『風の歌を聴け』村上春樹著を読んで  笹葉更紗

『風の歌を聴け』村上春樹著を読んで    笹葉更紗



 見上げる空はどこまでも青く、どこまでも続いているように感じた。

 

 夏休みは終わり、経験したいくつかの出来事がウチをほんの少しだけ大人にしてくれた。

 だけど、この青かった空の色のことは、きっといつまでも忘れない。

 永遠の宝物だから……


 

 いくつかのわずらわしさから逃げるため、放課後の教室を逃げるように飛び出して屋上へと向かう。給水塔の影に誰も隠れていないことを確認してから、ひとり空の散歩に耽る。


 屋上にはいろいろな音がこだまする。運動部の掛け声や、吹奏楽部の楽器の音。それだけじゃない。多くの人の話し声や笑い声、それらのすべてが風に乗って大きな合奏となって押し寄せてくる。


 青春のBGMだ。

 

 しかし、こんな青春に意味なんてあるのだろうか。


 屋上の縁まで行き、手すりにもたれかかりながらうなだれる。


 見下ろした地上に、竹久の姿を見かけた。一人、校内を横断する長い階段を昇りながら旧校舎のほうへと向かっているようだ。


 手に持っていたスマホのカメラを起動し、彼をズームする。

 ファインダー越しに彼を捕獲してスマホの中に保存する。


 むなしくなってため息をついた。


 スマホの中に彼はたくさんいるのに、誰一人としてウチのことは見ていない。

 仕方のないことだ。彼には見つめたい人がちゃんといるのだから。


 一迅の風が吹いた。


 夏の太陽に温められた地面の空気が気温の低い空へと逃げる上昇気流。

 風と共に髪がなびく。


 竹久が振り返り、空を見上げた。


 ウチのことを見つけて、手を振る。


 スマホに機械音が鳴る。

 LINEにメッセージ。竹久からだ。


『そんなところで何やってるの?』


 すかさず返信する。


『風の歌を聴いている』


『おっ、村上春樹かいいよね。あの、なんにも意味がなさそうなストーリーの連続がいい』



 ――やっぱり。竹久ならそう感じていると思った。



 村上春樹の『風の歌を聴け』は、世界的な小説家となった氏のデビュー作だ。

主人公である「僕」が夏休みに海辺の町に帰省して友人「鼠」と行きつけのバーに行ったってビールを飲んだり、女のことであったり……


この物語には明確なストーリーラインというものが特にない。ただ、ひと夏の青春がそこにあるだけの物語だ。でも、確実に青春の一ページに、記憶に残るような歌を歌ったと、そう言えることだけは確かなのだと思う。


それはなんの意味も実態もないような、言ってみれば風のような歌だったのだろう。

でも、そんな意味のないような日々のひとつひとつが、読んでいるととても輝いて見えるのだ。


ウチは今、自分の青春に意味なんてないように感じているけれど、こんな風のような日々もいつか輝いて見える時が来るのだろうか。


そんなことはわからない。


だけど、今は歌を歌い続けるしかない。そしていつか、そんなエゴの塊を物語にして、誰かに無理やり聞いてもらうのも悪くはないのかもしれない。


ふと、竹久がこちらに向けて笑っているのに気が付いた。


スマホを構え、彼をズームする。ようやく捕まえた、こっちを向いている姿。


竹久もまた、スマホを内に向ける。もしかして、ウチと同じように写真を撮ろうとしているのだろうか。

焦る気持ちを必死に抑え、少しでもきれいに写ろうと無理やりにはにかむ。


地上の竹久は、ジェスチャーでこちらに分かるように大きく首を振った。


いったいどうしたのだろう。


スマホに電子音が鳴る。


 LINEにメッセージ。

『笹葉さん。そんなに前へ出てきてはダメだよ。パンツが見えそうだ』


慌ててスカートを抑える。


「ばかぁ!」


そんな声が届いたのかどうかはわからないけれど、彼はその手を振って、階段を昇って行った。


この青春に意味があるかどうかなんてまるで分らないけれど、


きっとウチは、この夏のことを絶対に忘れない。







                 後日、続編予定  『限りなく透明に近いブルー』

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