第4話 迷いと葛藤

 あたしは加奈と二人きりで話すことに、心のどこかで抵抗を感じ始めていた。神田くんと加奈が自然に仲良くなってくれることを願うほどに、あたしは蚊帳の外の存在だと思わざるを得なかった。


 ボラ部の中に三人でいるときは、なんの問題もなく二人と話せるけれど、彼女と二人きりになるとどうすればいいのか分からなくなり、離れてしまう。それと反対に、神田くんと話すことは以前と同じようになんの問題もなく話せていた。これではまるで、あたしが神田くんのことを好きみたいじゃないか。そんなわけないんだよって言いたい気持ちはあったものの、そう言ってしまうとより疑心暗鬼になってしまうかもしれないと思い、やめた。


「神田くん、来月陸上大会なんだって?」


 加奈は神田くんの話を聞くと、顔をほころばせていた。あたしも同じくらいの興味を持っていたけれど、なぜかそう言えなかった。神田くんと加奈が話している最中、あたしはただ黙っているしかなかった。加奈と神田くんが仲良くなってくれるのは嬉しいけれど、三人ではなく、二人と一人でないと一緒に居ることができないなら、あたしは二人にとってどうあるべきなんだろう。


「あの、あたしたちボラ部で準備会手伝う予定だから、ついでに応援行ってもいい?」とあたしは必死に言葉を紡いだ。


 加奈と神田くんが驚いた様子でこちらを見てきた。


「もちろん、一緒に応援に行こうよ!」と加奈が笑顔で返してくれた。神田くんもにっこりと微笑んで、あたしは少し安心した。それでも、あたしの心の中では迷いと葛藤が続いていた。その気持ちを振り切るために、あたしは二人と向き合わないといけないのだろうと考えていた。


 


 あたしは自分がなにをしたいのか、なにを感じているのかを改めて整理する必要があると感じていた。神田くんと加奈が仲良くなることが悪いことではないし、あたし自身も三人で楽しく過ごせたらそれが一番だと思っている。けれど、一人になったときに、あたしの気持ちはどうなるのだろうか。考えを整理するために、あたしは一人で散歩に出かけることにした。


「ただいま」


 誰もいない真っ暗な家の中へいつも通りに小声で呼びかけて、かばんを玄関に置くと、あたしはまた街灯の点き始めた道を進み始めた。


 散歩をしながら、自分が感じていることを考えた。神田くんと加奈が仲良くなってくれることは嬉しいけれど、自分が二人の邪魔をしてしまうのではないかという不安は変わらずあった。でも、それはただの妄想かもしれない。もしかしたら、神田くんと加奈もあたしと同じような気持ちをもっているかもしれない。


 そう思うと、あたしはもう少し積極的にならなければいけないと感じた。自分から話題を振ったり、二人から話を聞いたりして、自然な形で三人で過ごすことができるようにならなければいけない。


「相手がいないと面白くないな」


 重力に反して上がらずにまたがって下がったままのシーソーを見つめて、孤独な感情を持て余していた。ぐちゃぐちゃになってしまった想いの終着点を見つけられないまま、あたしは真っ暗な空を見つめることしかできず、なぜだか泣きそうになっていた。


 それから、あたしはボラ部の活動に全力で取り組むことにした。神田くんと加奈と一緒になって、今まで通りのグラウンド整備や掲示板の掲示物張替え、公民館での催しの準備係といった様々な活動を通して協力し合い、仲を深めることができた。


 二人に対して自分から積極的に話を振ることで、三人で楽しく過ごすことができるようになり、あたしの抱えていた迷いと葛藤は日に日に少しずつ薄れていった。


 これでやっと、もとのあたしらしくいられる。そう思い始めていたところで、あたしは思いもよらぬ話を耳にすることになった。


「加奈ちゃんが神田くんの告白、受け入れることにしたらしいよ」


 昼ご飯を食べていると、クラスメイトがそう言った。そのあまりに不意打ちなその言葉に、あたしは辛い気持ちを隠す暇もなく、ただ戸惑っていた。持っていた菓子パンを机に置き、次の瞬間には立ち上がって声のしたほうへと歩いていた。


「ねえ。それ誰から聞いた話?」とあたしはいつもよりも元気のない声で問いかけた。


 元気なんかあるわけなかった。一大事だった。けれど、心のどこかであたしは、これもきっとうわさでしかなかないと思い始めていた。そうしないと、自分がどうにかなりそうで仕方がなかった。


