第5話 気持ちの天気
休んでいるあいだも、あたしは加奈のことばかり気になっていた。体調も悪い状態が続いて、最終的には風邪をひいてしまった。
加奈とのことがストレスの原因だったのか、自分でもよくわからなかった。彼女について考えることさえも、今は嫌で嫌で嫌でたまらなかった。喉のあたりでずっと引っかかり続ける白い塊のように、吐き出したい気持ちでいっぱいだった。
もう部活のことなんて忘れてくれればいいのに。そうすれば、あたしだって加奈のことを考えずに済むのに。ううん、でも忘れてほしくない。ただでさえ心細いのに、それに加えて忘れられでもしたら、いったいどうしようか。
考えるだけでは想像でしかない彼女のことを考えれば考えるほど、消えてしまいたいと思うほどに辛かった。
ピンポーン
いつからだろう。家の中で機械的な電子音が響いていた。それに対して応じる人があたし以外にいるはずがない。仕方がないと思いながら、布団の上にへばりついている身体を必死にはがすようにして起き上がり、ふらふらとした足取りで廊下を進み、インターホンの受話器を取って口を動かした。
「はい…どちらさまでしょうか?」
「あ、あの」
「新聞とかなら結構ですので」
「……林原という者ですが」
ハヤシバラ。はやし、ばら。林薔薇?
いや、違うな。林原さん。
「いったいどういう用件でしょうか?」
「富士宮紫織さんは家に居ますか」
どうしてそこであたしの名前が出てくるのだろうかと考えを巡らせてみるものの、問題解決には至らなかった。あたし以外がいないこの家に、誰かが訪ねてくることも珍しくはないものの、そういう人たちはまず会社名を先に言ってくれる。つまり、そういう人ではないということだった。
それなら、いったい誰……。あ。
「もしかして、加奈?」
「え、紫織ちゃん!?」
あたしは、受話器を定位置に戻して玄関へ向かった。急いで鍵を回して扉を開けると、そこには何回見ても見飽きることのない、彼女の姿があった。まばたきをして、目をこすってみても、そこにいるのは変わらなかった。
「加奈、どうしたのこんなところまで」
「紫織ちゃんのお見舞いに来たんだけど、邪魔だったかな」
「お見舞い? あたしの?」
「当然だよぉ」
ふらふらしているあたしの肩を抱えるようにした加奈は、少しためらいながらも家の中に入っていった。そのままだと危ないとでも考えたのかな。
いずれにしても、加奈がここへ来てくれたということだけであたしは嬉しくてたまらなかった。ただそれ以上に、彼女に対しての罪悪感が心の中を侵食し始めていた。迷惑をかけてしまって申し訳ない、あたしなんかのために。そんなことばかり考えていた。
「とりあえず、紫織ちゃんの部屋に連れて行くね」
「……ごめんね、加奈」
「いいのいいの。病人さんなんだから、無理しちゃだめ」
「うん。ありがとね」
加奈は一旦あたしを床に下ろして自分の靴を脱ぐと、またあたしを抱えるようにして廊下を進み始めた。彼女はそんなに体力がない。きっともう無理をしていることは聞かなくても分かっていた。けれど、自分の身体がどうにも言うことをきいてくれなかった。
「紫織ちゃんの部屋、前来たときと変わってないよね?」
「うん。突き当りを右、ね」
こうしてあたしが運ばれるのは、これが初めてではなかった。数年前まで病気がちだったあたしは、何度か加奈に助けられていた。いつかあのときの恩を返したいと思いながら過ごしてきたものの、加奈は見た目とは裏腹に意外と風邪をひいたりしない。健康である証拠なので、それはそれで彼女らしいといえばそうなのだけれど。
自分の部屋に戻ってきたあたしは、加奈のおかげで再び布団に入っていた。彼女と密着していたせいか、元からそうだったのかの判別はつかないが、身体中が
「ちょっと、急に笑ったら怖いよ」
「ん、ごめん」
「いいけどさ。はい、口開けて?」
「うん」
加奈はお見舞いに来てくれただけでなく、ご飯まで作って食べさせてくれた。気を遣わせているという事実だけでも有難かったあたしは、彼女がご飯を作ると言い出したときに丁寧に断った。しかし、それに対して、
「あのね、病人さんは病人さんらしくしなさい!」
