補節 明るくて暗い場所

第9話 点滅信号

 もしも、あのとき加奈と出逢っていなければ。


 もしも、彼女の容姿が違っていたならば。


 もしも、あのとき君が近寄って来なければ。


 時々、そんなことを考えてしまう。考えたって仕方のないことだということは、痛いほどに理解している。なぜならあたしは、彼女に向ける自分の気持ちが恋心であると知ったときには、すでに諦めがついていたから。


 あの子があたしに対して恋愛感情を抱くなんてのは、天地がひっくり返っても、あるわけがない。


 中学一年生の夏、あたしは林原加奈の通っている中学校に転校した。


 小学校の頃から何度か転校というものを経験していたので、正直いって慣れていた。それは、かなり歪な方向に向かって。


 誰にも期待していなかった。期待して、自分が傷ついてしまうのが、とんでもなく怖かったのかもしれない。勉強だけしか取り柄のないあたしには、友達どころか知り合いと呼べる人の繋がりを作ることさえ、どこか邪魔に感じていた。


 他人にそもそも興味をもつことなんてあり得ないし、そこで話す話題なんてのはくだらないことばかり。そんなふうにして無駄に時間を過ごすのなら、あたしはずっと一人でいい。


 そういう、かなり捻くれた性格をしていた時期だった。


「静岡県の富士第一中学校から転校してきました。富士宮紫織です。趣味は……特にありません。よろしくお願いします」


 趣味なんてものを話してしまうと、それを話のネタにされて来られると面倒なことになる。あたしはそれまでの経験で、そう学んでいた。


 だからこそ、他人に見せていた自分の顔は、酷く冷たいものだった。笑わない、怒らない、悲しまない、喜ばない。もしかすると、いつからか『他人には興味がない自分』を、ある意味演じるようになっていたのかもしれない。


 それでよかった。誰も自分という存在を認識することなく、視界にも入らないように、空気のように過ごす。孤独なふりをしていたかった。


 両親は滅多に家に帰って来ない。がらんとしている家の中にあるのは、ピアノと父の書いている小説、そしてクラシック音楽が収録されているディスクだけ。


 毎年、あたしの誕生日が近づいてくると、父は自宅宛てに段ボールを送っていた。その中にあるのは、手のひらサイズのぬいぐるみとたまに直筆の手紙。手紙は『母』が書いていた。そんな母は、あたしが中学生になる頃には四人目になっていた。


 自分自身が冷たい人間だとっていた。頼ることができるのは、いつだって自分だけなんだと、だからこそ馴れ合いだけしか生まない人間関係なんて、はじめから作る気がなかった。誰から話しかけられても、できるだけ端的に返事をした。引きつりそうな笑顔を見せられたとしても、できるだけ真反対になるような表情を作った。


 どうせ、そのうちまた引っ越してしまうかもしれない。それなら、最初から最後まで下手に『友達ごっこ』をしないで過ごしたほうが、お互いに傷つかない。


 そんなふうに考えながら、あたしはしばらくのあいだ過ごした。


 いじめのポジションになることだけは、避けた。そうならないような技術も、その当時のあたしは身につけていた。


 そうしていると、同じクラスにあたしと同じくらい”浮いている”少女がいた。嫌でも自然と目が向くようになっていた。誰とも話さず、誰とも目を合わせようとしない女が、そこにはいた。


 傍から見ていれば分かる。アレは、彼女が意識的にしている行為なんだということが。


 そんなことを知ってか知らずか、彼女の周りの人間はごく自然に接していた。どこか親近感を覚えてしまった彼女の名前は、林原加奈はやしばらかなだった。もう少し正確にいうと、彼女は中学にあがるタイミングで名字が『林原』に変わった、という話を人伝ひとづてに聞いた。


 その話だけで、彼女がそういう家庭の子なんだと分かった。


 彼女との関係が変わったのは、中間試験の期間のある日だった。


「え……ちょっと、こんなときにねぇ」


 あと五分ほどで試験開始。そんなときに、あたしの持っていたシャーペンは芯を詰まらせた。


 筆箱の中にはシャーペン用の替え芯しか入っておらず、昨日の自宅自習のときに予備のシャーペンを机の上に置いたままだった。つまり、かなり危機的な状況だった。


 ペンを振ってみたり横をトントンと叩いてみたりしてみても、まったく改善しなかった。


「はァ……」


 ため息を吐くことしかできずに、役に立たなくなってしまったシャーペンを眺めていると、あたしの隣に立ち止まる人間がいた。こんなときに絡んでこないでよ、と頭の中で考えていると、その人はそっと鉛筆をあたしの机の上に置いた。


