第7話 二人の距離

「神田くん、すごいねえ」


 あたしたちは県内の陸上部が集まって競い合う、陸上大会に来ていた。


 実はあまり乗り気ではなかった。彼のことを好いているということを、応援という形で見せつけられるのが、ものすごく怖かった。


 なんでもかんでも恋愛と結びつけるのは、いかがなものかと思われるかもしれないけれど、それでもやはりあたしは彼女が彼に近づいていく瞬間を、記憶に残したくなかった。そう、あたしは自分が思うよりももっと怖がりだった。


「次の競技は800メートルリレーだって?」


「うん。それが神田くんがでる最後の競技みたい」


 会場に来るまでの路線バスの中で、加奈はしっかりと神田くんがでる競技にチェックを入れていた。なにも考えていないような雰囲気を出しながら、実際にはしっかりと物事を見ている彼女のこういうところが好きなだけに、あたしは胸が痛かった。


『続いて、校区別対抗こうくべつたいこう800メートルリレーです』


「紫織ちゃん、見て! 向こうのほうに神田くんがいる!」


 加奈に合わせてトラックを見てみると、確かに神田くんらしき人の姿があった。彼女は持ち前の明るさを最大限利用して、両腕をぶんぶん振り回しながら「頑張れー!」と応援していた。あんまりにも元気な姿に、隣で苦笑いするしかなかった。


 やがて号砲が鳴り、第一走者が勢いよく走り始めた。それからはもうあっという間に過ぎていき、気がつくと神田くんを含むアンカー集団が走っていた。


「いけー!」


 先頭を走るのは別の校区の男子で、神田くんは二位だった。彼はとんでもなく速かった。それまでかなり開いていた一位との距離をどんどん縮めていき、最終的には三歩分くらいまでになっていた。しかし巻き上げはそこまでで、二位のままゴールイン。


「……惜しかったね」


「ほんとだね! でも神田くん、すごいね」


 本気になった彼は格好良かった。これまで感じていた熱量とは明らかに違う、異次元のものを遠くからでも感じることができた。だからこそ、あたしはまたしても考えたくないことを頭の中で巡らせていた。


 神田くんはきっと、一位を取ったところを加奈に見せたかったんだと思う。わざわざ大会に呼んでいるのだから、そりゃ格好いい姿を見せたくなるのは当たり前だよね。


 それからのあたしは観戦することを忘れて、ただぼけっと過ごしていた。すぐ横から聞こえてくる加奈の言葉は、右耳から左耳に流れ続けた。それはまるで、自分の脳が考えることを放棄してしまったかのような、そんな有様だった。


 閉会式が終わってしばらくすると、加奈の携帯の着信音が鳴り始めた。様子を見るに、どうやら電話の相手は神田くんらしい。


「もしもし、神田くん? ん……うん。分かった、正面入り口で待ってるね」


「なんて言ってた?」


 そう彼女にたずねると、パッと明るい笑顔を見せながら、こう続けた。


「せっかくだから、一緒に帰らないか? だってさ。三人で一緒に帰ろうね」


「……おっけー。ちょっとお手洗い行きたいから、先に行っててくれないかな」


「ん、わかった」


 あたしはお昼ご飯が入っていたプラスチック製の容器を持って、観客席の真下にあるお手洗いへと向かった。途中にあったゴミ箱へとそれを捨てて、あたしは個室に駆け込んでいた。ほんの少しでも油断すると、今にも泣いてしまいそうだったから。


 加奈は優しい。それは決してあたしだけに向けられるものではなく、みんなに対して平等に与えられる優しさだった。


 そんな彼女でも、最近は様子が変わってきていた。明らかに、神田くんに対する感情を持て余している。放っておくと爆発してしまいそうなくらいに。おそらく、自覚していないんじゃないか。それは加奈にとっても、神田くんにとっても、あまりいいこととは思えない。


 だからといって、あたしは二人の仲を繋ぐようなことはしたくなかった。それをするのはつまり、諦めるということ。そんなのは嫌。


「はぁ……」


 どんよりとした気持ちの重さを少しでも晴らしたくて、ため息をついてみたけれど、ちっとも効かなかった。ため息をつくと幸せが逃げるという言葉が思いついたものの、すぐにそんなのは嘘だと思った。


 こんなことで逃げていくなら、あたしはもう幸せになんかなれっこない、ということになってしまうから。


 手を洗って正面入り口に向かう途中で、加奈と神田くんが仲良さそうにしている姿が、目に飛び込んできた。


 タオルを持った加奈が、神田くんの汗をぬぐっていた。


 別にそれだけだと考えてしまえば、それだけ。しかし、どうしてもそのときのあたしには、目をそむけたくなるほどに、辛くてたまらない光景だった。


「やっほ。お待たせ」


 だからといって、そのことを悟られるような真似はしたくなかった。加奈はきっと、なにも意識せずにそうしている。それならばあたしも、同じように振る舞わないといけない。


 それからの時間は、三人で帰るというよりも、二人と一人で帰っているような、ある意味異様な雰囲気だった。時々加奈が気を利かせて話しかけてくれたりしたけれど、ほとんどのあいだ、加奈と神田くんが話しているのを聞いているだけの時間が過ぎていった。


 こういうところがよくない。そんなことは、考えなくても分かっている。頭で理解しているからといって、それをそのまま行動に移せるような人間は、いったいどれほどいるのだろうか。