などという意味不明なことを言い始め、結局おかゆを作ってくれた。なんていい子なんだと、布団の隣に正座して座っている彼女のことを見ながら、再度ニヤついていた。
天使のような彼女の振る舞いに惚れ惚れしながらも時間は過ぎていき、窓から差し込んでいた夕陽はいつのまにか消えていた。いくらあたしが頼りないからといって、これ以上彼女のことを引き留めておくのはいけない。
「ねえ、加奈。もうそろそろ、帰ったほうがいいんじゃないかな」
帰ってほしくはない。そうすると、またここが虚無空間になってしまうから。けれど、それとこれとは話が別。離れたくないと思っているときに振り切らないと、いつまでもこうして加奈の優しさに甘えてしまうことになるのは、分かりきっていた。
「ん……でも」
「大丈夫だよ。ちゃんと寝て治すから」
「うん」
これじゃ、どっちがみてるほうか分からない。加奈はきっと、このあとあたしがまた一人になってしまうことを考えてくれているんだろう。だって、彼女は優しい。
「元気になったら、また学校行くから。ね?」
「そだね」
「ありがとう、今日はわざわざ来てくれて。……ものすごく嬉しかった」
「ううん。紫織ちゃんに会いたかったから、来ただけだよ」
心なしか数時間前と比べると軽くなっていた身体を動かして、加奈のことを玄関で見送った。自分の部屋に帰るまでにキッチンをふと見てみると、ためていた洗う前の食器類が綺麗に片付けられていて、感謝の気持ちが溢れてしまった。
とりあえず今の気持ちを伝えたいと想ったあたしは、布団の近くに放置されていた携帯電話を手に取り、加奈へ感謝の気持ちを綴ったメールを送った。
その次の日、ふすま越しに物音がしていたので、きっと帰ってきたんだろうと思ったものの、あいさつすらする気になれず、そのまま再び眠りについた。数度目が開いたあと、気がつくとあたりは真っ暗で、時計を見ると二時になっていた。
なんとなく眠る気にはなれず、身体を少し動かしてみると、それまでの重さが嘘だったかのように軽かった。それはまるで、重力が半減したかのような錯覚に陥りそうになるほどだった。
そうはいっても、病み上がりの身体には変わりなかったので、そのままなにかをする気にはならなかった。そこでテーブルの上にある携帯電話を見てみると、白いランプがゆっくりと点滅していた。
誰かからメールかなと思い開くと、新着メールの欄に加奈の名前があった。
『Re:お見舞いありがと
こっちこそ、急に家まで行ってごめんね!机の上に昨日配られたプリントも置いてあるから、体調がよくなったらみてみてー』
それを見てようやく、自分からメールを送っていたことを思い出した。こんな時間に返信するのは起こしてしまって迷惑なので、そのまま待ち受け画面に戻した。
結局、それからは眠っていたのか起きていたのかが曖昧になったまま、その日の夜は明けていった。寝不足だろうがなんだろうが、あたしはもうこれ以上、学校を休む気にはなれなかった。それは家にある食材が尽きたとか、そういう理由ではない。
あたしは、加奈に
「紫織…!」
学校に向かう途中の通学路で声がかかり、それと同時に誰かがあたしの身体に抱きついてきた。振り向かずとも、それが誰であるかは明らかだった。風邪とともに訪れていた重くどんよりとした空気は、いまだに心の中でうごめいていた。
「加奈、おはよ」
「おはよ…じゃないよ! もう大丈夫なの?」
「うん。まあ、本調子とは言えないけど、元気にはなったよ」
そう返すと、くっつき過ぎではないかと指摘したくなるほどに、加奈はあたしの腕に自らの腕を絡ませていた。今でもごく当たり前にされていたその行為も、なぜだかとても特別な意味を含んでいるかのように思えてきて仕方がなかった。
ずっとこうして会っていなかったからこそ、すぐそばにいる安心感が以前と比べると増していた。
「よかったぁ。……あ、そういえば今日の数学で小テストあるらしいよ」
「まじか。病み上がりに厳しいなーそれは」
彼女がこうしてそばにいてくれる。たったそれだけの日常が、あたしにはとんでもなく眩しかった。
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