「よかったら、使って」


 聞こえるか聞こえないかくらいの静かな声で、彼女は言い残して去っていった。聞き覚えのあるその声の主は、林原加奈だった。


 試験が無事に終わると同時に席を立ったあたしは、彼女のところへ行き、鉛筆を差し出した。


「……あの、ありがとう」


「うん。どういたしまして」


 今まで誰とも関わりをもちたくないと思っていたあたしは、なぜか彼女に対しては、このまま別れるのはさびしいと思ってしまった。


「あたし、富士宮紫織ふじのみやしおり。よろしく」


林原加奈はやしばらかな……です。よろしくお願いします」


 あたしは加奈の堅苦しいあいさつに、思わず吹き出してしまった。それは演じていたものではなく、心からの笑いだった。


「ごめんなさい、加奈。ちょっと笑ってしまったわ」


「いいえ、わたしこそごめんなさい。初めての人と話すのが苦手なんです」


 そんなぎこちないやり取りも、今では笑い話になっている。


 あたしと加奈の関係は、それ以降も続いた。一年足らずで関係が切れてしまうことが当たり前だったあたしにとって、それは初めての経験だった。


 あえて言葉にするなら、あたしと加奈の関係は『親友』なんだと思っていた。


 加奈は文芸部で静かに過ごしていた。そんな彼女とは反対に、あたしは恋人を作るようになった。高校生になるまでに、彼氏ができたり、彼女ができたりしたけれど、加奈はそっち方面にまるっきり興味を示さなかった。


「加奈もさ、たまには活字から離れて外の世界に目を向けてみたら?」


「そう言われてもね。そもそも興味がないもの」


 加奈以外の友達ができたり、恋人と過ごすこともあったけれど、あたしの中心にいたのはいつだって加奈だった。彼女はあたしの味方でいてくれて、何かあるときは必ず助けてくれる。そんな加奈の幸せを、あたしはいつも願っていた。だからこそ、あたしが加奈のことを好きになってしまうなんて、想像もしていなかった。


 どれだけ彼女に対する感情で自分の心が覆いつくされたとしても、この気持ちは叶いっこない。


 彼女と別れて、独り身になり、自分と向き合った。ふらふらとしていたけれど、やっと気づけた自分の感情が溢れそうだった。


 何度も頑張ってみた。同性だからか、物理的にも精神的にも距離は近かったし、冗談交じりで嫌がられるほど隣に居続けたとしても、加奈があたしの気持ちに気づくことはなかった。そうこうしているうちに、彼女は好きな人ができたかもしれないと言ってきた。


 好きな人が好きな相手を、あたしはずっと知っていた。幾度も相談にのって、話して、泣かれて。


 こんなふうに彼女の興味を惹く相手のように、あたしもなれたらどんなにいいだろう。


 加奈が誰のことも好きにならないなんて幻想を、あたしは心のどこかで抱いてしまったのだろう。


 自分の感情を抑えるのに、あたしは必死だった。ほんの少しでも加奈との関係に傷をつけてしまうようなことは、なんとしても避けたかった。加奈のことを『好き』だとバレてしまったら、そんな恐怖心でいっぱいいっぱいだった。


 春の桜が舞う場所を歩く加奈、夏の陽射しで身体が熱くなり首筋に流れる汗をぬぐう加奈、秋の落葉とともに服が厚くなっていく加奈、冬の肌寒い日にかじかんだ指を重ねて擦る加奈。


 季節が巡るごとに、彼女は綺麗になっていった。そんな加奈を見つめながら、一ミリも進むことができず、ただその場に立ち尽くしているあたし。


「こんなにも会いたいって想えるなら、あたしはきっと加奈のことを好きなんだろうなって」


「うん」


「どうしたら、あたしのことを見てもらえるんだろうって」


「そっかぁ。紫織ちゃんが加奈ちゃんをね」


 中津美香なかつみか。彼女は加奈と異なる立ち位置にいる女の子だった。


 あたしにとって本来の意味での親友というのは、たぶん美香のほう。好きというベクトルが、完全に違っていた。


 三人で集まることはあったけれど、それでも加奈は親友以上恋人未満で、美香は友達以上の親友だった。


 汚い自分を見られたくないばかりに、あたしは何度も気持ちを切り替えたふりをして、周りからは見えないようにふたを閉める。


 今では、神田くんのことが好きな加奈のことを、そばでじっと見守る親友。


 本当の自分の気持ちをひたすら隠して、ボロボロになっている、親友のことを好きになってしまったどうしようもないやつ。


 それがあたし、富士宮紫織の正体なんだよ、加奈。

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