「隣のクラスのね……えっと、名前なんだっけ」とその子はあさっての方向を見ながら言った。


 その様子を見て、きっとこの子も人伝いで聞いたに違いない、そう確信した。


「分かった。ありがと」


 あたしは、それ以上なにも聞こうとは思わなかった。ただ、その場から立ち去ることしかできなかった。姿が見えない加奈のことを探しに行こうかとも思ったけれど、それを実行に移す勇気は出なかった。そのまま昼休みをふらふらと過ごしてしまい、チャイムが鳴る間際に教室へ入り自分の席に戻ると、菓子パンが寂しそうに待っていた。


 ああ、そうか。今のあたしは、きっとこの菓子パンのように無表情で、悲しい。


 放課後の居場所がなくなった。夏とも春とも言い難いこの時期、ボラ部にとっては閑散期だった。


 神田くんは陸上大会に向けての走り込み練習を毎日しているみたいで、ここ数日はボラ部に顔を出していなかった。そのため、部室の中は加奈しかいない。つまり、今あたしがこれまでのようにそこへ行くと、加奈と二人きりになってしまう。それだけは避けたかった。せめて、神田くんと加奈の関係性をはっきりさせたあとにしたい。


 そうなると、自然と足が向くのはこの場所だった。


「もしもし、紫織ちゃま? もう閉館の時間ですよ?」


「なんでまた美香がいるんだ」


「それはこっちのセリフ。ボラ部部長のくせに…さてはサボり?」と美香はからかうように言った。


 ボラ部にも家にも居場所などなく、ただ静かに自分という存在を沈めるには、図書室が最適だと知っていた。つい最近まで加奈がここで本を読んでいたので、あたしが代わりにここで寝ることにした。あんなにこの場所を好いていた加奈は、今もここにいるのかな。


「しょうがないね。ここは中津美香に任せなさい! どうせ加奈ちゃん絡みのこじらせでしょ?」


「……美香に隠し事はできないなぁ」


 図書館にも部室にも行けないので、あたしは美香と一緒にいつも来る公園に来ていた。正面玄関に行くまでの廊下で千里先生に遭遇したけれど、部活のことは上手くごまかした。きっと部室の鍵を加奈が借りているはずなのに、どうしてあたしは帰ろうとしているのだろうと思っていたはず。もう、あたしが部長であることを放棄したいほどに、ボラ部から離れている自分に嫌気がさしていた。


「それで、加奈ちゃんのなにが気になってるの?」


「うん…また新しいうわさが流れたの、知ってる?」


 もう口にすることさえも辛かった。うわさ通り、本当に神田くんと加奈が付き合うことになったのか。そればかりが気になって、なにも手につかなかった。


「ああ、やっぱりその話ね」


「別に二人がくっついてほしくないわけじゃないけど、それが本当になってしまったときに、あたしは心の底から喜べるのかなって」


「紫織ちゃんって寂しがり屋だよねぇ」


 神田くんと加奈が一緒にいるとき、あたしは邪魔者になってしまうのだろうか。自分のことばかり考えてしまうあたし自身に嫌悪感を抱きつつも、捨てる場所のない怒りを吐き出せずにいた。


 あたしは、もし二人が付き合っているのなら、素直に彼女たちを祝福するつもりだった。けれど、それと同時に、自分が寂しい気持ちを抱えていることをはっきり自覚しなければいけないことになる。


「うるさいなあ……そんな分かりきってること、今更言わないで」


「はいはい」と美香はあたしとは目を合わせず、どこか同情するようなそぶりを見せた。


 きっと加奈のことが好きというわけではなく、自分が寂しい気持ちを抱えているだけと思ったほうが、なんだか気持ちが落ち着くような気がした。彼女たちが一緒にいるときに、あたしは邪魔者になってしまうかもしれないけれど、それは彼女たちの問題ではない。そんな当たり前のことでさえも、あたしは見失いそうになっていた。


「このまま三人でいるのは、叶わないのかな」


「それはあなた次第じゃない?」


 あたしは神田くんと加奈のことを大切に想っている。それ以上に、ボランティア部という居場所を大事にしてきた。その二つを天秤にかけることなんてできるはずがなく、ボラ部よりも二人のことを優先させてしまう自分が、確かにそこにはいた。


「もう、どうすればいいのか分かんなくなっちゃった」とあたしは逃げるように呟いた。


 美香と一緒にブランコを漕ぎながら、自分の気持ちから目を背けていた。本当はもっと単純なはずの問題が、いつのまにかあたしの頭の中を埋め尽くしていた。


 それでも、あたしが自分の気持ちを素直に伝えられたら、きっと答えが見つかる気がした。二人が付き合うことが本当にあたしにとっての幸せなのか、それともただの嫉妬心から来るものなのか、自分自身がよく考えてから行動する必要がある。けれど、それが一番怖いことでもあった。


