第三章 曖昧な関係

第6話 振り回される想い

 ボラ部の部長としての役割を放棄していたあたしが、そこへ帰ってきてはじめに気がついたことがあった。


「加奈ちゃんって、次の校外学習はなにについて調べるの?」


「えっとね。川の生態系がどうとか……」


 どうにも居心地が悪かった。二人のあいだに入っていこうとはなれず、ただぼうっと窓の外を眺めていることでしか自分の存在を置いておけなかった。


 気にせず、これまでのように自然と会話に参加すればいいと考えてみたものの、どうしていたのかすっかり忘れてしまっていた。あるいは、その時点でもう諦めていたのかもしれない。もうすぐ夏休みということもあり、定期試験があるのでボラ部としての活動を休んでいる期間だった。


 もう梅雨は明けたというのに、心の中はじめじめとした湿った空気で満たされていた。


 あたしがいなくても、ボラ部は続けられる。想像したくもない可能性が、部室の中では当たり前のように展開されていた。


 加奈をボラ部に勧誘したことで、神田くんとの距離を縮めてしまったという事実は、今更どうしようもない。そんなことは考えたところで、あくまでも机上の空論でしかないので、そもそも考えるだけ無駄だった。


 どうすれば、以前のように加奈と接することができるのかと考えてしまうほどに、あたしはもう感情の行く先を見失っていた。


 こうして悶々としているよりも、はっきりと言ってしまったほうが気が楽になるんじゃないかとも思ったけれど、そんなことをして二人の関係を壊すのはあたしらしくない。そう、今のあたしはあたしであって、富士宮紫織という皮を被っているにすぎない。


 それならば、もう正面からわざと当たりに行くことで、気持ちを伝えるしかない。


 部室では話したくなかったので、あたしは神田くんを試験終わりに第二音楽室へと呼び出した。


 第二音楽室がある文化棟は、部室や教室とは離れている。なのでこうしてこっそりと誰かと話をするには、うってつけの場所だった。


 先生から鍵をもらい、あたしは一足早く第二音楽室の中にいた。


「……懐かしいな」


 鍵盤に指の先を置いただけでも、思い出したくない記憶の蓋を触っているような、吐き気を催すほどの気持ち悪さを覚えていた。やはりあたしには、音楽は向いていない。それに、もう以前のようにピアノを弾くことだってできない。


 どれだけ懐かしんだところで、あたしが音楽を捨てたことに変わりはないのだから。


 窓際にあった椅子を動かして、あたしはそれに座って窓の外を眺めていた。そうでもしないと、必死になって抑え込んでいた感情が、一気に溢れ出てしまいそうだったから。もしかすると、あのときと同じことを繰り返そうとしているんじゃないか。そんなことを考えてしまうほど、精神的に不安定な状態になってしまっていた。


 神田くんに対して、感情的になりたくなかった。言いたいことはたくさんあった。けれど、頭の中で漂い続けているどの感情も、決して彼に向けて刺せるものではないと理解していた。どれもこれも、あたしの想像でしかなく、それは加奈にとってもいい方法とは思えない。


 ここまで考えた末に彼に伝えるべきことは、たった一つの想いだけ。もしそれでも彼が動かないというなら、あたしは進もう。


 夕陽がだんだんと小さくなり始めた頃、神田裕二は第二音楽室の入り口に現れた。


「電気、点けないの?」


「そうだね。点けて」


 数回チカチカと蛍光灯が光ったあとで、第二音楽室が明るくなった。


「それで話ってなんだい?」


「…単刀直入に聞くけど、神田くんは加奈のことどう思ってるの?」


 ごまかすつもりはなく、ただ彼の気持ちを確かめることをなにより優先させたかった。しかし、それならもっとはっきり言ったほうがよかったのだろうか。


 考えても仕方のないことを思考の渦に巡らせていると、神田くんはようやく口を開いて話し始めた。


「どうって言われてもな」


「あたしがいなかったあいだに、二人になにがあったのかくらいは、部室に行っただけで気づいたけどなぁ」


 復帰したあたしを待っていたのは、加奈でも神田くんでもなく、より親密になっていた二人の仲の良さだった。はっきり言えば、居心地が悪くてたまらなかった。だからこそ、もうこの際白黒つけてしまいたかった。


 神田くんがもし加奈と”そういう”関係になりたいというなら、あたしは止めるつもりはない。むしろ応援しようと思っているくらいだった。なにが気に食わないのかというと、神田くんが加奈に対する感情を示してくれないことが嫌でたまらなかったんだ。


 なにより、加奈をもし万が一なんとも想っていないというのなら、あたしが入り込む余地があるということになる。そういう意味で、あたしは彼の気持ちを知りたい。


「加奈ちゃんのことは、仲のいい女子のうちの一人だと思ってるよ」


「うん」


「……それだけだけど」


「それだけってことはないでしょ」


 加奈のこと、好きなんじゃないの。喉のあたりをつついていたのは、そんな言葉だった。あたしは神田くんになにを求めている?


 きっと認めてほしかった。彼女のことを好きなんだと、そしてその気があるんだと。けれどそれはただの幻想にすぎない。思い通りにならないからといって、ここで彼にあたることだけはしたくなかった。


 それなら、あたしは自分の抱えている気持ちをぶつける。覚悟はもうしていた。彼に告げることでなにかが変わるんじゃないかと、そんな願いを込めながら、あたしは神田くんの目をしっかりと見定めた。


「あたしが加奈のこと、取っちゃってもいいの?」


 初めから、こうすればよかった。誰よりも真剣に彼女のことを想っているのは、ほかの誰でもないあたしなんだよって、伝えたかった。


 ほんの少しだけ軽くなった自分の心を撫でるように、あたしは胸のあたりにそっと手を置いた。


「どういう意味だよ、それ」


「加奈のことが好きってこと」


「…え、あ…そうなんだ」


 それからしばらくのあいだ、第二音楽室にある黒板の上で刻み続ける時計の音が、ただ響き続けていた。どんな待ち時間よりも長く、一日という時間よりも重く、あたしは神田くんが着ている白シャツのボタンを見つめるしかできなかった。


 どれくらいたったのかを確認するほどの余裕はないまま、静寂を壊すべく声をかけた。


「話はそれだけ。それじゃ、あたしはピアノ弾いてから帰るから、先に行ってていいよ」


「……分かった。じゃあ、また部室で」


 また曖昧なままになっちゃったな……。


 弾きもしないピアノを前にして、鍵盤を眺めることしかできない自分のどうしようもなさをなげいていた。あたしにはもう、ピアノは弾けない。そのことを強く思い出させてしまった自分自身に、苛立っていた。


 あたしはまた、逃げてしまった。

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