めつけていた。


「加奈ってモテるから、もしそういう気があるなら早いほうがいいよ。じゃないと、誰か違う人と一緒にいるようにかもしれないからね」


 夏休みが明けて数日後、その言葉は現実へと変わってしまった。


 いつ言おうかと悩んでいるあいだに、加奈は別の人から告白された、という話をクラスメイトから聞いた。


 本音を言えば、もう加奈にそういう相手ができたことは、友達として嬉しかった。たとえそれが自分ではないとしても、どうだっていいと思っていた。けれど、あたしはどうしても譲れなかった気持ちがあった。


 告白されたという話を本人の口から、一番初めに知りたかったということだった。


 タイミングの問題、と捉えるべき、わかっていた。それでも、彼女にとってのなにかしらの一番に、あたしはなりたかった。なれないと、心のどこかで諦めていた。だからこそ、その現実を目の当たりにしてしまった今、気を抜くと涙が溢れてしまいそうに、なっていた。


 ボラ部に向かう足取りは、とんでもなく重たかった。きっと部室には、神田くんがいる。誰からかはわからないけれど、加奈の話はもう聞いているはず。おそらく、その話をするに違いない。


 今日だけは、逃げてはならない。


 扉が鉄製に変わったんじゃないかと思うくらいに、部室の引き戸はなかなか開けなかった。ゆっくりと中を覗いてみると、そこにはひじをついたまま固まっている、彼の姿があった。様子を見るからに、きっと加奈のことを知っている。


 あたしはすでに手遅れな覚悟をもって、声をかけた。


「なに黄昏たそがれてんのよ」


「なんだ、富士宮か……」


「なんだとはなによ、失礼だなぁ。しょげちゃってさ。わかりやすいね、加奈の話、聞いたんでしょ」


「付き合うかな、ふたり」


「…付き合うんじゃない?」


 神田くんのことは、諦めてるから。そう伝えるのはやめた。それを言ったところで、なにもならない。


 もしかすると、今頃になって彼は加奈を意識し始めてしまった、とでも言うのだろうか。もしそうなら、あたしと同じように、始まる前に終わってしまった想いであり、自分だけで消化しないといけないもの。


 わがまま勝手に気持ちを打ち明けるなんてのは、もってのほかだった。


「加奈はきっと、なにもなかったみたいにボラ部に来るよ。これからも」


「そうだろうな」


「だから、あんまり考えなくてもいいんじゃないかな。それでどっちを選ぶか、結局はあの子次第なんだし」


 あたしの呟きに対する答えは、返ってこなかった。きっと彼なりに、いろいろと考えていたのだと思う。心のどこかで、加奈への告白は神田くんが先にしてしまうものだと、思い込んでいた。そして、それを受け入れるのなら、きっぱりと諦めてしまおう、そんなふうに決めていた。


 加奈が彼を振ったなら、あたしが行く。気持ちを伝えることに、迷いを感じていた。結局は、自分で踏ん切りをつけられないから、他人任せにしていた。


 そういう自分が、嫌でたまらなかった。


 その日、加奈が部室に顔を出すことはなかった。

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