第2話

「何事だ。深夜にやかましい」


出てきたのは落ち窪んだ目が印象的な老人だった。

深夜の無礼な来訪に機嫌を損ねているようにも聞こえる、低くて無愛想な声だった。

声を発そうとして息を吸うが、走ってきて乱れている呼吸と緊張から喉がひゅっと鳴る。震えながら何度も早い呼吸を繰り返し、言葉の前に藤の籠を差し出した。


「なんだこれは」


赤ん坊は生成りの布にくるまれ、老人からは見えていないらしかった。

女はやっと呼吸を落ち着け、「赤ん坊です」と言った。

老人は一つ息を吐き、指先で布を剥がす。

そのゆっくりとした動作を見つつ、女はあることを思い出していた。

村の外れの高台に住まう魔導師は、治癒の魔法を使うのに桁外れの金を要求してくるという噂。

だから女は自分が病に罹った時に諦めたのだ。娼館への借金を背負う身の自分では、魔導師の治癒は受けられないと。


差し出した籠を引っ込めるわけにもいかず、寒さと重さで腕を震わせながら女は絶望していた。

私では、この子を生かせない。この子を救うだけの金を用意出来るはずもない。

女は品定めするような老人から顔を背け、唇を噛み締めて溢れ出そうになる涙を堪えた。

最期の最期まで自分は滑稽だ。死ぬ前にやっと叶えたいことが見つかったというのに。

諦めて腕を下ろそうとした時、「入りなさい」と老人の声が上から降ってきた。


「え」

「早く入りなさい。部屋の中まで冷えてしまう」


その声は、最初に聞いた声よりも幾分か柔らかく響いた。


人の気配の薄い家は、どうやらこの老人が一人で暮らしているらしかった。

ということはこの老人が魔導師であるのだろう。桁外れな金を要求すると噂されているにしては、部屋の中は質素だ。

使い込まれた家具と、色褪せた絨毯。どれも確かに上等なもののように見えるが、年月が経ちすぎていて今や価値の無いものだろう。

しかし、その雰囲気は女を少し安心させた。安っぽい装飾でギラギラと飾り立てた娼館での世界で長く生きた女には、この少しくたびれた空間が遠い記憶の生家を思い出させたのだ。


勧められるまま暖炉の前の椅子に腰掛ける。

赤ん坊には暑いくらいかもしれないと、布を数枚剥がしてやった。

見れば見るほど美しく、そして貧相な赤ん坊だった。

赤ん坊はすやすやと寝息を立てているが、やはり空腹なのか自身の親指を口に充てている。わずかに開いた口から涎がこぼれているのを見つけ、布でそっと拭う。


「ヤギのミルクを温めてきた。が、なんだ

寝ているのか」

「はい、暖かい部屋に安心したのでしょう」


愛おしそうに赤ん坊を見つめる女の手が赤ん坊の額を撫でようとそっと伸ばされ、触れる直前で怯えるように止まった。


「移る病だな。娼婦か」


女は俯くことで肯定した。次の言葉をどう繋げば良いのかわからない。思わず「すみません」と言いそうになるところを魔導師が遮った。


「お前の病を直してやろう」

「は?」


呆けていると、魔導師が熱い薬草茶の入ったカップを渡してきた。


「違うんです。治して欲しいのは私ではなくてこの子なんです…!」

「対価としてこの赤ん坊は私がもらう」

「え…?」


女は青ざめた。自分の手の平から、ジクジクと膿んでいた発疹が消えていくのを見たからだ。契約は履行されてしまった。

赤ん坊はどうなる。この魔導師は赤ん坊をどうしようとしているのだ。

対面してまだそう時間も経っていない。女は魔導師を信じることなど出来ず、思考は悪い方へと歩き出してしまう。


「しかし、赤ん坊だけでは安すぎるな。お前が育てるのだ。

赤ん坊の命と、お前の労働により対価は成立する。

易々と死ねなくなったな」


全てを見通しているかのように魔導師はニヤリと笑い、赤ん坊に近づくとその頬を撫でた。

まだ理解の追いついていない女を振り返り、「お前も」と言う。

女はその時、本当に救われたことを悟った。

発疹の無い指で、赤ん坊の額をそっと撫でる。暖かい。

赤ん坊は重たげな瞼をゆっくりと開いて笑った。





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