銀の髪の魔女
ミズコシ
第1話
海の音が聞こえる。
ざざん、ざざんと絶え間なく寄せては返す。
呼吸のようなその音を聞きながら、ウラは丁寧に短剣を研いでいた。
海の音のおかげで心が静まっている。そのような時に研いだ短剣は通常よりも切れ味が増すように感じている。
ウラに家族はいなかった。
生まれた時から一人きり。
村唯一の娼館の前に、ある寒い冬の満月の夜に捨てられていたのを拾ったのは男から病を移され、もう客を取ることの出来なくなった下位の娼婦だった。
自身の美しさのみを武器にして苦界を生き抜いてきた女にとってこの病は酷く辛いものであった。
スッと通った高い鼻も長い手足も発疹に覆われ、女は鏡を見られなくなりやがて心を病んでいった。
もう死のう。そうだ、灯台のある岬の崖から身投げをしよう。
そう決意すれば心は晴れた。
娼館が忙しくなる深夜、女は清々しい気持ちで重厚な作りの玄関ドアを開けた。
周囲は酒場の客で賑わっている。
女はもう、顔を隠すこともしなかった。だってこれから死ぬのだから。
誰に見られても構わなかったが、酒に酔った者たちはそもそも女の顔など見てはいなかった。
薄ら笑いを浮かべた女がいざ一歩を踏む出した時、その赤ん坊の声が聞こえた。
泣き声というにはか弱すぎる小さな声が、しかし確かに耳に届いた。
女が周囲を見回すと、娼館の周りの生垣の一部が不自然に窪んでいる。
小ぶりな籐の籠の中には生成りの布がいっぱいに詰め込まれ、その中に埋まるようにして赤ん坊がいた。
見たこともない銀の髪の、それはそれは美しい赤ん坊だった。
赤ん坊は銀のまつ毛に縁取られた愛らしい目を大きく開けて女を見た。
見た瞬間に笑った。
笑って手を伸ばす赤ん坊を見て女は、「この子を生かさなければならない」と強く思ってしまったのだ。
赤ん坊にしては痩せた指と痩けた頬。まともに乳をもらえていないのだろう。
伸ばした手を取ってもらえないことを悟った赤ん坊は、力無く腕を下ろした。
女は病を持つ自分が、素手で赤ん坊に触れるのはきっと良くないだろうと思ったのだ。本当はその手を取って頬擦りしたかったというのに。
赤ん坊を藤の籠ごと抱えて女は歩き出した。
赤ん坊を気にして最初はゆっくり歩いていたが、寒さのせいで次第に気持ちが急いていく。最後には駆け足になって、女の頭の中に唯一浮かんだ行き先に向かう。
早く、早くこの子を暖かいところへ連れて行かなければ。早くこの子が生きられるという確証が欲しい。
自由というものの無い世界で生きてきた女にとって、それは初めての欲求であった。
女は走って走って村の外れの高台にある、魔導師の家のドアを叩いた。
もうとっくに世俗から隠居していると言われる高齢の魔導師。
女は会ったこともなかったが、治癒の魔法に長けているという噂を耳にしたことがあった。
それであれば、寒空の下に捨て置かれていたこの子がどんな状態であったとしてもきっと命を繋いでくれるだろう。
そんな一縷の望みをかけて女は、何度もドアを叩いた。
普通ならば人々の寝静まっている時間。そしてここは村の外れの高台だ。
叩く音は響くけれど、出てきてくれる保証は無い。
不安とどうしてもこの子を生かしたいという気持ちで、女は拳が痛くなるほどにドアを叩いた。
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