第12話 『三四郎』夏目漱石著を読んで 笹葉更紗

 本編に入る前にひとこと


 今回のSSは『僕らは『読み』を間違える』の2巻結末から、さらに約一年後の物語になります。

 ダ・ヴィンチのインタヴューでも少し触れていたのですが、読みえるの物語の根幹には夏目漱石の青春三部作が下敷きになっており、『三四郎』はストーリーの根幹に触れる大切なテーマです。

 この部分についてのストーリーは、読みえる1巻の発売よりも以前におおよそ決まっていたもので、いつか書こうと考えていたのですが、先週のぽりごん。さんの更紗のイラストがあまりにもこの部分を連想させるものであったため、今書かずにはいられなくなってしったという次第です。

『三四郎』の作中で、水鏡月が最も好きなシーン。画家の小川さんが美禰子の絵を描いているところに三四郎がやってくシーンのオマージュです。

 とはいえ、はっきり書いてしまうとまだ刊行もされていないストーリーのずっと先のネタバレになってしまうので、なるべくそこには触れないようにとの配慮をしておりますが、少しのネタバレも納得できない方はスクロールせず離脱していただければ幸いです。












『三四郎』夏目漱石著 を読んで   笹葉更紗



「いいねえ、その表情。できればずっと心の中にとどめておきたい表情だ。いや、もういっそのこと形にして残しておきたいと思うね」


 放課後の旧校舎。

 もう、皆が帰宅して誰もいなくなったであろう『軽文芸部』の部室の椅子に座り、揺れる臙脂色のカーテンの向こうの景色を眺めていた。

 生徒会長になって一年。もうすぐ任期を終えようとするそのころとなった今でも、まだ一番に掲げていた公約を果たせないでいる。

 それを果たすためにはどうしても……


 そんな時だった。もう誰もいなくなったと思っていたにも関わらず、不意にウチに声を掛けてきたのは三年生の赤城先輩だった。


「そのアンニュイな表情。すごくいいよ。思わず、『絵にかきたい』とそう思ったよ」


「そう……でも、赤城先輩は人物画はもう描かないって決めていたのでしょう?」


「そのオレに、もう一度描きたいと思わせるようないい表情だった」


「そう……もしかしてウチのこと、好きになってくれたのかしら?」


「はは。オレは笹葉のこと、初めてあった時からずっと好きだぜ」


「赤城さんにそう言ってもらえるなんて、とても光栄だわ」


「だが、残念だなあ。笹葉がそう余裕を持って言えるということは、オレにはまったく脈なしだと言っているようなものだ」


「むしろ逆でしょ。ウチなんかがいくら頑張っても赤城さんはなびかないでしょ」


「でも、絵に描きたいとは思ったぜ」


「もしかして、本気だったの?」


「オレが今まで嘘を言ったことがあるかよ?」


「そうね。少なくとも伊達と酔狂だけで立ち回るようなタイプじゃないわね」


「まあ、そんなわけでよ……絵のモデルをやらないか?」


「モデル? ウチが? まさか……冗談はやめてよ」


「もちろん。ただでというわけじゃあない。例の話、協力してやろうって言ってるんだよ。モデルになるという条件でな」


「本当に?」


「だから、オレは嘘は言わない」


「……」


「なあ……オレがようやく人物画を描こうと思ったんだぞ。少しは協力してくれてもいいんじゃねえか? 頼むよ。ラフスケッチのモデルになるだけでいいからさ。

 でないとオレは、件の話を了承するわけにはいかないな」


「そうは言っても……赤城先輩はもうじき卒業するのでしょう? なら、無理に許可を得なくっても時間が勝手に解決してくれるわ……」


「でも、笹葉はそういうのを好まない。皆の了解を得て、初めて実行に移すタイプだろ? いいのか? 俺はラフのモデルになってくれなければ永遠に了承はしないぞ。だから笹葉は、俺の了承を得ないまま、勝手に行動に移すという結果が残るんだ」


「ずるいわね。そういう言い方って」


「賢いって言えよ。あいつならそう言うだろ?」


「彼ならそうは言わないわ。彼はそういう時、『ずる賢い』って正直に言うのよ」


「正直? 自虐的に、の間違いじゃないのか?」


「あるいは……」




旧校舎の三階。時計塔の屋根裏部屋。窓から差し込む光の前で椅子に座る。

その隣には、金属パイプの枠に白い布を当てたパーテーションがある。


「これは?」


「誰か急に来訪者があたっとき、目隠しになるだろ? それに、白い布は反射板の代わりにもなる」


「ふーん、そうなのね」


 白い布のパーテーションは、透けてこそ見えないものの、その向こうの影を映し出し、余計に想像力を掻き立てる効果もありそうだ。

 屋根裏のような薄暗いこの部屋に、小さな窓から差し込む光は白いパーテーションに反射され、その間に置かれた椅子に座るとその部分だけに光が集中し、あたりは白く幻想的になった。



