第3話
起きた赤ん坊に、銀のスプーンでやぎのミルクを与えてやることにした。
よほど空腹だったのか、赤ん坊は一筋もミルクをこぼすことなく上手に飲む。
ミルクを与える女に魔導師は名前を聞いた。
女は娼館で呼ばれていた名を伝えた。
「しかしそれは、お前の本当の名ではないな。真名は洗礼の儀式の際に司祭より与えられるもの。私には司祭の権限はないから、与えてやれるのは飽くまで呼び名だがそれで良ければこれからはラナと名乗ると良い。ラナとは、美しい花を表す名だ」
女は、赤ん坊を見つめながら涙を流した。
娼婦として生活していた頃、自分を買った男から「僕の美しい花」と囁かれたことを思い出した。
あの男は優しかった。自分を物のように扱うのではなく、例え娼館の中でのみの関係だったとしてもそこに愛があるのではないかと思わせてくれる夜を過ごした。
「有り難く、受け取らせていただきます」
赤ん坊を胸に抱き、ラナは頭を下げた。
「赤ん坊にも名を付けようか」
魔導師がそう言うと、いきなり部屋の中の湿度が上がった。むわっとした空気の中、海の香りが立ち昇る。ラナは異様な気配に怯えるように赤ん坊を強く抱いた。
魔導師は「やはり来たか」と小さく呟き、椅子から立ち上がってその場に跪いた。
床に青白く光る陣が出現し、そこからゴポゴポと音を立てて水が湧き出してくる。海水だ。
人が一人すっぽりおさまるほどの水柱となったそれは、しゅるしゅると回転しやがて人の形となった。
「久しいな、魔導師ダイレン。忠実なる者よ」
低く、聞き心地の良い声でその精霊は言った。
「お会いせぬ間に老いぼれとなりました。あなたはいつまでも若くお美しいままだ。マナナン・マクリール」
魔導師ダイレンは立ち上がると、偉大なる海の精霊の名を呼んだ。
「やっとその時が来たな」
「えぇ、銀の髪の乙女とようやく出会えました」
「そちらの女は」
「これから共にこの子を育てていくこととしました。ラナといいます」
ラナは怯えながらも顔を上げて、マナナン・マクリールを見た。
流れるような長い金の髪に白く薄い肌。女のように美しい顔立ちをしているが、それでいて体にはしっかりとした筋肉を纏っている。銀色の鎖かたびらと、金属のブーツを身につけており、どうやら戦士のようだ。腕輪には光り輝く珊瑚と真珠で装飾がされ、高貴な身分を表しているようだった。
「ただの人の女に、この子が育てられるのか」
「ただの女ではありません。この子のために生きると決めた女です」
ダイレンが助け舟を出すが、マナナン・マクリールは更にラナに詰め寄った。
「ラナ、この子は複雑な業を背負って生まれた。この子の生きる道は険しいものとなるだろう。それを母親として見ていられるのか。育てる覚悟はあるのか」
責めるようなマナナン・マクリールの声に、ラナは肩を震わせる。
しかし、一度強く口を引き結んだ後にマナナン・マクリールの目をしっかりと見て言った。
「私は、この子の母親になれるなどと思っていません。
ただ、死ぬことしか考えられなくなっていた不用品の私にこの子は笑って手を差し伸べてくれたのです。
愛するにはそれで充分でした。
親に育てられたことのない私が立派な親にはなれません。しかし、愛することを止めることも出来ないのです。もはや私にはこの子が生きる意味なのですから」
その言葉にダイレンは深く頷き、マナナン・マクリールは笑った。
「この子にはウラと名付ける。海の加護を持つ者、海の宝石の名だ。
ウラに洗礼は必要ない。真名は自分で見つけ、やがて自分の力で自分が何者かを知るだろう」
マナナン・マクリールはそっとウラの額に手をかざすと、指先で小さな文字のようなものを書いた。
それは先ほどの陣と同じように青白く発光し、やがてウラの額に吸い込まれていくようにして消えた。
「私の息子との縁を繋いだ。彼はウラを守る者。
今はまだ幼い子どもだが、成長すれば必ずウラの力となるだろう。
14歳の春に二人は出会う。これは必然であり、二人の運命が始まる」
それまでお互いに愛しき命を育てていこう、と言って微笑むと、マナナン・マクリールはまた水柱となり陣の中へ吸い込まれるように消えていった。
その様子を見届けてラナは、気が抜けたようにその場に座り込んでしまった。
「偉大なる海の精霊にあれだけのことを言ったというのに、情けない様だな」
ダイレンは楽しそうに笑って、ラナに手を貸してやる。
「ウラのことを少し、話さなければならないな」
二人は椅子に座って向かい合った。
ラナの腕の中でウラは、安心したようにまた眠りについているのだった。
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