13話 『車輪の下で』ヘッセ著を読んで

『車輪の下で』ヘッセ著を読んで   笹葉更紗



「あ、ほらそうじゃなくて……Xが虚数の場合はここは――」


「あーもう、わけわかんない。虚数って何よ。嘘じゃん。嘘だよね? そんなの知ったことないじゃん!」

 

 瀬奈に数学を教えてほしいと言われ、放課後に駅近くの喫茶店に向かった。

 運動神経も抜群。社交的でルックスもよい。誰からも好かれ、料理に裁縫にあらゆるスキルに秀でていてまさに完璧としか言いようのない瀬奈にも、やはり弱点というものはある。

 

「数学なんて生きていくうえで必要ないから!」


 もちろん、その言葉に物申す余地はいくらでもあるが、今はそれを議論するつもりなどない。

 瀬奈は決して勉強ができないわけでもない。

 料理の知識は豊富で、食べ物に関することについてはフランス語やイタリア語にまで精通している。そもそも料理なんて科学だから、理系の教科だってそれなりにはできる。

 だというのに、なぜ数学がそんなに苦手なのだろうか……


「別にさ、料理を作るうえでレシピの計算するくらいならできるんだよ。だけどさ、虚数とか関数とか言われても、そんなの知らなくたってどうにでもなるもん」


「生きていくうえではどうにでもなるかもしれないけれど、わからないままだと数学の単位はどうにもならないわよ」


「ぶう……」


 ふてくされながら再び教科書に目を向ける瀬奈が一言つぶやいた。


「そうやって社会はアタシを車輪の下で轢き殺すんだ……」


 思いがけない瀬奈の言葉に「むつかしい言い方をするのね」と言った。


「そりゃあ、アタシだってヘルマンヘッセくらいは読んでるからね!」


 そう言いながら、目をキツネのように細めて笑った。


 ――まさか、瀬奈の口から「ヘルマン・ヘッセくらい」なんて言葉を聞くとは……



 ヘルマン・カール・ヘッセはドイツ生まれのスイスの作家。1946年にノーベル文学賞も取っている。

 その代表作のひとつに件の『車輪の下』がある。

 車輪の下はヘッセ自身の自伝的小説ともいわれており、神学校に通い猛勉強の日々に懐疑的になり、ドロップアウトして靴職人になるという物語だ。

 平たく言うなら『ゆとり教育』の提案である。

 いつのころからかこの国でも『ゆとり教育=悪』みたいな言われをするようになってしまったが、本来ゆとり教育というのはもっと称賛されるべき言葉だったはずだ。



「――さては、竹久からなにか言われたのね?」


「ぎくっ!」


「あいつの言うことなんてあまりあてにしないほうがいいわよ」


「だってさあ、ユウが『ヘッセくらいみんな読んだことある』って言ってたからさあ……

 そんなやつ聞いたこともなくて悔しいから調べて読んだんだよね。そしたら意外と面白くて……」


「なるほどね、そんなことがあったの。まあ、アイツの言うことなんていちいち気にしないでいいわよ。まあ、ヘッセなら中学の時に教科書にも載っていたしね」


「え? 教科書?」


「『少年の日の思い出』ってあったでしょ? エーミールの蝶の標本を盗んだ主人公があやまって返す話」


「あー、やったやった。あれ、ヘルマンヘッセだったんだ! 『そうかそうか、つまり君はそういうやつだったんだな。』っていうあれね。ちょっとトラウマになりかけたわ。誤ったのに厭味言われちゃうんだよね。一時期まわりで少しはやったわ。あのセリフ」


「たぶん、そういう意味で竹久は『みんな読んだことがある』なんて言ったのよ。それなのに真に受けちゃうなんて」


「まあ、読んで面白かったからそれでいいんだけどね」


「瀬奈は相変わらず前向きね」


「ハンスだってさ、勉強なんてやっても意味ないって言ってたもんね」


「そこまでは言ってないと思うけど……最終的にドロップアウトしたハンスは自殺しているわけだし……」


「え、自殺なんかしてないでしょ。あれは酔っぱらって足を滑らせただけなんじゃないの?

 だっておかしいじゃん。仕事の楽しさを理解し始めたとたんに自殺しちゃうなんてさ!」



 ヘッセの『車輪の下で』について、その結末が自殺だったのか、それとも事故だったのか、判断はむつかしいところではある。

 エリートの道を外れてしまったハンスではあるが、客観的に見ればやはりその生活が恵まれているものだとは言い難い。やりがいを見つけたとは言いつつも思い悩むところもあり、酔った勢いで自死に至ったという読み方もできるのは事実だ。


 だけれど、本作がヘッセ自身の自伝であるならば、詩人として、文学者として成功した自信を否定的な結末にしてしまうのはどうかとは思う。あるいは、こうであったかもしれない自分に対する憂いだったのか……


 ともかく、それでもやはり自殺と読み取るのは邪推ではないかとウチは思う。

 それなのに、あえて自殺説として瀬奈に押し付けたのは、瀬奈に勉強から逃げないでほしいという気持ちの押し付けだろう。


 こんなせこい言い回しをするなんて、ウチも誰かさんの影響を受けてしまっているのかもしれない。


 そして瀬奈もまた、そんな誰かの影響を受けて本を読むようになっていたり……まるで、あの頃の自分と変わらない。やはり瀬奈はあいつのことを……


「――ともかく瀬奈は、さっさと関数の勉強をなさい」


「だってさあ……」


「将来役に立つかどうかはわからないけれど、少なくとも瀬奈が追試に合格しないと夏休みは取れないんだからね。新しい水着、もう買っちゃたんでしょ」


「あ、そうそう。それね、すごくかわいいのよ」


「追試に合格しなくては夏休みもなくて、海になんか行けないわよ」


「そんなあ……」

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