「じゃあ、さっそく服を脱いでもらおうか」


「え? どういうこと?」


「約束しただろ。ラフスケッチのモデルになるって」


「服を脱ぐなんて聞いてない」


「いいか、ラフスケッチのモデルだと約束しただろ? 裸の婦人で〝裸婦〟スケッチだ」


「な、なにいってるのよ! そんなの、引き受けるわけないでしょ!」


「ははは、冗談だよ冗談。笹葉が裸を見せてもいいっていう相手は、アイツくらいなものだからな」


「ちょ、ちょっとまってよ。なんで今そんな話……」


「よし、いただきだ! その表情のまま……そのまま椅子に座ってこっちを向いてくれ。いい、いい表情をしている」


 つい、頭に血が上ってしまい、紅潮したままのウチの顔を見ながら、赤城さんは嬉しそうにスケッチブックを開き、チャコールペンを走らせる。

 まんまと、嵌められてしまったという感じだ。


「よし、じゃあ次はこの間のようなアンニュイな表情をしてくれ」


「え……これで……いいかしら?」


「違う、全然違うな。この間の……オレにもう一度人物画を描きたいと思わせた、あの表情をくれ……」


「そんなこと言われても……」


 それからしばらく、赤城さんはウチの演じるあらゆる表情を否定し続けた。どの表情だって、描きたいと思わせるそれにならないのだそうだ。


「あー、じゃあもう仕方ないか……少しだけ休憩だ。もう少しの間、そのままでいてくれないか」


 赤城さんはスマホを取り出し、誰かにメールを打っている様子だった。


 しばらくして、コンコンと部屋の戸がノックされた。


「開いてるぞ、入って来い」


 赤城さんのその声を受けて、誰かが部屋に入って来る。しかし、パーテーションのせいでその姿は見えない。

 赤城さんの位置からならパーテーションのこちらと向こう側の両方が見える。彼は私に向けて食指を立て、決して言葉を発しないようにとくぎを刺す。


「リュウさん。何の用事ですか? つか、この仕切りはなんなんです? 奥に、誰か座っているようですけど」


 窓から差し込む光の位置関係で、向こうからはウチの姿が影となって見えるらしいが、こちらからではパーテーションは真っ白にしか見えないが、その声を聴けば誰がやって来たのかなんてすぐにわかる。


「今な、ラフ画の最中なんだ。モデルの子がそこにいるから、そいつは目隠しだ」


「裸婦画……ということはそこの影に映っている人は今、裸だということか?」


「何想像してんだよ。このスケベが」


「想像するもなにも、おれには誰がそこにいるのかだってわからないんだぞ。それで、いったい何の用だよ」


「ああ……ちょっとな。お前はそこでしばらく本でも読んでいてくれ」


「なぜ、そんなことを?」


「いい絵を描くためだ。どうせ持っているんだろ本」


「ま、まあ……それは」


「じゃあ、決まりだな」


 パーテーションの向こう側で椅子を引いて座る音が聞こえる。赤城さんは、いったい何がしたいのだろうか。

 しばらくは黙ったまま、パーテーションのこちらと向こうを交互に様子をうかがっていた。


「まったく、冗談じゃないよ。こんな状況で本なんか読めるわけがないじゃないか。薄い布を一枚挟んだところにヌードモデルがいて、その陰影がおれには見えている。これはいったい何の生殺しだよ。

 おまけにリュウさんの位置からだとその姿が丸見えなんだ。なんだっておれはこんなひどい目にあわされなくてはならないんだよ」


「まあ、そういうなよ。大切なのは想像するということだ。本が読めないというのなら、お前はその場所から、そこに見える影を見て、しっかりと想像するんだ。さあ、何が見える?」


 しばらくの沈黙。おそらく、パーテーションの向こうの彼はこちらを見つめているのだろう。それに合わせるように、ウチもそちらに視線を向ける。

 パーテーションの向こうの彼は言う。


「すごく……きれいだ……。窓から差し込む光を受けた彼女の柔らかい肌は白磁のように白く……

 いや、違うな。まるで新品の消しゴムのようですらある。目と目を合わせたらとてもじゃないがそんなことは言えないだろうけれど……まるで天使のようだ。

 ――そう、消しゴムの天使だ」


 すこし、恥ずかしくなってしせんをそらす。だけど、赤城さんはそれを許さなかった。


「そのまま、そのまま……今が、一番いい表情をしている」


 赤城さんのチャコールペンは素早くスケッチブックの上を踊る。

 ウチは再びパーテーションの向こうの彼に視線を向けた。

 彼は言葉を続ける。


「初めてあった時から、今までずっとそう思っていたんだ。だけど、俺のような心の穢れた人間が近づいてはいけないと、どこかで線を引いてしまっていたのかもしれないよね。

 この二年の間、おれは君がいつも近くにいてくれたから、こうして頑張ってこられた。

 それは、いくら感謝してもしきれないほどだ。

 実はさ、おれはずっと伝えたかったことがあるんだ。それは――」


 息をのみ、言葉を待つ。

 

 ――しかし。


「はいはい。そこまでだ」赤城さんが言葉を遮る「お前さ、調子に乗って好き勝手なこと言ってんじゃねえぞ。聞かされるこっちの身にもなってみろ。まったく虫唾が走るだろ」


「リュウさんが想像しろって言ったんじゃないか。だからおれは……」


「はいはいご苦労さん。もう描けたからお前はどっか行っていいぞ」


「そうか。いい絵が描けたのならおれも満足だ。せっかく協力したんだ。出来上がったらちゃんと見せてくれよ」


「そんなに見たいのか? このスケベが」


「スケベであることは否定しないけれど、彼女がヌードモデルなんてやるわけないだろ。服を着ているに決まっている」


「かわいくないね。お前は」


「どうでもいいから、絵だけは見せてくれよ」


「ああ、わかったよ。お前だけじゃなく、全校生徒のさらし者にしてやんよ」



 ちょ、ちょっと待ってよ。全校生徒に見せる絵だなんて、ウチはそんなこと、一言も聞いていない!

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