「……そこで悩んでどうするのよ」


 話してみれば少しは心が軽くなると美香に言われて、陸上大会での出来事を話していた。軽くなるどころか重くなり始めたのだけれど、どうすればいいのかな。


「だって」


「だってはナシ」


「でも」


「でももナシ」


「けどさ」


「けどさもナシ」


「今の関係を崩しなくない」


「あのね、理解わかってるとは思うけど、あなたが動かなくても周りはずっと動いてる。考えてる時間があるなら、まずは自分から進まなきゃ。……後悔したくてもできないことって、あるから」


 次の日、さっそくあたしは加奈に事の真相を聞くべく、彼女と一緒に帰る約束をしていた。ボラ部は当然ながら休み。というよりも、今日が夏休み前最後の登校日だった。


 夏休み中にボラ部の活動があるので、昨日の夜考えているときにそれでもいいかなと思った。けれど、すぐにその考えは捨てた。こんなにもやもやとした気持ちを抱えたまま夏休みに入るなんて、そんな中途半端なことはしたくない。


 陸上大会のときは流してしまおうと思っていた気持ちは、美香のせいで活性化されていた。なんてことをしてくれたの、ほんとに。


 心の内を顔に出さないように気をつけながら、あたしは待ち合わせ場所に指定した図書室へ向かった。本当は終業式が終わったと同時に、加奈を誘って帰りたかった。しかし、担任教諭に職員室へ来るように言われていたので、仕方なくそうした。


 彼女のことをこうして迎えに行くのが、なんだか懐かしい。ボラ部に勧誘したときも、こうして加奈のことをあれこれ考えながらだったっけ。


「お待たせしましたー」


 そう言いながら彼女が座っていた隣に立つと、ふふっという可愛らしい声を聴くことができた。


 そして帰り道。そのまま帰るだけでは、あたしはきっと、加奈に本当のところを聞くことができない。そう思っていたので、あえて河川敷のほうへと遠回りをして帰らないかと提案していた。もちろん、そんなあからさまに言ってしまうと不審に思われてしまうので、


「久しぶりに河川敷まで行かない?」と誘ってみた。


 河川敷に着いてから、加奈はなにを思ったのか、履いていた靴と靴下を脱いで、川の中に入っていってしまった。


「えぇ、まじで入るの?」


 そう聞いたときには、すでにくるぶしのあたりまで川の中。彼女は子どもみたいに、はしゃいでいた。


「紫織ちゃんもおいでよ! 水がぬるくて気持ちいいよ~!」


「しょうがないなぁ」


 加奈が楽しそうにしているのを見ているだけでは、どうにも収まらない感情がそこにはあった。


 結局、あたしも加奈と同じように子どもだった。


 散々遊んだ挙句、お互いにスカートを濡らしてしまった。そのまま帰るのも歩いているときに、気持ちが悪くなってしまうだろうということで、あたしたちは河川敷にある堤防のところの石階段に座って、濡れたところが乾くのをじっと待つことにした。


 一言二言交わしたあとで話題が尽きて、静かな景色の中で鳴いていたカラスの声が響いていた。なんだか気まずい雰囲気になり始めていたとき、それを破いたのは加奈だった。


「中津さんと最近、仲いいよね」


 あまりに唐突な言葉に、あたしは啞然としていた。まさかここで美香のことが出てくるとは、考えてもいなかった。


「美香は別に関係なくない?」


「全然関係なくない。……最近の紫織ちゃん、ちょっと遠く感じたもん」


 彼女の言葉に、あたしはほんのわずかな運命を感じていた。なぜならその言葉は、自分が感じていたことを言い表したものだったから。近ごろのあたしは、加奈に対して距離を感じていた。それは今でのものとは段違いに、大きなもの。


 だからこそ、彼女に接する方法すら見失いかけていた。こんなふうにおかしくなる前の自分は、いったいどうやって彼女と話していたのか。本来ならば、もっと気軽に話しかけるべき人に向けて、あたし自身が見えない壁を作ってしまっていた。


「でも、どうしてそんなことを言うの?」と聞くと、加奈はにっこり笑って答えた。


「だって、私たちは親友だから」


「親友?」と私は聞き返した。


 すると、彼女はあたしの遊んでいた左手を掴んで、こう続けた。


「妙によそよそしくて、寂しかったよ」


 今にも泣き出してしまいそうな表情になっていた。


 そんな顔が見たいわけじゃないのに。あたしはただ、加奈のことを誰よりも大切にしたいだけなんだよ。


「ごめん。加奈のこと、嫌ってるわけじゃないから……ね」


 やっぱり加奈のことが、あたしはどうしようもなく好き。だからとりあえず、今はこうして並んで座っていられることだけで、幸せに感じる。それ以上を望んでしまって、この関係が崩れる可能性があるのなら、あたしはこのままでいい。ううん、このままがいい。


「ありがとね、加奈」


「急にどしたの」


「言ってみたくなっただけ」


 加奈はあたしのことを親友だと思ってくれて、あたしは加奈が誰よりも大切にしたい人で。それでいいんだよね。


 今までと変わらず、仲のいい同級生。……ほかの子とは違って、特別に仲のいい友達。それでいいじゃないか。


 それ以上の気持ちを彼女に伝えてしまって、今こうして隣に居続けられることが叶わなくなる未来がもしあるなら、あたしはそこにいきたくない。そうなるくらいなら、恋人になんてなりたくない。


 だからもう、あたしは自分の気持ちを終わらせる。彼女が、この気持ちに気づいてしまう前に。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る