 あたしが二人のことを止めることなんて、できるはずがない。そんなこと、できっこないよ。


 それから一週間ものあいだ、あたしは徹底して神田くんと加奈のことを避け続けた。こんな子どもみたいなことをしていても、それは目隠しをしているだけだと理解していた。けれど、そうする以外に自分の心を保ち続ける方法を見つけられなかった。


 そういったこともあいまってか、加奈からこんなことを言われるだなんて、想像すらしていなかった。


「紫織ちゃん…わたしのこと嫌いになった?」


 わたしからすると、それはあまりに唐突な言葉だった。


「嫌いになんかなってないよ。……そんなわけない」とあたしは素直に言った。


 加奈はそっとあたしの手を握って、微笑んでくれた。たったそれだけのことで、なぜだか泣きそうになっていた。


「ありがとう。わたしは、これからもボラ部は三人で楽しく過ごせたらいいなって思ってる。紫織ちゃんと神田くんがいないと寂しいもん」


 あたしは加奈の言葉に安心した。自分が一人で悩んでいたことがとても馬鹿らしく感じられた。寂しいと感じていたということを、加奈が自ら言ってくれたのが心の底から嬉しかった。そこで気持ちが溢れないように締めていたひもが、一気に緩んでしまった。


 もう我慢できない。感情に任せてその言葉を口にしてしまうと、引っ込みがつかなくなってしまうことは考えなくても分かっていたけれど、自分自身の気持ちを抑え続ける限界はとうに超えていた。


「神田くんと、なにかあった?」


 彼の名を口にしたと同時に、あたしはものすごく後悔した。そうすることで、ごまかすこともできなくなり、加奈に彼とのことを気にしていると改めて知られてしまった。


「…神田くん? ううん、なにもないけど、どうしたの急に」と加奈は先ほどまでとは違い、心配そうな表情でこちらを覗き込んでいた。


 あたしは彼女の目を見て、本当にそうだったのかどうかを確認しようとした。けれど、彼女の目には嘘や隠し事の気配はまったくなかった。あたしはため息をついて、自分がいかに彼女自身のことを考えているかを想い、辛さのあまり彼女から目線を逸らしてしまった。これ以上目があったままだと、なにかを読み取られてしまう。


 加奈の優しさに触れ、あたしは自分が彼女を傷つけることになるかもしれないという恐れから、口を開けずにいた。加奈はあたしの心情を理解しようとしているのか、再び静かに手を握ってくれた。


「紫織ちゃん、ほんとにどうしたの? 大丈夫?」


「……うん、なんでもないよ。ありがとう」


 あたしは加奈に微笑みかけ、彼女の手を握り返した。自分の感情を吐露する勇気がなかったことを悔やみつつも、彼女たちが幸せであればそれでいいと思いたかった。自分が寂しい思いをしても、彼女たちが笑顔でいるならば、それが一番だと思っていたかった。


「加奈、ありがとう。本当に」


「いつでも話を聞くからね。最近、紫織ちゃんと話せてない気がするから、ちょっとだけ寂しかったんだ」


 加奈の言葉に胸が熱くなり、あたしは彼女を抱きしめた。自分が一人じゃないことを知り、少しだけ心が軽くなった。そして次の瞬間、あたしはついに我慢の限界を迎えた。


「ねえ、加奈」


「ん、うん。どしたの、紫織ちゃん」


「あたし、加奈のことが好きなんだ。どうしようもなく、大事なんだ。でも、どうしたらいいのか分からないんだ」


「…え?」


「好きで頭の中がいっぱいになっちゃって、ずっとどうにかなりそうだった」


 自分が吸っている空気が、加奈の香りで満たされていた。彼女は驚いたような表情で、しばらくあたしを見つめていた。そのあとの反応を恐れていたけれど、そのまま静かに手を握られた。彼女は微笑んで、あたしの言葉にこう答えた。


「ありがとう。わたしも紫織ちゃんのことが好きだよ。だって、ずっとわたしの親友だもん」


 ああ、そうだった。あたしは、加奈にとって親友以上の関係にはなれないのを、ずっと分かっていたはずなのに。好きという言葉を口にする前よりも、自分の心が重くなっていた。


 なんの前触れもなく、自分の感情がおかしくなってしまった。目線を一か所に収めることさえままならず、気がつくとあたしは加奈の肩をしっかりと掴んでいた。これ以上離れてほしくないという気持ちと、自分のことなんて気にせずに放り捨ててほしいという気持ちが拮抗きっこうしていた。


 あたしの初恋は散った。感情をあらわにしてしまった、自分のことを赦すことができなかった。そして、それからしばらくのあいだ、部長としての役割を放棄し、授業を受けることさえも休んでしまった。


 そのあいだも、両親に対して登校しているという事実を作り上げるため、制服を着て通学かばんを持ち、かばんの中には私服を詰めて電車に乗り込んでいた。


 今日は、どこへ行こうかな。

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