赤い靴をもう一度④
オーレが目を覚ましたのは、廃墟の中に最低限の医療器具だけを運び込んだ場所だった。まるで防空壕に作られた医務室だ。
「目覚めたか。どうだ、気分は」
ランタンの炎に照らされた青年は、
気分がいいはずなどない、とオーレは思うが、とくにそれを伝えることに意味があるとは思えなかった。オーレは、ただ「ここは?」とだけ、青年に尋ねる。
「スラムの廃墟に作った病院だ。ま、ろくな設備もないがな。それでも脚の止血と全身麻酔、それから輸血くらいのことはなんとかなった。止血を担当した優秀な看護師に感謝してくれ」
優秀な看護師、というところで、奥の部屋で薬棚を整理していた金髪の女性がこちらを振り返り、ウインクをして寄越した。
脚の止血。
オーレの頭には、気を失う前の出来事が蘇っていた。
両脚の感覚がないのは、おそらく麻酔のせいだけではなかった。毛布に隠れて視認はできないものの、おそらく、感覚だけでなく存在も無くなっているのだろう。
首狩り役人の斧は、ベルトコンベアで運ばれてきた自分の足を、見事に裁断したのだろう。
「そうか、夢ではなかったんだな」
思ったよりも冷静に自分の状態を受け入れられている自分に驚く。
自分が求めていたのは結局、罰なのかもしれなかった。
「夢なわけがあるか。まったく、ふざけた薬を打ちやがって。いくら眠らなくなったって、理性が吹っ飛んじまったら何もならないだろ。あいつらに感謝するんだな」
あいつら、という言葉に、朦朧とした記憶の中にいた無眠者の兄妹が思い浮かぶ。
「まったく。俺は、クソみたいな殺人鬼を助けるのはやめておけといったんだ。あのお人好しどもめ。足がなくなったくらい、安いもんだぞ。今、こうしてまともに人間らしい会話が成立していることが奇跡だ。本当なら、あのまま廃人まっしぐらだったんだ」
「廃人……」
それは、そうだろうな、と思うと同時に、どうして今、自分が禁断症状に苦しめられていないのかを疑問に思う。まともな思考をする瞬間など、何ヶ月振りかわからなかった。
「はっきりとはわからないが、おそらく、輸血が功を奏したんだろうな。眠らずに活動できる無眠者の血液には、どうも脳内の譫妄状態を緩和する成分が含まれているらしい。サヤが……、お前が襲った妹の方が輸血したいって言い出さなきゃ、俺は死ぬまで放っておくつもりだったんだがな」
結果的に貴重なデータが取れた、と医師は言う。
「だいたい、眠らないことの何がそんなに羨ましいんだ」
憤る医師に、オーレは、少なくとも、眠らなければ毎日悪夢にうなされることはないし、寝ている間に妻と子どもを殺されることもない、と心の中で呟くが、それをはっきりと口にする気にはならなかった。
「どうせお前たちにはわからない、って顔をしているな」
「そうだな。私に無眠者の気持ちがわからないように、無眠者に有眠者の気持ちはわからない。それが当たり前なんじゃないか」
「まあそうだろうな。しかし、有眠者が無眠者になりたがる理由なんてそれほどバリエーションがあるわけじゃない。大方、トラウマの悪夢にうなされたか、仕事や学業での成功を追い求めたか、あるいは……、そう。睡眠殺人者に家族を殺されたか」
さっと表情の変わったオーレを見て、医者はため息をつく。
「なるほど。いつぞや睡眠都市を騒がせていた睡眠殺人の被害者、ということか。時期からするなら、『
顛末、という言葉に、オーレは首を横に振る。
事件の当初、犯人は無眠者に違いない、ということで捜査官たちの意見は一致していた。
実際、無眠者が起こした事例は多くあり、オーレ自身もそれを疑っていなかった。
しかし……、
顛末を知っているのか、と問う医師の言葉には、はっきりと咎めるニュアンスが込められていた。オーレは、まさか、という不安に駆られて白昼夢を起動して情報ネットワークに接続し、あっという間に、つい1ヶ月前に逮捕された睡眠殺人者の記事を探り当てた。
「犯人は睡眠負債を免除された遊眠者で……」「犯人は、現場で遺体を枕として居眠りをしたことから名がつけられ……」「殺人アプリを利用した残忍な……」「短眠アプリの利用者を狙った……」
遊眠者、そして、
――短眠アプリの利用者を狙った計画的な犯行。
捜査官は、「薬を盛られたのでは」と慰めを言ったが、オーレ自身は、自分が目を覚まさなかった理由をよく分かっていた。
オーレは、白昼夢のシステム開発に携わるエンジニアだった。
膨大な開発案件に加えて突発的に発生する保守のトラブル。いつしか睡眠時間を削って仕事に没頭することが状態化していた。
そうした中で、カフェインも栄養剤も漢方薬も試した末に行き着いたのが、3時間という短時間で最大の睡眠効果を得るために開発された短眠アプリだったのだ。
白昼夢による感覚制御を用いて五感からの刺激を調整し、通常の何倍も深いノンレム睡眠と、心地よいレム睡眠をもたらす。
もちろん、だからといって自力で目を覚ますことが不可能なわけではない。
それでも、3時間の睡眠がその直前まででおよそ60日は続いていた状況では、決められた時刻まで目を覚まさないのは当たり前だったのかもしれない。
家族をないがしろにして仕事に没頭し、挙句の果てに全てを失った愚かな男。
結局、どんな風に後悔を上書きしようとしても、真実がそれ以外にはないことはオーレには分かっていた。
そして、自分の罪悪感を軽くするためだけに、無眠者に罪を押し付けて自分勝手な犯行を続けた。
オーレは力なく笑う。
医者も、何も言わなかった。その時……、
「あ! おじさん、目を覚ましたの?」
明るい声が響くと同時に、どこか子犬を思わせる人懐っこい笑顔が、オーレが横たわる医務室に駆け込んできた。
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